第5話

 ピポパポポ、またプッシュボタンの音が頭に鳴り響いてきた。

「ネコチャンはきみにしか見えないのに、どこに電話しようっていうの? ネコチャンはきみの部屋で気ままに暮らすために来たんだよ」

「それもそうだね」

 ぼくの生活がネコチャンのために崩れていくのは仕方のないことだ。だってぼくはやさしくて、ネコチャンに気ままに暮らしてほしいから。

「今日はあまいにおいがするね」

「チューハイだよネコチャンも飲んでみる?」

 9%のチューハイを嗅がせたら、猫は大きなくしゃみをした。それから部屋をぐるぐると駆け回って、カーテンをのぼり、外し、裂き、そこいらじゅうの壁にぶつかり、シンクに置かれた皿に溜まったままのぬるついた水を飲み、吐いて、寝た。

 翌朝ぼくは荒れに荒れた部屋で目を覚ました。

 ジャキジャキに裂かれ、外れたカーテンから、久々にベランダが覗けた。枯れた観葉植物は、想像よりもグロテスクではなかった。例えば即身仏みたいなものを想像していたけれど、木は木だった。

 久々に陽光の差し込んだ部屋は当然ながらひどい有様で、ぼくは部屋を外から隠したくなった。応急処置として段ボールをはめることにして、山となった段ボールを三枚畳んで平たくした。寝場所にしていた猫は少し不満げだ。そのわりに楽しげに爪とぎをする。音が部屋に響くけれど、猫の鋭い爪痕は残らない。

 代わりにぼくの指先は擦りむけている。

「ねえネコチャン」

「なんだい」

「ぼく、クーラーの掃除をするよ。掃除機を使うけど、部屋の隅っこに待ってられるかい? 埃っぽくなるから窓を開けるかもしれないけど、逃げていかないかい?」

「待てないかもしれないし、逃げるかもしれないニャン」

 猫は今までつけていなかったわざとらしい語尾を付けて言った。

 すでに昼を過ぎていたので、ぼくは鍋を洗って久々にそうめんを茹でた。猫はそうめんを食べなかった。

 たっぷり昼寝をとってから、ぼくはいよいよクーラーの掃除に取り掛かった。背伸びをしてフィルターを外し、埃が舞うのを見たときに、ぼくは唐突に思い出した。

 ぼくの自転車はどこも不調じゃない。

 ピポパポパパポパポピポ、頭の中で11桁分のプッシュ音が鳴る。ニャンニャンネコチャンぜろきゅうぜろ……、ぼくはスマホを久々に充電コードに繋いだ。起動までがもどかしく、落ち着かない気持ちでベランダに出て、掃除機でエアコンフィルターの埃を吸った。猫が「ニャーン」とわざとらしく猫的な鳴き方をした。なぁーん、でも、ぅあーん、でもなくはっきりとニャーンだった。

 ブブ、と小さく震えたスマホにとびついて、ぼくは頭の中で回り続けていた11桁の番号をプッシュした。充電は2%と1%をいったりきたりした。

「はい、江藤ですが」

 そうだ、11桁の番号の下には江藤とあった。

「すみません、たずね猫の件なのですが」

「ありがとうございます。でももうその件は結構ですので」

「それなら、よかったです。先月似た猫が、轢かれて道路にいたのを見たもので」

「その猫でしょう」

 飼い主が言うので、ぼくは謝って電話を切った。切ってから、猫探しのチラシにあった猫の名前を思い出した。ハッサクといった。なぜかハッサクの姿と電話番号だけが記憶に刻みこまれていて、名前はずっと意識の外だった。

 ハッサクは道路にすでに轢かれた状態でいた。

 夜だから仕方なかった。でもぼくは、その猫の死体の足か尻尾か、わからないけれど、胴体ではないどこかを自転車で轢いた。

 夜だから仕方なかった。でもぼくがハッサクの特徴を、立ち止まって確認できるくらいには明るい夜だった。

 ぼくは何もできずに去った。埋めるのは大変だけれど、せめて道の端に寄せるとか出来たかもしれないのに。

「ねえネコチャン、きみは、」

 振り返ると猫は消えていて、窓の外では夜の気配の風が吹き始めていた。

 それからフィルターを洗い流し、乾燥しきるころにはもうきっぱりと夜になっていた。フィルターを掃除したクーラーは快調に動き、ぼくは涼しい風を浴びながら観葉植物の捨て方を調べた。

 時刻が迫っていた。あの日ぼくが轢かれたハッサクを見かけた道路を通りがかった時間が。久々に自転車置場から引き出された自転車は、サドルが砂埃で覆われていた。手の甲でざっと払って乗ると、あの日と変わらず自転車は走った。

 ハッサクの倒れていた道路は、今はもうきれいなものだった。当然だ、先月のことなんだから。ネコチャンが再び現れることはないだろうな、と思って見上げた空は曇っていて、月は見えなかった。

 明日はカーテンを買いに行きたい。ぼくの部屋はモノトーンに青系統を差し色にしてまとめているけれど、サビ猫みたいなもやもやとした茶もいい気がした。確かにその瞬間はそう思った。

 しかし一晩たって冷静になってみれば、やはりインテリアのまとまりが崩れるのはイヤである。ぼくは前と同じカーテンを注文した。

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ニャンニャンネコチャン 髙 文緒 @tkfmio_ikura

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