よるにさよなら
R1
飛んで火に入る
蜘蛛の糸
うーん、そうだなあ。
これはプロローグ……チュートリアルだからね。
はじめは蜘蛛にしようか。
「ああッ、クソっ!」
そんな激情を、吐き出す気概があるのなら。なんで『いま』なんだ。スロースターターめ。ウサギは月で待ってるよ。
かぶりをふる。もう間に合わねえよ。ここは凪いだ静かの海。揺蕩う舟は、淀んだ泥でできていた。
肺が軋む。運動不足の脚は、絹を裂くような悲鳴を上げ続ける。それでも足を止めることはない。一寸先が真っ暗な海底だろうと。そこに
乾いた口を塞ぐのは、鮮明な終わりの気配。滲んだ視界には、後輩のいたずらっぽい笑みが浮かぶ。リフレイン。これが走馬灯ってやつなのだろう。
――最近、話題の都市伝説があるんですけど――
俺はオカルトに疎い。彼女の話を聞くうちに、いくつか覚えた都市伝説もあるが。
――食欲旺盛な、クモがいるんです。食べて食べて、際限なく大きくなって――
それでも、話半分に聞き流していた。だって、ありえないだろ、そんなの。
――ついには、人間を……
そんなありえないものが、後背を脅かす事実を。
目を背けても、影のように纏わりつく現実を。
俺は、直視したくなかった。背を向けた。いつもそうして逃げてきた。
手元にあるものだけで、舟をつくれるわけないのにな。
一瞬の自嘲が、脚を絡め取った。
「いッ……!」
固いアスファルトに、からだを強かに打ちつける。呼吸が止まりかけ、溺れるように喘いだ。
左肘に鋭い痛み。擦りむいたのだろう。幸いというべきか、ダメージは少ない。が、俺は動けなかった。
なぜか笑みがこぼれる。最後に転んだのは、いつだっけ?
傷口から流れ落ちた、たった数滴の体温。それが乾くことはない。たぶん、生きるってのは、そういうことなんだ。
脱力して座り込んだままの俺に、そいつはにじり寄ってくる。バックには巨大なまるい月。どうりで、そのすがたがよく見えるわけだ。
月明かりを遮り、俺を覆う影。そのシルエットは、たしかにクモのかたちをしていた。
大型犬より、ひとまわりは大きいだろう。巨体を支える頑強な八本脚に、好奇心を宿す八つの目。
食うんだろ? オチはわかるよ。
意味のない走馬灯をフルスイングで粉砕。薄っぺらい人生を辿ったって、活路なんか見出せない。諦めて瞼を閉じた。
死後に期待しよう。誰かが俺に、糸を垂らすかもしれないぜ――
「諦めんのは、はやいんじゃない?」
――鋭敏になった聴覚が、クリアな声と風切り音を捉えた。
まるでスイカ割りだ。殴打と
砕かれた果実は、俺が育て上げ、
蒸し暑さが、肌の輪郭をなぞる。途端に噴き出した汗は、俺に生を訴えた。海を漂う感覚が残っていて、現在地がよくわからない。
けれど。鼓膜を叩いた、涼やかな音色を思い出す。
それは灯台のようなものだ。針路を定め、固く閉じた目を開く。
――
鮮烈に描かれた熱帯夜。月から零れた絵の具が、ひしゃげた腹に題名をつける。放射状に延びた朱は、自らを捉える糸の如く。
生きててよかったと、こころから思う。死んでから評価されたんじゃ、悔しくてたまらない。
普遍的な住宅街はキャンバス。非日常が色を足す。彩るは可憐な
ことばにできない感慨が湧き上がり、彼を眺め続ける。
中高生くらいだろうか。バッセン帰りの野球部には、断じて見えないが。
黒いジャージを夜に馴染ませた彼は、これが日常といった様子の自然体。クモよりよほど異質に映る。
その冷淡な眼差しが、俺を射抜く。肩にかかる黒髪が、妖しく揺れた。
「じゃ、気をつけて帰ってね」
――平坦な声音には、あたたかな慈悲が内包されていた。振り下ろされた拳とは真逆のもの。汚れを厭わず掬い上げる、柔らかな掌。
海面に、光が射す。その
雲の切れ間から延びたそれは、ホワイトアウトするほどの輝きに、ワイヤーのような強靭さを併せ持つ。
泥に塗れた両手を拭えば、傷ひとつない、薄い掌が現れる。この手の皮が剥がれ落ちて、ガワを新品に張り替えられれば。
俺は、自分をすきになれるだろうか。
――少しのあいだ、呆けていたみたいだ。少年のすがたはすでになく、取り残された俺と死骸。つーかどうすんだよこれ……
べつに、途方に暮れたってわけじゃない。ただ、空を仰いだ。
そういや、しばらく食ってねえな、餅。
ウサギの垂らした糸を掴めば、流れ込むなにかがあった。俺がもっていないものだ。それを頼りに立ち上がる。
心地よい疲労なんて、とても口にはできない。ゲラゲラと膝が笑う。
この世に生を受けたばかりなんだ。震えるのもしかたないだろ? 針にかかった魚みたく、無理矢理に口角を上げた。
熱に浮かされた、七月三十一日。誕生日でもないし、夏なんかきらいだし。さっさと終われと思っていたが。
いまだけは、こころを預けていたい。ゆりかごのようなこの夜を、俺は灰になっても忘れないだろう。
寝苦しい夜に、さよならを告げて。
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