第15話 海の神話は命の神話




 この声は長年、この青海原で生きてきた者の芯の通った声だ。この清らかな光は間違いなく海螢だ。海中が青み、大聖堂のステンドグラスのように光るその営み。鈴の音が海の彼方から潮風を連れてくる。

 何で今日は父の命日なのに墓参りをうっかり忘れていたのだろう。どんなに忙しくても毎年欠かさず、墓前に百合の花を供えていたのに。視界の主役を遮断したのは有ろうことか、友輝じいちゃんだった。もう、いいんだ! もう、いいんだよ! と岬を諭す友輝じいちゃんを取り巻く影は小さかったのに低い声色からは温かな体温さえも感じられた。

「新助お兄さんの曾孫さんなんだろう。君は」

 ナイフを隠し持ったまま、岬は急に黙り込み、悠馬はこの突き付けられた状況を顔にかかった海霧が晴れるように反芻した。この胸を締め付ける痛みに色を付けるならば、それは何色なのだろう。気位の高い岬は肩を震わせながらじっと穿つように凝視し、秒針を追うごとに細身な身体を大きく揺り動かしていた。

「何だっていうんだよ! お前ら何が分かるんだよ! 死んだ人は帰ってこないんだぞ!」

 同じようなやり場のない怒りは悠馬も同じように、日々の生活の中でふとしたときに感じていた。どんなにせめぎ合ったとしても一人一人に頬を熱くさせる夜があるから、と。

「新助お兄さんのためにもお前さんは生きないといかん。誰かを傷つけてもいかん」

 友輝じいちゃんは親から叱られた幼子のような岬とゆっくりと対峙した。両手でナイフの黒い柄を持ったままの岬は違う、違う、と溢れんばかりの涙を流し、背中を上下に這わせ、うろたえながら凧糸が切れたように突進した。危ない、と本能的に反応し、悠馬は思わず瞼を頑なに閉じた。

 空中分解するような息の音が飛び交う。咽喉を焼き払うような嗚咽に堪えながら、目を開けるとあのとき、見かけた少女が脇腹に血を流しながら立ちすくんでいた。どす黒い血が滂沱の涙のように落ち始め、夜の底に沈んだデッキの表面は黒く反射していた。

「岬君のお母さんなんだろう。君は」

 少女は脇腹を止血する素振りや苦しみ悶える表情すら見せず、悠馬に相打ちするように頷いた。痛みに怖がるな、と悠馬は歯を食いしばり、固く誓いながら記憶の糸を手繰り寄せ続けた。あの夏の日、都井岬の灯台には独りきりの嬰児が暴風雨に打たれ、毛布にくるまれながら、呱々の声を上げていたという。その子は悠馬と同じ年齢だったのよ、と母はそう遠くない昔に陰のある眼で静かに話してくれた。襲来したばかりの大嵐で海は激しいうねりをあげ、父は一人の命を救うために優しさを飲み込んだ海へと駆り出した、あの夏の日は忘れもしない、八月十五日の夜だった。

「岬、ごめんね。私があんなことをしたから……」

 岬はその黒く反射したナイフを断崖に向かって投げ捨てた。顔を振り動かし、片時も未来を拒むのをやめなかった。その寂しい音はあっという間に満ち潮に引き連れて行かれた。

「お前が勝手に死んだんだろう! お前が勝手に死ぬから僕は今まで……」

 双子のような二人。何で死んじゃったんだよ、と悠馬は頬をなだめた涙を拭く。涙が透き通り、海螢が放つ、久遠の調べを紡ぐ天の川銀河のような、鮮明な光と合わさったような気もした。痛みを乗り越えた頭上には息を呑むような天の川が流れていた。

「岬、ごめんね。ごめんね」

 少女の謝罪が空に大きく描く流星と対話する。岬は来るな! 来るな! 来るな! と雄叫びを発しながらも強張る力を失い、よろめいた。少女は倒れ込みそうになった岬を庇い、その小さな身体をそっと抱え込んだ。岬は一瞬、怨嗟の声を叫んだものの、その場で崩れるようにワッと声を荒げ、嗚咽を零しながら、うん、うん、と頷いていた。その透き通った一滴の青い涙が燦然と輝く、サファイアの屑のように輝き、優しい潮風に沿って、悠馬の頬に当たった。その星を還した雫はとても冷たく、簡単には言い表せない哀しい匂いがした。目も奪われるような聖なる光は光度を増し、この世界の片隅で瞬き続けた。

「ありがとう。私の中にあるこの子の憎しみも溶け始めている。悠馬君、あなたのお父様は海が本当に好きな人だったのよ。この灯台から見張るような星空を眺めながら何度も小さかった私に話してくれた」

 一際大きく聞こえた鈴の音はこの夜半にも数えきれないほど、永遠を連れて鳴り響くだろう。少女は空の階段を上った。そばで様子を見守っていた、友輝じいちゃんが導くように悠馬、あそこに、と震えるような指先で向こう岸を指した。蠍座の毒針がもうすぐ、海に還ろうと星の計画を立てている。真夏の星座が地上を照らす、空のスクリーンには鈴の音ともに黄泉の国に逝った筈の父が手を振っていた。白い制服姿の父は真鍮色の徽章がきっちりと締められ、海を護衛する者として、どこまでも真実を貫いていた。父さん! と悠馬は海に向かって一心不乱に叫び続けた。

 海の神話は命の神話。悠馬は生まれたままの子供のように父に手を振った。父は手信号を使いながら、キチャダメダヨ、と星への合図を送った。そうか、と悠馬は手を震わせながらその意味を深く噛みしめた。

「新助お兄さん。やっと会えたな……」

 父の隣には同じように帝国海軍の白い軍服を身に纏い、偽りのない微笑みを浮かべる一人の凛々しい青年がいた。普段は人前では泣かない友輝じいちゃんが、手の甲を瞳に充てている。悠馬はそれがどれだけの重みを持ち合わせているのか、指摘されなくても十分すぎるほど分かっていた。

 デッキの上の小夜風に吹かれた回天はシャボン玉が弾くように瞬く間に消え去り、溢れんばかりの涙を堪えながら、悠馬は果てしない星空を見上げた。少女と悠久のこの海で命を懸けた青年たちは空の階段を登り終え、地上にいる三人に手を振った。黄泉比良坂から鳴り響く鈴の透徹した音は潮時を知らない。岬、と星を仰ぎながら、悠馬は顔を伏せたままの岬に静かに手を差し伸べる。

「父さんに会わせてくれてありがとう。俺、叶えたい夢が見つかったんだ」

 終盤の時間、やっと会えた父に今更さよならだけはしたくはなかった。心に押し留める軛から逃れたい残酷な歴史や哀しみに秘められた諍いもすぐさま、消し去りたかった。夕べの砂浜で気まぐれに描いた文字を消すようには過去へと後戻りは出来ない。

 悠馬は意志を持って、星の鳴らす鈴の音を静かに数えた。まだ、鈴の音は夜の余韻を鳴らし、夜の次にある朝のネガを連れてくる。

                   了。



・参考文献

『「回天」にかけた青春 特攻兵器全軌跡』

上原光晴 光人社NF文庫 2018年

『海上保安庁 パンフレット JAPAN COAST GUARD』

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海螢 神潮特攻作戦、かつて、この地では惨劇があったーー。 詩歩子 @hotarubukuro

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