朝顔に炭酸

山田とり

朝顔に炭酸

 玄関の前にやたら鉢植えが並んでる家ってあるよな。


 塀の上とか、壁の下のところにズラーッと置いてあったり。いや道にはみ出してんだろ、てのとかさ。


 そういう家が、学校に行く途中にあるんだ。




 気がついたのは高校に入ってすぐだった。


 中学とは反対方向だけど、歩いて行ける距離の高校に受かった。それで、近所なのに全然知らない住宅地を抜けて通学するようになったんだ。その道筋の家。


 俺は花なんて知らない。

 別に興味ないし、人の家を覗く趣味だってない。


 なのにその鉢植え達に気づいたのは、朝それに水遣りしてる人がいたからだった。


 ああそうだよ、女の人。

 おっさんだったら気づいても見ないフリするよ。


 でも最初は女なのか男なのかわからなかった。中学生男子が家の手伝いをやらされてるようにも見えたんだ。ヒョロッとしててスエットの上下だったから。

 大きな麦わら帽子をかぶってて顔もよく見えなかった。


 次の日は、なんかフワッとしたエプロンみたいなワンピースみたいなのを着てた。それで女の人だとわかった。ああいう服がエプロンドレスっていうのも知った。


 いいじゃん。つい、調べたんだよ。


 だって、その裾からヒョンて出た足首が、すごく細かったんだ。


 なんか見ちゃいけないものを見たような気がして、俺は目を逸らして通りすぎた。


 真っ白い脚だった。




 それからも平日は毎朝、その人がホースを引っ張って水を遣るのを見てた。

 つっても歩いて通りすぎるだけだ。立ち止まったりしない。


 Tシャツにスカート。黒いジーンズ。もこもこした部屋着のワンピース。パジャマ代わりなのかスエット。いろんな格好をしてるけど、麦わら帽子はいつもかぶっていた。


 それと、手首も肩も細かった。




 ある日、その隣の家のおばさんが新聞を取りに出て来るのに出くわした。


 水を止めて、おはようございます、と挨拶するその人におばさんは、ナコちゃんいつも偉いわねえ、と会釈して引っ込んだ。


 ナコっていうんだ。


 おばさんの方を向いた時に、顔も初めて見えた。二十代なのかな、大人の人だった。


 ナコさん、か。


 そういえば声も初めて聞いたんじゃないか。


 おはようございます、て。

 風みたいな声だ。


 そう思いながら、俺は学校に歩いた。何故か早足になっていつもより早く着いた。

 わけわからねえ。





 そして梅雨になった。


 傘をさして歩くのが面倒くさい。濡れるのもうっとうしい。

 あと、水を遣らなくても鉢はずぶ濡れだ。ナコさんは姿を見せなかった。




 でも梅雨の中休みの日、ナコさんがいた。


 鉢の受け皿にたまった水を捨て、雨で傷んだ葉をぷちぷち千切る。そういう世話が必要なのか。俺は花には相変わらず興味がなかったから知らなかった。


 でも並ぶ鉢の中にとても見覚えのある葉っぱを一鉢見つけて、俺はうっかり立ち止まってしまった。


 なんだっけ、これ。


 考えていると、俺が足を止めたのに気づいてナコさんが振り向いた。

 やべえ。


 俺はもごもごと何も言えず、ナコさんと謎の鉢を見比べて困っていた。


「朝顔、なつかしいよね」


 ナコさんがさらりと言ってくれて、謎が解けた。

 これ朝顔だ、そりゃ知ってる葉っぱだ。小学校でさんざん観察させられたやつじゃん。


 でも俺はぼそっとしか喋れなかった。


「そっすね」

「久しぶりに育てたいと思って。二十年ぶりだよ? びっくりだよー」


 ナコさんは通りすがりの男子高校生が無口でも気にしないみたいだった。熱に浮かされたみたいな話し方だった。

 俺はペコ、としてまた歩き出した。


 だけどナコさんから見えなくなった少し先の道で俺は歩けなくなった。

 なんかキツいんだ。


 湿気の多い、夏のはしりの空気に蒸されながら、俺は初めて話したナコさんを思い出していた。


 二十年ぶりって言ってた。てことは二十六か七か。

 めちゃ大人だ。

 俺なんて朝顔はまだ九年ぶりだし。


 ・・・ありえねえよな。


 俺はずるずると歩こうとした。足がくそ重いんだけど。

 なんだよこれ。


 もう歩きたくなくなって、見つけた自販機でサイダーを買った。


 ピリピリして甘くて、ツーンとする。


 思いついてペットボトルの蓋を閉め、振ってみた。


 向こうをむけてそっと開けたが、シャンパンシャワーのように吹き出したりはせず、溢れて手がベトベトになっただけだった。


 馬鹿じゃん俺。


 遅刻した俺は、軽い熱中症だと言われて保健室に収容された。





 それからずっと、ナコさんを見なかった。


 雨も降ってたし、別に不思議はない。俺もその方がよかった。

 なんだか会いたくなかったんだ。


 また立ち止まってしまったら。

 また話しかけられたら。


 そんなことがあったらきっと、すごく苦しくなるような気がした。


 でも何もなくすれ違うだけで終わったら、それよりもっと息が詰まると思う。


 たぶん、窒息するほどに。


 俺はまだ、死にたくないんだ。





 なんとか生き延びて受けた定期テストと梅雨の終わりの大雨を乗りきって、スカーンとした夏が始まった。


 あと数日で夏休みだ。

 登校する途中、ナコさんはいなかったが、ナコさんの朝顔が咲いていた。


 青い花だった。


 小学校の夏休み前を思い出した。

 ジリジリ暑いのに、朝顔の鉢と体操着の袋と防災頭巾と図工の作品を抱えて帰るんだ。あれは拷問だったな。




 午前授業を終えて帰る時、ナコさんの家の前が騒がしかった。


 黒い人が何人もいて、黒い長い車が停まっていた。

 胸がざわざわして、俺は少し手前で立ち止まった。


 集まってきた近所の人々に、黒い服の人達は深々と礼をした。近所の人の方も返礼する。すすり泣きが聞こえる中、喪服の人々は後ろの車に乗り込んだ。


 鉦をカーンと鳴らして霊柩車が出発し、後ろの車も続いた。

 葬儀所で通夜と葬儀をしたあと、自宅に別れを告げに寄ったんだろう。


 焼き場に向かうためにこちらに来る霊柩車。


 そこに乗せられているのは、誰だよ。


 すれ違っても、もちろん俺には何もわからないし、何もできなかった。


 知らぬふりでおそるおそる家の方に近づくと、見送っていた人々から、可哀想にヒナコちゃんまだ若いのに、と聞こえてきた。


 俺はゆっくり歩きながら、ちらりと鉢植えを見た。


 今朝咲いた朝顔は、もう、しぼんでいた。





 夏休みの俺は、ぼんやりと転がっていることが多かった。まるで気の抜けた炭酸だ。


 何日もそうしていたら、いいかげん親に怒られた。逃げるように外に出たけど別に行く所もない。


 暑くて逃げこんだスーパーで、思いついて炭酸水とチューイングキャンディを買った。


 サイダー振って駄目なら、やっぱアレだろ。




 公園は暑過ぎて、子どもも遊んでいなかった。

 俺は花壇の脇のベンチに座り、ペットボトルの蓋を開けてキャンディを三個、投げ込んでみた。


 お、けっこう吹く。

 俺はケタケタと笑った。


 指でボトルの口を狭め、もっと遠くに飛ぶか試す。指が痛え。


 炭酸水はきらきらと真夏の陽光に輝いた。


 俺は独りで水を振り撒いて遊んだ。

 でもじきに泡はとまった。

 俺はペットボトルの残りの水をトポンッと足元に捨てた。

 気の抜けた水は、すぐに地面に染み込んで消えた。




 花壇の上にきらめいた水で、ナコさんを思い出した。毎朝ホースで水を遣っていたナコさん。


 ナコさんは、ヒナコさんだったらしい。


 どういう人だったのか、何も知らない。


 二十年ぶりに朝顔を育てていたことしか、知らない。




 俺は不貞腐れた顔でベンチにもたれ、上目遣いに空を見た。


「……さよなら」


 呟いたって、なんにもならないんだ。わかってる。



 ナコさんは、あの青い朝顔を見たんだろうか。



 久しぶりの朝顔は、小学生の頃よりもずっと、綺麗に見えた。

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朝顔に炭酸 山田とり @yamadatori

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