短編 メガネケース
無口でいつも仏頂面をした父が、ピアノを習い始めた。
理由を想像するに、早期退職して暇を持て余していたからだろう。
仕事一筋だった父に何が起こったのかは分からないが、まさか定年よりも早く仕事を辞めるとは思わなかった。
だがそれ以上に驚いたのはピアノを始めたこと。そんなことは家族の誰もが予想していなかったし、意外だった。父にピアノの興味があったことすら知らなかった。いや、もしかしたら、本当はないのかもしれない。
そう思うのは娘の勘である。多分父は、使わなくなったピアノが勿体ないと思っているのではないか、と。
家にアップライトピアノがあるのは、私たち姉妹に習わせていたためだ。
姉がやっていたから私も両親に言われてやり始めたけれど、結局性に合わなくて、小学校の低学年のうちにやめてしまったし、姉も中学に入る前にやめている。
それ以来、ピアノはずっと家の物置部屋で存在を消すように置かれていいて可哀そうなことになっていた。
ピアノを始める準備は私の知らぬ間に着々と進んでおり、壁の一部と化していたアップライトの調律は完了し、父はピアノのレッスンの申し込みをしていた。気づいたころには、父は「ドレミファソラシド」を弾く練習をたどたどしくしていていて、「習い始めたの知らなかったの?」と母に言われる始末である。
それも仕方ないことである。父に興味はないし、ピアノとも疎遠だったのだから。
「あれ、どこ行ったんだろう……」
父がピアノを初めて3か月ほど経った頃の、とある日曜日。ピアノがある物置部屋で、父が何かを探していた。
「……どうしたの?」
見て見ぬ振りも出来たのだが、部屋のドアも開いていて、父の声が聞こえている。それなのに無視するのは、何となく気が引けたので仕方なく聞いた。
父は私が部屋を覗いたのが意外だったのだろう。表情はいつも通りあまり動かず分かりにくいが、丸眼鏡の奥で目が普段よりも大きく開いていた。
「あ、いや……メガネケースが見つからなくて……」
「メガネケース?」
「そう」
「どういう色の?」
「黒いやつだよ。……やっぱりないな」
父がそう言って、部屋を出て行く。多分母に聞きにいったのだろう。大体何かが無くなったら母に相談するのは、父のお決まりパターンである。
「……」
私は父が出て行ったことをいいことに、アップライトピアノの前に立ち、「ド」の音を優しく押してみた。
ポーン。
ピアノに触れたのは15年ぶりくらいだろうか。本当に久しぶりで、懐かしい。あの頃は外で友達と遊ぶことの方が好きで、ピアノはどうでもよかったが、今振り返るとそれなりに習っていたときの記憶も思い出せる。
(そういえば、私は弾くより聞く方が好きだったなぁ)
新しい曲を始めたときや、リズムが分からないとき、先生は何度でも同じ曲を弾いてくれた。それが心地よかったのだと、今更ながらに気が付く。
(お父さんは、ピアノのどういうところが楽しんだろう……)
私はそんなことを思いつつ、ほんの少しだけ優しい気持ちを出して、父が座っていたであろうピアノの周辺を見まわした。すると低音側の一番端にある黒い部分が、何故か妙に光の反射が鈍いのが見える。
「おとーさんってば……」
私はその意味に気が付くと笑うのを堪えて、その部分を触る。すると父の黒いメガネケースがあった。
どうやらピアノとメガネケースの黒い色が、とてもよく似ていたせいで、メガネケースがピアノの風景に上手く溶け込んでしまっていたようである。
「自分で置いたくせに、これに気づかないなんて……!」
私はおかしくなって、くくっと声を殺して笑った。仏頂面で無口の父親にこれをいったらどんな反応をするだろう。
まずは父がこの部屋に戻ってくるまで、私は平然とした態度を取ろうと心に決めるのだった。
探し物 彩霞 @Pleiades_Yuri
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