澄み渡る声
中澤京華
澄み渡る声
気怠い朝ほど夢の続きが見たいと思う。窓の外では燦々と太陽が降り注ぎ、目が眩むような目映さを放っている—。
—今日も心臓がドキドキして苦しいし、目の調子も悪くて何を見ても靄がかかったようにぼんやりとしていてすっきりとしない—。
同居中の
貴美の仕事は主にアートデザイナーのリモートワークで、在宅でこもってPC画面と睨めっこしながら集中的に作業することが多く、誰とも話さず部屋にこもりきりの一日もあった。拓弥と一緒に暮らしていた頃はその明るい声の響きにどれほど励まされたことか。黒い額縁に囲われた遺影の拓弥は笑っていても何も話さない。貴美の体調不良の相談にも耳を傾けてはくれない。
—拓弥君が突然の事故で亡くなってからというもの未来はどこまでも続く厚い雲に覆われ先が見えなくなってしまった—。
好きな仕事を続けていられるのがせめてもの救いだが、その仕事にも以前抱いていたような情熱や楽しみを見出せず、心の中で行き詰まりをいつでも抱えているような心境で漫然と続けていた。拓弥と一緒に暮らす前の希望に溢れた一人暮らしには気持ちが戻れなくなってしまっていた。
実家が経営していたマンションで始めた一人暮らしは自立心を促され刺激的で楽しかった。美大に通っていた頃、勤めていたバイト先のミスドで拓弥とは知り合い、アートの話題で盛り上がって親しくなった。スキルアップのため夜間の専門学校に通うことになった貴美がバイト先のミスドを辞めることになった時、「貴美ともう会えなくなるのは寂しい」と急遽、拓弥から相談事を持ちかけられた。
「俺、実家で暮らすの窮屈だから、家を出たいと思ってるんだ。で、貴美さんのマンションにしばらく同居させてくれない?」
「それってルームシェアってことだよね?」
「まあ、そうだけど。やっぱり無理かな」
「私、一応、女だし、拓弥君は男でしょ。常識的に危険じゃない?それに噂になったら嫌だし。他の男友達に頼めないの?」
「俺、実は貴美さんのことが好きだから。一緒にいたいって気持ちもあるから、貴美さんがバイト辞めるって聞いて、これでも勇気を出して相談してるんだ」
「でもそれって私の気持ちは無視だし調子良すぎない?」
「じゃあ、貴美さんは俺のことどう思ってるの?」
「まあ、ちょっと図々しいけど頼もしい後輩だと思ってる」
「良かった。嫌われてはいないようで。でも、もしかして彼氏いる?彼氏がいるなら諦めるけど」
「彼氏はいないけど」
「じゃあ、彼氏候補ってことで考えられない?貴美さんが彼氏にしてくれるまでは手を出さないし、部屋の掃除とか俺にできることは手伝うからさ」
「でも私が今暮らしてるマンションは実家で経営してるマンションだから、すぐにバレると思うから、あらかじめ親に断らないと」
「そうか。内緒ってわけにはいかないんだ。じゃあ、やっぱり無理か」
「そうね。ガードマンってことでなら、親に頼みやすいかも。
「じゃあ、OK?」
「一応、親には挨拶してよね。それで親からOKが出たらってことで。で、そちらのご両親には内緒なの?」
「
「大学の学費は大丈夫?」
「通帳引き落としだけど、バイトもしてるしなんとかなると思う」
「じゃあ、部屋代免除で頼んでみるね」
「それは有難い。恩にきます。なるべく迷惑かけないようにと思ってるけど、一緒に暮らしてみて、もし迷惑かけたら、即、出て行くよ。ところで、妹の
「そう……。で、拓弥君の夢って一体何?」
「声優になるのが夢。だけど、そう容易く叶う夢じゃないからね。無理だとバイトを延長していくことになるかもね。親は兄貴のようにエリート企業に就職して欲しいって思ってるから俺の夢には耳を貸さないんだ」
「まあ、ふつう親は安定志向だから仕方ないよ。いつか理解してもらえるといいね」
こうして意気投合した二人は貴美の両親をどうにか説得し、家出同然で家を後にした拓弥は貴美が暮らしていたマンションの物置部屋を整理し、貴美と一緒に暮らし始めたのだった。貴美も拓弥も互いに忙しかったのですれ違う日も多かったが、顔を合わせれば屈託無く貴美に話しかけてきたり、部屋の掃除をまめにしてくれるなど、すれ違い解消に努めるように拓弥は貴美に気遣ってくれたので、一緒に暮らすようになってから姉弟のような親近感で二人の気持ちは馴染んでいった。特に拓弥が貴美のアート制作を応援してくれたことが貴美は殊更嬉しかったし、拓弥からのちょっとした報告にも真摯に耳を傾け、互いに励まし合う仲に自ずとなった。
やがて貴美は美大を卒業し、夜間の美術専門学校の専修課程も終了した後、順調にアートデザイナーの仕事に就いた。一方、大学四年生になった拓弥が大学と並行しながら学費の支払いためバイトを増やしている様子が、貴美は気になっていた。そんな貴美の心配とは裏腹に仕事はどんどん軌道に乗り、気持ちが仕事に集中していた貴美は拓弥への心配を口にする余裕がなかった。あの頃、もう少しバイトを減らすよう拓弥に伝えていたら、こんなことにはならなかったかもしれない—と今更ながら思う。
バイト先の工事現場で脚立で作業中に転落した拓弥は打ち所が悪く意識を失い、病院に救急搬送された—。
拓弥が搬送された病院に駆けつけた貴美は先に来ていた清楚な雰囲気の女子高生と鉢合わせした。拓弥がそのうち紹介したいと言っていた妹の理花だと一目見て貴美はわかった。
「高杉拓弥の妹の理花です。初めまして。成瀬貴美さんですよね?」
泣き腫らした目で貴美を見つめ、理花は深々とお辞儀した。
「はい。成瀬貴美です。拓弥君の容体は…」
「脳卒中を起こして意識不明の重体だとさっきお医者さまが言ってました。お兄ちゃんきっと無茶なバイトをしたんだわ。バイトなんてしなくても学費のことはお父さんがなんとかしてくれたのに」
「今はとにかく拓弥君が助かるよう祈りましょう」
貴美と理花は救急処置室の前に設置してある椅子に腰かけた。二人は俯いたまましばらく黙っていたが、沈黙を破るように理花がポツリと呟いた。
「貴美さんのこと、お兄ちゃんがそのうち紹介してくれるって言ってました」
「拓弥君は私にもそのうち理花さんのこと紹介してくれるって言ってたわ」
「お兄ちゃんも忙しかったと思うけど、私も高校だけでなくて塾にも行ってて忙しくてなかなか時間が作れなくて……。こんなことになる前に貴美さんにお会いしておけばよかった…」
「そうね…」
項垂れたように貴美が返事をした時、救急処置室の扉が開き、スクラブスーツ姿の医師が出てきた。
「高杉拓弥さんのご家族の方ですよね。手を尽くしましたが、お亡くなりになりました。まだ若いのに残念です。ご遺体をご確認いただけますか?」
医師の後について、救急処置室に入った貴美と理花は拓弥の遺体が安置されているベッドの側まで案内された。ベッドに横たわる拓弥は穏やかな表情でまるで眠っているようだった。
「お兄ちゃん、死んじゃったなんて嘘だよね。目を覚まして!」
そう叫ぶと理花は拓弥の遺体に抱きついた。理花がゆさぶっても動かない拓弥の遺体をじっと見つめ、貴美はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
拓弥の遺体は検死の後、実家の高杉家に運ばれることになった。貴美と理花は連絡先を交換し、その後、理花が実家にも連絡すると言うので、その場は理花に任せ、貴美はひとまず拓弥と暮らしていたマンションに戻った。
翌日、貴美からお通夜とお葬式の日取りが伝えられ、貴美もお通夜の会場へと足を運んだ。貴美が会場に入ると理花の隣りにいた拓弥の母親らしき女性が駆け寄ってきて、貴美の前で立ち止まると深々とお辞儀した。
「拓弥があなたにお世話になったようで、ご迷惑をかけてしまってほんとうにごめんなさい」
「いえ、ご迷惑だなんてそんなことは。拓弥君、あんなに元気だったのに、亡くなったなんてまだ信じられません。お母さまもお辛いですよね。私もとても悲しいです」
悲しみに包まれた重々しい空気の中、貴美はやっとの思いでそう言うと、その場に居たたまれずに目を伏せた。その様子を見ていた拓弥の父親らしき人物と兄らしき人物も貴美の方に向かって黙って会釈した。急いで駆け寄ってきた理花が貴美の手を取り、拓弥の遺体が安置してある祭壇へと連れて行った。納棺され祭壇に据えられた拓弥の顔は整えられ、神々しく清らかだった。
翌日、葬儀を終え、出棺準備をしている合間に帰ろうとしていた貴美の側に拓弥の母親が駆け寄り、そっと声をかけた。
「昨日、今日と来てくださってありがとうございました。きっと拓弥も喜んでいることでしょう。それで、そちらにある拓弥の荷物は自由にしてくださいね。不要な物は処分してくださって構いませんからね。拓弥と一緒に暮らしてくださって、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、拓弥君には仕事のことでもたくさん励ましてもらって楽しい日々でした。拓弥君の荷物はしばらくそのままにしておこうと思います」
貴美は深々とお辞儀すると葬儀会場を後にした。
葬儀を終えてしばらくは胸苦しく辛い日々が続いた。食事もろくに喉を通らず、苦しい心境を抱えて貴美は仕事に没頭した—。
そんな日々が続いたある日のこと—。貴美の携帯に理花から拓弥の四十九日法要の日取りを知らせる連絡が入った。沈鬱な気持ちを抱えたまま貴美は四十九日の法要に参列した。僧侶の読経の中、焼香を終え席に戻る途中でくらくらと目眩を覚えた貴美はそのまま意識を失った—。
目を覚ました貴美の側には理花が付き添っていた。
「あぁ、良かった。貴美さん、目を覚ましたんですね。貴美さんがこのままお兄ちゃんのように目を覚まさなかったらどうしようって思ってました」
「せっかくの法要の席だったのに、ごめんなさい」
「そんなこと気にしないでください。過労だってお医者さまが言ってましたが、貴美さん、お兄ちゃんのことで悲しくて辛くて神経を擦り減らしていたんですよね。しばらく無理はしないでくださいね」
「ありがとう、理花さん、ところでここはどこかしら?」
「法要会場の医務室です。しばらく休んで落ち着いたら、私、貴美さんの家まで一緒に付き添います」
「いいの?」
「ええ、貴美さんのお身体が心配ですから。家族には了解をもらってます。お兄ちゃんが暮らしていた部屋、見てみたいし、明日は日曜日だから今日はお兄ちゃんの部屋に泊まろうかな。あっ、貴美さんが許可してくれたら、ですけどね」
「もちろん、いいわ。理花さんに泊まってもらえるなんて、なんだか嬉しい」
貴美はにっこりと微笑んだ。
「あっ、貴美さんが笑った顔、初めて見ました。葬儀でも法要でも悲しそうでしたから……。私もとても悲しいけど、私たちが悲しんでるとお兄ちゃんも悲しいままなのかなって思って…」
「そうね。悲しんでばかりいられないけど、やっぱりショックよね。一人で部屋にいると拓弥君、早く帰ってこないかなってつい、思ってしまうの」
「お兄ちゃん、貴美さんのこと、とっても素敵な人だって電話で話してましたから、一緒に暮らせてきっと幸せだったと思います」
「そうね、拓弥君と一緒に暮らせて私もとても楽しかった。でも、突然、いなくなったから、好きだったこと拓弥君に伝えそびれたけどね」
「ええっ ! そうだったんですか!?でも、お兄ちゃん、今、側で聞いてるかもしれない」
「そう?側で聞いてるかしら?」
「そうですよ。側で聞いてきっとにやにやしてますよ」
「ふふ。にやにやしてるか。そうだったらいいな。理花さん、ありがとう。早く元気になって、拓弥君の分もしっかり生きないとね」
理花と話しながら貴美はふっと気持ちが和んだ。
—これからも拓弥君がいなくて辛い日々は続くかもしれない。でも、少しずつでも立ち直らなければ—。
貴美がそう思った瞬間—、
——おーい、貴美さん元気出してよ!
どこからか明るく澄み渡る声が聴こえた気がした。
—拓弥君はこれからも私や理花さんの心の中で生きていくんだわ—。
心の中を覆う厚い雲を取り払い、貴美の心に小さな希望の光が灯った瞬間だった—。
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