99: 幼年期の終わり

 その春、急にものが見えはじめ、子育てが終わっていたことに気づく。

 あらゆるものが鮮やかになり輪郭は淡い光に縁取られている。自分が外側へ開き直していくのがわかる。色んなことを感じないように縮こまっていた脳の皺が広がっていく。

 全然なにも終わっているわけではなくて、小学校二年生の時期が終わるにすぎない。まだ一人で置いておくことはできないし、どこかへ行ってしまったならば、探しに歩かなければならない。でも今年は九歳になる。十八で出て行くと考えるなら半分は過ぎてしまった。

 自分が道を歩いているのだなということがわかる。

 目の前に不意に、あいた時間を放り出されて当惑する。それもまだ数時間といったところで、まとまった何日かにはまだまだ遠いが、そんな時間のあり方を久しぶりに思い出す。


 子育ての難易度は人によって変化する。

 同じ話を聞いたことがほとんどない。

 主には子供の頑丈さによる。丈夫さはおおよそ大きさや重さによっている。病気をすれば動けない。預けることもできないし、預けていればひきとりにきて下さいと連絡がくる。

 なにより親族が近所にいるかが大きい。親族でなくともよいが難しい。親族も若くなければ無理だ。子育ては楽勝だったと言う人は、大抵近所に親族がいる。なにかのときに三十分預けることができるだけでも難易度は全く変わってしまう。ほんの三十分であったとしても、それは二十五メートルプールにおける息継ぎのようなもので、それとも五十メートルプールにおける息継ぎのようなものに似ている。

 いついかなるときも、という拘束は強い。

 当人の体力もある。

 ある者はない者を理解できない。


 意外にこれは経営に近い。

 なんだかんだと結局は、家族で固めるのが強い。なにより給料が発生しない。そんなこともないわけだが融通できる。余所の者を入れると様々揉める。揉める以前に指示を決めねばならないのが煩わしい。自分でやった方が早いとなったりする。そういう者は経営者には向いていない。適当に方針を示し、結果を自分の方針どおりと信じることのできる能力が必要だ。

 家業の続く家を見ていると、とにかく子供の数が多い。なによりもまず手伝わせる。前近代的という話であるが多くはそういう形で支えられている。多いがゆえのお家騒動などは当然生じる。

 頑丈さが優先される。習い事も体づくりに傾く。家業を継ぐなら知識は限られていてもなんとかなる。まずは頑丈でなければそもそも全てがたちゆかない。

 パートナーの選択も頑丈さが真っ先にくる。上辺の美しさは横に置く。美しさの基準が頑丈さと入り交じる。そうして続いたものだけが残る。価値観もまた。


 総合すると、まだ若いうちに、親も兄弟姉妹も親族もまだ元気のあるうちに、頑丈な相手をみつけて多めに子供を産んでおけということになる。非常に当たり前の話にきこえるし、繁殖を第一に据えるこのやり方は、前近代的なものとうつる。あるいは何かのハラスメントと取られることも大いにありうる。でも、できる限り楽をしようとするなら、安定的な戦略だ。なんといっても実地に試されてきた期間が長い。

 繁殖はしなければいけないのか。

 別に。

 したいと思った者がすればよく、それには知っておいた方がマシという事実が思ったよりもたくさんあるというだけの話だ。そんなものはないというフリをするのはよくない。


 よほど上手く生活を組み上げない限り、負担はどちらか一人に重くかかる。

 原理的には性別は関係がない。「どちらかに」負担は集積する。これもどこか経営に似ており、経営の才を備える者はエスパー並みに稀である。


 同年代の子供を持つ者同士でなければ、話はなかなか通じにくい。一歳違いくらいがギリギリで、二歳違うと難しくなる。

 一人の子供を持つ者と、二人の子供を持つ者と、三人以上の子供を持つ者も、なかなか話は通じにくい。自然、人間関係が変化する。同年代の子供を持つというだけでそれまでは縁の薄かった人とやたらとやりとりをするようになり、意外な仕事が生まれたりする。


 長い仕事のしようがないので、断片的な話を並べ続けることにしてみた。視野と持続が確保できない以上、単純なスケッチのようなものしかできない。

 程度の問題でしかないのは確かだ。

 今はこうして、個々の断片だけではなくて、断片が散っているのが見えはじめている。盛大に散っているとも思えるし、小さな一塊であるとも見える。自分の足跡を眺め直して、随分と遠くまできたような、同じところをぐるぐる回っていたような気持ちになる。大きな森の中をさ迷うように。

 一ヶ所から繰り返し落とした紙片の分布に似ているだろう。つまりどこかを中心として裾野が広がる。

 その中心がどこであったかは明らかだが、それもようやく一区切りを迎えたと感じる。

 自身の過去を振り返るなら、ここから先はあまり明るいものとはならないだろう。人に馴れぬというのが性質であり、きっとうまくはいかないだろう。口喧嘩が増え、一緒に長い時間をすごすのが困難になっていくだろう。

 断片から組み上げられた君は束の間、自分という脈絡を見出すだろう。

 そうして君はここから出て行くのだ。

 その背中を、取り散らかったとりとめのない断片たちが、今こうして見送っている。

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