熊と私
天野創夜
熊と銃弾
真っ白──そう言っていいほどに、この世界は残酷だ。
白の迷彩服を僅かに揺らしながら、私は息を吐く。真っ白な息は、あっという間に消え去った。まだだ、まだ気を抜くな。眠気を堪える。気起こしを兼ねて、私は雪を口に咥える。
冷たい感触に口内を冒されながら、遂に、その時が来た。
白しかない視界に、黒色の何かが微かに動いたのだ。
ここ──北海道は熊がいる。
しかし大抵の場合、熊という動物は人間には近寄らないし、危害を与えるような動物ではない。
人間が恐れる動物は、その動物もまた人間を恐れている。とても歪な関係で、しかしその上で我々の安全は確立されているのだ。
しかし時に、不運なのか幸運なのか、気づいてしまったものもいるのだ。
──人間は、か弱い生物だという事を。
火を恐れない動物というのは、それだけで危険だ。
人間の味を覚えてしまった動物──ヒグマは、あまりにも危険すぎる。
私たちの役目は、そういう生物を撃って撃って撃ちまくる事だ。
撃って殺して、殺した数だけお金を貰って、そしてその分、いやそれ以上の罵倒や暴言を同種から貰う仕事だ。
そして今は、冬眠できなかった可哀想ヒグマを撃つ──それが、表の理由。
……今から約十年前、冬眠できなかった大型のヒグマが、山を降り、民家を襲ったとある痛ましい事件があった。
被害者は四人。内死亡者は三人、重傷者が一人。
「──ふ、ふ、ふ」
まだだ、息を捨てろ。
脳が破裂する。心臓がうるさい。酸素が入ってこない。
死ぬ、息を忘れて死んでしまう。それよりも前に凍え死ぬかもしれない。
それよりも空腹で死ぬかもしれない。ここ二日間は何も……雪以外口にしていない。
この極寒の中、如何に動かなくとも、この場にいるだけで否応なしに腹が空く。
「──……」
唯一、この何もない空間である異物。
愛銃と化した狩猟用の銃を持ち続ける。持ち続ける手の形は、もう悴んでて、元々こういう形なのではないかと疑ってしまうほどに。
だが、指とこの目だけは──悴ませない。
「───。────。──────。ぁ」
いた。
見つけた。発見した。視界に捉えた。
ドクン……鼓動が高鳴る。
体が熱くなる。息が荒くなる。
それを抑える為に、更に口の中に入れる雪を追加する。
まだだ、まだ抑えろ。
この距離だと、奴を狙撃できても致命傷にはなるまい。
移動するにしても、その間奴に気づかれて逃げるかもしれない。
一度、銃撃を受けた熊は人間の気配に敏感だ。
──あぁ、狂おしい。
昔だったら、銃を乱射していただろう。
近づいて、ショットガンでも撃ちたかっただろう。
やたらめったら撃って、その死体すらも尊厳なく撃ち続けただろう。
ただ、それをしてはいけない。それはだめだ。この十年の意味が無くなってしまう。
もう、今の私は昔の自分とは違うのだ。
「──。────今だ」
口の中で、そう呟く。それは私の覚悟の現れだった。
今日この日で──十年前の決着を付ける。
この極寒の世界の中、寸分の誤差もなく、悴んだ私の指は
轟音が轟き、銃弾は天花散らつくこの銀世界を駆けた。
当たったかどうかは分からない。熊の皮は分厚い。頭を狙ったが、それて胴体に着弾したかもしれない。
──自分を信じろ。
銃を教えてくれたお師匠が言ってた事を思い出す。
ただ、自分を信じ、数秒後に訪れる未来を期待しろ。
私は決死の覚悟でここに来た。次弾は装填しているが、この環境下で次を狙えるかどうかなんて分からない。
もし、相手を殺せなかったら、私は殺されるか何らかの理由で死ぬか、だ。
さぁ、勝負だ。熊。お前と私、どちらが死ぬか。
長い時間が経った気がする。
四つん這いになって動かない熊。
あの日、私の家族を襲った熊。
私の人生を狂わした、憎くて憎くて堪らないあの熊。
「──ぉぁ」
そして──私は、この決闘に勝った。
ふるふると震えていた熊が、ボスンと倒れたのだ。
ここからでも分かる真紅のシミは、雪景色の中で特に光った。
「は、は、勝った。勝ったぞ……っ! やりました、やりましたよ、師匠……!」
極限の状態下だからか、私は今までの思いが籠った声を出していた。
私の想いが籠ったこの弾丸が、涙を流して誓った復讐が、心血注いで努力したあの日々が、あの悪魔を撃ち殺したのだ。
「お父さん、お母さん、姉さん……仇は取りました。安心して、眠ってください」
私は銃を鞄にしまいながら、呟く。バックの中には母が作ったお守りがちょこんと入っていた。私はそのお守りを悴んだ手でそっと包み込む。
「……それにしても」
それにしても。
どうして、あんなにも鈍かったのか。
年を取ったとはいえ、あのような動き、人間の恐ろしさを知った熊なら絶対にしない。
冬眠できなかった熊は凶暴だ。動きがある生物は、片っ端から喰らうのだ。
私の……家族のように。
「ぁ──」
その時、私は見てしまった。
熊の倒れた死骸の近くに、二匹の熊がやってきたことを。
体が小さい、子熊だ。どうして──。
「……親子……なの?」
子熊は、既に冷たくなったであろう母熊を舐めている。
母熊の口から、何かが落ちた。きっと、食べ物だろう。
そうか、あいつは──自分よりも先に、この子達の食糧を取っていたのだ。
凶暴で、無慈悲。共食いもする、あいつが……。
『逃げなさい!』
「……あれ」
おかしいな。
一瞬、母の姿と合致した。
いつも転ぶ私の為にお守りを作ってくれたお母さん。
お姉ちゃんと喧嘩したその夜、三人で一緒に寝てくれた、私のお母さん。
その時だ、不意に、子熊達がこちらに視線を向いた。
「……ちがっ、これは……先にそっちが……」
やめろ。
やめてくれ。
まるで、私が悪いみたいじゃないか。
だって、先にそっちがやってきたんだ。こっちだって被害者だ。
だというのに──何故か、あれほど高揚していた気分が一気に下がっていた。
まるで取り返しのつかないことをやってしまったかのような、そんな──罪悪感。
「ぁ、う、わあああああ!」
その時、子熊の一人が、一歩前に出た。
それは私の方向で、その目は私を見ていて、その顔は──何故だが、あの時の私にそっくりな顔つきだった。
恐ろしくなった私は、声を上げながら、雪に覆われた山道を走る。
「あっ──」
弱りきった私の足が、雪にとらわれた。
目の前に迫るのは、固い氷の床。
……私は、その時何を思ったか。
明確なことは分からない。だけど最後だけはわかる。
意識を失う寸前、あの日の家族の思い出が、頭をよぎった。
++
「ホント、無茶するよな、お前って」
最初に聞こえた声は、何とも素っ気ない声だった。
目を開けると、白だった。
ただ、雪のように冷たくて真っ白じゃない。心地よい白さだ。
ふと、隣を見ると、そこには、
「師匠……」
「おう」
白髪の混ざった黒髪を蓄えた、筋骨隆々のお爺さん。
天涯孤独の私の身を引き取ってくれた、私の家族。
師匠は、ベテランのハンターだった。私は、幼い頃から銃の取り扱い方を教えてもらってたのだ。
「……ごめんなさい」
無茶だけはするなと、あれ程教わったはずなのに、私はその教えを裏切った。
「……やったのか」
「はい」
「何発撃った」
「一発です。頭に当たって、それで……」
「……子供がいました。二匹。きっと冬は越せません」
「あの子の……目が、昔の私にそっくりでした」
あの日、目の前で家族全員が殺されて。
『やっつけたい……!わたしが、この手で……!』
私は決意した。
必ず、必ずやこの手で奴を殺すと。
そっくりだった。小熊の目と、あの時の私の目は。
「私……悪いことしたの、かな」
生き物を殺すことは、悪いことだ。
それは師匠から教わった事。
「けど、自然界では違う。生きるか死ぬかだ。だから、お前が罪悪感を感じる必要はねぇ……」
師匠は、その後何も言わないまま、ただ私の頭を撫でた。その後、「ゆっくり休めよ」と、そう言って、病室から出た。
私は、間違ったのか。
あれだけ願ってた復讐は、ものの数分で消え去り、後に残るのは、ドロドロに煮詰めた懺悔の様な何か。
あの子たちは、今頃如何しているのだろうか。
ただただ、母の事を思いだし、少し涙がこぼれ落ちた。
熊と私 天野創夜 @amanogami
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