ふえる
三間 久士
第1話 ふえる(前編)
ああ、暑い
ひたすら暑い。
暑すぎて、蝉すら鳴いてない。
体中から吹き出した汗は、とっくに細かい結晶になって皮膚やシャツに貼り付いていた。つば広の
夏の休日の定番スタイルはこれに限る。
自分の家の猫の額ほどの庭先で、我が物顔に育った雑草を中腰になって抜きながら、
この格好で誰に文句を言われる筋合いもない。が、妻と娘はからはだらしが無いとか、みっともないとか、文句ばかり言われていた。
前の道はたまにしか人は通らないし、そもそもこのブロック塀を好んで覗く奴がいるのか?
この暑さの中、休日を潰して黙々と雑草を抜いてやっているのだから、格好ぐらいで煩く言われたくはないのが康正の本音だった。
ああ、早く終わらせて、キンキンに冷えたビールを呑みながら高校野球を視たい。
冷蔵庫に枝豆はあったか?
確か、キムチは残っていたな。
それが、会社勤めの50代後半になった康正の夏の楽しみだ。
「お父さん、ちゃんと水分とってる? 休みだからって朝からビールばっかり飲んでいたら、体にいいわけないんだからね。それに、そのお腹のお肉、少しは落とさないとまた健康診断で言われるよ」
この炎天下で、頑張ってブチブチと雑草を抜いている自分へのご褒美を考えて、半分現実逃避をしていた康正の背中に向かって、厳しい娘の声が投げられた。
「だから、こうして草むしりしてるだろう? 大丈夫、水分は適当にとるよ」
母親に似て口煩い娘の声を聞きながら、両手を忙しなく動かして見せる。
「蚊取線香、つけた?」
「お、知ってたか? 蚊が活発になるのは、20度から30度らしいぞ。35度以上になると…」
口調は強いものの、一応は心配してくれている娘に、康正はテレビで仕入れた雑学をひけらかそうと、中腰のまま振り返った。
「… 蚊取線香、取りに行ったか?」
誰もいない。声の感じから、少し後ろに居ると康正は思っていた。
「ん?」
後ろに娘は居なかったが、雑草はあった。乾いた地面のほんの少しの水分を求めて、雑草の根は地面の中や表面、あちらこちらへと節操なく伸ばし互いに絡み合っていた。それを頑張って引っこ抜いた後は、ボコボコと地面が掘り起こされたようになっている。
「抜いたよな?」
変だな? と思いつつ、康正はチラッと縁側の方のブロック塀を見た。この庭に唯一ある柿の木の下に、今日の成果、抜いた雑草がクッタリと小山になっている。確かに、本当に小さな雑草は面倒で見逃したし、あまりにも地中深く根を張った雑草は、途中で切れて無様にも掘り起こされた土に混ざっている。が、そんな地面の上に、うっすらと青々とした雑草が見えた。スタート地点の縁側からここまで、大した距離はないけれど、一直線に抜いたわけじゃない。『面』で抜いた。つまり、縁側からここまでの庭は、隅から隅までボコボコに掘り起こされている。なのに、表面にうっすらと雑草が生え始めていた。
「これが、雑草魂か?」
いや、くだらないことを言ってないで、早く終わらせよう。
気のせいかもしれないし、もしかしたら、熱中症の症状かもしれないしな。
とりあえず、雑でもいいから終わってさえいればいいだろう。
そう思って、康正は草むしりを再開した。
ああ、暑い。
ひたすら暑い。
熱気しか感じない。
足元を右往左往している虫達も、暑さは感じてるのか?
蟻にハサミムシにミミズ… なんだか、名前のわからないのもいるな。
これだけ住処を掘り起こされれば、慌てもするわな。
「お父さん、お買い物に行ってきますね。
そうそう、ク―ラ―を付けるのは13時過ぎてからにしてください。光熱費、また値上がりしたんですよ。水風呂につかっていればそれぐらいの時間になりますし、その頃には私達も帰ってきますから。まぁ、5分10分の前倒しで、嫌味は言いませんけれど」
妻の厳しい声がした。
「草むしり、11時前には終わらせるからな。その後、2時間も水風呂に浸かってられないぞ。高校野球も観たいし」
このカラカラに乾いた喉と体を、一刻も早くキンキンに冷えたビールで満たしたいんだ。
康正は抜いた雑草を握りしめ、文句を言いながら、立ち上がって振り向いた。いい加減腰を伸ばしたかったから。
「… もう、出たのか?」
また、誰も居ない。太陽を浴びる縁側に、その奥の狭い和室が見えるだけだ。
「… 増えた」
けれど、抜いたはずの雑草は掘り起こされた地面にうっすらと生え始めていた。今度は、気のせいじゃなかった。
「おいおい、雑草だって言ったって、早すぎるだろう?!」
そうだ、早すぎる。
何か他の… 他の…
「お父さん、モグラ出るかもしれないから、気を付けてね。お隣さんがこの前、やっぱりお庭の草むしりしていたら、モグラを掘り起こしちゃって噛まれたらしいから」
また、娘の声がした。
そうか、モグラが出るのか。
もしかしたら、これもモグラが通った跡なのか?
しかし…
「なぁ、モグラって噛むのか?」
顔を上げて、娘に聞いた。
「… 居ない」
また、居なくなっていた。見えたのは、相変わらず太陽を浴びる縁側に、その奥の狭い和室が見えるだけ。
「なんだ? 何かがおかしい」
おかしいのは分かる。
何かが変だ。
けれど、何がおかしいのかが分からない。
暑い… 熱いんだ。
蝉も鳴かない、蚊も飛ばない程に熱いんだ。
「お父さん、面倒だからって除草剤を撒くのはやめてくださいよ。
水の道があるんですって。撒いた後に雨が降って、そこの柿の木が枯れてしまったら、嫌ですからね」
妻の厳しい声。
康正は気持ちがざわついた。太陽がジリジリと肌を焼き、カラカラに乾いた口内や喉は水分を求めて、呼吸をするたびに熱された空気が気道を焼いていく感じがした。
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