第6話
寝た子が泣き出す? とんでもない、寝た子が走って逃げ出すような音。説明されなくても分かる。何らかの緊急アラートだ。
「またか」
「2日連続だねぇ」
兄弟が立ち上がった。喉を掴まれたときみたいに険しい目。背筋が震える。
「ちょうどいいから、歌御前も連れて行ったら?」
連れて行かれる? これ以上、どこへ?
私の話を私抜きで進めるのは、いい加減にやめて欲しい。いつまで経っても理解が追い付かない。
「ヤマトシいいこと言うね、そうしよう」
「ヒサトがそう言うなら、異論ないねぇ」
「じゃ、準備してきたら? 歌御前は、俺が“インイツノハナの間”へ案内しておくよ」
「頼むよ」
「了解」
願いも虚しく、こちらの意思確認がなされることはなかった。あれよあれよと会議は踊り、話は進み、兄弟は挨拶もなく部屋を出て行った。
「歌御前、と仰るのですね」
「え? あ、はい……?」
そうだと言えばそうだし、違うと言えば違うけど。
疑問形に疑問形で返してしまったせいか、祇王さんは薄く笑った。着物の裾を摘まみ、軽く膝を曲げた。
「また、ゆっくりお話ししましょう。ご武運をお祈り申し上げます」
「は、はい」
どういう意味かよく分からない。聞き返そうにも、さっさと踵を返されてしまってそんな隙もなかった。ありがとうございましたって言うべきだったのかな。失礼だったらすみません。とりあえず、心の中で謝らせてください。
「じゃ、ついてきて。フォローミー!」
ヤマトシさんはそう言うと、振り返ることもなくあっさりとリビングを抜け、ドアを開け、部屋を出て行ってしまった。
だから、ついて行くとは言ってない! 了承してないのに、何でそうなるの?!
どうしよう。逃げるべきなのかな。でもまた捕まるかもしれない。そうしたら今度こそ殺されるかもしれない。しかも、痛くて苦しい方法で。……元から死のうとしてたんだし、それでいいじゃない。でも、正直ちょっと気になる。どうせ死ぬなら、この先を見てからでもいいのでは?
恐怖心に、好奇心が勝った。だから廊下に走り出た。
「あの! どこへ?!」
「地表へ。戦うんだよ、奴流と。兄弟は剣で、歌御前はもちろん、歌でね」
***
「インイツノハナってのは、菊の花の別名らしい。隠れて逸する花、と書いてインイツノハナ。俺よりもずっと前に落っこちてきた誰かが、ここの菊の紋を見てそう口走ったんだと。そしたら、雅な名前じゃんって感じでたちまち広まったんだと。こっちじゃ今や、キクは俗語扱いらしい。口が悪いと笑われるから、花を愛でるときは気を付けなよ」
どうでもいい雑学を垂れ流しながらぽてぽて歩くヤマトシさんは、全然急ぐ様子がない。そんな速さいいのかと、こっちのほうが焦る。
頼りになるのは噴水の上がる背中だけとは、頼りにならないから困りものだ。通ったことがあるのかないのかという見当すらつかない通路を進む。時に両脇に、時に片側にのみ扉が現れるものの、どれも素通りして行く。
「さて」
と、ものぐさ眼鏡が足を止めたのは、皇女様のいらした大広間の前だった。ここが隠逸の花の間だったのかと思ったのも束の間。彼は猫足レリーフではなく、右手側の壁へと左手を翳した。
どうかしたんですかと聞くよりもわずかに早く、テキゴウ、カイジョウという機械音声がどこからか聞こえてきた。シャッターやブラインドのように、壁がするする上へと引き上げられていく。壁は天井と一体化して、代わりに暗い空間と、階下に繋がる細長い階段が現れた。
「ただの壁じゃないんだよなぁ、コレが」
貴方が作ったわけじゃないでしょうにと言いたかったけど、素直にはいと言っておいた。
「こんなの、こっちじゃ普通だよ」
忍者屋敷じゃん。ここ、宮中じゃなかったっけ? 普通って、一般家庭にもあるぐらい当たり前ってこと? なにそれこわい。もう迂闊に逃げ回ったり外歩いたりできない。知らなきゃよかった。
「あの壁には、カメラとセンサーが埋め込まれている。『隠逸の花の間』への入室を許された者が手を翳せば、開錠される仕組みだ。俺はあっち……地表から来てもう随分経つから現代のことはサッパリだけど、さすがにここまでのシステムはまだ “普通”じゃないだろ?」
ふふん、と得意気に笑ってるけど、後ろ姿だから顔までは見えない。揺れる前髪の噴水がちょっと癇に障るだけだ。
「会社とか、そういうところは分かりませんけど。少なくとも、日常生活とか学校では見たことありません。特に私は、田舎者だし」
「へぇ。もしかしてあの町の子? 何て言ったっけ、関門海峡の……」
彼は一拍おいて、私の故郷の名前を口にした。
「……そうです。でも、何で……貴方、東京の人じゃ?」
「俺もソコから来たからね」
「え?!」
「いやはや、今思い返してもラッキーだったな。あの日あの時、あの場所を旅してなかったら、この楽園には来れなかったんだから」
ふざけた物言いをしながら
「とうちゃーく!」
と叫んで、最後の一段を飛び降りる。私はジャンプなんかする気になれない。静かに爪先から降りると、病院の床を歩いたときに似た音が辺りにこだました。
狭くて暗い、冷たい部屋だった。
真ん中に大きな円筒が置かれている。ターコイズブルー? セルリアンブルー? 何と呼ぶのかよく分からないけど、トルコの世界遺産の崖、あんな感じの色だ。
壁の至るところにはボタンがあった。光っていたり、点滅していたり、消えていたりと状態はまちまちだ。ピピピピと微かな電子音も響いている。部屋全体が大きなコンピューターみたい。こういうSFアニメ、見たことある気がする。
「問題! コレ、なーんだ?」
首は横に振ったけど、この円筒の中に入るのだということは推察できた。案の定、
「これから3人で、入ってもらうものでーす」
と言われた。
「地表と水都を繋ぐ、転送装置だ。起動させている間だけ、行き来ができる」
「……地表に、ヒトの転送を行う装置ってことですか?」
「そういうこと。と言っても、地表のどこにでも行けるわけじゃない。到着地点と、こちらへ戻ってくるためのゲートウェイとは固定されている。到着地点は、関門海峡に面したあの神社だ。大きな鳥居みたいな門、あるだろ? あれの真下に出る」
水天門のことだろうと察しがついた。竜宮城を模して造られたと聞いたことがあるけど、まさかそこに、竜宮城との直通回路があるなんて。
「それで、帰りの道はあの海に出る、と」
「ご名答。神社から一本、国道を挟んだところ。地表の座標軸でいうなら33.958533, 130.949420のポイントだ。そこに光の一本道ができる」
昨夜の光景がぐらり、脳内で揺れた。
ヤマトシさんが壁のボタンを押して回る。適当に見えるけど、ちゃんとチョイスはしているらしい。カチカチパチパチ、いろんな音とともに起動中、しばらくお待ちください、みたいな機械音声が前後左右で輪唱している。壁中がコンピューター? なにこれやっぱりこわい。
「地表との『道』を保てるのは、あちらの時間にして4~5分程度だ。それ以上は安定接続を保障できないし、船が通ったり潮の流れとの相性が悪かったりすると、それだけで不安定になることもあるらしい」
「難しいんですね」
「ちなみに、いったん接続が切れると復活させるまでにあっちの時間でおよそ丸1日かかる。再起動に時間のかかるサーバーだと思えばいいさ。要するに、そういうことだ」
ヤマトシさんが唇の左端を上げた。
「……どういうことですか」
「分かってるくせに」
受け取り手によっては嫌味とも取れるような、含みを持たせた言い方。さすがに気付かないフリはできない。
「戻ってきたくないなら、そのまま地表に残ればいい。兄弟は時間になれば最悪、歌御前を置いてでも戻ってくるだろうからな。それまで走って逃げればソッチの勝ち、俺たちにはどうしようもできない」
「……」
左頬だけで笑みを作ってる。器用だなと感心してしまうほど、ぞっとする笑顔だ。噴水頭のものぐさ眼鏡のくせに、そんな表情ができるとは。大した役者ね。
「もっとも、そうなれば歌御前を助けたあの兄弟は、『皇女様に任された外海人を逃がした』ってことで、罰せられるかもしれないけどね」
「は……?」
ずるい。そんな情報、こっちが一番聞きたくないと分かってるだろうに。ここぞとばかりに出してくるなんて質が悪い。
思わず睨んだけど、期待通りの顔だと言うようにケラケラ笑われた。
「ついでに、歌御前の手」
私の手と言いつつ、ヤマトシさんは自分の左の掌をちょんちょんと指差してる。
「手?」
自分の手を見てみた。ら、ヒッと変な声が出た。だって、掌の中が仄青く光ってる。落書き? タトゥー? どっちも違う。皮下に蛍光塗料が塗られてる感じ。揚羽蝶が菊に止まってるような絵が、掌の奥で発光している!
よく見れば、ヤマトシさんの掌にも同じものが光っている。
「歌御前が寝てる間に、埋め込ませてもらったよ」
「これ何?! 何のために?!」
「これが埋め込まれた者は、たとえ地表にいようとも水都から追手が来る。一生、ね」
「最低。それのどこが楽園なんですか」
「嘘だよ」
「はぁ?!」
今日イチ……どころじゃない。人生イチの、はぁ?! だった。めちゃくちゃ感じの悪い笑い声を充満させておきながら、さらりと己の発言のすべてを否定してくる。何なんだこの人。水都人のあの、口パク兄弟よりずっと頭おかしい。地表人のほうが狂ってる。
「俺が頼んで埋め込ませてもらったのは本当だけど、そこにGPS機能は付いてない。それはテンジョウビトの証だ」
「てんじょう?」
私はトカイビトじゃなかったんですかと聞きたかったけど、先に
「御殿に上ることを許された人ってことさ。水都の中でも特別な人間である証だ。認証システムの多くは、この掌の証を読み取ることで起動するようになってる。さっきみたいにね」
と返された。どういう情緒してるんだろう、この人。あんだけマッドに高笑いしといて、もうしれっとしてる。
「今更、信じられませんけど」
「それはねぇ、本当さぁ」
背後で呑気な声がした。誰なのかはもう知ってる。振り返ると目が合った。黒いジャージにスニーカー。昨夜見た格好と一緒だ。肩に担いでる大きな剣も見覚えがある。本当に今から、地表で奴流と戦うんだ。実感した瞬間、背中を戦慄が走った。
「書いて字のごとく、殿上紋っていうんだけどねぇ。俺たちも一応、付いてるよぉ、ほら」
ミキトさんが左手をひらひら振る。確かに何らかの紋様があるっぽくは見えるけど、あまり判別できない。いろんなコンピューターが起動して周りが明るくなった分、掌の仄青い光は見えづらくなってしまってるようだ。
「これは、水都の者にとっては誇りだったり、憧れだったりする。それを新参の君に授与したんだ。それほど俺たちは、御前の『歌』に期待してるってことだよ」
「……」
みんな、勝手なことばかり。私の気持ちなんてこれっぽっちも顧みてくれない、自分の都合ばかりだ。
……それでも、『歌に期待してる』と言われて嫌なわけがない。嬉しさが込み上げてくるのは抗えなかった。
噴水が前後に揺れる。苛立たしくもあり、可愛もある妙な髪型。気持ち一つで物事の受け取り方がここまで変わるとは。関門の海の色みたいだ。
「とにかく、ここから先は歌御前の好きにすればいい。ただ、忘れないで欲しい。ここには他ならぬ君の歌を必要としている連中がいる、とね」
「転送準備、完了。開錠いたします」
どこからか、また機械の声が聞こえてくる。続いて円筒状の装置の壁が、一部分ぱっと消え失せた。
「御前」
ヒサトさんの手が自然に腰に回ってきた。そのまま引き寄せられて卒倒しそう。ちょっと待ってよ、無駄にどきどきする。
「は、はい」
キスでもされるのかと思ったけど、歩みを促されて足元がふらついた。単に、物凄くスマートにセルリアンブルーの円筒内へと同行させられただけだった。
ここに入るの? と戸惑う間もなく、視界からすべての色が消えて行く。眩しい閃光が走って、思わず目を閉じた。
「着いたら、すぐに歌って」
「……何の、歌を?」
「何でもいい、君の得意なものを。君のことは、俺たちが命に代えてでも守るから、心配しないで気持ちよく歌って欲しい」
「……分かりました」
うっかり約束してしまった。これじゃ逃げるどころの話じゃない。
祝詞を述べるみたいに恭しい声で、ヤマトシさんがワダツミよ、と言った。
「海神よ、国守へ道を与え賜えよ。―― いってらっしゃい。お帰りをお待ち申し上げております」
本当にそう思ってるの? 懐疑的な気持ちが芽生えたのと引き換えに、聴覚も途絶えた。気のせいかな、身体も浮いてる感じがするんだけど。今度こそ死んだのかもしれない。でも思考はできてるし、ヒサトさんの低すぎる体温も息遣いも分かる。
大丈夫、多分、また歌える。自分に言い聞かせながら瞼に力を込めた。
***
瞼に突き刺さる眩しさが落ち着いた頃、身体が急に重たくなった。数秒遅れで、浮遊感がなくなったせいだと気付く。地面に立ってるのかと足を上げてみた。ら、靴下を砂利が貫通してた。しまった、靴履いてこなかった!
地味な痛みのおかげで覚醒した目に、見慣れた田舎町の夜景が飛び込んでくる。ヤマトシさんが言った通りだ。あの神社の、水天門の下に戻ってきている。
長い階段と、その下を走る国道9号線。その先に広がる関門の海と九州。点在する外灯とトラックの光、灯台のサーチライト。どれも見間違いようのない、故郷の風景だ。
湿り気を含む海風も今日は心地いいし、漂う潮の香りには懐かしささえ感じた。ガタガタと遠慮がちに地面が鳴り始める。船が通るときの揺れだ。海のほうを見やれば、案の定タンカーの姿があった。
本当にあの町だ。帰ってきたんだ。
半信半疑ながらも多少の感傷に浸っていたら、邪魔するようにぐわんと世界が歪んだ。同時に、海とは逆方向―― 神社の本殿の周りから、誰かの視線を感じる。覚えのある鋭さだ。兄弟のもので間違いないだろう。正確な位置は分からないけど、本殿か、その奥に広がる森辺りにいると思われる。
風が騒がしい。潮風とは別に、平家一門の塚のほうも吹いてきている。水の底の都から使者が来たことで、平氏の怨霊がざわめいてるのかもしれない。
得も言われぬ緊張感。この中でどうやって逃げろと? あの眼鏡、もしかしなくても討伐現場のことなんて何も分かってないんじゃないの? 戻ったら一言文句言ってやらないと気が済まない。
―― 戻る? 水都に? 私、水都に戻る気でいるの?
せっかく元の世界に「戻って」きたはずなのに、自分が信じられない。
「……はは、はははっ!」
馬鹿だなと思ったら、笑えてきた。今ならいい歌が歌える気がする。
戦うのさベイビー、命果てるまで。声を上げて立ち向かう気力の限り。
出だしの声が上ずった。ダメダメ。意識を声帯に集中させなくちゃ。歌い手崩れの名が廃る。
踊るのさスウィーティ、燃えて尽きるまで。この世界に轟かす自分の誇り。
発声を整えると、すぐに【何か】が近寄ってくるのが分かった。冷たい夜の空気に混じって、ヒトではない【何か】が駆け寄ってくる。反射的に目を向ける。吸盤だらけの腹部が空に広がってる。本殿の上から私を目掛けて、降ってこようとしている!
恐怖で喉が詰まりそうだけど、歌を途切れさせずに済んでいるのは赤黒い剣尖が見えたおかげだ。剣の先が、水平方向にすぱっと、奴流の右から左へ走り抜けた。一呼吸の後、2本の脚が胴体より早く落下した。鈍い音を立てて目の前に落ちてきた奴流の後ろ足は、まだ自分たちが本体から分離されたことが分かっていないのか、地べたを動き回っている。
「ひっ!」
気持ち悪くてさすがに歌っていられない。薄青色の奴流の血が、白い石畳を汚していく。
おかしい、胴体が落ちてこない。どこに行ったんだと振り返れば、階段の下からこちら目掛けて突進してくる『野犬』が見えた。もちろん野犬じゃない、奴流だ。階段下まで落ちていたのか。白い牙を剥き出しにして、短くなった後ろ足で駆け上がってくる。ヤバい。
「……っ!」
目を閉じて覚悟した。ガシャンという金属音は聞こえてきたけど痛みはない。一思いにやられたから? 違う。守られているからだ。
意を決して瞼のバネを跳ね上げた。眼前にある牙は、右サイドから伸びた剣と組み合ってぶるぶる震えている。
私を守るための剣。嫌でもそう思い知らされる光景に、妙な高揚感を覚えた。鳥肌が止まらない。でもこれは恐怖からくるものじゃない。興奮のせいだ。怖いけど、嫌だけど、鳥肌が立つほど興奮している、私。
私を守ってくれる人がいる。その人が、私に「歌え」と言う。歌うことで役に立てるなら、それが私なりに戦うということになるのなら。だったら、私は。
歌うことをやめない。諦めない。
忘れるな我が使命、走って吠えて見せつけろ、明日の先へと飛び込むんだ。
明らかに膠着状態が変わった。今にも剣を噛み砕きそうだった奴流の顎が、一瞬だけど完全に力を失った。ミキトさんはその隙を逃さなかった。切っ先の方向を90度変えて、喉奥へと突き刺した。
切断された足は、いつの間にか動きを止めている。胴体も、ピクリ、ピクリと跳ねるように小さく動くだけで、さっきまでのような勢いはまるでない。本来なら、断末魔の悲鳴を上げているに違いなかった。無言のまま牙を剝き出しにして絶命するときを待っている。多分、きっと、お互いに。
見ているだけで喉が痛くなってきて、首元に手を当てた。肌寒い季節だというのに、己の首はじっとり汗ばんでいた。
ずるずるとミキトさんが剣を抜いていく。どうやら終わったみたいだ。肩で息をする彼を見てるうち、一気に疲れが押し寄せてきた。風は冷たいのに、身体の内側が熱くて火照って仕方ない。
―― 奴流討伐の場で歌うという『仕事』は、歌御前にしかできない。
“隠逸花の間”に向かう道すがら、ものぐさ眼鏡がしていた話を思い出す。
なぜ私にしかできないと言い切れるのか、納得いかないと問い質す私に、彼は
「水都人は、地表には上がれないからだ」
と言った。
「またその話ですか?」
「そう。水都は地表から見れば地下2000kmの深部にある。いくら転送装置を介して行き来するといっても、水都人の体内器官は地下2000kmでの気圧に適したものでしかない。地表に上がってくれば、急激な気圧の変動で五臓六腑すべてダメになる。それこそ、奴流のようにね」
「でも、あの兄弟は……」
「ミキトたちは、地表の人間の血を引いてるから地表までは辛うじて行けるらしい。しかし致命的な問題がある。地表では声が出ないんだ」
そのときようやく、あの夜感じた薄気味悪さの正体が『静寂』だったのだと気が付いた。
2人と出会ったあの夜、彼らが頑として声を出さなかったのは「喋りたくない」からじゃなく、「喋れなかった」からなのだ。
「呼吸はギリギリできるけど、声帯は機能しないらしい。戻ってくれば、元通り発声できるみたいだけどな。奴流も、地表に出れば声帯の機能を失うと聞いてる。加えて、奴流はコッチに戻ってきたとしても、もう元の身体には戻らないそうだ」
だから倒すしかないのだという話し方には、好き好んで殺生してるわけじゃないという含みがあった。
「だからこそ、行ける奴らが討伐に行くしかない。彼らの仕事もまた、彼らにしかできない重要なものだ」
私に剣は振るえない。それと同じように、彼らに歌は歌えない。私が歌う理由なんて、それで充分なのかもしれない。
「ミキトたちにとって、歌御前みたいに『地表で歌える仲間』ってのはとんでもない戦力になる。思うところはあるかもしれないが、その『歌』の力を貸してくれないか? 『奴流のせいで人生がめちゃくちゃになった』と思っているなら、尚のこと。己と同じ運命を辿る者が出ないように」
最高の運命だとか言っておきながら、同じ道を辿る者が出ないように戦えだなんて、二枚舌もいいところだ。
あまりにもムカついたから
「だったら、あなたが歌えばいい」
と言い返してやったら、一笑に付された。
「生憎、俺はオンチなんだよ。奴流も多分、逃げ出すレベルさ」
お手上げポーズで躱されて、それ以上ツッコむ気にもなれなかった。
暗がりに控えめな拍手が響いた。ヒサトさんだった。どこにいたの、忘れるところだったよ。
小脇に何かを抱えてる。目を凝らして見れば、切り落とされた奴流の足だった。そういえば、最初のときもこの人が奴流を抱えてた記憶がある。拍手を止めて、今度は胴体を拾い上げようとしてる。なるほど、そういう役割分担なのか。
ミキトさんは、ジャージの袖で乱暴に刃を拭いてる。それ、本当にやるんだ。アニメの中だけだと思ってたよ。
吹き出した私を窘めるでも訝るでもなく、2人はそろって、もう一度、拍手をくれた。色々な感謝の意を込めて、お辞儀を一つ返す。頭を上げたら、2人が同時に顎を引いて、海を指差した。タイムリミットらしい。逃げるなら今が唯一無二のチャンスだ。
……でも、私は逃げない。
―― 小さい頃から、歌うことが好きだった。大好きなボーカロイドの曲があった。歌い手になりたかった。
チヤホヤされたいとか、何万人、何十万人の前でキレイなドレスを着て喝采を浴びたいとか、セレブになりたいとか、そんな理由じゃない。
ただ、好きなことで生きていけたら。歌うことが、誰かの役に立ったり、喜んでもらえたりするなら。そんな風に、少しばかりの夢を見てた。
嫉妬、揶揄、嫌がらせ。自意識過剰、目立ちたがり、ナルシスト、思い上がり。いろんな声が聞こえてくるうち、「歌が好き」というただの事実すら、胸を張って言えなくなっていった。私は子どもで、そこを貫き通せない弱虫だった。
弱い自分を、変えるなら今だ。
たとえ1人、2人のオーディエンスしかいなくても、歌って暮らせるのだとしたら。それが人の役に立つのだとしたら。舞台は私の良く知る場所じゃなくても、いいのかもしれない。こだわるべきはそこじゃない。歌を武器にできるなら、新しい町・新しい世界での生き方も、きっと悪くない。
前向きな死なんかじゃなく、自信を持って生きるという選択を。
階段を駆け下りる2人を、遅ればせながら追い掛ける。暗い国道を横切って、フェンスを掴み上がって、見えた一筋の光を信じて、そこで生きていくために飛び込んだ。
竜宮城でDIVA 真栄田ウメ @maeda_ume
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