0100: あちらがわのこと

 会話の途中で、希花がふと黙り込む。特に珍しいことではなくてそういう時、希花の表情は抜け落ちて、遠くに耳を澄ましているようにも見える。

 くすぐると戻ってくるのは知っているが、今日はいつもとまた少し違うように見える。

 希花はやがて、

「ああ」

 と小さく息を吐き、それから大きく吸い込みながら、両腕を絡み合わせて伸びをしてみせる。

「ようやっと、終わったみたいだ」

 と今度は机の上に草臥れながらそう告げるのだ。

「なんだか長かったような短かったような」

 という希花の言はいつものように何を言うのかわからない。

「そうだな」と希花が目だけを上げて、「何かがどこかで──はるかな遠くで──そしてここで、今ここで、一つの終わりを、区切りを迎えたのさ」

 と言う。

「なにそれ」とわたしは応えるのであり、「世界の終わりみたいなもの」

「ある意味は」と希花。「なにごとにも終わりはあって、お別れがあって、おしまいとなる」

「卒業式はまだだけど」

「ある意味、卒業式は誰にも知られず終わってしまったのさ」

 と希花は言うのだ。


「ところで君は、自然数に0をいれるかいれないか」

 というのが希花の今日の本題らしく、

「まあ、入れないんじゃない」とわたし。「なにかを数えるときに、0個からはじめたりはしないもんね」

「0円のものがあったら買うだろう」と希花。

「それは買うんじゃなくてもらう、っていうんじゃ」とわたし。

「まあ結局は定義の問題だ。認知の過程に踏み込んだっていいわけだが、それほど豊饒な道でもない。むしろ不毛だ」と独り決めする。「では、10はどうだどうだ」となぜか、どうだを二度繰り返す。

「どうってなにが」

「10進法について思うところを開陳してみせたまえよ」

 と希花は迫るが、ずっと心の中に秘めていた10進数に対する想いとかいうものの持ち合わせはない。

「それも定義の問題なんじゃ」

「まあそうなんだけど」と希花が椅子の背中に崩れながらもたれかかる。「なんで10かってことだよ。2でも7でも12でもなく10な理由についてであって、定義ではあるが、どうして10に定義したのかっていうことだ。0を自然数に入れたり入れなかったりするのはそれぞれ便利と不便を秤にかけた結果だろう。じゃあ10は何なのだ」

「それはやっぱり」とわたし。「指が10本あるからじゃないの」

 つまらん、と言われるかと思ったのだが、希花は、

「まあやっぱりそうだよな」

 と言う。

「他のことを考える方がおかしい」

 と自分の目の前で両手を握ったり開いたりする。

「そりゃ、12の方が色々便利だったろうし、できれば16といきたいところではあったけれど、片手に指が8本では確かに多すぎるという感じがするのは否めない。まずは強度的に不安だ。2では片手に指が1本、ものをつまむのにも足りないし、4でもまだハサミみたいにしかならない。10っていうのは実用的にもまあまあ悪くない線だったようにも思える。8でも良かったんじゃないかとは思うけどね。片手に4本ずつ、薬指なんかは大して働いてもいないわけだし」

「そうでもないよ」とわたしはなぜか薬指を擁護しなければという気持ちになる。「使うでしょ、なんか。リップ塗ったりするときに」

「しない」と応える希花がステッィク状のリップクリームを誇らしげにこちらへ向けている。

「伸ばしたりするんだよ。っていうかしなよ」

「なんのためのスティックだ。意味がわからん」というのが希花の意見だ。


「百物語は百話語るものではないわけだろう」

 と今日の希花の話はいつもにも増してとりとめがない。

「あれは、九十九話で語りおさめとすることになっている。完成を嫌うという話であって、百話を達成してしまうと、完全な怪物が生まれるということかもしれない。でも間違って」

 とわたしの顔を観察しながら希花が言う。

「百話を超えてしまうこともあったんじゃないか」

「まあそれは、多分」

「たとえば、番号の数え方を0からはじめてしまったせいで」

「それはまあ」とわたし。「そういうこともあったんじゃない」

「さらに突き抜けていくこともあるかもしれない。そもそも百という区切りが恣意的なものにすぎないわけだ」

「10が10で百なわけでね」

「区切れたような気がしているだけで、お話はやっぱり続いていくんだ」

 と希花は例によって独自の世界観に想いを馳せているようだ。

「人間が別物として記憶できるお話の数は300程度であるといわれる。根拠は知らない」

 と希花。

「ということは、無数のお話たちは重なるうちに融合して、あるいはまるきり忘れ去られてしまって、300程度の話に整理されてしまうっていうことになる」

「まあ」とわたし。「300って数字が正しいならね」

「400でも1000でも任意のnでも構わんさ」と希花。

「わたしたちは、ここまで、よく生き延びた方だと思うよ」

 という希花の言葉に、何かが不意にわかった気がする。希花はまるきりこの世のことは話していなくて、あちらのどこかのことを語っていて──でもそこまでしかわたしにはまだわからない。

「大丈夫さ」とわたしの視線の先で希花がほころぶように笑っている。

「まだ、終わっていない」と希花は請け合う。「まだ、お話は続いていくんだ」

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