折り鶴のヒーロー

 夕方は、アスターが最も嫌う時間帯である。兵士たちは一旦引き、天幕へ戻って食い物を貪る。当然その間は人殺しをしない。自身の罪科を神様に許してくださいと祈る時間だからだ。

 柊木……またはアスター……は、誰かに幸せになってもらって、感謝されたかった。生きていて良かったと。おまえが人を殺してくれて良かったと。神様はアスターを許してなんかくれない。人殺しだから。だからせめて、現世の人たちに感謝されたかった。アスターが生きてくれて良かったと。

 生まれながらの罪を、心のどこかで、許してほしがったのだ。


「……馬鹿みたいだねえ」

「……柊木」


 だって、かつてのアスターは〝生きる〟を知ってしまって、柊木になったから。

 ただの殺戮兵器なら抱かないはずの感情を、抱いてしまったのだ。

 意味を求めて、許しを求めて、感情を求めた。これでは兵器じゃなくて、ただの〝人〟だ。


「ねえ、イオ」


 柊木は、目の前のイオを見上げる。


「こんな姿のぼくにも、イオはロザリオを握れるの?」


 醜いだろう。天使の翼は腐り落ち、悪魔の翼が生え、天使の輪はひびが入って粉々に砕けてしまった。神でも天使でもない。悪魔で邪神だ。現世で信仰したらきっと火あぶりにかけられる。せっかくの神様のご厚意を無駄にして、柊木はアスターへ堕ちた。


「もちろんだ」


 それでもイオは頷くのだ。

 喉を裂く勢いで叫んだあの言葉たちを、イオは違えることをしないのだ。


「どれだけ人を殺そうと、柊木が俺を救ってくれた事実は変わらない。……俺は、柊木が人殺しっていう事実より、俺を助けてくれたっていう事実の方を大切にしたい」


 人がはけて、血で穢れた地を歩み、イオは手を差し伸べる。


「……折り鶴?」


 その手には、一羽の折り鶴がいた。浅葱色の、うつくしい鶴。

 ところどころ黄ばんでいて、古びていて、アスターは知らず知らずのうちに震えていた。


「俺がずっと、持ち歩いていたものだ。……お守りとして」


 柊木は……人殺しのアスターの視界は、滲んで、よく見えなかった。


「預かっていてくれないか。必ず助けに行くから」


 神様でさえ匙を投げた、救えないアスターを、イオは救うと言う。

 視界の隅で、黒髪が翻った。漆のような黒髪。


『……アスター?』


 なぜ、アスターだとわかったのだろう。なぜ見えていたのだろう。帰り際に叫んだキースの声が、蘇る。痩せていた。端正な顔が涙で歪んでいた。


『ごめん、ごめん! おれ、何もわかってなかった。何も知らなかった。おれたちは、わかりあえるはずだったのに!』


 そうかもしれない。だって、キースも運命に嬲られた者だ。 

 謝る必要なんてない。だってアスターは言わなかったのだから。


『ごめん! ……アスター、本当にありがとう! おれ、幸せだったよ!』


 笑い声が上がった。それが自分のものだと理解するのに、何十秒もかかった。

 滑稽で、おかしくて、憎む価値のある人生で。それでも柊木は生きていく。

 アスターに堕ちても。


「ありがとうね、イオ」


 アスターは折り鶴を受け取った。

 かつて、イオの屋根裏部屋に滑り込んだときのように、自然に、滑らかに。

 アスターの屋根裏部屋に、イオが過ごしたあの日のように、折り鶴が舞い込んできた。


「……幸せだなあ」


 戦地のど真ん中で、アスターは呟く。

 イオの目が細められた。幸せそうな瞳だった。

 アスターの目から、孤独とまるっきり反対の感情が、涙のように溢れた。

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折り鶴のヒーロー アイビー ―Ivy― @Ivy0326

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