縷々入江
ラムサレム
縷々入江
波風に攫われたキャップが飛んでいくのを、男はぼんやりと眺めていた。それは高く舞い上がり、二つの山々からお皿のように窪んだ入り江を映して海の上にポンと浮かんだ。男は頭にキャップが無いことに今更ながら気が付いて、すぐに網をもって掬い上げようと腕を伸ばすが、あとちょっと届かない。男の名前は塚田と言い、2年ほど前から漁師をしている。
毎日牛乳を飲んで背を伸ばせと親に言われていた彼だが、努力虚しく170cmで止まってしまったことに初めて悔いを覚えた。キャップも波で遠のいていき、仕方がないと船を動かそうと甲板を歩き始めると、誰かが先ほどの網で男のキャップをヒョイと掬い上げたのだ。
誰かと言っても、この船には二人しかいないのだが。
「矢内、周り見張っとけって言わなかったか?」
「周りを見張ってたらちょうど誰かの帽子が浮かんでたので回収したんですけど..余計っすよね、元に戻しときます」
「いや、待て..よーく見たらこれ俺のキャップだわ、どっかで落としてたんだなーいやー偶然だなーありがとな、うん」
「先輩、そんなみみっちいことで先輩面しなくていいんですよ」
「違う!先輩面じゃない、師匠面だ」
「みみっちいことしたのは否定しないんですね」
そのみみっちい言い争いをしたもう一人の男は矢内てとらと言う。
身長は187cmで塚田は憎たらしいと思っているが物分かりの良い彼の弟子だ。ここに引っ越してきて食い扶持を稼ぐために二か月前からここで働いている。塚田は初めてできた弟子に嬉しくなりすぐに採用して、どこかのテレビで漁師は人を雇う時自分のことを師匠と呼ばせると聞いたことがあったので矢内に言わせようとしたが、師匠というより先輩の方がしっくりくるらしく、今では先輩と呼ばれている。
「それより先輩、漁はもういいんすか?」
彼は船に備え付けられた時計を見た。6時13分、4時から船を出したから、一度帰る事にしようと考えた。
「ああ。帰って飯にしよう」
漁港に戻ると、明らかに漁業に関係のないスーツの男が窮屈そうに彼等を待っていた。塚田にとってはここ二日前から嫌という程見た丸い顔だ。
「おはようございます。塚田さん今日はよく獲れました?」
「どうも、金田さん。朝から仕事熱心ですね」
金田は、今年で30を迎える若い自治体の職員だ。ふくよかな体系で、汗で服が二の腕に張り付くほど汗っかきで、意地汚い。普段なら近づきたくもないのに最近付き纏われているのは、塚田が漁をしている場所にある。
「言っときますけど、引き下がる気はありませんよ」
「ええ、構いません。その場合あなたは捕まりますけどね」
悠々とハンカチで汗を拭く金田に、塚田は声を荒げる。
「どういう権利で捕まると? 俺は漁業権の許可証も持ってるんですよ」
漁業権を持っている限り漁業者は申請した海域での漁を保証するため、ある程度の権限がなければ塚田は追い出されない。そう思い強気に出ていた。
しかし金田は余裕ずらのままビジネスバッグから一枚の紙を取り出し、彼らに突き付けた。鬱陶しそうに見ていた塚田は、その内容に目の色を変えた。
「例の入江の埋め立て許可です。県から直々に言われた事業で、あなたは三か月後ここの漁業権を剥奪されます。代わりに漁業の収益一年間分の賠償をさせていただきます」
確かに、県のサインと埋め立て許可の内容が書いてあるが、この苗字と名前には見覚えがある。町でよく見かける金田の親戚の名前だ。
「てめぇ、ついにコネ使いやがったな」
「おっと言葉遣いが荒いなぁ、怖いですよぉ」
「とぼけんなよ。サインしてる奴全員お前と仲いい奴ばかりじゃねーか」
金田は薄ら笑い、それを肯定する。
「ああそうだよ。おめぇがなかなか退こうとしないから俺も強引に手を打たせてもらったぁ」
「ふざけんな、何でそこまでしてあの入江を埋め立てたいんだ。他にいくらだってあるだろ」
「知るかぁ。県が決めたところが偶然あそこでお前が邪魔だったってだけだろぉ」
「はぁ? そんな事理由になるわけないだろう! だいたい──」
二人の会話が段々と熱を帯び始め、見かねた矢内が止めに入る。
「落ち着いてくださいよ先輩。こんなところで口論しても埋め立ては取り消されませんよ」
だからといって県に取り消しを申請しても却下されるだけだろうと確信している塚田は、騒がない訳にはいられなかった。
「だいたい、何でいつも俺がいる場所なんだよ!」
もうどうしようもない事を悟った塚田は振り上げた握り拳を静かに下ろし、抵抗をやめた。金田は張り付いた衣服の胸元をヒラヒラと扇ぎ、沈黙を破るように言い放った。
「とにかく、明日の午後一時に埋め立ての計画説明を行うから、ここに集まれぇ。別に来なくても良いが、後腐れを残さないようにしろよぉ」
金田はほんの少し申し訳無さそうにメモを渡すと、まだ仕事があると愚痴を言いながら帰って行った。
じっとりとした夏の空気が、朝の漁港を包み込む。これからどうしようかと、どうにもならない事を塚田はメモを見つめて考えていた。
入江の奥には鬱蒼とした森がある。 森は入り江を覆うようにあるため町と隣接せず、未開の土地として長らく存在していた。塚田が呼び出されやって来た場所はその森と町の境界線上にある、普段猟師が休憩する古い公民館だ。
黄ばんだ壁と天井を見てどこか懐かしさを覚えながら、擦った黒い跡がある廊下を歩いていく。騒がしい音のする会議室へ入ると、ホワイトボードの前にハンカチをうちわ代わりに扇ぐ金田と、暇そうに携帯をいじる矢内が居り、長身の堀の深い顔の男や頭を丸めた細目の男など、塚田と面識のない四人組が身内話で盛り上がっていた。他にも町内会長や近隣住民の方達が座っていて、塚田は背筋を伸ばして矢内の隣に座る。矢内と軽く挨拶をして、塚田は矢内に聞いた。
「なぁ、前にいる四人組、誰か分かるか」
「良く知らないっすけど、土木作業員だって金田が言ってたっすよ」
四人組の服は、塚田も知ってる有名な土木会社の作業服だ。机には資料が置いてあるので、工事の説明は彼らがするのだろう。
進行役の金田が立ち上がり、そろそろ始めましょうとホワイトボードに概要を書きだす。すると、
「ちょっと待ってください、まだ考古学者の
四人組の長身男が資料を確認して指摘した。何度も説明するのが面倒で、効率も悪いからだ。ところが金田は露骨に嫌な顔をして答える。
「い、いえ、時間通りに始めないと皆さんに迷惑でしょうから先に始めさせて頂いてぇ、遅れた方は私の方で説明しますのでぇ」
と、答えになってない答えを言って走り書きの概要を書き終えた。長身の男も仕方なしに準備をして、やや早く説明会が始まる。
「では、
「すいません、遅れました~」
勢いよく扉が開いた。その女性はベージュのハットにサファリジャケットを着たいかにも考古学者らしい服装だ。カールを巻いた髪とおっとりした目、血色のよい肌、つんと出た小さな鼻が顔立ちを美しくさせている。その小さな風貌とおよそ理想的な体つきはまるでサファリファッションを着こなすモデルのようだ。
急いで来た彼女の首元からは汗が垂れていた。
「あっ四海さんッど、どうぞお好きな席にぃ」
金田の上擦った言葉に彼女は分かりましたと返し、塚田の1席隣に座った。
「それでは改めて津谷入江埋立計画を説明させて頂きます。司会は小塚組の山田そうたが務めさせて頂きます。ではまず──」
埋立計画は、津谷入江と隣接した二つの谷を埋め立てる、完了に何年もかかる大規模な工事だ。入江周辺の森林伐採、その後に測量を行い、施工に取り掛かるとのことだ。しかし、四海からの申し出によって津谷入江周辺の無くなった集落の調査をするため森に知見を持つ人と猟師などと共に森の散策を行うらしい。
「では、考古学調査のメンバーを紹介します」
一人目は当然四海。立ち上がり、ペコリと一礼して感謝を述べる。
「急な申し出に快く許可を出してくれた自治体の皆さんに感謝して研究に取り組みたいと思います」
二人目は猟師の
「えー調査メンバーの皆さんに言っておきます。最近、森に熊が出没しています。いつどこで会うか分からない状況の中森を歩くのは大変危険なため、私の指示に迅速な行動をお願いします」
そしてなんと三人目は金田。彼は自治体の中でこの町の歴史に博識であると評価され選ばれた。彼は張り切った様子で立ち上がり、にひ、にひ、と奇妙な音を立てていた。
「調査メンバーに入れて貰って本当に嬉しく感じますっ。四海さんの手助けができるよう頑張りますっ」
ハキハキとした気色の悪い喋り方に塚田は蔑みの目を向けるが、当の金田は幸せそうだ。
「続きまして、四人目のメンバーは塚田さんです。塚田さんおねがいします」
「ん? は? えっ俺?」
彼はまるで何も聞かされていないような素振りで立ち上がる。実際、彼は調査メンバーになる事を知らなかった。それらを知らせる封筒を彼はポスターから確認していなかったのである。
「えっと、調査メンバーに選ばれました。塚田です。入江周辺の知識を生かして、調査をより円滑に進められるよう頑張ります」
と即興で考えた言葉を並べ立てながらも、頭の中に疑問符が浮かんでいた。
説明会終了後、塚田と矢内、そして四海と金田は机を囲んで話していた。
「いやぁ、まさか調査メンバーになっているなんてなぁ」
「俺は結構前からポスターに入ってたんスけど、無かったんスか?」
「ポスター? 一度も見てなかったわーはっはっは」
ちゃっかりメンバーに入っていた矢内は塚田の付き添い及び他メンバーの手伝いという役割だ。なんで教えないんだとすっかり出来上がった塚田は矢内にダル絡みしていた。明日から始まる調査の親睦会として最寄りの居酒屋で一杯飲もうとなり、焼き魚とビールでやんややんやと主に塚田が騒いでいる。
四海は帽子を外し、胸元を開けるラフな格好になっている。お酒もそこまで飲みはせず、聞きに徹している。金田はそれを良いことに自分の武勇伝を悠々と話して彼女にアプローチを掛けているようだが、彼女は「すごいですね」とか「そうなんですね」と他人行儀に返事するばかりだ。四海は金田をいなしながら全員に質問を投げかけた。
「そういえば、皆さんってあの森に入ったことあります?」
「俺は無いっすね。何しろ二か月前に来たばっかりすから」
「私は文献を読んである程度の情報はありますが、森に入ったことは無いですね」
「多分行ったことある、と思う」
「なーんだそりゃ、はっきりしろよぉそれ位」
曖昧過ぎる答えに金田がツッコむ。塚田は思い出そうと遠い目をすると、いくつか断片的な記憶が出てきた。
「森に入ったのは覚えてる。その後入り江を見つけたのも。でも、その間とか帰り道とか思い出せないんだよな」
単に印象に残ってないだけかもしれないと付け足して、彼はグラスをあおる。
「そうなんですね、出来れば集落のある場所がどこか知りたかったんですけど、しょうがないですね」
四海は彼の話を聞いて表情を硬くしたが、すぐに明るく笑ってそう言った。
「そういえばぁ、四海さんは考古学者なのに何故集落調査を? 普通は民俗学の分野ではないですかぁ?」
話題を変えて、金田は純粋な疑問を彼女に訊いた。今は四海に夢中の彼だが、自治体での真面目な性格が顔を出したのだろう。
「確かに集落調査は私の出番じゃないですね。でも、実はあの集落に興味深い遺物があるんです」
いつの間にか空になったグラスを置くと、彼女は店員を呼んでそう言った。
「ほぉ、その、遺物というのはどのようなものなんですぅ?」
「詳しいことは分からないのですが、宗教に関わる大事な物だと聞いてます。噂では、神様を称える美しい陶器らしいですよ」
四海の言葉にコクコクと相槌を打ち続ける金田に笑顔を向ける。「なので」、と彼女が追加のジュースを掲げてこう言った。
「皆で頑張って見つけましょう! 乾杯!」
「「「カンパーイ!」」」
本日二回目の乾杯に三人のテンションが上がった。
「四海さんっ、送っていきれすよぉ! おれ、いや私いい車持ってるんれすぅ!」
「飲酒運転は駄目ですよ金田さん。ほら、足取りも覚束ないですし」
千鳥足になって四海に支えられている金田は、「申し訳ない」と言いながらもしっかりと彼女の腕を掴んでいる。彼女は少し困った顔になって二人を見た。それを見て塚田と矢内は二人掛かりで金田を引き剥がし、肩を貸して支えた。
「あー金田さんは帰り道どっちなんすか?」
矢内は彼に聞こえるようゆっくり聞いた。
「んぁーみな、み、南通りぃ」
「南通りなら、俺と同じ方向なんで運んで帰りますよ」
「ああ、サンキューな矢内。俺逆方向だから」
矢内は酔っ払いを担ぎなおすと、「このくらい任せてください」と言って帰って行った。
矢内たちが帰っていくのを見届けると、ほのかに甘い花の匂いが塚田の鼻を刺激した。四海の服の香りだ。塚田の傍に立ち話すタイミングを待っていたのか、彼が振り向くと凛とした低い声が、暗くなった町に響く。
「タクシーまで、一緒に歩きませんか?」
無言の中、塚田はやけに緊張して四海の隣を歩く。彼にとってこの静けさは少し怖いものだ。
「あの居酒屋、どうでした?」
「はい、どれも美味しいものばかりでした。特に、焼き魚!」
「アジの塩焼きですね。旬の魚なんで、脂がのって美味しいんです」
「へぇー、お詳しいんですね」
「漁師ですから」
彼女はそれを聞いてクスッと笑う。
「そうでした。塚田さんってあんまり漁師に見えなくって」
「えぇ!? そんなぁ!?」
と、塚田が大袈裟にリアクションを取ると、四海が目を大きく開けて驚いた顔をする。それが何だか可笑しくて、二人は顔を見合わせて笑い合った。
「あ、じゃあ塚田さんはなんで漁師になったんですか?」
笑いが収まり、ちょっと息を吐いて四海は聞いた。
「二年前に色々あってこの町に引っ越してきて、すぐに働かないといけなかったんです。で漁師の爺さんに何とか弟子入りさせて貰って、一人前になって、自分の漁場を持てたのに、こんなにすぐ無くなるなんて」
塚田は苦労したことを思い出して、また入江が埋め立てられることに怒りを覚えた。
「大事な場所だったんですね...」
「えぇ...とても...」
寄り添うように一緒に下を向いて、四海は共感する。
「塚田さんは、津谷入江をどうして選んだんですか?」
「それは..」
そう言われて塚田はあの入江は何なのか、分からない、と思った。獲れる魚はまちまちで、他の漁場の方が多いはずなのに、何故入江を選んだのか、理由が思いつかなかった。どうしてもあの入江じゃなきゃ駄目な理由があったはずなのに、何も考えられずに彼が言い留まっていると、四海は後ろで手を組んで笑った。
「分からない、と思ってます?」
「えっ」
彼女の笑う姿は先ほど冗談で笑い合った笑顔とは程遠い、どこか悲しそうな笑顔だった。
「私も、どうしてここに来たのか、たまに分からなくなります。何か焦りを感じて、虚ろな、空っぽな気分になるんです」
空を見上げて、四海は呟く。まだ空が明るく見える、うっすらと二つの星が輝いている夏の夜空。彼女はまたフフッと、微笑む。
「なんだか似てますね。貴方と私」
その言葉に塚田が困惑していると、ちょうど、タクシー乗り場に着く。彼女はいつも通りの明るさを取り戻して、お辞儀をすると、
「お互い見つけられると良いですね。では、また明日、あの森で」
と言って帰って行った。彼女が見えなくなるまで手を振っていた塚田の鼓動は、強く早く脈打っていた。
森へ入る道は生い茂る草木が押しつぶされて、一本の筋の様に見える獣道だ。猟師の峰山は集合時間よりも早く来て、周囲の確認と猟銃の手入れを念入りに行っていた。
「おはようございます。お早いですね」
「おはようございます。四海さんも、朝から仕事熱心ですね、服が汚れてる」
「森の境界線に何かないか探してたんですよ」
次に到着した四海が峰山と挨拶をしていると、後を追うように三人が到着した。
「では、事前確認を。前回お会いした時に言いましたが、この森には熊が居ます。熊除けの鈴を付けておけば大抵は近づいて来ませんが、もし会ったとしても背中を向けて逃げず、熊の顔を見てゆっくり後退してください」
峰山が全員に鈴を渡すとそう言って、出発した。移動は列の様な隊形となり、先頭は何だかんだで地理に詳しい金田。次に四海、塚田、矢内、最後尾は峰山の順番だ。
森の中は木々で犇めき合っていて、日光があまり通っていない。地面は雨が降っても居ないのに湿っていて、草が無い場所は大抵ぬかるんでいる。塚田たちはぬかるんだ場所を避けながら、薄明りを辿るように進んでいく。
「金田さぁーんどこに向かってるんすかー? 俺ちょっと疲れてきたんすけどー」
荷物持ちの矢内は森に入って数分で疲れたのか、さっきからずっとこの調子である。海での働きは活発な彼は、どうやら森では発揮されないようだ。
「集落の近くに谷があったって記載が多くあってぇ、もうすぐ着くと思うんですがぁ...」
「あっ!」
ノートと文献(のコピー)を見比べながら金田が話していると、四海が何かに気付いたようだ。列を抜け出して獣道から逸れる。
塚田達が彼女に追いついて、何を見つけたか聞くと、先端が尖った鉄の棒の一部を彼らに見せた。長さは手の平からはみ出るくらい、太さは男の中指ほどで、同じくらい鋭く長いかえしが付いていた。そして最も特徴的なのは模様だ。棒全体にそれは施されていて、流動的な曲線で幾つもの渦巻と
「これは、
塚田が既視感を覚えてそう言うと、納得の声が矢内と金田から漏れた。
「確かに、それっぽいっすね。見たことあるっす」
「この辺りは魚を採って生活してたらしいし、銛があるのも当然かぁ。それなら、集落もすぐ近くにある筈」
金田は顔を上げると森の奥に日光が反射してキラキラと光る場所を見つけた。
「きっとあれです。行きましょう! 四海さん?」
「あっ...はい」
銛の一部をもって四海は上の空になっていて、名前を呼ばれて初めて気が付いた。銛の一部を置いて、金田の後をついて行く。
二十分ほど草を掻き分けて、塚田は光が反射する場所まで近づいた。木が生えておらず、短い草と木が日光に満遍なく当たる、広い土地だ。木造の一軒家が五、六軒建ち並んでおり、瓦の屋根がキラキラと真上にある太陽を反射していた。蔦植物に覆われた井戸も幾つか見える。四海が探していた、森の中の集落とはここの事だろう。
「集落の探索は、私が一軒一軒見ていきます。峰山さんと矢内さんは周りを見張っていてください。塚田さんと金田さんは私と一緒に来てください」
四海が指示をして、円滑に探索は進められた。見張りを置くのは、単純に熊が来ないようにする為らしい。金田は文献の知識がある自分は必ず彼女と一緒になれると考えていたようで、塚田が居る事に不満げだ。一方の塚田も朝から四海を自然と目で追うようになっていた。一緒に来てほしいと言われて、にんまり笑顔で若干嬉しそうである。そうして、三人は民家へと足を踏み入れた。
民家は全て石の土台の上に立っており、壁が蔦や苔にほとんどが覆われて人が住んでいたとは思えないほど寂れていた。戸締りの悪い引き戸を開け、中へ入ると埃被った台所や古くなって腐った畳が三人をお出迎えする。
この集落は、江戸時代の後期から昭和の初めまで存在していたと、金田の文献から分かっていた。昔は価値のある場所だったのか、どの家も茅葺屋根ではなく瓦の屋根で出来ていて、暮らしぶりも民家を見る限り質素なものではなくそれなりに裕福な生活をしていたと分かる。しかし、この集落がどうして消えたのか文献にも書いておらず、誰も知らないのだ。
「四海さん、何か見つかりましたか」
「いえ、この家もただの漁師だったようです。次へ行きましょう」
網から手を離して立ち上がった四海はそう言ってすぐに隣の民家に移動する。仕事に専念する彼女の顔は、親睦会の楽しそうな笑顔と全く違う。見定めるように細い目と固い顔つきで、慎重に、そして冷静に仕事をするのだ。
「そういえば、この集落って鳥居も仏壇も見当たらないですねぇ。ここの住民達は無宗教なんですかねぇ」
四つ目の家に慣れた手つきで入りながら金田は呟く。この建物は他の家より少し大きい。集落の長の建物だろう。
「確かに、どの家にも宗教的な物品は見つからなかったな」
「もしかしたら、探している遺物が信仰の対象なのかもしれません。大切だから、どこかに隠しているのかも」
特に代わり映えしないかまどの台所、畳の内装の中。一際大きな仏壇棚が鎮座しているのを見て、三人は目を輝かせた。それは若干苔むしているが、頑丈な造りによって形を変えることなく現存していた。棚はおよそ幅六十センチ、縦八十センチの長方形。上部に引き出しが二つ、その下部には大きい両開きの扉がある。鍵は無く、簡単に開けられる。
四海はそっと引き出しを開けて調べる。
「...本? なんて書いてあるんですか?」
「...えっと...
「三津谷ぃ? この森には二つしか谷は無いはずですがぁ」
何枚にも重ねられた和紙を麻紐で固定した本には、読みにくいが確かに《三津谷村》と筆で書かれていた。民家と同じくらい古いそれはかなり黄ばんでいて、所どころ穴が開いてボロボロだ。
「これ...読んでみますね」
「よろしくお願いします」
「了解ですぅ」
四海はおもむろに本を取り出してそういった。二人は了解して民家の探索を続ける。仏壇の下部にある両開きの扉を開けると、大きな和紙が二つに畳まれて置かれていた。
「この集落の地図か」
「マップアプリもあるし要らないなぁ。いや、待て」
金田はふくよかな体を何とか折りたたみ、地図を広げて自分の持っているマップと見比べる。すると、
「やっぱり変だぁ。この地図、三つ目の谷の位置が描いてあるぅ」
彼が言うように、この地図には三つの谷が規則的に並んで描かれている。三つの谷は入江を下に横並びになっていて、まるで三本指の足跡みたいだと塚田は感じた。
「この谷って今は山になってるよな。長い時間かけて埋まったのかな」
「さあなぁ、詳しく調べてぇけど四海さんの探す遺物が見つかったらそこで終わりだぁ」
集落の中に宗教的な物品も遺物も見つからなければ、恐らく外に何かを祀る場所を探すはず。その手助けに地図が役立つと踏んでこの地図は金田が持っておくことにした。
さて、と言って金田は隣の畳部屋へ移動する。塚田も続いて部屋に入ると、いきなり肩を掴まれて引き寄せられる。加齢臭がふわりと彼の鼻に刺さり思わず顔をしかめるが、金田はお構いなしに顔との距離を縮めて近づける。
「塚田ぁちょっと聞きたいんだけどよぉ..」
「なんだよっめんどくせぇな!」
鼻息が顔にかかる不快感を我慢しながら彼は言った。肩を振り払おうとしても強固で離せない。
「お前、お前さぁ、四海さんに気があったりしねぇよなぁ」
「はあ? んなわけ」
「じゃ、じゃあよぉ、俺と四海さんが二人になれるよう手伝えよぉ」
それを聞いた塚田は不釣り合いだ、と正直思った。一方は清潔でそれでいて美しく、淑女である四海さんが、加齢臭のする下心丸出しの金田とくっつく? 無理だな。お疲れ、ドンマイ。と言ってやりたいが、今それを言ったら殺されそうだと考えて、表面上だけでも受け入れる。
「分かった、分かったから、手どけろよ」
金田は慌てて手を離す。
「じゃあ、手伝ってくれるんだなぁ?」
「いや、手伝うと言っても、俺には二人きりにすることしか出来ないから」
「あー大丈夫だ。お前にそんな大層なの求めないからさぁ」
「そうかよ」
いちいち鼻に障る言い方に塚田は我慢しながらそう返す。とりあえず、アプローチは金田が行って、出来ればフォローをしろと金田が一方的に言いつけた。塚田は金田の恋などどうでも良いと感じている。がしかし、実際四海の事を自身がどう思っているか良く分かっていない。似ている所も、彼女に気があるのかも。
そうして、塚田は金田の一歩後ろに下がり、二人の様子を眺める事に専念するようにした。初めの部屋に戻り、本をもって立ち尽くしている四海に金田が話し掛ける。
「読み終わりましたぁ?」
「はい、どうやらこの本は村八分が書いてあるみたいでした」
村八分とは、簡単に言えばこの村独自の決まり事。四海はその決まり事の中に面白いものがあるという。
「年に一度、大量の魚と成人した生娘一人を壱ノ谷の祠に奉納する..この村には、生贄の文化があったんです」
それを聞いて塚田は驚きと不快感が入り混じった表情をして、金田は顔をしかめながらも冷静に彼女に尋ねた。
「という事はぁ、四海さんが探している遺物がその壱ノ谷の祠にあるって事ですねぇ?」
「ええ、確実に。この村の信仰も、私の求めるものも、全てそこにあります」
三人が民家から出ると、時刻は四時を過ぎていた。見張りの峰山と矢内に事の顛末を説明し、今度はこの集落に最も近い谷へ行くことになった。
地図に描いてあった壱ノ谷は、初めに目印にしていた集落近くの谷だ。
「木は生えてますけど、降りれる高さじゃないっすね」
幅はそれほど狭くは無いが深さがあるのか、坂と言うより崖のようで、降りるのには骨が折れる。物理的に。従って、降りるためには集落の人々が使っていた道まで行かなくてはいけないのだ。峰山が先導して歩く中、意識して四海に距離を取っていた塚田は耳元で聞こえた吐息交じりの小声に肩が跳ねる。
「ねえ」
「うっ..なんですか、急に」
「昨日の話の続き、私段々とですけど、答えに近づいてる気がします」
昨日と言えばあのタクシー乗り場の話かと、彼は思い出す。なぜこの森に近づくのか、曖昧で虚ろな記憶を彼女も持っていた。
「俺は、まだです」
「この森を調べる度に私の中で満たされていくのを感じます。貴方もきっと分かる筈」
「...?」
気づけば、彼女の甘い香りは消えていた。何事もなかったかのように金田の話を聞いている。一瞬の出来事に塚田は聞き返そうと「あの──」と言いかけて、峰山に遮られる。
「待て。奥に何かいる」
峰山は猟銃を構え、様子を窺う。塚田は後ろの四海と、ついでに金田を守るように腕を広げた。
進む道の先に、森の影に紛れて歩いて来る。姿はまだ見えない。音だけ、はー、はー、と深い息遣い。ざりざり、ざりざり、引きずるような、土を擦る音も聞こえる。
暗闇で、ゆらゆら揺れる姿が薄っすら見えた。それは二足歩行で、体型はすらっとして、見るからに長身で...
「峰山さん、あれ熊に見えますか」
「いや、人だ」
その男は、塚田達の目の前で力抜けて倒れた。傷の確認をする為すぐに仰向けにして服を脱がせる。
男はあちこちに擦り傷と打撲の跡があり、何度も転げ回ったようでボロボロだ。服も泥だらけで、血が滲んでいる。塚田と矢内が応急処置を行って、しばらくたった頃、男はゆっくりと目を覚ました。彼は塚田達を順に眺めて、危険が無いと分かったのかホッと息をついてこう言った。
「ここは、どこだ」
「まだ森の中だよ。あなたの名前は?」
塚田はパニックを起こさない様優しく聞く。
「山田..山田そうた。小塚組の」
小塚組と言えば、工事説明会の進行をしていた土木作業員だと全員が思い出した。
「山田さん、あなたはここで何をしていたんだ?」
「仲間、三人と肝試しに来たんだ。この森は程よく暗いし..出るって噂もあったから」
「森には熊が出ると説明会でも警告したでしょう。何故にこんなことを」
峰山さんは険しい表情でそれを咎める。彼も反省しているようで、謙虚に言い返す。
「分かってます。熊が出るのはまずいと思って、全員に熊除けの鈴を付けておいたんですよ。でも、逆効果だった。この森に、熊なんてっ居るはず、無かったんだ...」
徐々に思い出したのか、山田はひどく震えて、髪をくしゃくしゃにして抱え込んでしまった。あまりにも突拍子の無い話で塚田は峰山を見るが、彼も良く分からないと首を傾げる。金田は必死に文献を漁るが見つからないようだ。
「あの、山田さん。辛ければ大丈夫なんですが、仲間とはぐれた時の具体的な内容を聞かせてもらっても良いですか?」
金田はとりあえず情報を得ようと山田に質問する。山田は頭を抱えながらもぽつりぽつりと語り始めた。
「ちょっとだけ、森に入って帰ろうと思ったんです。けど、突然橋本..仲間の一人が倒れて...見えたんだ。後ろから、化物が。俺達ビビって、あいつ置いて逃げて、それでも追いつかれて、俺だけ足を滑らせて、谷に落ちたんだ」
「では、はぐれた友人も」
「どこに行ったか分からない。生きてるのかも」
その後は谷を登る階段を見つけ、上った先に塚田達を見つけて倒れた。そう言って山田は、震える手を握りしめ、恐れも怒りも吐き出せず目に涙を浮かべる。
「話してくれて、ありがとうございます。とても辛かったでしょう。後は任せて、安静にしていてください」
山田はそれを聞いて、痛みを堪え塚田の腕を掴む。
「仲間は、あいつらは見つかりますか」
塚田は、強く肯定したかった。しかし、出来るか分からない事に嘘をついて肯定しても、悲しみが深くなるだけではないか、そう思って言い留まる。
「必ず見つけます。絶対に」
そんな塚田を押しのけ手を握った金田は力強く言って、彼の肩に片手を乗せた。安心したのか、山田は目を閉じて、脱力して眠っている。
眠った山田を確認すると、金田はこれからどうするか提案する。
「私は山田さんを森の外まで運んで全員で森から出る事が最善だと考えます。森にいるのが熊じゃなくても、鈴が効かない熊だとしても、少ない人数では危険すぎます」
金田の提案に誰も文句を言う人はいなかった。矢内が山田を背負い、金田が先導して最短で森を抜ける。鈴が無意味と分かったため、塚田と四海は矢内の後ろに付いて行って、側面に何かいないか注意して、銃を持つ峰山は最も後ろで警戒する事にした。
日差しは傾き、空は段々と赤くなって来ている。塚田達は一歩づつ着実に森の出口へ進んでいた。
「金田、行方不明の人って見つかる事あるのか?」
先の山田との会話で、気になった塚田はそう聞いてみた。
「行方不明者のうち大半は一週間以内に発見される。逆に言えば一週間以内に見つけなきゃ発見が難しくなる。この森は入り江周りだけとはいえかなり広いから、一週間で探しきることが出来るかどうか難しいなぁ」
森の中はひどく静かで、虫の鳴き声もなくただ土を踏むぬかるんだ足の音と、草を掻き分ける音だけがこの場を支配していた。
「じゃあ何であんなことを言った」
塚田は金田の背を見た。地図アプリと地図を見比べて下がった頭は、少しだけ上を向く。
「行方不明の三人、この町の人なんだぁ」
歩みは止めずに、汗を何度も拭って金田は続ける。
「山田さんを安心させるためってのもあるけどぉ、俺は自治体職員だから。町の人間が一人でもいなくなったら寂しいだろぉ」
「..そうか」
と背中越しでも笑顔が見える言葉に、塚田は少し見直した。自分の漁場を奪う嫌な奴だと思っていたが、町思いが強く、向上心もあって、恋にも積極的な所は嫌いじゃないと感じた。初めて会った二か月前も、丁寧に説明して、謝ったりもしていたなと思い出す。
「...なあ金田。お前って二か月前俺と会ったっけ」
「ああ、初めて埋め立ての説明に行ったなぁ。あの時はちゃんと了解したのに前来たら急に怒り出して」
目がこちらを覗いていた。
木の陰から、それは子供が玩具を見つけたみたいな、好奇心と興奮が入り混じった目が、彼らを見ていた。
「耳を塞げ!」
それが二回瞬きした間、峰山は目に向かって迷いなく発砲した。火薬の爆発と金属が弾ける高音。全員耳を塞ぎ、音の衝撃に耐える。
鈍い痛みが頭に響く中、塚田が視線を上げると、銛が、矢内と背負っている山田を貫いた姿があった。
彼は何度も銛を抜こうと両手で持って引っ張る。しかし、かえしが背中に突き刺さり痛みで力が抜ける。そのたびに血はポンプの様に出たり止まったりを繰り返し、地面を赤く染めていく。
塚田は彼に近寄ろうとして、金田に肩を掴まれて引き離される。手が血と汗で濡れて、銛を抜く力も無くなっていく彼を見て、塚田は金田の腕を振り払い、彼の名を叫んで走り出した。それは塚田の中に残っていた最後の勇気。矢内を助けたいと願う正義の心は、
一瞬で叩き潰された。
それは見上げると、黄色の眼球が見つめ、首元はぶよぶよと段になって重なっている。人の様に二本足で立っており、その顔はぐちゃぐちゃの魚の頭が彼を興味深そうに見つめていた。
踵を返し逃げ出して、息を押し殺して全力で走った。彼の持つ欠片ほどの意思は、どうしようもない恐怖で塗りつぶされたのだ。
森の奥へ逆戻りした塚田は、峰山と金田と共に深い草むらに身を隠した。小動物が天敵から隠れるみたいに。
「はあっ、はあっ、はっ...ぁぁぁぁぁぁああああああ」
「目を閉じるな。落ち着け。怪物に見つかるぞ」
あまりの出来事に塚田は頭を抱え叫びそうになって、峰山に宥められた。正気を保つ彼を見て、塚田も少しだけ冷静になれた。逆に今度は金田が荒れ始める。
「四海さん? 四海さんがいない!?」
「大丈夫だ。きっとどこかに隠れてる」
金田は怒りのままに塚田の胸倉をつかみ、地面に押し倒した。
「大丈夫じゃねぇよ! てめぇが足引っ張ったせいではぐれたんだろうがぁ!」
「それは、二人を助けようと思って...」
「あんなの刺さって助かる訳ねぇだろぉ!」
奥歯を噛み締める。矢内を助かる筈もないのに、助けようとした自分の無力さ故の怒りを吐き出してしまわないよう抑える。金田の暴言は終わらず、ついには拳まで振り上げると、銃口をこちらに構えた峰山が言った。
「金田。死にたくなかったら、静かにしろ。奴が来る」
金田は血の気が引いて青ざめると、木の陰に太い体を押し付けて座る。塚田も同様に身を潜め、峰山が見ている方向を覗いた。ぬかるんだ土を歩く湿った音が獣道から近づいていく。大きすぎて全体がよく見えない怪物は、何かぶらぶらしたものを握って集落の方に歩いている。暗くなり、怪物もほぼ見えないが、ぶらぶらしてるものは白く、細い物が巻き付いている。
「山田さんだ。怪物に掴まれてる」
あれはきっと、山田さんに巻いた包帯だ。塚田は確信する。しかし、それなら何故矢内も運ばれていないのだろうか。
「気になるが、今は森を脱出することが重要だ」
「ちょっと待てぇ、四海さんを見つける方が先だろぉ」
峰山の方針に金田が食って掛かると、峰山はあくまで冷静に言い返した。
「見つけると言ってもな、金田さん。この森の中で人一人見つけるのはこの人数じゃ無理だ。何か方法でもあるのか?」
「ある」
彼は即答して、その方法を話した。
「実は、四海さんに内緒で発信機を付けていてぇ」
「お前それ犯罪」
「今回ばかりはノーカンだろぉ!」
そんなことまで手を染めていたのかと、塚田は白い目を彼に向ける。峰山はかなり引いていた。彼はノーカンと言ったがそもそも発信機を付けた時点でアウトである。
「話を戻すがぁ、その発信機を辿って行けば絶対に四海さんを見つけられる」
「...分かった。四海さんと合流してから森を出る事にしよう。塚田さん、あんたもそれでいいか?」
峰山はため息を吐くが、決心した表情に変わり塚田に訊いた。
「はい。必ず合流しましょう」
塚田は人が死んだところを初めて見て、あんなに取り乱したのに今は冷静にしている自分を少し怖く感じた。矢内は二か月という期間だが頼れる仲間で、塚田にとって可愛い後輩の様だったから。きっと矢内は死んだのだろう。だから、罪滅ぼしの代わりに全員で生き残って、彼の弔いをしようと腹に決めた。
三人は走る勢いで発信機の場所へ向かった。金田のスマホに示された発信機の場所が、例の集落だったからだ。現在地からも近く、民家の中なら安全だろうと思い迅速に合流して森を抜ける算段でいる。
約10分ほどで集落に着いた。怪物がいる様子もなく静かで、月明かりで視界も良く、奇襲される心配は無い。
戸締りの悪い引き戸を静かに開けて、彼女を怖がらせないよう小さい声で金田が名前を呼ぶ。
「四海さぁん、助けに来ましたぁ。返事をしてくださぁい...」
埃を被った古い台所から、腐った畳部屋を通り、傾いた襖を開く。
「発信機だと、この辺りに居る筈なんですがぁ」
「...誰も居ないな」
スマホを見ながら金田はそう言うが、タンスの裏や、押し入れを探しても、四海の姿を見つけられない。
「もしかして、発信機がバレて外されているんじゃないのか?」
「それはねぇよ。外されたらそういう信号が出る仕掛けになってる」
金田の抜け目のなさに気持ち悪さを覚えるが、彼女がいない他の要因を考えると、もう一つある。
「その服を脱いだら? 発信機はどうなる」
「確かにそれなら信号は出ないけどぉ、脱ぐ必要が今あるのか? 怪物に襲われて、服が邪魔になったとしたらこの部屋にあるのは不自然だ」
不穏な時間が流れる。埃が空気で舞って息がしづらいからか、重苦しい空気の中塚田がある仮説を立てる。
(もし、もしも四海さんが俺と同じように森に入ったことがあるなら、発信機があると知っていたなら..)
しかし、それを裏付ける根拠がない。塚田はおもむろにタンスを調べ始める。
「おい塚田ぁ、何やってんだ」
「もしも、四海さんが俺達を騙そうとしているなら」
一段目、ない。二段目、布があるだけ。三段目、ない。四段目、ない。五段目、一番あって欲しくない可能性の答えを見つけてしまった。
「あっ..見つけた」
彼が見つけたのは、レディースのサファリジャケット。背中の襟裏には小さな丸いシールが貼られている。それを見て金田は驚いた。
「なんで、タンスの中にぃ」
「とりあえず、窓から逃げるぞ」
塚田は格子状の木枠に走り出した。「急げ!」と言われて二人も遅れて走り出す。腐敗していた木枠を蹴破り、急いで家から離れるように伝える。
その瞬間、家が打撃音と共に倒壊した。金田と峰山は間一髪で逃げ延びると、崩壊した建物を見て塚田に問い詰める。
「何で倒れるって分かったんだ。タンスの中の服だって」
「俺達を殺す罠だったんだ。発信機を探させたのは、奴らが家を壊す時間稼ぎ」
倒壊した建物の奥に、奴らは立っていた。矢内と山田を殺した、あの怪物が家を取り囲むほど大量に。
「怪物は、一匹だけじゃないのかよ」
金田が思わず呟いた。
奴らは死んだ魚の様な虚ろな目で三人を視認すると、喉元のエラを広げ叫んだ。耳を塞ぎたくなる怪音は号令か、一斉に奴らが動き出す。
「走れ! 森の脱出はもう無理だ!」
「だからってどこに行けばいい!?」
叫び声や唸り声が背中越しに震わせる。迫る足音の恐怖を振り切って奴らから逃げ出した。
「谷だ。山田さんと同じことをするしかない」
「やるしかないかぁ! 峰山さん大丈夫かぁ?」
「死ぬくらいなら、崖ぐらい転げ落ちてやるわ!」
谷まであと百メートル、全力を尽くしている三人だが、体重差のある金田が明らかにペースダウンしている。怪物の一歩手前で踏ん張って、今にも捕まりそうだ。
しかし止まりはしない。塚田は金田を信じて走る事しか出来ない。崖が迫ってきた。互いに生きている事を願って、滑るように崖を下っていく。
崖底に前転して着地する。背の高い草や枝が塚田の滑る勢いを殺してくれたのか、彼は体の節々が痛む軽傷で済んだ。別の着地音がした方向へ、手入れされていない細い木々を掻き分けて進む。
「峰山さん!」
「何本か、折れたみたいだ。申し訳ない」
峰山は右腕と左足、そして肋骨を折ったらしい。変な角度で降りたのか、酷く腫れている。
「生きてるだけ上々ですよ」
塚田は持っているタオルで応急処置を急いでしていると、横から満身創痍の金田が転がってきた。
「おい、金田! 大丈夫なのか!」
「..急いでて、頭から、入っちまったぁ...」
金田の怪我は峰山の比ではなかった。幹に直接あたったのか頭は血だらけで、全体に痣が出来ている。骨も何本も折れているようで起き上がる事も出来ない状態だ。
「すぐ処置をするから我慢しろ。バックに包帯と消毒あったな、ちょっと借りるぞ」
背中のバックを取り出そうと背負い紐を切って引っ張ると、声にならない声が金田から出て止めた。すまん、と言う前に彼は言う。
「谷底の、端に、祠がぁ見えたぁ。調べてぇ..くれぇ」
「は、お前今更何言ってんだ。森から出る方が先だろ、黙って包帯巻かれてろ」
そっと金田の手が塚田の腕に触れる。彼は驚いた。それはあまりにも弱々しくて、冷たかったから。
「...背中が、折れてるみたいなんだぁ。もう自力で動けそうに無いぃ」
「嘘だろ...?」
塚田は信じられずそう言って、峰山は言葉を失った。崖上の木を眺めながら、独り言の様に小声で金田は話す。
「俺はよぉ、塚田ぁ。四海さんに復讐してぇ、欲しいんだぁ。四海さんがよぉ、俺達を嵌めたって聞いてよぉ、初めは、信じられんかった。でもよぉ、段々よぉ、思い出したんだ。矢内と、山田さんが襲われた時よぉ、笑ってやがったんだよ。綺麗な..ほんとに綺麗な笑顔だったなぁ。...塚田ぁ。彼女は祠に、求める物があるって言ってた。それがねぇなら、一回ここに来たことが分かる筈だぁ...」
声は水気を無くし、掠れた声で話し続けた。
「分かった、分かったから、もう喋るな...」
「すまねぇ....」
「だったら持ち堪えろ。その体のエネルギー使え、今その時だろ」
彼はもう喋らなかった。手に残る熱が徐々に無くなるのを感じて、塚田は静かに立ち上がった。
「峰山さん、救助が来るまで金田を守ってやってください」
「待て、どうするつもりだ」
スマホとナイフをポケットに入れて、彼は押し殺したような笑顔で言う。
「仇討ちですよ」
祠は民家と同じで瓦屋根で守られていて、両開きの小窓を開くと何かを置いていた台座だけが残されていた。金田の予想は当たりだ。なら、向かう場所は決まった。彼は谷の階段を上り、奥へ。森の中心、二ノ谷へ向かっていく。
二ノ谷の端は、少し高い丘になっている。森は平たんな地形が多いため、そこに登ると森全体を見渡せる。木も僅かにしか生えておらず、短い草だけが丘の頂上で生い茂っている。
丘を登りきると、微風が塚田の頬をさわる。ふわりと、甘い花の香りが風に乗って香る。二つの星が昇る夜空の下に、彼女は立っていた。
「四海さん」
ベージュのハットにノースリーブ姿の彼女はやはり理想的な体形で、美しい容姿に思わず引き込まれそうになる。しかし、振り向く彼女の目はきっと塚田を見ていない。
「少し、歩きませんか?」
四海はどこか遠くを見て、フフッと笑って言った。
丘を回るように歩き出した彼女に後ろから付いて行く。右手にナイフを忍ばせて塚田は彼女の会話に合わせる。
「ここで見る夜空は久しぶり、今日って満月だったんですね。とても綺麗」
「ええ、そうですね。二か月前は、月も見えない夜の日でした」
「はい、その通り。遅かったですね、私は集落に入った時に思い出しましたよ」
「いいや、あんたは元から知っていたはずだ。土木工事の四人組を呼んだのはあんただろう」
彼女はそれを聞いてクスッと笑う。
「それもその通り。単純で面白い人達でした」
「なんで、そんな事を。一体、貴女に何があったんですか」
静かに問いかける塚田に、四海は目を丸くして足を止める。彼女は目を細めて笑う。一瞬だけ、塚田を見た気がする。
ゆっくりと、優しくお腹をさする。まるで尊いものを愛でるように、大切なものを守るように暖かい母性を感じる撫で方。
「子供が出来たんです」
唐突な告白に塚田は狼狽える。彼女はまたフフッと笑う。
「呼ばれるように森へ迷い込んだ私は、あの集落の最初の家に逃げ込みました。臭くて汚い部屋にうずくまって...そしたら、彼らがやって来たんです。私は、彼らと一つになって、彼らの愛を受けて、私は彼らの為だけに動くと決めました。土木作業員の皆さんは、彼らにお腹いっぱいになって欲しくて、仕方なかったんです。でも」
あの怪物が、四海に向かってやって来た。それはエラを震えさせ、顔を歪ませて彼女の胸にすり寄った。
「彼は、私の息子で夫なの。まだこんなに甘えちゃって可愛いでしょう?」
「そんな理由で...金田と峰山さんを嵌めたのか」
「私は貴方さえ生きていれば良かった。ほかの人は...特に印象に残ってないですね」
「......」
彼女は怪物から離れ、塚田に体を預ける。ノースリーブ越しの乳房の感触と鼻が曲がるような甘ったるい香水の匂い。だけど、そこに特別な感情が湧くことは無い。
(今なら、刺せる)
袖からナイフを取り出して、無防備な彼女の背中にナイフを構える。ゆっくりと近づけた切っ先が布に触れようとして、踏みとどまる。
「刺さないの?」
彼女の目は、キラキラと輝いて、塚田は突きつけたナイフを投げ捨てた。緊張を解いて無防備になる。
「...刺さない。殺したって、意味がない」
彼女の肩を掴み引き離す。
「そう、貴方はまだその程度なのね」
心底つまらなそうな顔をして振りほどく。しかし、数歩歩くとガラリと表情を変え満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ思い出させてあげる。二年前のダム崩壊事故みたいに」
四海が取り出したその像は尻尾が頭部の奇怪な生物の陶器だ。
「ラトホテプ像..」
「あら? 知ってました? じゃあどうなるか分かりますよね!」
崖に向かって像の手を離す。坂を転がって谷へそれは落ちていって、錠が破壊される。
「あなたに見てもらいたかったんです。ほら、見て」
触れてしまいそうなほど近づく二つの星を見て、塚田は惑星が遠くの恒星と重なってるんだと思った。だが、金星が光を反射する時間はとっくに過ぎている。あれは、惑星ではなく恒星同士が重なっているのか。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォ...
重なる瞬間、森中に響き渡る奴らの雄叫び。ついに始まってしまう。始まってしまった。
突然、大きな地震が森全体を襲った。揺れの強さに塚田は地面に手を付けて耐える。
地響きは、二ノ谷の奥に見える、丸い山から鳴っている。元々木が生えていない土地だったからか表層の土が剥がれる様に滑り落ちていく。それだけではない。土が剥がれた山はむくむくと高さが増している。火山的な噴火ではない。そこにあるのは、山では無いのだ。
月の逆光から見えたそれは、一つ一つに意思があるように動くミミズの様な物体がうねうねと糸くずみたいに絡み合った触手だ。しかし、それは一部分に過ぎない。触手に繋がる頭部は歪な楕円のラインだけが分かり、何個あるかもわからない眼球が一斉に目を開けた。
ゆっくりと起き上がる物体を塚田はただ眺める事しか出来ない。四海もそうだ。何も言わずただただそれを見つめている。
「逃げよう! あんたには生きて罪を償って貰わなきゃ駄目だ」
腕を掴んで四海を連れて行こうと引っ張った。たれ目だった目は吊り上がり、彼女は歓喜に打ち震え、涙を流して笑っていた。
「あ~ははは。やっと、やっと来てくれたのねっ!」
手からすり抜けて駆け出した彼女は、愛する子供を迎え入れるように、大きく腕を広げる。
「私の下に来て! 私を抱きしめて! 私を犯して! 私を踏み潰して! 私を愛して! 私を、私を!」
高らかに叫ぶ四海の声に、それは応えたのか。ゆっくりとこちらに向かって歩き始める。
一歩歩くごとにそれは地鳴りを起こす。振動に呼応するように四海は高笑いを繰り返し、それに身を投げ出した。
「ああ...畜生」
丘から姿を消した彼女を見て、塚田は地面を殴り呟いた。
どうしようもなくなった悲壮感と絶望が彼の中で飽和する。目的を失って、塚田は立ち上がる力すら残っていなかった。体の節々が痛む。もういいか、と地鳴りが近付く中思う。
死が近付いて来る。そう感じると少し楽になった。恐怖には、底が無いから。どこかで蓋をして自分を守らなきゃいけないんだ。二年前にもそんな事があった。崩れ行く故郷の姿。笑って死んでいく親戚や友人。塚田は気絶して生き残ったが、今回は助からないだろう。確信がある。
『起きてほしいな。君は僕のお気に入りなんだから』
「.....矢内?」
『ここは任せて、先に行ってね。後は私の仕事さ』
誰かにおでこを叩かれて、塚田は飛び起きる。周りを見渡しても人影は見えない。
現実へ引き戻してくれた人は幻覚だったのか、知る由は無いが、彼は丘を降りて走りだす。背中を押してくれた声を信じて。
それは、四海の最後を見届けると向き直り、入り江に向かって歩き出す。
大量の足音に身を屈めて立ち止まると、怪物共が我先にと走り抜けていった。
(あのデカい奴に向かってる?)
化物が通り抜けるのを待って、塚田は壱ノ谷へ向かう。峰山と金田を運ぶためだ。地響きはどんどん大きくなって、森を半壊する勢いでそれは進んでいる。
壱ノ谷の階段に着くと、金田を運ぶ峰山がいた。地響きで危険を感じて、死に物狂いで登ってきたのだ。
「塚田さん、頼みます。私はもう限界です」
「肩を貸す。あなたも生きて帰るんだ」
そう言うと、峰山は「すまねぇな」と歩きながら返した。金田が前行った道を、亀の歩きで進み続ける。少しでもその遠くへ、森の外へ。地響きと荒い息遣いだけが聞こえる、限界に近い体を奮い立たせて、あともう少しの辛抱だと自分に言い聞かせて見覚えのある獣道を進んでいく。
だが、そう簡単に森は逃がしてはくれなかった。
充血した目が、こちらを覗いている。
その怪物は見た事がある。四海の胸にすり寄っていた個体だ。きっと母が死んだのが塚田のせいだと思ったのだろう。歪んだ頭部に血管が浮き出て、充血した目は人でもないのに怒りの表情に見える。
「魚頭のくせに親が死んで敵討ちか」
それも悪くないか、塚田は人みたいな行動に仕方ないと思った。奴は銛を構え、怒りに任せて襲い掛かる。最後に、彼は人らしく愛憎の中で死ねると目を閉じる。
しかし、人らしいが故に、怪物は大きな隙を晒してとどめの一撃を放った。峰山はその隙を見逃さない。
「リベンジマッチだ」
すぐ近くで放たれた発砲音で張りつめていた意識が一気に切れて、塚田の意識は遠のいた。銃弾は、怪物の頭ではなく首元を貫き、息が出来ずもがく怪物は、逃げるように闇へ消えた。
銛は塚田から大きく逸れて地面に突き刺さる。それを見届けた峰山は、限界に達して倒れた。
薄い意識の中、塚田の耳に聞こえてきたのは、羽音だ。耳障りな虫が群がる嫌な音と、風を感じて宙を浮くふわふわとした感覚。
目が覚めたのは病院で、既にあの日から、二日経っていた。
森での出来事から、四か月が過ぎた。
塚田は、また漁師の仕事を始めていた。今度はあの入江じゃなく、実入りの良い所の弟子として。朝も早くていつも大変だが、そのうち慣れると考えているようだ。
峰山は猟師を続けている。最後の発砲で腕の骨が大変なことになったみたいだが、後遺症も無く過ごしている。
金田はまだ病院にいる。本当に背骨の骨が折れていて、後遺症も残っているが、蓄えたエネルギーのおかげか今は何とか歩けるようになっていた。「事務職ばかりで動かなかったツケが回ってきた」と少し後悔しながらリハビリを頑張っている。
あの入江は、大規模な行方不明者捜索活動の後に埋め立て工事が再開した。捜索の結果、四人の土木作業員と、一人の考古学者の遺体だけが発見された。土木作業員は骨だけで、動物に食われた跡が残っていたという。四海は、何かに押し潰されたようで、口では言えない凄惨な姿で見つかったらしい。
そして矢内は、そもそも探す対象では無かった。警察や自治体に聞いてみたのだが、矢内てとらという住人は戸籍上存在しなかった。遺体も見つからず、彼に関しては謎だらけだ。
あの入江に近づくと、塚田はいつも思い出す。四海が訊いていた、何故あの入江が良かったのかという問いかけ。思うに、彼も、彼女と同じように、魅入られていたのだろう。初めて森を訪れた時、塚田は怪物たちに殺されかけた末に入り江を見つけた。受け入れがたい現実のショックで記憶を失って、入り江の安心感を彼が求めた結果だったのだと。今思う。
今入江を訪れても、彼は何も感じなかった。極限状態が見せたその母性を、どこに見出したのか。四海と塚田の違いはきっとそれだけなのだ。
そういえば、行方不明者捜索の際、巨大な足跡があったと話題に上がっていた。どの動物にも属さないその跡は、動物学では研究の的らしい。塚田も一度だけ見せてもらった。そして、凍り付いた。
その足跡は、三本指で、かかとが円形の奇妙な足跡。それは、集落の地図で見た入江の形と瓜二つだったのだ。
縷々入江 ラムサレム @age_pan0141
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