かいじゅうのせなか【MF文庫J evo】
小川晴央 /MF文庫J編集部
かいじゅうのせなか
爪の上に宇宙ができた。薄く伸ばされた紺色のカラージェルに星のようなラメがちりばめられている。会心の出来だ。満を持してスマホのカメラを起動する。青空をバックにしたくて、私は窓から腕を伸ばした。持ち前の指は少々短いが、加工してからアップするので問題はない。
「うん、きれ――」
感嘆とともにシャッターを切ろうとしたその時、私と太陽の間に武骨な迷彩ヘリが割り込んだ。耳元でハリセンを鳴らされ続けているかのようなプロペラ音が私を襲う。
HO-3。全長13メートル。主回転翼直径は11.6mで、
「うる! さい! なー! もう!!」
騒音とともに強風が部屋へ吹き込む。風にあおられたカーテンを押さえようとした拍子に、スマホが手から滑り落ちて床へ落下した。
「あー! 傷! 買い換えたばっかなのに!」
すると突然あたりが暗くなった。夜になったのではなく、大きな影が私の家とヘリコプターを覆ったのだ。高層ビルほどの大きさがある影の主はぬらりと動き、ヘリコプターの横を通り過ぎていく。その巨大な存在にあおられたヘリは、左右に揺れながら地上へと帰っていった。
「ナイス」
私は親指を立て、ヘリを追い払ったことをねぎらう。
まぁ、あれは尻尾なので、そんなことをしても彼には見えないのだが。
「モモモー! お昼できたよー!」
階下からの声に返事をし、私はリビングダイニングへ向かう。扉を開けると、
「ごっはんー! ごっはんー!」
私がマスカラやアイプチで力を尽くしても叶わないほどの大きな目、ゆるふわパーマのかかった色素の薄い長髪に、140を超えない身長。東条エメリは、まるでおとぎ話に出てくる小人のようだ。愛嬌があって、可愛らしい。傍からは私たちが同じ十七歳には見えないだろう。だが――。
「きょーは、れーせーパスタだよ!」
エメリが指さしたテーブルの上には、山盛りの氷が載ったパスタの麺と、ケチャップだけが置かれていた。しかも器はラーメン用のどんぶりだ。
対岸に珍しい蝶を見つければ迷わず川に飛び込み、迷い猫を探して隣県まで歩き自分が迷子になる。後先考えない豪快さと、ちょっと足りないオツム。可愛い見た目とは裏腹に、内面に難があるのが彼女だった。
出された料理に文句を付けるのは私の流儀に反するので黙ってテーブルにつく。私は右手でフォークを取りながら、左手でリモコンを操作した。
「テレビみるの? ご飯しながら? おぎょーぎ悪いんだぁ」
手をグーにして握った箸でパスタをすすっているエメリには言われたくない。
「別に誰かが見てるわけでもないでしょ。ヘリもどっか行ったし」
テレビ画面に深緑色をした巨大トカゲが映し出される。ワイン
『先ほど! 陸自のヘリがタルゴンの尻尾と接触しました!』
尻尾とヘリはぶつかっていないのだが、アナウンサーは血相を変えたまま続ける。
『あの巨大生物が地中から現れて、今日で三週間が経過しました! しかし、救助活動の進展は未だに欠片も見られません!』
タルゴンを真後ろからとらえた映像に切り替わる。それと同時にカメラはぐいんとズームを開始し、タルゴンの背中へ近づいてきた。
「げ……」
タルゴンの胴体は横から見ると分度器のような形をしている。そのちょうど百二十度にあたる部分に民家が引っかかっている。白い壁と黒い屋根の平凡な一軒家が背びれに挟まっているのだ。
カメラはリビングの窓へとさらにズームを続けた。
『背中に取り残された少女たちは、今も不安に怯えていることでしょう!』
エメリが笑顔で外に向かって手を振る。するとテレビに映る少女も手を振り出した。
私が慌ててリビングのカーテンを閉めると、エメリが残念そうに眉をハの字にする。
「怒られるから? テレビみながらのご飯」
「今すっぴんなの!」
私、
1
タルゴンが現れた日、私は自室で水着姿の自分を撮影していた。
その前の週に読者モデルとして載った雑誌が発売され、フォロワーが百人近く増えた。だがそれ以降は伸び悩んでいたので、サービスショットをSNSにアップすることにしたのだ。現在のフォロワーは1954人。二千人を超えるためにあと一押しが必要だった。
水着は今年の流行に合わせて選んだ。正直好みじゃなかったけれど《センスがない》だとか否定的なコメントが来るよりはましだ。
地響きが聞こえてきたのは、撮影を終えてから加工作業に移ろうとベッドに倒れ込んだ時だった。あまりのタイミングのよさに私が原因かと疑ったが、地響きに続いて揺れが起こり、それはどんどんと大きくなっていった。
「なになになになに!」
私はひっくり返りそうになりながら、カーテンを開けた。正確にはしがみついたカーテンが外れて、外の景色が見えた。
正面には隣家があったが、窓を開けて横をのぞき込むと町の様子がうかがえた。
私はすぐに異変が起きていることを察する。元々我が家のある住宅地は小高い丘の上にあったのだが、その高度がぐんぐんと上がっていたのだ。地平線が下へと移動し、周りの建物が崩れ視界から消えていく。
「なんなのよこれ!」
「モモモ!」
向かいの家の窓が開き、そこから隣に住む東条エメリが顔を出した。最後に見た時から顔つきは大分変わっていたが〝みなもももか〟の真ん中三文字で私を呼ぶのは彼女だけだ。
セーラーワンピを身につけたエメリは、きらきらとした目で私を見つめていた。この異常事態の中で彼女はなぜかニコニコと笑っている。
その時、一際大きな揺れが私たちの家を襲った。それを合図にしたかのようにエメリの家が急速に沈んでいく。
「エメリ!」
私が手を伸ばすのと、彼女が窓枠を蹴り部屋から飛び出すのは同時だった。
天変地異と呼んで差し支えないほどの状況の中で私が思い出していたのは、ここ数年会話すらしていなかったエメリとの過去だった。
引っ越しの挨拶に行った時、彼女は捕まえたアオダイショウを見せびらかしてきた。
林間学校で遭難したかと思ったら、翌朝鹿にまたがって現れた。(しばらくあだ名がアシタカになった)
互いに自分の部屋を持ってからは、毎日のように窓を飛び越え私の部屋へ遊びに来た。
まさに今のように――。
あれ? エメリと話さなくなったのって、いつ頃からだったっけ?
エメリは小柄な体からは考えられない跳躍力で私の部屋へと飛び込んできた。だが私に彼女を受け止められる筋力などあるわけもなく、二人揃ってベッドから落ち、気を失った。
目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
すべて夢だったことにしたかったが、私の隣ではエメリがよだれを垂らして眠っていた。
窓から外を確認すると、眼下に青樽市が広がっている。町が沈んだのではなく、私の家の高度が上がったのだ。
「エメリ! エメリ起きて!」
「あー二度寝って気持ちいーもんねー。私も好き~」
「なに起きる前から二度寝について語ってんのよ!」
エメリはあくびをしながら体を起こし、目をこすり、最後にまたあくびをした。
「家が! なんか家が浮いてんのよ!」
さすがのエメリでもこの光景を目の当たりにすれば驚くだろうと思ったが、彼女は窓から見える風景を確かめたあとで笑い出した。
「タルゴンの背中に引っかかったんだねぇ。あははは!」
「は? タルゴン?」
「さっき地面から出てきた怪獣のことだよ」
「頭打ってどっか壊れた? いや、あんたは昔から変わったとこだらけだったけどさ!」
エメリの妄言を否定しようとスマホでニュースサイトを検索する。だが、その結果出てきた見出しには《青樽市に巨大生物現る!》とあった。
新しい映画の宣伝かと思ったが、消防庁のサイトでは青樽市全域からの避難を呼びかけていたし、ツイスタグラムには巨大トカゲの動画や写真がたくさんアップされていた。その中には、巨大トカゲの背中に引っかかっている我が家が写りこんでいるものもあった。
「ぴったりはまってるねー」
「呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
私は救助を呼ぶために、混乱する頭を必死に働かせた。電話は繋がらなかったがネットは生きていたので、ツイスタを起動する。先週飲んだスタハの限定ハニークリームフラッペ、撮影時のオフショット、それに続いて私はタルゴンの背中から見える風景を投稿した。
09/12 08:33[タルゴンの背中に取り残されてます。助けてください]
∟うける
∟青樽市だからタルゴンって安直過ぎだろ
∟今回の件で怪我した方もいるのにこんな冗談言うなんて不謹慎ですよ
プチ炎上した。
「なんでなんでなんで! こっちは本気で困ってんのに!」
私はSNSで助けを求めることをやめ、家の周りを飛ぶヘリへ手を振った。見つけてくれたのはテレビ局のヘリコプターだった。電気が止まっているのでテレビは見られなかったが、ネット経由で手を振る私の映像がニュースで流れたことを知った。
するとその途端ツイスタの通知が濁流のように押し寄せた。そのほとんどは心配や励ましのメッセージだったが、それによって自分がこれだけ心配されるほどの危険な状況にいるのだと自覚し、不安はむしろ増していった。
その日の夕方になってようやく青樽市の消防署と電話が繋がった。電話はそのまま〝青樽市
タルゴンの出現から約24時間。電力を失った真っ暗な部屋でふてくされているとお腹が鳴った。緊急事態で忘れていたがタルゴンの出現以後なにも食べていなかったのだ。
「あ、お揃い! あたしもお腹ぺっこぺこ! でもひとんちの冷蔵庫勝手に開けるのはダメだから我慢してた!」
「あんた昔からそういう無駄に律儀なところあったよね……」
私はエメリと一緒に部屋を出て、台所へ向かう。今私の家は怪獣の背中に偶然引っかかっているだけだ。次の瞬間に崩れたり、床が抜けたりしてもおかしくはない。十年以上生活してきた我が家にもかかわらず、一歩進むごとに冷や汗が流れた。
「でもこいつ、地面から出てきただけで動かないのなんで……?」
「二度寝してるんだってー。今はまだ眠いみたい」
「どこ情報よそれ」
「夢の中で教えてくれた。あたしたまにタルゴンと夢で遊んでたから。タルゴンって名前もあたしがそこでつけてあげたんだよ」
「はは、それウケる……」
不安な相手を気遣って冗談を言うなんて、彼女も成長したものだ。
階段を降り一階の壁へ手を伸ばす。すると、手の平に氷を触ったような冷たさを感じた。
「うわひゃ!」
冷房もついていない室内の壁にしては不自然なほどの温度だった。私はスマホを取り出し、ライトで壁を照らす。
「あれれ、モモモんちの壁の色、こんなのだっけ?」
昨日までは白い壁だった一角が、崖の岩肌のようにでこぼこしている。その色は窓から見たタルゴンの体表と同じ深緑色だった。
「違う、これ、あいつの背中だ……」
ライトで照らすと、足下には元々あった壁の残骸が散らかっていた。タルゴンの背中と壁の間からは隙間風も吹いている。引っかかる際にタルゴンの背中がめりこんだようだ。
「背中!? すごい!」
エメリがタルゴンの背中に抱きつく。頬ずりをしながら「ひゃっこいー」と目を細めた。
すると、突然タルゴンの肌に紫色の光の筋が浮かんだ。筋は枝分かれしていてまるで血管のようだ。いや、実際タルゴンの血管に発光する液体が流れているのかもしれない。
「ふぎゃ!」
発光と同時にエメリが後方へ吹き飛ぶ。向かい側の壁にぶつかり彼女は頭を打った。
「エメリ!? 大丈夫!?」
「なんかビリビリした。びっくり」
「なんでもすぐ触る癖直ってないの!? 昔クラゲ触って死にかけたのに!」
青樽市は海に面している。海岸は昔の私たちにとって遊び場の一つだった。
「えへへ、その時は、モモモがあたしを病院まで連れてってくれたんだよねー」
思い出した。病院での治療が終わった時も彼女は「モモモの髪いい匂いした」とヘラヘラしていたのだ。彼女の脳は危機感を
その時、音もなくスマホの明かりが消えた。
「え、待って待って待って嘘でしょ!」
スワイプしても、電源ボタンを長押ししても、うんともすんとも言わない。バッテリーが切れたのだ。それはつまり外界との連絡手段を失ったということでもある。
「そんな……」
ぎりぎりのところで抑えていた不安や絶望が一気にあふれ出す。今の私にそれを途中で止められるだけの精神力は残っていなかった。
「あぁ~…… 私ここで死ぬんだぁ~」
全身から力が抜け、目から勝手に涙がこぼれた。子供のように泣き叫ぶ今の様を誰かに見られたら恥だな、と頭をよぎったが、今近くにいるのはエメリだけだ。
「助けは来ないうえ連絡までできなくなるなんて! ツイスタだって更新できないし!」
他人に馬鹿にされないために勉強もスポーツも努力をしてきた。なめられないために身だしなみやスタイルに気を遣ってきた。嫌いな先輩にも愛想笑いはかかさなかった。自分なりに世の中から認めてもらえるように頑張ってきた。なのに。
「そりゃ写真は盛ってるし、部屋の写らない側はド汚いけど、こんな死に方しなきゃいけないほど、日頃の行い悪くなかったはずでしょ!」
エメリは号泣する私に戸惑いながら「えいや」と私を抱きしめた。
「だいじょぶ、だいじょぶ! きっとなんとかなるよー!」
気が付くと私はジャングルの中にいた。湾曲した木々が生い茂っていて、遠くには茶色い岩山も見える。だが暑さも湿気も感じなかったので、夢の中だと気が付いた。
「泣き疲れて眠っちゃったのか……」
もしくは天国かもしれない。そんなことを考えていたら、すねになにかがぶつかった。
見下ろすと、足下にいたのはタルゴンだった。だがその全高は私の膝下くらいまでしかなく、まるでぬいぐるみのようなサイズだった。
「うわっ!」
私が声を上げて尻餅をつくと、ミニタルゴンも驚きのけぞりそのままひっくり返った。ずんぐりむっくりとした体に対して足が極端に短いタルゴンは、亀のようにじたばたしたまま起き上がれずにいる。
「えぇ……」
いたたまれなくなり、彼(?)を助け起こす。
するとタルゴンはキューイと甲高い声を上げて私の足に抱きついてきた。
「いや、現実じゃあんたに殺されかけてんだけどね……」
ツッコミとともに
「どんくらい寝てた? 私」
尋ねると、エメリが手元のスマホの電源を入れた。
「んー、二時間くらいかなー」
「あーやば、絶対目ぇ腫れてる。つーか今変な夢を……。ってあれ? いやちょっと待って! なんであんたスマホ!」
エメリが手に持っているスマホは私のものだった。バッテリー切れだったはずなのに、今はその画面が煌々と輝いている。私は彼女の手首を掴み画面を確認した。
「バッテリー43パー!? さっきまで死んでたのに! どうやったの!」
エメリは「これ」と充電器を取り出す。私の部屋から取ってきたもののようだ。
「充電器があったって電気が来てないじゃん」
するとエメリは得意げに笑って立ち上がり、私をタルゴンの背中が露出している廊下へと連れていった。背中は今もぼんやりと紫色に光っている。
「さっきタルゴンの背中でビリビリってなったでしょ? だから試してみたんだー」
エメリがなんの迷いもなくタルゴンの背中へプラグを突き刺す。
「いや! あんたなにやってんの!」
痛みに驚いたタルゴンが暴れ出すのではないかと身構えたが、数秒待っても異変はなかった。あの巨体にとってはこの程度、蚊に刺されるのと変わらないのだろうか。
エメリが「で、こう」と、タルゴンの背中から伸びるコードをスマホへ接続する。すると小気味よい音が響き、充電が開始された。
「え、なに、こんなことってある?」
「充電くらいできるよ。ビリビリしてたんだから」
「いや電気ってそんな単純なものじゃないでしょ!? よく知らないけどさ!」
「でも、できてるよ。モモモ、これでできる? ついすたってやつ」
「ツイスタどころか……」
ここから電気が取れるなら延長コードさえあれば冷蔵庫もエアコンも動くわけで……。
「あれ、これ、もしかして……。なんとかなる、かも?」
09/13 12:48[電気なんとかなりそうです]
∟ストレスでついに頭おかしくなったか
∟写真のアロマディフューザーマジで動いてね?
∟バッテリー無駄遣いすんなってコメントしようとしたら怪獣の背中から充電してて草
2
対策室からは毎日三回状況報告をするようにと指示されていたが、返ってくる言葉は『進展はないので待機を続けてください』だけだったので連絡をとるのをやめた。
それよりも私は〝怪獣の背中生活〟へ適応するのに忙しかった。
検証の結果、タルゴンの背中に流れているのが電気だけではないと分かった。冗談半分でLANケーブルを挿してみたところWi-Fiが復活したのだ。これで格安SIMの速度にわずらわされることなくツイスタグラムができる。
テレビのアンテナ線を刺してもうんともすんとも言わなかったが、ネット番組を画面に映すことができたので問題はなかった。
怪獣の背中生活四日目、私は水に関する問題に悩まされていた。食料は買い溜めしておいたインスタント食品やレトルト食品があったのでなんとかなっていたのだが、飲料水が底をつきそうだった。ちなみに冒険と称して家のあちこちを動き回り、汗だくになって戻ってくるエメリに水を飲ませていたのもその一因だ。
ネットで水の調達法を調べると、出てきたのは砂利で雨水を
「むしろ砂利がないんだけど……ここ」
私がソファで愚痴を漏らすと、ダイニングで牛乳を飲んでいたエメリが口を挟んできた。
「もいっこ下の背びれに土残ってたよ? とってこようか?」
腰にロープを巻きつけたエメリを窓からぶら下げるイメージ映像が頭に浮かぶ。
「んな危ないことさせられるわけないでしょ。あとヒゲできてる」
ワンピースの袖で口元についた牛乳を拭ったエメリがぽんと手を叩く。
「あ、そだ。あたし、水見たよ?」
エメリは私を脱衣所へ連れていった。家の西側(もしタルゴンが動けば西も東もないのだが)にあるその部屋は、家を左右から挟み込んでいるタルゴンの背びれに面していた。
「ほら、ここ」
彼女は脱衣所の窓を開け放つ。窓から五十センチ程度のところにタルゴンの背びれがあった。その表面の凹凸によって作られた溝の一つに、ちょろちょろと水が流れている。
「え、なにこの水」
ここ数日雨は降っていないはずだ。窓から顔を出して背びれの上の方を確認してみたが、水がどこから流れて来ているのかは分からなかった。
「水は水だよー」
エメリは洗面台に置いてあったコップを手に取り、水の流れる溝に押しつける。三十秒ほどで満杯になった。
「無色透明……。見た感じ汚くはな……」
「んぐっ!」
私が水質を確認しようとした矢先、エメリがコップを勢いよく口元へと運んだ。
「いやっ! ちょ! なにやってんのよ!」
ごくごくと喉を鳴らしてコップの中の液体を飲み切ると、彼女はぷはーと満足げに息を吐いてみせた。
「あんたこれ毒だったらどうすんの! 怪獣の体の表面を流れてたものなのよ!」
「たぶんタルゴンの汗かなにかだよ」
「その想定ならなおさら飲むのおかしいでしょ!! 変な味とかしなかった!?」
「んー……。薄めたポカリ」
一晩経っても、エメリの体に異常は表れなかった。それどころか心なしか肌つやが良くなっている気さえした。
私は空になったペットボトルを繋げて筒を作り、脱衣所の窓からタルゴンの背びれに立てかけた。先についたキャップを開けば、筒から引き込まれた水が洗面台に流れ込むという仕組みだ。
そうして集めた〝タルゴンの天然水〟を煮沸したあとで、私は恐る恐る飲んでみた。
「どう? 美味しいでしょ?」
きらきらと目を輝かせてのぞき込んでくるエメリに私は答える。
「薄めたポカリの味がする……」
09/15 19:20[トカゲの汗って飲んでも大丈夫ですか?]
∟トカゲは変温動物なので汗をかきません
∟体表につく水を飲んで生きてるトカゲがオーストラリアにいますよ
*
09/17 16:45[行政の方がドローンで物資を運んでくださるようです。運べるのは軽いサプリや食品だけのようですが助かります]
∟明日にでもタルゴンが消えてくれたらいいんですけどね #青樽市を取り戻せ
09/22 14:14[支援物資で発炎筒? もらったんですけど、いつ使えと?]
∟もらったものに文句言うの失礼ですよ
09/26 15:23[ツレがタルゴンの背中でキノコ見つけたんですけど食べれますか?]
∟三十年細菌学者やっていますがこんなキノコ見たことありません。
09/26 20:56[ツレに薬を飲ませたいんですけど、食間っていつ飲めばいいんですか?]
∟キノコは食うなとあれほど……
*
タルゴンの背中に取り残されてから二週間が経った。
電気と水は確保されていて、物資の供給も受けられるようになった。生活の土台が安定し、あとは救助を待つのみ……かと思いきや、予想外の案件にぶち当たる。
「お風呂に! 入りたいっ……!」
傾いた床で乾電池を転がして遊んでいたエメリが顔を上げる。
「お風呂なら入ってるじゃん」
エメリが言っているのはペットボトルに穴を開けたお手製シャワーのことだ。私たちは電気コンロで温めた水をそこにいれて体を洗っていた。
「あんなもんシャワーとすら呼べないでしょ……」
コンロで沸かした水を浴槽に溜めることも試してみたが、満杯になる頃には最初の方にいれたお湯は冷めていて、結局水風呂にしかならなかった。
「あー半身浴したいリンパマッサージしたいストレッチしたいぃ……」
私が呪文のように愚痴を垂れ流していると、エメリがぽんと手を叩いた。
「そうだ! あれが使えるかも!」
エメリが駆け足で向かったのは屋根裏部屋だった。引き出し式のハシゴを登った彼女は、奥にある採光用の窓を指さす。
「この窓、タルゴンの背中の穴に繋がってるんだよ」
方角的にはタルゴンの背中と接している面だったが、窓から外を覗くと、確かにそこには洞窟のような空洞があった。
窓から這い出す。洞窟の横幅と高さは学校の教室くらいあった。すぼまった入り口を私の家が蓋しているので太陽光はほとんど入ってきていないが、代わりに壁面に生えた苔のようなものがぼんやりと光って穴の中を照らしている。
「たぶんタルゴンの鼻の穴だよ! ここ!」
「いや、背中に鼻はないでしょ……」
「あ、モモモ止まって! そこ危ない」
エメリが奥へ歩いていこうとした私の髪を掴む。目を凝らすと、進もうとしていた先には半径二メートルほどのくぼみがあった。
エメリがぴょんとくぼみに飛び込む。深さは彼女の腰のあたりまであるようだ。
「よく分かんないけどここね、なんかあったかいんだよ」
エメリに促されてくぼみの底を触ると、確かに表面はじんわりと熱を持っていた。
「嘘、なにこれ、床暖房でも入ってんの?」
「ここに水を溜めたらさ、お風呂みたいにならないかなー」
「あのね。そんな都合のいいことが――
――あったかぁーい!! 生き返る~!!」
ホースやバケツを駆使して体表を流れる〝タルゴンの天然水〟をくぼみに引き込み、待つこと数時間。想定以上の癒し空間が完成した。溜めた水は底からの熱でちょうどいい湯加減にまで温められている。インテリアとして買っていたオイル式のミニランタンに火をつけると、ちょっとしたアウトドアをしている気分にすらなった。
「うりゃ!」
私が手で作った水鉄砲でエメリの顔を濡らすと、彼女はけたけたと笑いながら反撃してきた。しかし彼女の水鉄砲は自分の顔に飛んでいき、それを見て今度は私がお腹を抱えて笑った。
タルゴンの背中に引っかかってから、いや、多分ここ数年でも、ここまで馬鹿笑いをしたのは初めてのことだった。
「あたしそろそろ出ようかな」
「ダメ。もっとちゃんと温まりなさい」
エメリは口を尖らせたが、結局くぼみの縁に座り、膝から先だけを湯船につけた。
「あんたさ、大きくなったわね」
「モモモのえっち」
エメリが私よりもアルファベット三つ分は大きいであろう胸をタオルで隠す。
「そっちじゃないわよ! 身長の話! 今も小柄だけど、昔はもっと小さかったでしょ」
エメリは「そうかなぁ」と呟きながら、足を揺らして水面に波紋を作った。
「自分じゃ分かんないや。でもモモモからしたら三年とか四年ぶりくらいだもんね」
エメリの言葉が私の脳を刺激する。それによって思い出された記憶は苦い味がした。
中学に入ってから私とエメリは別々のクラスに分かれた。それでもエメリは毎日一回は私の教室へ遊びに来て、捕まえた虫を見せびらかした。
そんなことがひと月くらい続いた頃、エメリが自分のクラスへ帰るのを見計らってクラスメイトが呟いた。
――エメリさんって、ちょっと変わってるよね。
周りのみんなもその意見に同調し、エメリの奇行の暴露大会になった。
――今持ってきてたのって蛾? 気持ちわる。
――俺、あいつがドブに手を突っ込んでなんか取ってんの見たぜ?
それまで私にとっては当たり前だったエメリの行動をあげつらい、嘲笑し、蔑んだ。
――家が隣だからって〝やっかい者〟の相手させられて、桃香も大変だね。
クラスの全員とエメリの間に引かれている線。その内側と外側、どちら側に立つのかが、次の一言で決まることを私は悟り、
――わ、私もエメリには困ってるんだぁ。
ぎこちない笑顔とともに、その線を踏み越えた。
本当に言いたかったことは「生き物を大切にする、優しい子なんだよ」だったのに。
私の陰口が叩かれている場面が頭をよぎった。中学で得た友達を失う恐怖を感じた。
そんな罪悪感から来るモヤモヤをエメリにぶつけてしまったのは、ひと月ほどあとに彼女が窓から私の部屋へ飛び込んできた時のことだった。
私はその時、下着の試着をしていた。エメリの知らない友達と出掛けて買ってきたものであることとか、初めてつけるスポーツブラではない下着だったこととか、そういう後ろめたさや恥ずかしさもあり、私は思わず彼女に叫んでしまった。
――周りから自分がどう見られてるか、もっと考えなよ!
突然怒り出した私に戸惑うエメリへ、私はさらに追撃をした。
――私がカーテンを閉めてる時は、部屋に入ってこないで。
それ以来カーテンをずっと閉めっぱなしにしていたので、エメリが私の部屋に来たのはこの時が最後だった。
彼女が元親友になった瞬間だった。
「モモモはなんだか、すごくきれいになった!」
エメリの声で意識が今に引き戻される。彼女は屈託のない笑顔で、茶色に染めた私の髪を眺めていた。
「モデルさんやってるって聞いたよ。すごいねぇ」
「ただの読モだよ」
私は湯船の縁に置いていたスマホを手に取る。ファスナーつきの袋で防水済みだ。
ツイスタを開くと、私のアカウントのフォロワー数は一億を超えていた。国外の人も怪獣の背中に取り残された私のことをフォローしているらしかった。
私たちは悲劇の高校生として話題になっていて、テレビ出演の依頼もきていた。有名な芸能事務所から本格的なタレント業務を始めてみないかとの打診もあったし、ファンになりましたというコメントもたくさん寄せられていた。
でも、なぜか満たされない。なぜか寂しい。
怪獣の背中に取り残されたからじゃない。もっと前からずっと、私はこの寂しさを感じていた。読者モデルにスカウトされた時やツイスタのフォロワーが千人を超えた時、その瞬間瞬間は幸せで充足感があった。でも、それはすぐに消えてしまい、時々自分がすごくみじめに思える瞬間があった。そんなみじめさを誤魔化すために、私はまた着飾った自分をネットに投稿した。
「すごいねー。だからモモモは変わったんだね」
屈託のないエメリの言葉が、なぜか私をバカにしているように聞こえた。みじめさを感じている私の被害妄想だと分かっていたのに、口が勝手に動き始めた。
「だって、認められたいじゃん。自分はここにいていいんだって、思いたいじゃん……」
私はコミュニティからはみ出さないために自分を変えてきた。好き勝手に振る舞うことなくその場に溶け込み、尊敬を得るために努力をしてきた。
「でも、そのままの自分で世の中に認めてもらえる人なんてごく一部でしょ。だったら努力するしかないじゃん。自分を変えるしかないじゃん。じゃないと弾かれるだけじゃん。エメリだって、子供みたいに好き勝手してないで中学の時に一緒に変われてれば今も――」
「でも私は認めてもらうために生きてるんじゃないからなぁ~」
エメリは洞窟の奥の方を見つめながら、気の抜けた笑みを浮かべた。
さっき食べたアイス美味しかったなぁ~、みたいな言い方だった。彼女にとっては至極当たり前のことを口にしただけなのだ。
なぜか目の奥がじわりと暖かくなる。私はお湯で顔を洗った。
「エメリは、ずっとなにしてたの? てか高校どこ?」
「高校は行ってないよ。ちょっと行ってたけど、すぐやめちゃった」
エメリはばつが悪そうに肩をすくめた。
「友達できなくて、つまんなかったから」
頭に浮かんだのは、珍しい蝶の入った虫かごを抱えて一人立ちすくむ彼女の姿だった。
「あ、でも海の方にある水族館知ってる? あそこ研究も一緒にやってて、今そこでアルバイトしてるんだー。そこにいるのはおじさんばっかりだけど」
「あんた、それ、寂しくなかったの?」
私は内心で「好きなことできて楽しかったよ」と答えてくれるのを期待していた。だが、エメリは困ったように「んー」と喉を鳴らした。
「でもタルゴンがいてくれたから」
期待外れで、そのうえ予想外の答えに私は眉を
「夢の中でタルゴンとよく遊んでたの。それで話もいっぱい聞いてもらってた」
「あんたそれ、冗談じゃなくてマジで言ってたの?」
「え、本当だよー。ジャングルみたいなところに小さなタルゴンがいてさ」
ジャングルに、小さいタルゴン。私が前に見た夢と同じ状況だ。
「家の真下でずっと眠ってたからって、そんなの、あり得ないでしょ……。いや、あり得ないを言い始めたら巨大怪獣がいることがそもそも、なんだけどさ」
「あのジャングルはタルゴンの故郷なんだって。大昔にあの島から海に投げ出されちゃって、ここに流れ着いたんだってさ」
だからタルゴンもここでは一人ぼっちみたい、とエメリは眉をハの字にした。
「だからたぶん、二度寝が終わったらタルゴンは故郷を探しにいくんだと思う」
「じゃ、じゃあ、それまでにここから脱出しないとね」
私の発言にエメリは目をぱちぱちとしばたたかせた。
「その時は私ついてこっかなーって思ってるよ! タルゴンに。友達だし!」
風呂に浸かっているのに鳥肌が立った。エメリに私の常識は通用しないのだ。
「まぁ、タルゴンが動き始めてからの話は、またそのうちってことで……」
結論を先送りにし、私はタルゴンの湯を出た。
ルームウェアに着替え、ドライヤーが欲しいなと思ったちょうどその時、洞窟の奥の方から生暖かい風が吹いてきた。
「そういえばこの先って、どこに繋がってんの?」
スマホのライトで洞窟の奥を照らす。暗くて分かりにくかったが、少なくともすぐそこで行き止まりになっているわけではなさそうだった。
「あたしもすんごく気になってたんだけど! すんごく面白そうだから、冒険はモモモと、って思ってたんだー!」
冒険に興味はない。だが、奥から化け物や酸性の液体が出てこないとも限らないわけで、ある程度の安全確認は必要なのではないだろうか。
「エメリ、手握って」
「モモモは怖がりなんだからー」
「あんたがどっか行かないようにするためだっての!」
私がスマホ、エメリがランタンを持ち奥へと進んでいく。十メートルほど先で、洞窟は下り坂になった。奥に行けば行くほどその傾斜はきつくなっていく。
「青樽公園にあるローラーすべり台思い出すね」
「すべんないでよ! 胃袋に繋がってる可能性だってあるんだから!」
エメリの腕を引っ張って一歩下がらせる。その拍子に、彼女の手からランタンが滑り落ちた。ランタンはかしゃんかしゃんと音を立てながら、下り坂になっている洞窟の奥へと転がっていった。
「あー! ごめん! あれモモモのやつなのに!」
ランタンの火はどんどんと小さくなっていき、最後には暗闇に沈んだ。
「すごい先まで続いてんのね……ってあれ、なんか揺れてない?」
足の裏に感じた揺れが大きくなっていく。それはタルゴンが出現した時よりも細かく、揺れと言うよりも震えに近いものだった。
私はスマホを起動し、タルゴンを24時間映し続けているライブカメラのURLを呼び出す。タルゴンが動き出したのかと思ったのが、その巨体は昨日までと変わらず画面の中央に収まっている。だが彼の上顎がゆっくりと動き始めていた。野球場でも一飲みしてしまいそうな口がぱっくりと開く。
ボウ、ボウ、ボウ、と大型船の汽笛のような音が洞窟の奥から聞こえ――、次の瞬間、ボウックシュン! と爆音のようなものが洞窟に響き渡る。
同時に映像の中のタルゴンが火球を吐き出した。
3
『タルゴンの口から火球が発射されて、今日で三日が経ちました。火球が通過した青樽海水浴場は今も黒い
テレビでは火球を吐き出すシーンが何度も繰り返し流されていた。ガマ口財布のようなタルゴンの口から放たれた火球はその頭部と同じくらいのサイズで、専門家によると東京ドーム数十個分の体積があったそうだ。青樽市全域は今も避難区域になっているので犠牲者は出なかったが、海岸では焼け焦げたカニが見つかっているらしい。
「鼻の奥になんか入ってきて、くしゃみが出ちゃったんだろうねぇ」
エメリが朝食代わりのクラッカーをポリポリとほおばる横で、私はソファのクッションを抱えたまま冷や汗をかいていた。
私たちがランタンを落としたことが発端だとは誰も気付いていない。だが、タルゴンがくしゃみをしてから、ツイスタへと集まるコメントが明らかに変化していた。
《タルゴンが有害生物だと確定しましたね》《あなたたちがいるせいで駆除が進まないんですが》《タルゴンによる経済損失はこちら》
くしゃみ事件によってタルゴンに不満を持つ人間が増えたのか、今まで見えていなかった人たちの声が大きくなったのかは分からない。だが、苛立ちや不満を理論武装でラッピングしたようなコメントが私のアカウントにも届くようになった。
「タルゴン、嫌われちゃったのかな?」
いつの間にかエメリが私のスマホをのぞき込んでいた。慌てて画面を閉じる。
「いや、そういうわけじゃ……」
言いかけてから、フォローをしようとしている自分に疑問を抱く。私たちはタルゴンのせいでこの家から脱出できなくなっている。だから、タルゴンを排除しようとする風潮が強まることは私にとって悪いことではないはずなのに。
エメリが俯き、唇を尖らせる。ランタンを落としたことを悔いているのか、タルゴンが嫌われたことが悲しいのか。おそらくその両方なのだろう。
彼女にかける言葉を探していると、スマホが鳴った。画面には《なんたらかんたら対策室》と表示されていた。
自分の部屋へと戻ってから通話を開始する。電話の向こうにいたのは、今までやりとりを交わしていた年配の女性ではなく、自衛隊の人だった。
「お待たせしました。あのやっかい者を駆除する準備が整いました」
4
「ねぇ、モモモ暑いよ……」
「サウナなんだから暑くないと意味ないでしょ」
私とエメリは浴槽の中で寝転がっていた。蓋は閉じられていて、その上には布団を載せてある。入ってから一分と経っていないのに額を汗が滴っていた。
「汗かくなら温泉でよくない?」
「ダメ。ここにいて」
ここにいて。心の中で繰り返す。
スマホで時間を確認すると、自衛隊の人から指定された時間まであと八分ほどだった。
――タルゴンの頭部にミサイルを撃ち込みます。
野太く無機質なその声に、私は「はぁ」と相槌を打つことしかできなかった。
それから計算によればタルゴンが横へ倒れることも、衝撃で家が崩れることもないはずだと、難しい言葉や数式を交えながら説明された。
私にちゃんと理解できたのは、攻撃の間、万が一に備えて浴槽に隠れていてほしい、という指示だけだった。
エメリにはこのことを話していない。ダイエットのために手作りサウナで汗をかこう、と提案した。そして彼女はそんなバカな嘘を信じ込んだ。
ミサイルが外れてこっちに飛んでくるんじゃないかとか、タルゴンが暴れて振り落とされるんじゃないかとか、そういう不安は別になかった。偉い人が大丈夫って言ってるんだから大丈夫なんだろう。そんな感覚だ。
なのに、心はざわざわとして落ち着かず、今まさに家が燃えているかのような焦燥感だけがあった。
自分に言い聞かせる。私は間違ってない。これがみんなの、世の中のため。むしろ私は危険を受け入れて駆除に協力しているのだ。褒められるべきだ。これが終わったら、みんなが私を拍手で迎えてくれるはずだ。
「モモモ? 怖いの?」
いつの間にか、私はエメリの手を握っていた。
「ううん。ただ、ここ数週間のこと思い出してた……。あんたには助けられたなって」
ひょんなことから始まった元親友との共同生活。怪獣の背中の上ではエメリの向こう見ずな性格が危機を切り開いてくれたし、楽観的な気質が私の心を支えた。
背中に引っかかってよかった、とは口が裂けても言えない。でも、こんな状況になったからこそ私は思い出した。
「私、昔からあんたのそういうところに憧れてたんだよ……」
エメリは小さいのに強くて、バカなのに私よりもずっと広い世界を見ていた。彼女の瞳はいつも輝いていて、一緒に過ごす時間は私にとって宝物だった。
だからこそ、クラスメイトにエメリを否定された時、心の底から怖かったのだ。私がこんなにも認めている相手を拒絶する人が、こんなにもいるのか、と。
だから私は自分を変えた。変わってしまった。
「そういや、タルゴンが出てきた時もあんた笑ってたよね。怖くなかったわけ? あ、もしかして夢の中でタルゴンにいつ起きるか聞いてたとか?」
エメリは「そんなことないよぉ」と笑う。
「私もびっくりしてたけど、それよりもね、嬉しかったから」
「嬉しかった? なにが?」
「モモモの部屋のカーテンが、開いてたから」
時間が止まったような気がした。彼女の言葉を理解するのにそれだけの時間がかかった。
「あたしね、毎日見てたんだよ。今日はカーテン開いてないかなーって」
――私がカーテンを閉めてる時は、部屋に入ってこないで。
三年以上も前の苛立ち紛れに押しつけた約束。彼女はそれを律儀に守っていたとでもいうのだろうか。そんなバカな。いや、そんなバカをするのが東条エメリだ。
「だから久しぶりにこうしてモモモと話したり、ご飯食べたり、お風呂入ったりできて、すんごく嬉しかったんだぁ」
「バカじゃないの。なんで、そんな……」
声が震え、エメリの顔が涙で歪んだ。
「私なんて、臆病で、いいかっこしいで、卑怯な、嘘つきなのに……」
エメリが浴槽の中で体を起こす。蓋に頭を打ち付けながら、私に覆いかぶさった。
「やめてよ」
大きな二つの目で彼女はまっすぐに私を見つめた。
「あたしの親友を、そんな風に言わないで!」
私は思い知る。元親友だと思っていたのは私だけだったのだ。彼女は今も――。
そうか。だからきっと私は――。
理屈や理由を言葉にする前に体が勝手に動く。心の底から湧き上がった衝動を足に乗せて、私は浴槽の蓋を蹴り飛ばした。
「モモモどしたの? サウナ終わり?」
「終わりよ! こんな狭いところでじっとしてる場合じゃないの!」
私は涙と汗を一緒くたに拭き取り、エメリを抱き上げながら立ち上がった。
「救いにいくよ! あんたの友達!」
「すくうって、どゆこと?」
「ミサイルから! タルゴンを助けるの!」
スマホで時刻を確認する。もうミサイルの発射まであと数分というところだった。もう時間はない。救うって言っても、どうやって?
逡巡の末に思いついたのは自分でもバカらしく思える一つのアイディアだった。
「ええい、一か八かだけど、やらないよりはましでしょ!」
浴室を飛び出し階段を駆け上る。途中ですねをぶつけたが痛がっている暇などない。
「エメリ、私の部屋から発炎筒取ってきて!」
「はつえんとー?」
「この前ドローンが運んできた、ダイナマイトみたいってあんたが振り回してたやつ!」
「あぁ、あれね! 分かった!」
エメリを待つ間、私はスマホを操作しニュース画面を表示した。そこではヘルメットをかぶったレポーターが鬼気迫る顔でタルゴンを指さしていた。レポーターの横ではタルゴンが駆除されるところを見にきた野次馬がごった返している。
『あそこに見えるのが、海上自衛隊のミサイル搭載型護衛艦〝すずは〟です! 甲板の大きな筒が動いているのが見えますでしょうか!』
「モモモ! とってきた!」
私はエメリが投げた発炎筒を受け取り、スマホをポケットに突っ込む。それから廊下を駆け抜け、屋根裏へ続くはしごに飛びついた。
『あぁ! たった今! ミサイルが発射されました! 1、2、3……、五基です! 五基のミサイルが打ち出されました!』
はしごを登り切り窓を目指す。屋根裏の低い天井に頭をぶつけないように這っている自分は人と言うよりもトカゲの仲間のようだった。
『上空に打ち出された五基のミサイルが角度を変え、一直線にタルゴンの頭部へ向かって飛んでいきます!』
レポーターの声の後ろからは、たくさんの人間の歓声と拍手が聞こえた。
『今! 今世紀最大の〝やっかい者〟が駆除されようとしています!』
「やか! ましぃー!」
窓から這い出し、タルゴンの背中に空いた洞窟へと飛び出す。そのままの勢いでエメリと作った温泉を飛び越え、発炎筒のキャップを外した。
着火部を地面にこすりつけると、発炎筒の先から真っ赤な炎が噴き出した。
手持ち花火のように煙と炎を吹き出す発炎筒を思い切り振りかぶる。その刹那。火花で髪が燃える匂いがした。
私を親友だと言い切ったエミリを見て気が付いた。どんなにフォロワーが増えても、学校のヒエラルキーを上り詰めても、寂しくてみじめなままだった理由が分かった。
私自身が、私を認めていなかったからだ。
エメリに憧れて、エメリのことが大好きで、そのことに一ミリも疑問を抱いていなかったあの日の私が、今の私を蔑んでいたからだ。
きっと今、親友の友達を助けられなかったら、私は一生自分を認められないだろう。
――家が隣だからって〝やっかい者〟の相手させられて、桃香も大変だね。
「二度も! 間違えてたまるかぁ!」
周りなんてどうでもいい。
私はもう、親友を見捨てたりしない――!
「いっ……けぇえええええぇえぇ!!」
発炎筒を洞窟の奥へ向かって力の限り放り投げる。
赤色の炎を噴き出しながら発炎筒が飛んでいく。描かれた自由落下による放物線は洞窟の傾斜とぴたりと一致し、炎は回転しながらタルゴンの体内へと落下していった。
やがて赤い光が闇に消え、私の周りには煙の残り香と静寂だけが残される。
「モモモ!」
一足遅れて私に追いついたエメリが抱きついてくる。状況をなにも理解していないはずなのに彼女は興奮気味だった。まるで楽しそうな飼い主につられてテンションが上がってしまった大型犬のようだ。
「なになに! なんでくしゃみさすの!?」
ランタンを落とした時と同じように洞窟が揺れ始める。私がスマホを取り出すと、エメリも私の頭にごちんと頭突きをしながら画面をのぞき込んだ。
『あぁ! タルゴンが口を開けております! 飛んでくるミサイルに向けて大きく口を開けております!』
洞窟内にボウ、ボウ、ボウ、と汽笛が響く。私は心の中でそれに重ねて呟いた。
「3、2、1……」
ボウックシュン!
洞窟内を熱風が吹き抜ける。同時に、画面の中のタルゴンが火球を吐き出した。火球は前回よりも一回り大きい。真っ直ぐに進んでいった火球は、海の上で対面から飛んできたミサイルを飲み込む。すると、火球の中で小さな爆発が起こった。
ミサイルの中の一基は火球に飲み込まれることなくその横をかすめた。だが、すれ違うと同時に穴の開いた風船のようなめちゃくちゃな軌道を描き、最後には海に落下した。火球の衝撃や熱がなんらかの影響を与えたのだろうが、私の目にはミサイルが火球に驚き逃げ出したように見えた。
「タルゴン、守ってくれたの?」
「友達の友達、だからね……」
エメリは目をうるうるとさせながら私に抱きついた。
「嬉しい。ありがと、モモモ」
「いや、褒められるようなことじゃないんだって」
一度は見捨てようとしていたことを打ち明ける。しかしエメリは怒ることなく私の胸の中でずびびと鼻水をすすった。
「それでも、すんごくありがとう、だよ」
なんと返すべきか考えていたのだが、途中で異変に気が付く。おかしい。前回火球を吐き出した時にはすぐ収まった揺れが、今もまだ続いている。
『あぁ! なんということでしょう! タルゴンが!』
スマホからレポーターのものとは思えない裏返った声が響く。
『タルゴンが動き出しています! 瞼が! 瞼が開いて、え! そこが目だったの!?』
「起きたんだ! タルゴン!」
画面の中のタルゴンが短い足を動かすたびに、ずしんずしんと洞窟も揺れた。タルゴンは青樽市の中心部から、ほんの八歩で海岸線へとたどり着いてしまう。
「待って待って待って待って! え! いくの!? 海!」
私は揺れに何度も転ばされながら家へと戻った。たどり着いた自分の部屋の窓から外を覗くと、もうタルゴンの体の下半分は海に浸かっていて、蛇行する尻尾のその先に小さくなった青樽市が見えた。
「嘘、でしょ……」
遅れてエメリがやってくる。彼女はぴょんぴょん跳ねながら、遠ざかっていく青樽市に手を振り始めた。
二つ隣の背びれの間から海水が吹き上がる。
「わっ! クジラみたい! あ、そか、やっぱ背中の穴は鼻なんだよ! 息継ぎ用だ!」
「いや、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
タルゴンが自衛隊の護衛艦とすれ違う。陸上にいる間は遥か彼方に地面があり飛び降りることはできなかったが、タルゴンが泳いでいる今は窓からほんの数メートルの位置に海面がある。今飛び込めば、きっと彼らが助けてくれるだろう。
私の考えに気付いたのか、エメリはしゅんとしながら上目遣いで私の顔をうかがった。
「モモモは、帰る?」
タルゴンが進んでいる方角を振り返る。見えるのは私の部屋の汚い一角だけだった。でも私は想像する。その先に広がる、青く広い海を。
「帰るもなにも、ここ、私の家」
エメリの額にデコピンをかます。
「あんたのことも心配だし、こいつを家に帰すまでは付き合ってあげるよ」
その時エメリが浮かべた笑顔は、今までネットにあげたどんな写真よりも
でも、アップなんてしてやらない。これは、私が独り占めするんだ。
かいじゅうのせなか【MF文庫J evo】 小川晴央 /MF文庫J編集部 @mfbunkoj
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