死はどこにあるか、そこにあるのだ
珊瑚水瀬
死はそこにある
ある女の声は私から何か憂鬱なものを取り出してくれるような不思議な魔力を持っていた。私はそんな君を心底愛した。君と会う時だけは、憂鬱という何十回も私の辞書に書き殴られた青色を帯びた文字を取り除くことが出来る。
ただ、私にはよくわからない薄暗さが常に心の奥底で渦巻いていた。彼女といると多幸感であふれるのだが、心のしこりがどうしようもなく私を苦しくさせるのだ。なぜかこれまで女には不自由をしたことがなく、性的関係のみの女が複数人もいた私はそれをだしに、この錯乱した心を紛らわすために定期的にこの女たちを抱いた。そうするとこの胸のしこりもすーっと落ちていくような気がした。
そして彼女は、行為を終えて帰宅する骨の髄まで空っぽになった私に、ただにこやかに微笑んでこう言うのだ。
「今日もよいおかえりでした」
そののち、私は彼女を見ていると何とも言えないおぞましいものに取りつかれたように顔が青ざめるようになった。明るい響きも清さを表すような鈴のような音色も、それは金切り声をあげる女のキンキンとしたサイレンのような音色に変わっているのも私を蝕み始めた。私の中の何かが悲鳴を上げている。それは彼女で作用する何かだ。段々と自分が覆滅していく音が戦々恐々と近づいてくるように思えた。
だが、この居心地の悪さに反して、離れることがどうしてもできなかった。彼女を失ったら私は今度は何になるかが想像もつかない。私はこれでもその実彼女を愛していた。にもかかわらず彷徨い歩く私の精神だけがそれを拒否する。
このアンビバレントな心理は段々と私という存在を何者であったのかわからなくさせた。
狂乱していく精神、咽びあげる悲鳴の豪雨。摩耗していく私の心。
ああ、私はいったい誰なのであろうか。沈んでいく闇の奥底でもがけば藻掻くほど何かにからめとられ、さらに失墜していくような気がした。
この深海の底で耐えられそうもない事を直感した時、私は彼女に言った。
「なあ、いっそのこと私を絞め殺してくれよ」
口の端をゆがめて笑う私に彼女はだんだんと俯き加減になったかと思うとそのままそうですかと一言ぽつりとつぶやいた。
「死でつながる関係性はきっと何も生まないんですね」
彼女は、私の前で目をウルウルとにじませ大粒の雫をポトリ、またポトリと落とし始めた。
でも愛している。彼女はしゃくりあげた声に交じり、そうつぶやいた。
うずくまってしくしく泣き続ける彼女を抱擁すると彼女の小ささに驚きを隠せなかった。なんて彼女はほっそりとしてこんなに色が白いのだろう。
今まで気が付かなかったが、彼女はやけに色白い。いや、そんじょそこらに存在する人の白さではなく、病気の人のそれだ。立派な着物でそれを隠そう努力する姿がよりいっそう肉体のか弱さを助長していることには終ぞ気づかない。若き彼女はまるで色を失った人形であった。唇が音を出そうとかすかに戦慄いては音もなく静かに閉じる。ただ、発露した雫だけが着物の袖を濡らす。
またひとつ、またひとつと何かを失っていく彼女。
美しいつやがあるはずの黒髪もすっかりなりを潜め、いまや綺麗に整えられたひっつめ髪もキシキシと音が鳴りそうなほどの傷みと衰弱を感じる。
それでも彼女は美しかった。月の様な彼女は私の手の中でほろほろと崩れ落ちていった。
私は直感した。
ああ、これははじめから死というものでつながれた関係性であった。そしてそれに彼女はとうの昔に気づいていたのだと。
死という、聡明で純粋で美しいものにずっと囚われている私たち。
己の弱さのために死から逃れて互いの鎖を断ち切ることすらできない。
無意識に私はこの女に死を直感していたことにいまさらながら気が付いた。もしかしたら彼女に惚れたのは死が忍び寄り、死が私たちを食い物にしようとすることへの最後の抵抗であったのかもしれない。
私たちはそのことを互いに語らずとも、互いの死を直感していた。
魂の死、肉体の死。
生によって構築された関係だと思っていたがそうではない。
その互いに欠けた死を互いにすり合わせるがごとく、出会ってしまった。
否、それは必然と惹かれるのは間違いがなかった。私は彼女の魂の不屈さに宿る肉体のもの侘しさにひかれ、彼女はまた私の健全な肉体に宿る空虚なほどの消えてしまいそうな魂に互いに惹かれたのであろう。
彼女といることは、泡沫な人生の象徴であった。彼女といる苦しさは、死の音を重ね合わせて共鳴していたためにその重みに互いに疲弊していたのだ。
他の女にはない「死」そして自身にはない「生」。
その両面を持ち合わせる彼女の「死」を愛し、そして「生」をむさぼりあっていたのだから、私が腐蝕していくのは自然の摂理だ。そしてたった今この私の中にいる彼女も。
死によってつながれた関係は、死によってしか成立しない。
私はすくっとその場から立ち上がると台所にあるナイフを取りそれを彼女の手に力強く握らせた。
「これでもうおわりにしよう。君の生も。そして私の生も」
私は健全な肉体を彼女に分け与え、彼女は私に不屈の魂を分け与える。
彼女は力なく私にしなだれてかけている身体を急に硬直させたかと思うとそのまま、ナイフを思いっきり私の首の動脈をめがけて突き刺した。
その瞬間、勢いよく鮮血が噴き出したかと思うと力なく彼女のそばでうなだれるしかなかった。
今やその彼女もボロボロになった自分の肉体をまだ鮮血がしたたる私の上においかぶさるような形で力空しく抱き留めた。
「愛しています。あなたのこと」
そして耳の奥でいつものように「よいおかえりでした」と彼女の魂の音がつぶやいたのが聞こえた気がした。
死はどこにあるか、そこにあるのだ 珊瑚水瀬 @sheme
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