後編

「何すか」

「なんすか……っていうかその。本買いたいんですけど。これ」

 赤を基調とした、それなりに重さのある本をトン、とゆっくりレジに置く。

 目付きの悪い男は、今度は本を睨んで、そして俺に視線を戻して。ってかそろそろ立ち上がれよ。いつまでしゃがんでるんだよ。

 先程から愛想笑いの一つもない、山なりの薄い唇が、一言告げる。

「俺レジ出来ねぇけど」

「は?」

「バイトじゃないんで」

 バイトじゃないのかよ!

 半分叫びそうになったのを答える。じゃあ何でレジ内にいるんだよ、紛らわしいな。座り込んで、すっかり我が物顔なのにバイトじゃないのか。

 男はもう一度、レジに置かれた本を見た。少しだけ首の角度を変えて、背表紙を眺める仕草。

「……受験生?」

「……そうだけど」

 ふーん、なんて漏れる相槌。興味があるんだか無いんだか。しかしやはり興味はないのか、男の顔は手元の作文用紙へと向いてしまった。結局何なんだこいつ。どこで買えば良いんだよ、この本は。

 暫くの沈黙があって、ブォーン、という換気扇の音に、かりかりという控えめな音が混じった。男の持った、鉛筆が作文用紙の上を走る音だ。不規則な筆跡のリズムは、時折止まって、動いて。止まって、止まって、動いてを繰り返す。

 俺は少しむっとして、レジ越しにしげしげと作文用紙を覗き込んだ。何を書いてるんだか、丸まった男の背中の中を、見つめる。男の影が掛かっていて、何が書いてあるかまではよく見えない。ふと、丸まった紙クズが男を囲むように落ちているのに気が付く。作文用紙だった、ただのゴミと化した紙。そのどれにも何かを書いた鉛の跡はあって、失敗作かと俺は首を傾げた。

「俺も、どっちかっつーと客」

 唐突に男が口を開いた。

 覗き込んでいた罪悪感が、何故か今さらぶわりと湧き出て、思わず半歩後ずさる。けれど男はそれには言及しない。顔も上げずに、言葉を続ける。

「バイトじゃない。けどここには居させてもらってる」

「……ふーん」

 かりかりかり。やましいことでは無いんだろうけど、作文用紙を全く隠す気もない男に、微かに興味が湧く。脇から覗かれんのって、普通嫌じゃん。

「何書いてんのそれ。課題?」

 思い切って尋ねてみる。ちらり。動く男の視線。レジに入る為の小さなカウンター扉だった。……入ってこいってことか? 喋れよ。

「入っていいわけ?」

「良いんじゃん。ここの店主のじーさん優しいよ」

 そういう問題でも無い気がするが。まぁいいか。後で何か言われたら、こいつに許可を取ったって言えば。万引き、したわけじゃないし。

 俺は参考書をレジ上に取り残し、レジ脇へ回る。カウンター扉を開け……る前に、扉前の荷物をどかした。本当に散らかってるな。

 扉を開けて、レジ内に足を踏み入れる。男の丸まった背中。真正面には回らず、斜め後ろから、先程より近い位置で覗き込む。「猫が」……「綿毛を摘んで。町で一番高い時計台に上って」……「星へ向かって、飛ばす」……?

「……え? ポエム?」

「小説」

 初めて男が露骨な感情を露わにした。顔を上げて、苦い顔だ。

「いやいやそれにしたら描写少な過ぎるだろ」

「じゃあお前書けるのかよ」

「書けないけどさ」

 え、マジで小説? 人を顔で判断するの、失礼だと承知の上だけど、その顔で? 世界の片隅に感性を傾けるような、繊細な感じには見えない。

「じゃあ良いだろ別に。俺は俺で書くから」

 作文用紙の上で、再び鉛筆が踊った。課題、じゃなくて趣味か。何もこんな、深夜の書店ですることじゃないだろう。けれどなるほど、確かにその筆致は、時に悩む素振りがあれど楽しげだ。自分の好きなように、書いてるんだな。

 空欄のマス目に好きな文字を埋めて、好きなことが書けるのか。

 微かに、自分の服の裾を握りしめた。

「座れば」

 落ち着いた声が、蹲った姿勢の奥から。座れって、どこに。雑多な床を眺めて思う。仕方が無いので、人が一人分座れるギリギリのスペースに、俺も腰を下ろした。結果的に、男のすぐ隣に座ることになる。

「悪いな。じーさんもう寝てんだよ。電気が点いてたのは、ここでこれ書いてる俺のため」

「毎日こんな深夜に小説書いてるわけ? じゃあ店開いてたのは何でだよ」

「それは単に、鍵閉め忘れた」

 結局戸締りのし忘れかよ、と嘆く代わりに溜息をつく。

 そんな俺を、横目に見る男。

「……今日はどっちみち買えねぇよ、本。時間惜しいなら帰った方が良い」

「あー……」

 頭の後ろを、がしがしと書く。何だか、今夜はもう良いか、という気分になっている。詰まっていたガスが抜けた感じ。勉強する気力も抜けて脱力した、というか、もうここ、座っちゃったし。

 男は数回瞬きしてから、また自分の世界へ入っていく。

 深夜の書店で知らない男が小説を書く。それを隣で眺める。なんて、謎の時間が頭上を流れていく。こちりこちり、秒針は時間の経過を急いているのに、無為な時間はやけにのんびりだ。

 こんなに、時間の経過に焦燥感を抱かないのなんていつぶりだろう。

 何もしないで、全部貴重な時間をゴミ箱に投げているのに。

「お前は、学校は? ……とかって聞いてもいいの?」

 目下、俺の興味はこの男にあって、何となくそう尋ねる。男も、聞かれたことに対して嫌な顔色は見せなかった。

「お前と同い年だけど、行ってない。最近少年院、出たばかりだから」

「は!?」

 少年院!? 近所迷惑になることに気が付いて慌てて口を塞ぐ。

 何をあっさりとこいつは。何て、本当に、少年院って言ったか? 聞かれたことに対して、十答えすぎだろ。

「少年院……って、な、何、何したんだよ……ってか何で俺にそれを言うんだよ……」

「隠したまま喋るのが面倒だから」

 もしかしてこいつ、バカみたいに正直なのか? 適当に誤魔化すとかすれば良いのに。それか小説を書く人間の独特な人間性なのか……偏見だけど。

 まるっと句点を描いたところで、男は一旦手を止める。キリが良くなったらしい。真っ直ぐな目が、俺に向けられる。微かに口元が上がって、悪戯っぽさが垣間見えた。

「何をしたかは聞かない方が良い。勉強して、受験生して……なんて『まとも』に生きてる人間には、別世界のことだろうから。……まぁ安心しろよ。殺しじゃない」

 隣にいるのが人殺しだったら気味悪いもんなー、なんて軽く言うが既に怖い。

 ゆらゆら、男は体を揺らしながら作文用紙を両手に取る。手に取って、何やら折り始めた。……不思議だ。途端にこいつが薄気味悪いのは否めないが、何というか……意外、な気もしている。顔付きが悪く無愛想だが、穏やかな空気を纏っている男。主人公が猫、なんて可愛い物語を書いていた男。きっと悪い奴でもなくて、少年院に入る程のことをする人間なのかと言われると何だか違う。そこは、少年院の中で変わったってことか? 会ったばかりだし、まぁ俺には何も分からないけど。

 男が折った作文用紙一枚は、何かの形を為していた。表に見える部分、「空野由里」と名前らしきものが覗く。

 鳥の形か、とそう認識した瞬間。


 男が、紙飛行機のようにその「鳥」を頭上に飛ばした。


 え。間抜けな声が漏れて、作文用紙を視線で追う。その時、気が付いた。

 何だ、これ。レジの上の天井だけ、吹き抜けになってる。ここの一部だけ、高い、高い天井。しかも天井がガラス窓だ。ガラスは紺色の冬空を透かして、こちらに月光の端くれを注いでいる。そんな夜空に向かい、飛ぶ鳥の作文用紙を、俺は息を止めて見つめていた。

 しかし次の瞬間に、鳥は落下を始めてぱたん。空しく落ちる。重力があるんだ。当然だ。けれど俺は、止めていた息を「あぁ」と吐き出して、落胆していた。何だか本当に、あのまま飛びそうだったのに。

「……やっぱり、だめか」

 やっぱり、だめ。

「……何が?」

「ん? ……あぁ、読まなかった? 店内ポスター。ここ、言葉を人に届けられる書店なんだよ」

「あぁ、メッセンジャーブックスってやつ?」

 梱包サービスじゃなくて?

 俺の視線を受けながら、男……空野は、その辺に積まれていた文庫本の中から一冊を取り出した。あらすじ、背表紙、表紙を眺めてから、適当に開く。丁度真ん中らへんで、ぱっくり。

 大きな手が、開いた本をまた天井へ掲げる。それを無意識に、視線で追っていた。先程の作文用紙と同じに……空へ、飛ばす。

「!」


 ──バサバサバサッ!!


 本は。


 頁を翼にして、鳥のように飛んで行った。


 夜を映す、天窓をすり抜けて。羽のはためく音が、鼓膜を揺らして、遠く、やがて居なくなる。


 何、何だこれ。本が飛んで、一人でに、何処かに……!

「おい、これって」

 問いかけようとして、言葉を止めた。空野の視線は、夜に羽ばたいた文庫本を、いつまでも追いかけていた。鋭い視線が、その時は柔らかくて。それ以上に、脆くなって、ひどく悲しそうだった。ぼんやりとした月光が、柔らかくその輪郭を包んでいる。

 黙って、黙り込んで。換気扇の音がやけに目立ち始めた時。ようやく空野が俺を見る。

「こういう書店」

「いや、こういう、って言われても」

「本を鳥の翼に見立てて、広げるんだ。それからこの天窓の下で空に向けて飛ばすと、届けたい人の元まで飛んでいく、届く、ってこと。」

 そんなファンタジーな……けど確かに、本は飛んで行った。あのポスターは言葉通りだったってことかよ。

 俺はぎこちなく体をよじって、指先を見つめてから、尋ねた。

「……誰に飛ばしたんだよ、今の」

「母さん」

 あんな顔をしていた癖に、今は何てことない声で答えやがる。真っ直ぐ見つめて言われると、俺の方が気まずい。

「俺が少年院にいる間に、死んだ」

「……」

「父親の方はロクデナシでな。……俺父親殴ったんだよ」

「……だから、何でそこまで俺に話すんだよ」

「聞いてくれそうだったから」

 息が止まった。何も、言えなくなって。

 出かけていた文句も喉の奥でしこりになって、苦しい。何とか飲み込んでから、はーーーーと長い溜息を付いた。膝を抱えて、顔を埋める。

 こいつが少年院行きになるくらい父親を殴った、なんて。その時どういう状況だったか、そしてどんだけ殴ったかも何となく想像が付く。殺して「は」ない。加えて、彼が書いた小説が飛ばずにどうして落胆したか。……多分、母親のことは大切なんだろう。

 全部全部分かってしまった自分が腹立たしい。

「……悪かったよ。嫌なこと話したな」

「誰もそんなこと言ってないだろ。……何で届かないの? 空野の言葉は」

 顔を上げる。先程、空へ飛ばそうとしたのは作文用紙。即ち空野の書いた小説ってことだ。けれど「鳥」の形に折られた紙は、紙のまま。文庫本のように命は吹き込まれることなく、落ちてしまった。

 視線を受け取って、空野が空へ受け流すように、同じように顔を上げる。

「分からん。文学として完成してないからかもしれない。最初は、母さんへの手紙だったんだ。言葉が届くって言うから、手紙を届けようとした。けど」

 だめだった。だから、自ら小説を書こうとしたのか。空野自身の言葉を翼に乗せた、虚構を作ろうとしたのか。

 察するに、まだ一度も小説は羽ばたいたことが無いのだろう。

 ……空欄に好きな言葉を埋めて、好きなように鉛筆を躍らせる姿は、傍から見たらあんなに楽しそうだったのに。

「羨ましがることじゃ、無かったな」

 空野が首を傾げる。

 俺は何となく、全部を零す気になっていた。こいつが、全部零したからだろうか。空に飛ばせなかった分、全部俺に零したからだろうか。

「好きに空欄を埋められるお前を見て、少し羨ましかった」

 俺が埋める空欄といえば、一つに決まった「正解」と、親の望んだ進路先。そこに別に、文句はなかった。いや、文句など無いと、思おうとした。妥協の中に自分を結んでおけば、苦しまずに麻痺した。空欄に正解を埋める作業にも、何も思わなくなった。

 空野は、体をゆらゆら、揺らして。「お前名前は?」と尋ねてきた。

折内翼おりうちつばさ

「折内。……まぁ、気になってはいたんだよな」

 何が? と問いかける前に、立てる右手の指、一本。

「こんな深夜に参考書買いに来た理由。思い立ったって深夜には参考書買わねーだろ。本屋も開いてねぇ、ってちょっと考えれば分かるし。しかもこんな辺鄙な場所の書店を見つけたんだ、何軒か探しただろ本屋」

「お前頭良いな……」

「観察眼には定評がある。小説家向きだろ。……で、だ。すぐに引き返して帰らず、お前はうろうろしてたわけだ。時間が勿体ないのに。本が買えないと分かっても、ここに留まった。時間を無駄にするのに。……俺に常識的なこと、どうこう言われたくはないだろうが、受験生ってみんなこんななのか、と思ったんだ。でも違ったな」

「……」

「……折内、今夜だけでも逃げたかったんじゃないの?」

 言い返したいような。図星なような。

 そんな感情でぐちゃぐちゃで、何も言えなかった。

 違う。どれもこれも、ただそう、今夜は「そういう気分」だったからそう選択してきただけ。そう言いたかったが、じゃあ俺は。

 どうして眠る母親の目を掻い潜ってまで、夜の町に飛び出したんだろう?

 何となく、どうしたら良いのか分からずに空野を見る。空野は視線を受け止めこそしてくれたものの、肩をすくめる。

「俺は責めねぇよ。受験生がどうとかよく分からねぇし。少年院なんて前科が付いちまった、もう折内みたいに簡単に将来を歩けない」

「簡単じゃねぇよ……」

 思ったより俺の声は情けなかった。こんなに自分はギチギチに糸で自分を巻いていたのか、と実感出来るくらいに今は緩んでいる。緩みすぎて、腑抜けだ、もう。

「簡単だろ」

「簡単じゃねぇよ。何だよ、受験生とか分からねぇって言ったくせに」

 分かった口ききやがって。悪態をぶつけようとしたが、筋違いだと内心で主張する俺が口を閉じる。無関係の奴に当たるとか、マジで情けねぇな。だっさ。

 頭上の天窓を仰ぐ。天井がここ一部だけ奥へ窄まって、遠いからだろうか。いつも以上に、空が遠く思える。一つだけ明るい星が、ちかちか光って。冷えた青い熱がこちらを見下ろしていた。大きく息を吸う。広いはずの、空に窓格子。

 十字に切られた空、だけれど。こんなにちゃんと空を見たのなんていつぶりだろう。

 すると俺の見ていた視界に、鳥の形をした作文用紙がふわりと飛んできた。当然重力に負けて、俺の胸元にぽすっと落ちてくる。

「……」

「良いだろ、言葉を届ける書店なんだから」

 じとり視線を送ると、空野は悪びれもせずそう言った。俺の胸に届いた作文用紙を、ゆっくり広げる。お世辞にも綺麗とは言えない文字で一行。


 『折内は何でも出来るよ。本当は何がしたかったわけ?』


 いや直接言えや。遠回しだな。

 そう思いながら、俺は空野に片手を差し出す。無言の要求を察して、鉛筆を持たせてくれた。やり場の無い感情に心がぐずぐずしている。湿っぽい。靴が濡れて、歩く度に靴下がぐじゅぐじゅ音を立てる、あの違和感だ。あの嫌な違和感に似て、胸の内が気持ち悪い。

 ぶつけるようにして、俺は一行の隣に一行、書き足した。

 言えないけど、言いたい言葉を。

「……っ!!」

 届ける書店。

 俺は、大して飛びもしないと分かっているくせに思いっきり、力一杯、作文用紙を頭上に飛ばした。力んでしまったが為に、変な方向へ鳥が飛ぶ。羽ばたいたように見える。一瞬。けれど落ちる。それはそうだ。こんな、自分よがりの言葉なんか。

 けれど俺の言葉を、空野が片手で受け取った。開いて、「ふーん」と呟く。あの、興味があるんだか無いんだか、分からない相槌だ。

 空野はふと立ち上がる。座ってた状態しか見ていなかったから、今さら身長にビビった。でか、こいつ。

 俺の視界から二本の足が消えて、こつり。書店の中を、一人が歩き回る音。俺は座ったまま、レジ上に乗ったままの参考書を見上げた。赤い背表紙も、遠く思える。黒い太字で書かれているのは、母さんが望んだ大学だ。勿論、全てが母さんの決定だったわけじゃない。学びたい分野は、俺と一致している。

 けれど母さんが望む方はもう少し、学力が上だった。俺が望む方は学力がそこそこで。それでも俺の学びたいことが、そして就きたい職業が、より一層近かっただけ。些細で、無視の出来る違いだ。

「はい」

 ぼーっと背表紙を眺めていた俺の視界を、同じ赤が塗り替えた。

「うわっ、何……」

 目を見開く。

 空野が目の前に差し出したのは、俺がたった今作文用紙に書き殴った学校名と、その問題集。ただ「学校名」に、「行きたい」と。そう書いた作文用紙を、受け取って持ってきてくれたのか。

「……見つけるの早いな」

「バイトじゃねぇけど、ずっとここに住み込みだからな。本の位置は分かる」

 得意げな様子に、思わず吹き出す。素直にお礼を言って、両手で受け取った。……まぁでも、今さら志望校を変えるなんてな。出来なくは無いけど、説得とか諸々。今から間に合わせるって難しいし……。

「それ、飛ばせよ」

「え?」

 空野が、俺の隣にもう一度座る。飛ばす、って、この問題集を? 問題集って文学の内に入るのか? まぁ、本だが。

「あっちにいる俺の母さんにすら届くんだ。届くだろ、これも」

 そういう問題じゃない、って分かっているくせにそんなことを言う。

 俺は問題集を抱える。大きく、心臓が鳴る。微かな期待に体が動いて、丁度真ん中辺りのページを、開いた。鳥が翼を広げるように。


 ──パサッと音が鳴る。

 これは、羽ばたきの音。

 俺は両の手に広げた本を乗せて、天窓へと掲げた。軽く手を離す。冷たい表紙の感覚が、離れていく。


 ──気が付けば、隣からはかりかりと音が鳴る。

 これは、空野が言葉を紡ぐ音。

 その筆跡は、いつか母親に、届けたい言葉のはずだ。けれど今この音は、俺が飛ばした鳥の背中を押す風のように、優しく吹いている。飛び立つ。本が。翼をはためかせて飛ぶ。


 みるみる内に、天窓から差す月の光に包まれる。

「おー……すげ」

 笑う声がした。俺も笑みが零れていた。

 なんて、綺麗なんだろう。

 夜の紺色が抱き留める。俺が飛ばした鳥。

 不思議だ。

 今夜は何もしないで、全部貴重な時間をゴミ箱に投げてしまったのに。

 何の変哲もない小さな箱を「宝箱」と名付けた、そこに時間を、大切にひとつずつ、しまっている気がした。


 赤い鳥は、段々紺色の中へ、小さくなって消えた。あれは、誰に想いを届けたんだろう。合格したいです、って大学に? それとも……行きたい、って、母さんに?

 呆然と見届けた、空っぽの冬空。その奥から、ひらり。鳥の羽のように。破れていたのだろうか、本の頁一枚が、俺の手元へ落ちてきた。



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はためきは空へ 冬原水稀 @miz-kak

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