慰め

井上 幸

【短編】慰め

 相手チームが放った強烈なアタック。すきを突かれたわけではい。フェイントも含めて動きは読めていた。狙ってくるであろう位置も、軌道も、タイミングも。完璧だったはずだ。次の攻撃を考える余裕すらあった。その球が腕に触れるまでは。その瞬間、触れた感触にまずいと思うが遅かった。高く上げるはずのそれは、低く鋭い角度でコートを飛び出していく。

 その球を追って、仲間が観客席までダイブする。まるでスローモーションのように、宙に浮いた身体と伸ばした腕が目に焼き付いた。

 この球が落ちれば僕らの負け。奇跡よ起きろと念じたが、それが叶うことはなかった。パイプ椅子の倒れる音とシューズが床にこすれる音が響く。


 一瞬の静寂。


 試合終了の笛が、遠くに聞こえた。

 県大会予選。三年の先輩たちにとっては高校最後、引退がかかった大事な試合だった。二年である自分がレギュラーに選ばれたのは予選前に怪我を負った先輩の代わり。その僕が足を引っ張るわけにはいかなかった。ここで勝てば、次の試合にはその先輩が出場できる。僕は、僕たちは絶対に勝つんだと強く願っていたし、勝てると信じていた。それなのに。


「あー、こんなところに居た!」


 良く通るマネージャーの大きな声に思わず顔をしかめてしまう。試合会場の体育館裏。水道の蛇口から直に水をかぶっていた僕に、彼女はずかずかと近寄ってくる。せめてもの抵抗にわざと勢いよく頭を振って水を飛ばす。


「わー、ちょっと、もうっ! タオル持ってきてあげたのに、私まで濡れちゃったじゃない」

「頼んでないし」


 不機嫌にあしらってみるが、特に気にした様子もなく彼女は続ける。


「まぁ可愛くないこと。先にタオル借りちゃったわよ。ほら、早く拭かないと」

「……」


 ため息を吐いて受け取れば、やれやれと困った顔でこちらを見てくる。何か言いたそうな目に居心地が悪くなった。けれど彼女は何も言わず、くるりときびすを返して戻っていく。みんな待ってるから早めにおいでよと、いつも通りの明るい声がほんの少し柔らかく耳に届いた。

 受け取ったタオルでがしがしと水をふき取り控室へと戻る。いつも通りの熱気とざわめき。湿っぽい雰囲気は微塵みじんもなくて、逆に申し訳なさがつのっていく。だけど僕にはもうどうすることもできない。

 先輩たちは励ますように肩やら背中やら叩いてくれて。あーだこーだと発破をかけられる。僕も次は絶対勝ちますよ、なんて笑って軽口を叩いた。

 自分の口から出た言葉が、こんなにも胸をえぐる。


 翌日は部活も休みになった。普段なら自主練に行くところだけれど、今日は何もかも全部が無駄に思えて何もしたくない。かといって他にやりたいこともなく。日が高くなってから、いつものコースの途中にある河川敷でぼんやりと景色を眺めていた。盛りを過ぎた夏の日差しが、それでもじりじりと肌を焼く。けれど、頭の中は昨日の試合のことでいっぱいだった。

 僕はこの一年半、何をしてきたのだろう。昨日、あの舞台で、あの瞬間に、期待を裏切った。これまで積み上げてきたものが全部無意味だったように思えて、悔しいというよりもむなしいと感じてしまう。

 毎日、朝夕走り込んだ。家では筋トレばっかりしていたし、部活の練習時間は言うまでもなく、時間外だって地道な基礎錬を積んできた。けれど昨日、そのどれもが結果につながらなかった。先に点を取られて取り返し、焦っていたのは確かだけれど。それでも、僕たちが負けるなんてあるわけがなかった。絶対に。それだけの実力があったはずだ。チームワークだって完璧で。最高のチームだったのに。


「何がダメだったんだろ」


 ぽろりとこぼれたその一言に、ひどく揺さぶられた。目の奥が熱くなり、込み上げてくるものを感じる。慌てて口を引き結び、拳を握る。上を向いて胸に溜まっていた空気を全部吐き出した。頬を撫ぜていく風と耳に届くせせらぎがあまりにも優しくて。自分がとても小さく思えて。ぎゅっと片膝を抱え込んで顔を伏せた。優しい風に当たらないように。柔らかな水音が耳に入らぬように。

 積み上げてきた自信が砕けて散っていくような気がした。その破片が手をすり抜けて、いくつも傷を作っていく。息を詰め、その痛みにじっと耐える。じりじりとした陽射しが、むき出しになった首のあたりでくすぶっている。痛い、痛い、痛い。無視できないほどの痛みが襲い掛かる。なんて情けない。


 どのくらいそうしていただろう。かさり、と近くで鳴った足音にびくりと肩が跳ねた。握ったシャツのしわが深くなる。


「奇遇だな。昼寝でもしてんのか」


 軽く響くその声は、良く知る先輩のもので。いつもよりほんの少しだけかすれたその声に、こらえていたものが噴き出してしまいそうになる。よく面倒を見てくれた人だった。怪我がなければ、昨日の試合に勝っていれば、次のコートに立っていたはずの、先輩。顔を上げることも、声を出すこともできなかった。

 しばらくの沈黙の後、隣に座る気配がした。

 ぽん、と頭に温かく乗る感触は。ダメだ。泣いて良いのは僕じゃない。先輩の前じゃ絶対泣かないって思っていたのに。そんなちっぽけな誓いは、先輩の手のひら一つで簡単にほどけてしまう。じわり、と押し当てた膝に滴が滲むともう駄目だった。次から次へと涙は溢れて止まらない。

 先輩の手はぽん、ぽん、とリズムをつけて、声を押し殺して震える頭を撫でてくれた。僕が顔を上げるまで、ずっと。


「走るか」


 しばらくして掛けられた先輩の言葉にうなずいて立ち上がった。軽く筋を伸ばしてから、ゆっくりと走り始める。少し経って、視線は真っ直ぐ前を向いたまま先輩が口を開いた。


「心配するな。お前は何も間違ってないし、これまでの日々が無駄だったなんてことは絶対ない。だから、今はとりあえず練習続けとけ」


 目をみはった僕にちろりと視線を送った先輩が悪戯っぽく笑う。お前の考えてることなんてお見通しだと雑に頭を撫でられて、視界がまた滲んでいった。

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慰め 井上 幸 @m-inoue

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