第2話 ふえる(後編)

暑さだけが現実だ。

熱さだけが世界だ。

熱さだけが…


「お父さん、ボーっと立っているだけじゃ、雑草は無くならないから」


 娘の声だけが聞こえる。首を左右に振ったって、どこにもその姿はないだろう。


「お父さん…」


「お父さん…」


「「お父さん…」」


 声が聞こえる。二人の声だけが、熱に膨張された声だけが、何重にも聞こえた。


「痛っ!!」


 二人の声と熱さに頭がグワングワン痛むのか、目が回っているのか、そもそも立っているのかもわからなくなっていた時、不意に右手に鋭い痛みを感じた。


「なんだ? 虫か?」


 その痛みが、康正を現実に戻した。痛みを感じた反動で開いた手を目の高さまで持ち上げると、土や草の汁で汚れた軍手が中指の先からジワジワと黒く濡れ始めていた。手汗で湿った程度じゃない。水につけた様に、確りと水分を感じる。それは直ぐに、あまり汚れていない手首の部分まで広がった。


「血だ…」


 赤黒い血だった。


「血だ…」


 血は、腕を伝って曲げた肘や、軍手の手首部分からポタポタと大きな雫になって乾いた地面に落ちていく。いや、乾いた土が飲みこんでいく。


「草に、虫が付いていたのか?」


こんなに血が出るなんて、どんな虫だ?

ハサミ虫か?

あの小さな口で、こんなに深く?


 傷口を確かめようと慌てて軍手を外すと、中指の先から水鉄砲のように、勢いよく血が吹き出した。


「ウワアアア… こりゃ、まずいな」


 ピューピュー吹き出す血を見て、傷口を確認なんて言っていられないと、康正は首に巻いていたタオルを傷口に当てて、指の付け根を確り押さえて


「おおい、母さんかナミ、居ないか?」


 家の奥へと声をかけながら、縁側へと歩き出した。たった数歩歩くうちに、指に当てた白いタオルは見る見るうちに真っ赤に染まった。


「気分が悪いな」


 出血量のせいか、出血が目に見えているせいか、今まで以上に気分の悪さを感じ、同時に視界も不調を来しだした。


何だ… 薄ぼんやりと暗いぞ。

体が、足が動かない。


 康正はほんの数歩歩いただけで足が痙攣けいれんを始め、座り込んでしまった。腕を上げている事も辛くなっていたが、筋肉が固まったように動かない。


「痛い…」


 そんな状態でも痛さは感じた。血が吹き出している指ではなく、足に痛みを感じた。


チクチクチクチク

ズキズキズキズキ


今度は何だって言うんだ?!


「うわ… ウワァァー!!」


 群がっていた。


「やめ、やめろ! くるな!!」


 虫が、康正の足に群がっていた。


「ヒイ…」


 足の色もサンダルも見えないほど虫が群がって、登ってきていた。ある虫は何本もある線のように細い手足を、汗の細かい結晶がびっしりついた皮膚や体毛にしっかりと密着させ、ある虫は数え切れない黄色い足をワシワシとうごかしながらも、細長い体ごと絡み着いてウネウネとあがってくる。チロチロと動く無数の触角。小さいくせに、ブチブチと皮膚を食い破る顎の力。噛まれる痛み、附着する毒の痛みや痒み、痺れ… それに加えて、目で見えるギリギリの大きさの虫や小さな虫は、それより大きな虫が食い破った皮膚を入り口に、入り込んでいく。


「ひぃやぁぁ~」


 乾いて焼けた喉から掠れた悲鳴を上げながら、両手で体を上がって来る虫を払う。


「やめろ、やめろ、やめろ」


 虫を振り払うたびに血が飛び散り、白いシャツやステテコが赤に染まる。


「来るな! 食べるな!」


 草や地面に飛び散った血は瞬時に吸収されて、「もっとくれ」とばかりに、葉や茎や根を伸ばして康正の腕や足や体に巻き付き、葉の裏で噛みつき、根は太腿の裏や二の腕の内側などの軟らかい部分から、その尖端をねじ込んできた。


「ヒイ! 痛い! 痛い!」


 巻き付く茎や根を無我夢中に引きちぎり、肌を噛みつく葉をむしり取る。


「… 口」


康正は見てしまった。葉の裏、自分の肌に噛みついていたものを。


「クゥちィィー」


 葉の裏に、シダ植物の胞子嚢ほうしのうのようにビッシリと並ぶ小さな小さな口。それぞれに歯があり、舌があった。パクパクと口を開閉させていたり、カチカチと血に濡れた歯を鳴らしたり、ペロペロと舌舐めずりしているのもある。


「もっとくれ~」


 その内の一つが、ケケケと笑いながら呟いた。


「ひぃやぁぁ~」


 思わず葉を投げ捨て、立ち上がって激しく足踏みしながら、体中に張り付き潜り込んだ植物を抜こうとした。


夢だ!

幻だ!



 ボコボコとした地面からは、アリやハサミ虫やムカデもっと小さな虫が次次と湧き出て、または血の匂いに誘われて大小の蜘蛛やハチ類等が暴れる康正に群がり、皮膚や肉を食い千り、肉団子にして巣へと運んでいた。

太陽を苦手とするムカデやナメクジは、噛み裂かれた傷口から体内へと入り込んで、筋や血管を食い破り、筋肉を食べ血をすすりながら、骨と筋肉の間を押し広げて上へ上へと進んでいく。娘や妻に馬鹿にされていた腹がさらに膨張した上に、激しく波を打ち始めた。


やめろやめろやめろ…


 軟らかい内蔵は虫も好物のようで、腹に集まって堪能しているようだ。体の外側と内側から、自分が食べられる微かな音だけが聞こえていた。


「お父さん、虫除けした?」


「ヒャアあ… ヒュ… ハヒュ…」


 助けを求めようとしたのだろう。が、口から発せられた音に意味はなく、黒く小さい虫がワラワラと出てきた。それは、鼻の孔からもチロチロと出始め、口と鼻の孔を行ったり来たりしていた。

 和室の方からした娘の声に、康正の頭だけが動いた。


「お父さん、虫除けしないから」


 障子の陰に、娘らしき黒い影を見た。


ナミ、助けてくれ…


 声は出ない。指先も動かない。ただ、年相応に濁った目だけが動いた。


「虫除けしないんだから、自業自得よ」


 呆れた声とともに、娘の影か歪んだ。パラパラと不規則に影が欠け始め、康正に向かって飛んで来た。


「せめて、蚊取り線香ぐらい焚けばよかったのに」


 濁った目に、白と黒の縞々の蚊が、赤い目をした銀色の蝿が止まった。



ああ、熱い。

熱くてたまらない。

天気は真っ暗で… 


ああ、蝉が鳴きだした。



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ふえる 三間 久士 @hisasi-mima

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