暗闇からのお誘い

白黒灰色

暗闇からのお誘い

 夜中の2時過ぎ。夜も更け、まだ多くの人が眠りに就いている時間――その声が夜の暗闇の中から聞こえてきた。


 ぽっ、ぽぽっぽ、ぽぽ……。


 潰れた喉から出したような、低く濁った不気味な声。

 窓には、カーテン越しに黒い影が映っている。帽子をかぶった長髪の人の頭。帽子はピョンピョン跳ねながら、窓を横切った。

 しかし、影が消えても声は消えない。そして、少ししてまた窓に影が映る。

 どうやら外に居る何者かは、家の周りを徘徊しているようだった。

 俺の部屋は2階にあって、窓にベランダは付いていない。

 それなのに窓に影が映るということは、そいつは身長が3m近くあることになる。現実的な大きさとはいえないし、やっていることも異常だ。やっぱり、外に居るのは妖怪とか、怪異とか、そういう類の存在なのだろう。

 数日前から、その怪異は毎日2時くらいに俺の家の周りに現れるようになった。俺もそのくらいの時間になると、目が勝手に覚めてしまう。聞いていて決して楽しい声ではないのだが、耳が勝手に音を拾い、視線が窓に釘付けにされる。

 外に居る怪異もおかしいが、俺も相当きているようだった。

 怖いもの見たさという奴だろうか? もちろん恐怖はあるが、それと同じくらい、外に居る怪異について知りたいという想いも強い。たぶん、自分の知っている存在だと思うのだが、窓を開けて直接姿を見る勇気までは、まだ持てなかった。

 

 ぽっ、ぽぽぽ、ぽぽぽ……ぽっ?


 窓に映る影が急に立ち止まる。キョロキョロと周りを見ました後、怪異がこちらに顔を向けた。俺は驚いて、寝返りを打つふりをして、窓に背を向ける。背中に怪異の視線が突き刺さっているように感じた。

 気付かれた。もしかしてやばいのか?

 心臓が早鐘を打つ。部屋には冷房が効いているのに、額に冷や汗が垂れる。

 その時、枕元に置いてあったスマホが鳴った。その音で、心臓が飛び跳ねそうになった。

 着信ではなく、何かの通知が来たらしい。落ち着いてスマホを取って内容を確認すると、twitterにdmが届いていた。


『やっぱり、私に気付いていたんだね』


 あの怪異が送ってきたのだろうか? 送り主のアカウントを確認して、俺は目を見開いた。それは、あり得ない人物からの送信だった。

 でも、予想していた人物でもある。だからか、変な安心感があった。

「夏海さん……」

 dmの送り主は、先週自殺してしまった夏海さんだった。


 

 カラッと晴れた青い夏の空に、線香の白い煙が立ち昇る。その様子を目で追いながら、夏海さんは呟いた。

「天国って本当にあるのかな? 人は死んだらどうなるんだろう?」

 隣に居る俺に言っているわけではなく、心の声がそのまま口から出てきてしまったらしい。心ここに非ずと、そんな感じだった。

 その日、俺と夏海さんは、去年亡くなった祖母の墓参りに来ていた。

 夏海さんは俺のいとこで、10こ上の24歳。身長180cm以上ある長身で、美人でスタイルが良く、面倒見も良い。

 だが、飲めないのにブラックコーヒーを飲んでいたり、ゲームで勝てないとムキになって何度も挑んで来たり、子供っぽい一面もある。おばさんの話によれば、家の中ではぐうたらしているそうなので、俺の前では頑張って大人っぽく見せようとしているのだろう。実際、心ここに非ずの今の彼女の横顔は、何時もよりもどこか幼く見えた。

「……俺は天国はあると思うよ。何の根拠もないけど、何となく」

 質問されたわけでもないのに答えるのはどうかと思ったが、何となく居心地が悪く、思ったことを口にする。夏海さんは驚いた顔をして、こっちを見た。

「……もしかして、声に出てた?」

 夏海さんは、それにも気付いていなかったらしい。俺が頷くと、アハハとばつが悪そうな笑顔を浮かべた。

「別に深い意味はないんだよ。誰だって死んだ人がどうなるか気になるでしょう? ちょっと、おセンチになってただけさ」

 夏海さんの笑顔が作り笑いであることは、俺にも分かる。職場でトラブルがあって、休職していることは知っているし、そんな笑顔をされると逆に不安になった。

 あちこちからする蝉の鳴き声が、不安を煽る。気持ちを焦らせる。

 何か気の利いたことを言えれば良いのだが、言葉が出て来なかった。

「……よし!」

 俺が困っていることに気が付いたのか、今の雰囲気が合わなかったのか、夏海さんは手を叩くと、立ち上がった。

「ねぇ、この後喫茶店でも行かない? 予定ないでしょ? お姉さんが奢ってあげる」

 お金ならあるぜ、とそんな顔をして、夏海さんはバッグから財布を取り出して、左右に振ってみせる。

 そういうところが子供っぽいと思うのだが、気を悪くされそうなので口にはしない。それに、せっかくの気遣いを無下にもしたくなかった。

「……お供します」

 俺も立ち上がる。夏海さんは、今の俺よりも頭1つ分大きい。こうして並んでみると、改めて夏海さんの大きさを実感した。

「うん。じゃあさ、また大食いパフェに挑戦しない?」

「嫌だよ。あの時は調子に乗ってただけで、もう懲りたから。五千円だよ! 高いよ!」

「いい若いもんが、そんなこと気にしなさんな。また一緒に食べようよ。美味しかったし」

「最初からそれが目的なのか……。だったら尚更嫌だよ。同じ皿のやつ、一緒に食べるなんて」

「……ほぅ」

 俺の言葉を聞いて、夏海さんはニヤニヤと意味ありげな笑い方をした。

「なるほど。君もそういうことを気にするお年頃なのか」

「……そんなんじゃない」

 俺はせめてもの抵抗でそっぽを向くが、意味が無かったらしい。

「図星か!」

 夏海さんがお腹を抱えて笑う。どうやら、俺は相当分かりやすいようだった。

 確かに図星である。昔は『姉ちゃん』と呼んでいたのに、『さん』付けに変えたのも、彼女のいう『そういうお年頃』だったからだ。

「まぁいいや。他人が嫌がることをするのは良くないし。好きなの頼んでいいよ」

「最初からそのつもりなんだけ……うお!?」

 夏海さんはまた楽し気に笑うと、不意に俺の手を掴んだ。そして、そのまま俺の手を引いて走り出した。

「よっしゃー! 行くぞー!」

「どんなテンションなの? 嫌だから止めて!」

 俺の声は聞こえているはずだが、夏海さんは手を離してくれない。さっきと言っていることが違う。絶対に確信犯だ、この人。

 ただ、俺も俺で碌な抵抗もせず、なすがまま手を引かれた。

 青い空、白い大きな入道雲――揺れる夏海さんの長い黒髪と麦わら帽子が、その夏の景色の中に良く映える。

 ちらりと見えたその横顔は、何時も以上に楽しそうに見えて――何も言葉が出て来なかった。

 変に気を遣うよりは、何時も通りでいる方が良いのかもしれない。

 その時の俺はそう思った。


 だが、今となっては、もっと彼女のわがままを聴いてやれば良かったと思う。

 夏海さんが自室で首を吊ったのは、それから1週間後のことだった。



 夏海さんが自殺して、今日で1週間になる。

 遺書が見つからなかったので、自殺の正確な動機は不明だが、推測する材料はある。

 その1つがtwitterだった。彼女が亡くなった後に部屋を訪れた時、机の上のメモ帳に気が付き、彼女のアカウントを知ったのだ。

 職場での人間関係の悩み。

 自分を怠け者扱いする両親への不満。

 中々職場に復帰できない不安や焦り。

 俺の知らなかった――いや、俺には見せられなかった、夏海さんの一面がそこに詰まっていた。

 このアカウントを知らなくても、俺は彼女が悩んでいたことを察していた。それなのに何もできなかった。

 俺がもう少し上手く立ち回っていれば、夏海さんは自殺を思い止まってくれたのだろうか?

 そう考えてしまうのは、思い上がりが過ぎるだろうか?

 twitterのつぶやきの中に、『いとこに会えるのが楽しみ』という文章があった。

 最初にそれを見たときは、ちょっと嬉しかったが、夏海さんはもう亡くなってしまったのだ。結局は何もできなかった後悔で、胸が締め付けられた。

 

 ぽぽぽ……ぽっぽぽ、ぽぽぽ。


 また、夏海さんからdmが届いた。


『天国って本当にあるのかな? 人は死んだらどうなるんだろう?』


 お墓参りをした時に、夏海さんが呟いていた言葉だった。チラッと窓を見てみると、顔だけでなく、手の平の影も見える。影が俺を手招きしていた。

 夏海さんはまた、あの時のように俺の手を引きたいのだろうか? 

 俺に付いて来てほしいのだろうか?

「…………」

 俺は少し悩んだ後、返事をした。


『今からそっちに行くから、ちょっと待ってて』


 俺はベッドから降りると、窓の方へと歩いて行った。

 夏海さんは、もう亡くなってしまったのだ。今更何をしても遅い。

 だから、これからやることは、ただの自己満足だ。夏海さんが成仏してくれれば良いなと、思っているが、それ以上に、自分の中のモヤモヤした気持ちを晴らしたい。ただ自分が楽になりたい。自分勝手な考えに自己嫌悪したくなる。

 それでもここで何もしなければ、俺はそれこそ一生後悔するだろう。

 俺は窓の前まで来ると、思い切ってカーテンと窓を開けた。

 窓の外では、俺のよく知る夏海さんの顔が出迎えてくれた。


 ぽっ、ぽぽ、ぽぽぽぽぽぽ。


 夏海さんが何かを呟く。まともに喋ることができないのは、怪異になってしまったからなのか、首を吊った時に喉が潰れてしまったからなのか。喉には痛々しい、縄の跡があった。

 俺は縄の跡から目を逸らす。暗い表情や感情を振り払って、今度は自分から彼女の手を取った。

「お供しますよ。こんなことしかできないけど、これで夏海さんが満足してくれるなら」


 ぽぽぽ、ぽぽっぽ、ぽっぽ。


 夏海さんが、あの時と同じ笑顔をする。長い黒髪と麦わら帽子が、僅かな街灯と月明かりに照らされた夜の街の景色に良く映える。

 俺は足を上げて、勢いよく窓枠を乗り越えた。

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