偶然の災難

佐々木なの

偶然の災難

 彼がその事件に遭遇したのは、世界に無数にある偶然のほんの一部だった。

 梅雨の隙間のめずらしく晴れた金曜日、会社の同僚と飲みに行った帰りのことだ。とうに終電も過ぎて仕方なくタクシーを拾った坂本は、途中であとワンメーター上がると所持金が足りなくなることに気づいて、そこで降りた。

「たまには歩くのもいい」

 ほろ酔い気分で寝静まった住宅街を歩く。自宅まではあと十分とかからない。

 時計は深夜三時を少しまわった所だった。こんな時間に、スーツ姿でフラフラ歩いている自分は、いったいどんな風に見えるだろう。不審者か、ただの酔っぱらいか、それともこれから幸せな家庭にこっそりと忍び込む泥棒か。そんな事を考えているうちに、坂本は何だか楽しい心持ちになって、すぐに家に帰るのは惜しい気がしてわざと遠回りをすることにした。

「ここの公園を通って行こう」

 誰にも聞こえない独り言を言ってから、区民公園の入り口にある黄色い車避けを跨ぎ越えた。そこは公園と言ってもグラウンドやテニスコートがあり存外に広く、公園をぐるりと取り囲む歩道をゆっくり歩けば、一周するのに二十分以上かかる。学生のころ、体力作りにとジョギングに使っていたコースだったので、坂本はそれをよく知っていた。

「一周して帰ろう」

 そう言って、ジョギング用に舗装された赤茶色の道を、右回りに歩き出した。

 園内は深夜とは言え、まったくの闇というわけではなかった。ぽつんぽつんと街灯の明かりが見え、その下の空のベンチをむなしく照らしている。耳を澄まさずとも、虫やら小動物やらの声がBGMのように鳴り響いている。

 だが幾つかの街灯の先、緩やかなカーブの向こう側は薄暗いこことは違い、まったく先の見えない闇だった。「あのカーブの先には、地獄が口を開けて待っているのではないかしらん」そんな陳腐な想像をする坂本の顔には、そう言う割には恐怖はなく、むしろこの状況を楽しむかのようなニヤけた表情が浮かんでいた。それは彼がいい気分に酔っぱらっていたからかもしれない。

 カーブの先、暗闇の先には無論地獄の口など開いているはずもなく、かわりに、歩道の外側を覆うように並んだ木立の影に、立ったまま重なるように抱き合ったカップルの姿が見えた。

 丁度明かりの影になっていて、顔まではわからない。歩道に背を向けた男のジーンズの間から、にょきっと伸びた女の素足が生々しく、「お熱いことで」と坂本は口の中で呟くと、横目でカップルを一瞥してそそくさとその場を立ち去ろうとした。しかし酒に酔っていなければそのまま無視して過ぎ去る所を、今日は何となく気になって、数メートルほど過ぎた所でそっと振り返ってみた。

 男と目があう。

 ぎょっとして慌てて向き直ったが、男は確かに笑っていた。

「気味の悪い奴」

 そう言ってから何だか本当に薄気味悪くなって、さっきまで平気に思っていたざわめく木立や湿った空気までが恐ろしく、坂本は汗でワイシャツをまとわりつかせながら小走りに公園を抜けた。一周する頃には全力疾走だった。



 明けて日曜日。休日は昼過ぎまで寝ることにしている坂本は、気ままな一人暮らしだ。日が西へ傾きはじめた頃、ようやく目をさましてとりあえず煙草に火をつけた。そして、顔を洗いカーテンを開けインスタントのコーヒーを入れ、新聞に目を通すまですっかり金曜日の一件は忘れていた。

「あの公園じゃあないか」

 思わず声に出したその事件は、まぎれもなく一昨晩足を向けた公園で起こっていた。

『S区T町のM公園で女性の絞殺体、殺人事件か』

 M公園、絞殺体、殺人……まだ冴えない頭の中で新聞の見出し文字がグルグルまわる。坂本はコーヒーが冷めるのも忘れ、その記事を端から端までじっくり目を通した。

『女性の身元は不明、発見時は全裸体で周囲には本人の物と思われる白のワンピースと赤いサンダル、女物のハンドバッグが散乱していた』

 赤いサンダル! パチンとあの夜の状況が蘇る。後ろ向きのジーンズの足と足の間に出ていた女の足、その足は何を履いていたか?

「思い出せ、思い出せ」──ああ、何てことだ。赤いサンダル。確かにあの女は、赤いサンダルを履いていた。

『死亡推定時刻は土曜午前二時から三時の間』

 二時? その頃は、まだ同僚と飲んでいた。タクシーに乗り込んだのが確か二時半、公園に入る前に時計を見た時は三時を回っていたから──坂本は殺人の二文字を見つめたまま必死にあの晩の出来事を反芻した。

 ──つまり、俺があの場所に行った頃には既に女は死んでいた。それは、俺のアリバイにもなる。あんな時間に公園を通ったのは俺くらいだと思うけど、もし誰かに見られていたとしたら真っ先に疑われるのは俺だ。だが実際俺は何もしていない。それは飲みにいった同僚と、タクシーの運転手が証言してくれる。大丈夫だ、心配ない。しかしそうなると、俺がカップルを見た時点で女は殺されていたことになる。やはりあの男は犯人ではないのか? 赤いサンダルの女──

 坂本は、ハッと気がついて恐ろしくなった。

 ──あの女は、既に死体だった……? そうだ、女はピクリとも動かなかったではないか! 男は、女を殺した。それをどうにかしようとしているうちに、俺が通りかかった。そしてカモフラージュのため、死体を抱えてカップルのふりをした──

「女は、死体だった……」

 ゾッと背筋が寒くなった。深夜の公園で、自分の殺した死体を抱えていた男。その男を、坂本は見てしまったのだ。

「俺は犯人の顔を見たんだ」

 犯人の男は、こちらを見てニヤッと笑った。あの不気味な笑顔の意味は、何だったのだろうか。

(見たな、お前は見てしまったな。そのまま通り過ぎれば見逃してやろうと思ったところを。俺の顔見たからには、お前を生かしておくわけには行かない。俺はお前を殺しに行くぞ。なあに、一人殺したんだ、二人殺すも三人殺すも同じことさ)

 坂本の脳裏に、聞いたはずもないおどろおどろしい男の声が聞こえた。視線を感じた気がして、恐る恐る後ろを振り返る。無論、そこには誰もいるはずもなく、彼はホッと溜息をついてから、恐怖の声をかき消すためぶるぶるとかぶりを振るった。

「こうしてはおれない」

 坂本は殺人現場の公園へ足を運ぶことにした。



 公園まで来ると、いつもの子ども連れや学生達の賑やかな声は聞こえずに、かわりに野次馬やマスコミのざわめく声が園内から溢れるように耳に届いた。

 坂本は前回と同じ出入口から中に入ると、夜とはがらりと様子を変えたジョギングコースを同じく右回りに歩き出した。闇のあったカーブの先には、黄色いKeepOutのテープと警備の警官、それを取り囲むように人だかりができている。すでに実況検分などは終わった後のようで、警官もまばらだった。

「ここは、あのカップルがいた近くじゃないか……」

 やはり、あれは犯人と被害者だったのだ。坂本は確信した。

「早く、警察に知らせないと……」早くしなければ、命すら危うい。犯人の顔をこの目で見たのは、おそらく自分一人なのだから──そう思ってそばにいる警官に声を掛けようとしたその時だった。

 ふと、どこからか視線を感じる。ドクリ、と周囲にも聞こえるほどに胸が高鳴った。

(俺は、お前を見ているぞ。お前を殺すのだ。何処へ逃げようが、俺はお前をずっと見ているのだぞ。ずっと、追いかけていって殺すのだぞ)

 またあの恐ろしい声が聞こえた気がした。気のせいだと言い聞かせ、群衆を見回す。と、半円になった人だかりの丁度反対側に、自分を見る男の顔が見えた。──あの男!

 紛れもない、あの夜自分を見てニヤリと笑ったあの男がそこにいたのだ。しかし、その顔に今や笑みはなかった。睨み付けるような、それこそ地獄の鬼のような顔──殺される──鼻の頭に汗をかいているのが自分でもわかった。

 坂本は後ずさりをした。一歩、二歩、三歩下がったところで、踵を返し一目散に走り出した。それを訝しげに眺める群衆をかき分けて、鬼が──いや、男が飛び出してその後を追いかける。ジョギングコースを、二人の男が全速力で駆けていく。

「犯人は現場に戻ってくるとはよく言うではないか! 畜生、どうすればいい?」

 顔の筋肉を強張らせて走り抜けながら必死に辺りを見回したが、警官やマスコミは皆現場に集まってしまって、助けを求められそうな人は何処にもいなかった。

「そうだ、交番!」

 迫り来る足音に追い立てられながら、坂本は走り続けた。ここからコースを約半周した辺りにある出口のすぐ目の前、殺人現場から中央グラウンドを挟んで、丁度対角線上に交番がある。そこまでどうにか、追いつかれずに走りきれればいい。坂本は、振り返る余裕もなく、目の前に自分の太股が見えるのではないかというほど足を上げ、とにかく疾走した。

 ジョギングコースを走り抜けたその速さは、学生の時よりも何よりも今までで一番のベストレコードだったろう。無事に逃げられたら、一周のタイムを計ってみよう──あまりの恐怖に、そんな馬鹿なことを考えた。そして、グラウンドを突っ切れば一番早いという事は、さっぱり思いつかなかった。


 男を数十メートル引き離して、坂本は交番に駆け込み、間髪入れずに叫んだ。

「助けて下さい、あの、あの事件の犯人に追われているんです」

「何だって?」

「公園の殺人事件の犯人です!」

 交番にいた二人の警官は、そろって訝しげな顔をした。

 坂本が慌てて振り返ると、何と犯人が交番に向かって走ってくるではないか。

「ああ! あいつめ、交番にまで追って来る気か?」脇の下から、バケツをひっくり返したような汗が流れる。その汗が腕を伝い袖口に丸いシミを作ったところで、犯人の男は鬼のような形相で交番に飛び込んできた。坂本の頭に、最近の気違いめいた殺人事件の数々が一瞬のうちによぎる。白昼堂々、警官もろとも俺は殺される──終わりか!


「おまわりさん、こいつが公園の事件の犯人です!」

 え?──坂本は、交番に入るなりそう叫んだ男の顔を、ぽかん、と眺めた。

「おやおや、一体どっちが犯人なんだい?」

 苦笑する警官を見て、男も同じように間の抜けた顔で坂本を眺めた。すると男から遅れて、よたよたと一人の女が交番に入ってきた。その細いにょきっと伸びた足には、赤いサンダルがよく似合っていた。

「あんた、殺されたんじゃなかったのか?」思わず坂本が叫ぶ。

「へは? あの、あたしはその、生きてますが……」

 女もとんちんかんな事を言って、丸い目を開いて坂本を見つめ返した。しばしの気拙い静寂のあと、彼は意を決して口を開いた。

「ええと……僕は坂本です。君達は昨日公園にいたカップルだよね?」

「あっ、そう、そうです。俺は山岡……こいつは妻の奈緒美です」

 山岡と名乗った男は、流れ落ちる額の汗をぬぐいながら、

「あの、貴方は殺人事件の犯人じゃないんですか?」と、どんな迷探偵でも使わないような軽率な問いかけをした。

「まさか!」坂本は目を瞬いた。「僕は、てっきり君がその……奈緒美さんを殺したんだとばかり思って」

「そんな事!」山岡は肩をすくめた。「あの時気拙い所を見られたなと思って苦笑いしたら、貴方が走って逃げたもんだから。それで次の日この事件でしょ。様子を見に来たら現場にいるから……」

 決まり悪そうに頭を掻く山岡に、奈緒美が続けた。「犯人って、現場に戻ってくるって言うものね」

 ああ、あれは苦笑いだったのか。そうとわかれば、あの不気味に見えた光景もただの間抜けな深夜の情事だ。三人は口を半開きで立ち尽くしたまま、泣き出しそうな、笑い出しそうな、何とも妙な緊張感に包まれていた。

「じゃあ、これは一体」どう言う事なんだ、と言いかけた口を遮って、中年の警官が笑いを堪えながら言った。

「あの犯人は捕まってるよ、昨日ね」

「へえ!」

「ホームレスの強盗殺人だったらしいよ、もう報道されるはずだよ」

 三人はいっぺんに、気の抜けた声をあげた。

 ああ、そうか。坂本はようやく自分が勘違いをしていたことに気がついた。山岡夫妻も、どうやらすっかり事が飲み込めたらしい。世界に無数にある偶然のほんの一部が気まぐれに織り重なって、無意味な確信を生んでしまったことを。


 坂本と山岡と奈緒美は、顔を見合わせて思わず笑った。だがその後すぐに、あの夜あの公園で、自分達のすぐ側で、哀れな女が真犯人によって殺されていた事に背筋を凍らせた。


(了)

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