はためきは空へ

冬原水稀

前編

 悲しい時も、嬉しい時も、空はいつも青いのだという。

 どんな時も、雲ひとつ無い空を見れば、誰だって。無い羽を広げて、息をいっぱいに吸い込んで、飛んでみたくなる。

 そんな空を、俺はもう何年も、ちゃんと見ていない。


   ***


「くっそ……さむ……」

 俺は呟きながら、ダウンジャケットの首元を両手で掴んで、さらに首へ引き寄せた。急いで家を出たからって、マフラーはしてくるんだった。冬の夜が寒いなんて、幼稚園児でも知ってる。何かこう、受験生をやってると、普通のことが頭の端からぽろぽろと剝がれていく感覚がするな。

 現に今、「欲しい問題集を買うのに、何も深夜じゃなくて良かっただろう」ともう一人の俺が呆れてため息をついていた。


 坂道を下る。ひうう、と風が唸る。冷気を孕んだ風は、爪先から、胸へ、頬へ、撫で上げるように吹いていった。鳥肌が立つ。またダウンジャケットの中に、首を窄める。

 本当に馬鹿だな俺。こんな時期に風邪でも引いたらどうすんだよ。いや、どうする以前に母さん怒りそうだな。それがこえー。俺より受験熱心だし。この深夜の外出だって、母さんに内緒で出てきた。寝てたから良かったものの、バレたらどうなるか。

「でも……やっぱ開いてるわけねーよな、こんな時間に……本屋……」

 人気がないことを良いことに、俺はブツブツと独り言を夜に落としていく。くそ、マジで何で思い立ってすぐ買いに出たんだよ俺。まず開いてる本屋を探すのに時間取られるじゃんか。時間勿体ねぇな。

 坂道を下ったところ。行きつけの本屋。がらん。

 若干広い本屋を内包したスーパー。がらん。

 途中手招きをするが如く、コンビニだけがピカピカと光っていた。

 帰るか、もう。……一回外出たからには見つけるまで帰りたくない、また後日外に出るとまた時間取られるし、と思う俺もいるが、本屋が見つかる希望も無いし。

 んーと、家まではこっちの路地通れば近道かな……と。

「うわぁ……暗っ」

 街灯の恩恵からも外れた路地裏は、高校生男子の俺でもちょっとビビる。不審者とか出ないだろうな? ……止めとくか。時間かかっても、正規ルートで帰って……。

「……ん?」

 その時俺はちらりと、見た。

 路地裏。夜の宵闇に霞んだ路地裏。その奥。看板。……「書店」って、書いてある気がする。あんな所に本屋さんあったのか。ナニ書店かは暗くて読めないけど、確かに「書店」とは書いてある。しかも、シャッターが閉じてない。開いてるのか?

 いやいや、こんな時間に? "こんな時間に"開いてる本屋を探していた俺が言うことでは無いけれど。でも、電気が点いている。雲に霞んだ夜の月みたいに、よく見ないと分からないくらいのすげーぼやっとした光ではあるけど。ただの戸締りのし忘れ、ってわけでも無さそうだ。

「…………」

 逡巡した後、俺は気付いたら、さらに薄ら寒い冬の夜の中へ、足を踏み出していた。

   ***


 看板には「はとり書店」とあった。かららら……と、古い引き戸を横へ。見た目、古そうな木製の引き戸だけど、手入れはされているみたいだ。建付けが悪いわけでもなく、容易く扉が開いた。きょろり、きょろり、ふわり。本屋の中を見回してくると、古い紙の匂いが香った。古い店なのか、古本屋なのか。

「失礼しまーす……」

 思わず、店だっていうのに職員室のノリで入ってしまった。寒さと怪しさへの怯みで声が震える。声が小さいのもあってか、返答は無い。入っても、いいんだよな。

 半身から全身、書店へ体を滑らせるように入り、引き戸を閉める。外観で見た感じ小さいのかと思ったが、結構奥行きに広さのある本屋だ。けれど密度が凄い。人二人がギリギリすれ違うことの出来る程度の隙間の感覚で並べられた本棚たちは、低い天井ギリギリの高さ。そのどの本棚にも、本がぎゅうぎゅう。東京の交差点みたいに。そんな本棚の間に立つと、本たちの影が降り注いできて、正直何か怖い。沢山の背表紙に見下ろされているみたいだ。

 参考書、どこだろ。

 俺は入ったことのない本屋の目新しさで忙しなくキョロキョロしながら、店内をゆっくり歩いていった。店に入って一番奥に、そこだけ少し天井も高くなった広いスペースがある。あぁ、そこがレジか。人がいないけど。

 これじゃ万引きし放題じゃないか……? 大丈夫か、この店。

「あてっ」

 無人レジに気を取られていたら、何かが頭にぶつかった。それ程痛くもないのに声を出して反応してしまうのは反射神経である。

 低い天井からぶら下がった、少々大きめの店内ポスターだった。

「……『メッセンジャーブックス! 普段言えないけど届けたい、貴方の言葉を大切な人に送りませんか?』」

 新刊案内でもなく、話題の漫画がピックアップされたチラシでもなく、書かれているのはそんな内容だった。この店の紹介チラシか? 届けたい言葉を……なんて詩的だが、要は本を贈り物用に梱包してくれるサービスがあるってことだろうか。そんなのどこでもやっている気がするけど。

 ポスターを潜り抜け、それからまた書店内を巡っていく本棚二つを経て、ようやく参考書っぽいコーナーに辿り着いた。

 っし、求めてた学校の問題集がある。値段を見る限り、新刊の値段。古本屋じゃ無いんだな。でもこれで助かったわ。今日外に出たことが無意味にならずに済んだし。

 後は無人のレジが問題なんだが……大声で呼びかければ誰か出てくるだろうか。

 レジの周りは平積みの本、段ボール箱、荷造り紐で纏められたボロボロの本たちでさらに煩雑としている。レジの奥、暖簾で遮られた、恐らくスタッフオンリーの入口。レジ横に呼び鈴は、無し。

 俺はふぅ、と一旦息をついて。


「すんません! 誰かいますかー?」

「はい?」

「わぁっ!?!?」


 びっっくりした! そんな、間も空けずに出てくるとは思わないじゃんか、しかもレジの下から!

 にゅ、とレジ越しに下から顔を出した──多分、ずっと屈んでいたんだろう。散らかっていたし、角度的に見えなかった──男は、俺をじろじろと眺めた。男っつーか……俺と変わらないくらいの年。深夜バイトの学生だろうか。よれよれのパーカー一枚、ネックウォーマーを身に着けている。確かにこの店、室内でも寒い。

 手に持っているのは、鉛筆に……作文用紙? それらを両の手に持ったまま、吊り上がった目が俺を睨んでいる。顔が怖い。絶対接客向かないな、この人。

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