蝉の声

 うだるような暑さが続く、八月の頭。

 辺鄙な田舎のコンビニに、客はひとりしかいない。少年誌を立ち読みする学生っぽい女性は、否応なく目に入った。

 メガネをかけて文学少女然としているが、そのバイタリティには目を瞠る。ガラスの奥の瞳は、たぶん赤みを帯びていることだろう。

 夏休みだろ? この炎天下だ。涼しい家で、単行本を待てばいいじゃん。

 俺にとっては、頼りになる隔たりだ。雨や風にも負けないし、手でひさしをつくる必要もない。

 ほんの少しのたからものを集めれば、完成する俺の城。染まらない白に、俺は安堵を覚えていた。はずだった。

 ――その漫画には、あるんだろうな。きみのほしいものが。

 ため息をつき、店外に視線を移す。日はまだ落ちるそぶりを見せない。眩い陽光がアスファルトを灼き、ブレイクダンスする陽炎を幻視した。

 瞼を閉じると、セミのユニゾンがこだまする。セミはいいよな。苛烈なひと夏を駆け抜けるさまは、いのちを燃やす流星のようで。

 願いを託したって、俺はそう在れない。現実に目を向けろよ。

 舌打ちを噛み殺して、大往生のセミ生に別れを告げる。広げた視界が映すのは、色褪せたせかい。

 いつのまにか文学少女は去っていた。入店音が響き、図ったように押し寄せる神さまたち。バックヤードの店長に助けを求める。

 必死に客を捌きつつ、願う。誰でもいいから、糸を垂らしてくれねえかな。毒にも薬にもならないここから、引っ張り上げてくれ。



「お疲れさまです、先輩!」


「うおっ、カオルさん!?」


 店を出た俺の前に不意に現れ出たのは、バイトの後輩だった。涼しげなワンピースが翻り、健康的な褐色の肢体が覗く。目の毒だ。やっぱ薬かもしれんな。

 俺の視界で、ただひとり色づいた存在。それがほし風於流かおるという少女だった。


「なにしてんの? またフィールドワーク?」


 夜更けが近い。彼女は女子高生だったはずだ。バイトは認められていないし、彷徨いていたら見咎められるだろう。オカルト好きの彼女に言っても、柳に風だが。

 俺の問いに、たははと頬をかくカオルさん。


「いや、今日はちがうんですよ。先輩と話したくて……つい、来ちゃいました」


 奏でられた甘やかなアルトに、口を噤む。彼女の艶やかな黒髪には、コンビニの安っぽい灯りが紡ぐ天使の輪。

 俺は徐に財布を取り出した。


「……そういえば、カオルさんに訊きたいことあるんだった。飲み物買ってくるよ。なにがいい?」


「いいんですか? あー……じゃあ、ブラックのコーヒーをお願いします」


 目を伏せてから頭を下げる彼女を、少し意外に思う。ブラック飲めるんだ。俺はどうしようかな。

 店内に戻り、あの夜のことを思い浮かべる。

 蒸し暑い夜だった。肩にのしかかる、煩わしい閉塞感。それはいまでも引き剥がせていない。

 憂鬱なバイト帰りに、一陣の清廉な風。突然現れたカオルさんには驚いたが、纏う空気は軽くなっていた。

 徘徊をフィールドワークと言い張る彼女が語っていった、ひとつの都市伝説。荒唐無稽なそれと出会してしまった、俺は――

 迷った末にカフェオレを手にとる。缶コーヒーとあわせて精算し、店を後にした。

 後ろ手を組んで空を見上げているカオルさんに、声をかける。


「お待たせ」


「あ、ありがとうございます」


 手渡された缶を開け、ぐいっと呷る彼女。脈打つ喉から目を逸らす。視界の端で、真っ赤な舌が主張した。


「……ブラックって、こんな苦いもんでしたっけ。苦虫の糞から採取した豆ですかね」


「それ高級なやつじゃん」


 飲んでみたいとは思わないが。金もないしな。安いカフェオレのプルタブを開ける。口をつけると、視線が自然と上を向いた。


「気づきました? 星がよく見えますね」


 歓びに彩られた声。目をやれば、弓形にしなる口元。

 空を見上げる。ここらへんはビルもマンションもない田舎だ。遮るもののない夜空が、眠ったまちに輝きを贈る。

 夏の大三角が顔を立てる、ポラリス。上弦の月は、未練を残して沈んでいく。

 カオルさんが悩ましく唸った。


「しかし、これだけしるべがあると迷います。どこへ向かえばいいのでしょう」


「なにそれ。哲学的な話?」


 優美な指遣いで缶を傾ける彼女は、背伸びした少女の域を出ない。その芝居じみた仕草で、俺になにを伝えたいのだろう。


「まあ、そんな感じです。……たとえば、数多の星から、きざはしが降りてきたとして。先輩は、どれを上ります?」


「……よくわかんないけど、心理テストとかかな。選択肢はないの?」


 ――くすり。少女の顔を、雲が隠す。そこにいたのは、三日月をたたえたなにかだった。


「選択肢、いりますか? ちょっとした遊びなんで、気楽に考えましょうよ」


 それはまるで、ステップを踏むように。軽やかに踏み切って、ふわりと放たれたことば。突き刺さり、抜けないヒール。

 馴染みのある感覚だ。からだが重くなる。重力への依存を断ち切れず、根ざした足はビクともしない。

 そんな軽くて、いいのか? その場しのぎの答えで、満足だろうか。けれど俺は、ほかになにももっていない。

 だからせめて、堂々と吐き出すんだ。丸めた背中で、開かない喉で。胸の裡でけぶる、その答えを――

 口を縫いつけたのは、嗜虐的な人差し指。日に焼けたそれが、陰を炙り出す。


「どうせ、見向きもされない暗い星、とかでしょ? 先輩はそういうひとですよねー」


 じつに愉しげに、ニヤリと告げた。次いで、俺の鎧を剥ぎにかかる。脚を捥ぐように。翅をちぎるみたいに。


「みんなが集まる星じゃ、埋没しますもんね。透明でいるのは、耐えられないでしょう?」


 顎を伝う汗が、地面に落ちた。

 そのとおりだ。兜の下で舌を打つ。的確に踵と背中を撃ち抜かれ、甲冑はすでにボロボロ。こんなクリティカルな心理テストがあるかよ。


「けれど、そこにはないですよ? 先輩のほしいものは、なにも」


 夜とともに深まる笑みに、返すことばもない。

 そうだな。手に入れたものは、泥濘ぬかるみのような安寧だけだ。

 この迷宮での生活は、もう慣れた。光は射さず、針は行き先を指さず。セピア色の壁に囲まれ、消費期限ギリギリの愛で生を希釈する。

 ここには牛の怪物だって居やしない。せめて標識くらい立てとけよ。愚痴った俺を糾弾するように、四方八方からカーブミラーが突き出した。

 闇雲に歩を進めたって、徒労と懇ろになるのがオチだ。おまえらもそう思うだろ? 複眼を模した兜たちに問いかける。たしかに届いた、物言わぬセミの声。

 わかってるよ。かたちだけのQ&A。ほしいものは、はっきりしてんだ。

 重い腰を上げ、疼く左手を壁にあてがう。擦り切れるまで歩くのも悪くない。この答えを、刻みつけるために。


「――道は見つかった、ってとこですか?」


「……一応、そうなるのかな」


 ――厚い雲は牛の歩みで流れ、覗いた星は嫋やかに綻ぶ。その笑顔に胸を撫で下ろし、ひとつ息を吐いた。


「よかった……いつものカオルさんだ。さっきはなんか憑依させてた?」


 きょとんとしたのち表情かおをつくりかえる彼女。見惚れるような悪人ヅラだ。そのギザ歯とヤギみたいな目はどうやってんの?


「憑依型の演技ってやつですよ。上手いもんでしょ? 降りてきたんです、かんむり座のアリアドネが」


 じゃあ下手じゃん。胸張ってよく言うわ。アリアドネっつーのは、もっとこう……快刀乱麻って感じでさぁ。ちょうど、あのとき振るわれたバットのように。


「……どっちかっつーと、きみはミノタウロスだろ。迷宮の最奥でニヤニヤしてそうだ」


「ええっ、そんな中ボスみたいな! わたし、もっと大物感あるでしょ!?」


 ねーよ、そんなもん。きみは俺の後輩で、夜空を牛耳る一等星だ。

 その標はアステリオス。俺はいま、スタートラインに立っている。

 その調しらべは天国と地獄。あとはゴールまで突っ走るだけだ。

 逸るこころに脚は従い、観測されていく星座の迷路。足を止めなければ、いずれそこに辿り着く。そのうち出会うこともあるだろう。

 そのときは、一輪の向日葵を胸に抱いて。



「『贋迦がんか』について、ですか……」


 カオルさんはコーヒーを口に含み、眉を寄せて宙を睨んだ。俺は頷く。


「俺も調べてはみたんだけど、誰もクモの話なんかしてなくてさ。カオルさんに訊けば詳しくわかるかなって」


 満月の下、俺は這う這うの体で逃げ帰った。死骸を放置して。発見されたとき、世間はどんな反応をするだろう。一片の興味もなかったといえば、嘘になる。

 無事に帰宅し、シャワーを浴びて。絆創膏を貼って、カップ麺を食った。そして開いた掲示板。そこに書かれていたレスは、このうろを充たすものではなかった。

 贔屓が弱いとか、今期のアニメはやばいとか。どこの板も似たような日常が綴られる。ループするプログラムは名前のないひとたちを制御し、バグは痕跡を残さない。


「うーん……贋迦ってぶっちゃけ、名前だけの都市伝説なんですよね」


 彼女が口を開き、俺は思考を打ち切った。


「名前だけ……っていうのは?」


「そうですねぇ……じゃ、はじめから話しましょうか」


 その都市伝説が産声を上げたのは、一週間ほどまえのことになる。

 アングラなオカルトサイトに書き込まれた、『贋迦』の二文字。中身のないそれを、ある会員は『蜘蛛の怪異』と決めつけた。


「それから、みんなで設定を持ち寄って、クモを育てていったんです」


 投下された設定を糧に、クモの腹は膨らんでいく。そこにはきっと、愛や理想が詰まっているんだろう。誰かの流した汗が、その血を赤く染める。


「前回の更新では、『千年前の残党』、『怪異殺しが人知れず処理している』、とかが追加されてましたねー」


 なんだよ怪異殺しって。据わった目でぼやくカオルさん。それは俺も気になるところだ。


「あのさ、クモの話だよな? なんで、怪異殺しなんて登場させるんだ?」


「対抗神話のつもりでしょうね。口裂け女に対するポマードみたいな」


 要はカウンターです。彼女が付け加えた。


「たしかに対抗神話はつきものですけど、怪異殺しは雑じゃないですか? なんでもアリはずるいですよ」


 もっと局所的で、脈絡のないもののほうが……

 ブツブツと渦巻く怨嗟に押しやられ、口を挟む隙も見当たらない。そこに藁人形があれば、彼女は迷いなく釘を打ち込むだろう。そんな熱量が伝わった。

 その様子を見るに、彼女の意見は跳ね除けられたようだ。誰かの掲げた盾は厚く、歯が立たないこともままある。それでも槍を手放さないのは――


「バットを担いだ少年って……せめてマサカリならなぁ」


 ――それがたぶん、譲れないものだからだ。


「……その少年が、怪異殺しなのか?」


 訊ねた声は震えていた。鼓動が生んださざなみは全身を滾らせ、やがてせかいはひっくり返る。

 手の届かないところに生っていた、金色の果実。酸っぱいと決めつけ、諦めたそれが、揺れに耐えきれず転がり込んでくる。その木には、無数の釘の跡が残っていた。

 彼女が可愛らしく、コテンと首を傾げる。


「え? そうですけど……それがなにか?」


「いや……」


 どういうことだ。なぜ彼の存在が記述される? カフェオレで喉を潤し、思考を巡らせる。

 たとえば、書き込んだ会員は、彼がクモを殺すのを見ていた。あるいは、俺と同様に助けられた人間か? アレが毎夜のことだとしたら、その可能性は高い。

 俺は口止めされたわけじゃない。クモが現れたのは住宅街の真ん中だ。夜中といえど、ひとの目に触れることもあるだろう。ありえない話ではないが。

 その場合、もっと話題になってもいいんじゃないか? それこそ、流布する都市伝説の如く。けれど、そうはなっていない。カギはそこにあるはずだ。

 彼女の口ぶりでは、話題になっているのはクモのほう。随分ディープな認知度だが、それはこの際どうでもいい。語り種になるだけなら、あくまで理解の範疇にある。

 だからこそ、理外が際立つ。月の光を浴びて露わになる、夜の輪郭。客のいない絵画展を開き続ける、そのサイトはきっと――


「……そのサイト、なんて名前なの?」


 俄然、興味が湧いてきた。身を乗り出す俺を出迎える、いたずらっぽい笑み。菩薩とは似ても似つかないそれが、灰の真ん中に熱をもたらす。


「もちろん、ちゃんと教えますよ。いやー、布教してきた甲斐があったなぁ」


 告げたその名は『Aくんの部屋』。それ誰のブログ? 有用なライフハックとか伝授してくれそう。

 一見ふつうのSNSですが、と前置き。


「最大の特徴は、会員登録の方法にあります」


「会員登録の方法?」


 斜め下からのツーシーム。芯で捉えられず、鸚鵡返しのピッチャーゴロ。足元のボールを彼女が拾い、山なりに投げ返す。


「メアドやパスワードは必要ないです。『表示された質問に答える』。これで登録完了」


 質問はけっこう理不尽で、時間制限あり。挑戦するたび切り替わる内容に規則性はなく、カンニングは不可能に近いらしい、と続けた。


「でも、安心してください。答えられなくても、からだの一部をもってかれる、なんてことありませんから!」


 補足したカオルさんが、星を閉じ込めた目を向ける。……そういや、そんな都市伝説あったよな。いつだったか、彼女から聞いたはずだ。名前はたしか――


「――怪人アンサー」

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