彼方のフェルメール

藤光

地理学者/天文学者

 午後三時。照明の灯されていない小さな展示室に男の子がひとり入ってきた。

 一日でこの時間だけ展示される絵を見にきたのだろう。


 壁に掛けられた二枚のうちの一枚は、青色のローブを纏った男が窓際のテーブルの上に広げられた地図の上に身を乗り出している構図、もう一枚は同じ部屋だろうか、男がテーブルの上に置かれた地球儀に手を伸ばし、回そうとしている構図である。


「地球儀ではなく、天球儀なんだよ」


 男の子に続いて部屋に入ってきた男が言った。


「いらっしゃい。きみが今日初めてのお客さんだ。わたしはこの美術館の館長。きみは絵が好きなのかな」

「いえ。あの……夏休みの自由研究をなにしようかと思って来たんです……絵のことはよく知りません」


 館長は軽く目を見張った。夏休みの自由研究。そうか、彼にとってはさいごの夏休み――の宿題になるんだな。


「なんという絵なんですか」

「これは……17世紀オランダの画家、ヨハネス・フェルメールが描いた絵だ。向かって左が『地理学者』、右が『天文学者』と呼ばれている」


 どちらも窓から差し込む明りに、部屋の中の地理学者と天文学者が陰影濃く浮かび上がる様子が印象的な名画であり、この美術館に収蔵された作品の中でもっとも歴史的価値が高い。


「天球儀って……」

「天文学者が手を伸ばしている地球儀に似た模型だ。球面の上に夜空に眺められる星や星座の位置を示している」

「星の位置を?」

「『地理学者』のなかには、いくつもの地図と一緒に地球儀も描かれている。フェルメールにこの絵を注文した人は、世界や宇宙について興味があった人なんだろうね」


 遠くにあるものを近くに引き寄せてみることのできる望遠鏡は、17世紀オランダで発明されたといわれている。これを天体観測に応用したのが有名な天文学者ガリレオ・ガリレイだ。この時代、人々の関心は大きく外へ向けて広がっていったのだ。


 ――いまと同じように。


 長い間、絵を眺めていた男の子は二枚の絵とフェルメール、17世紀オランダ絵画について熱心に尋ね、丁寧にメモをとって帰っていった。


「また来ます」

「フェルメールを気に入ってくれたかね」

「はい。とても」

「それはよかった。いい自由研究になることを祈ってるよ」


 フェルメールの絵がさいごの夏休みのよい思い出となれば素晴らしい。館長は小さな美術館の出入口まで男の子を見送った。この日の来館者は、結局この男の子ひとりだけだった。



 赤茶けた大地を縫うように走る道をバスは走っている。土埃の舞うどこまでも乾ききった景色を眺めていると、この道が緑の木々に覆われた高原道路だったことを思い出すのは難しい。


 ――ずっと昔のことだ。


 館長は、バスの窓から乾いた砂埃の渦巻くダム湖の底に現れた古い街の廃墟を見下ろしながら、これからのことを考えた。自分がこの星を脱出するのはいい。問題は、それにどれほどの意味があるのかということだ。


 地球人は、地球この星を遺棄すると決めた。


 さいしょに人類が太陽の活動に異常を観測したのは、2022年夏のこととされている。当初は、太陽を観測する機器を制御するコンピューターシステムの誤作動エラーとして修正処理されていたが、数年をかけたシステム改修も数値の異常を改善させなかったことから、太陽が急速に膨張をはじめたのではないかという科学的説明がなされたのが、20年前のことである。


 以降、太陽の急速な膨張はその速度を増してゆき、地球環境に明らかな異常が現れはじめた。特に顕著なのは、地表気温の上昇と降り注ぐ紫外線量の増大だった。そして、世界各国の主要な天文台の観測結果を基に国際天文機関が公表した声明の内容に、すべての地球人は衝撃を受けることになる。


 国際天文機関は、

 

『太陽の膨張はこの後も加速度的に継続し、近い将来、爆発的膨張に達して太陽系全体の消滅に至る』


と発表したのだ。


 人類滅亡の危機に、各国政府は国際天文機関の主導の下、自国民の太陽系外への移住計画を策定、移住計画はただちに実行に移された。五年後には、国際天文機関が人類の新天地として候補に挙げた五つの恒星系に向けて、各国政府は恒星間航行宇宙船を出発させたのである。


 当初は、第四次計画をもって出国を終えるはずだったこの出国計画(=地球脱出計画)は、地球この星に残留することを余儀なくされた国民の悲痛な叫びを受けて、第六次まで延長された。馬頭星雲に向かって5.6光年、ケプラー1752恒星系を目的地とする第六次計画が各国の国力を総動員した最後の出国計画となる。これにより、国民の約90パーセントが地球外に出国できることとなった。


 2056年8月24日。

 最後の出国シャトルが火星軌道上の恒星間航行宇宙船へ向けて飛び立つ日を一週間後に控えた宇宙港へ向けて、美術館の館長はバスに揺られていた。第六次出国計画、最後の出国審査に臨むためである。


 山脈を越える岩だらけの山道をバスが登り切ると、青空の下に一面が塩の層に覆われた大地が現れた。膨張する太陽に焦がされ、海水が干上がってしまったかつての海である。白い塩の平原に囲まれた赤い台地がこのバスの目的地――宇宙港だった。



 出国審査カウンター。


 宇宙港にそびえ立つ管理棟23階の航宙局出国審査室は、恒星間航行宇宙船「ちきゅう」に搭乗するための出国審査を行う部署である。広大なフロアには100を超える審査窓口が設けられ、一日で一万人の出国審査を行うことが可能だ。しかし、出国許可を得た人のほとんどが審査を終え、第六次出国期限を一週間後に控えたこの日に至っては、そのうちのいくつかが出国者を待っているだけだった。


 茶色の包装紙で梱包された大きな長方形の荷物を引いた男がひとり、エレベーターからフロアに現れた。あの美術館の館長だった。


「ここは出国審査カウンターです。出国審査に来られた方ですか? 出国に当たっては、審査が必要です。ご本人名義の出国許可証を提示してください」


 中年の出国審査官が事務的に話しかけられた館長は胸のポケットから白いカードを取り出して審査官に手渡した。審査官はカウンターの読み取り装置でカードのデータを抽出すると、しばらくモニターで内容を確認していた。


「……結構です。出国許可を確認しました。以後、この出国許可証があなたの身分証明書となります」


 館長は審査官からカードを受け取った。


「なくさないよう。常に身につけておいてください」


 ところで――と審査官は話を継いだ。


「それは何でしょうか。ずいぶんと大きくて重いもののようですが」


 館長が大きなカートに乗せて運んできた荷物を指していった。


「わたしの荷物だ」

「荷物?」

「出国時、わたしと共に船に乗る『絵』だ」

「……手荷物は一人当たり五キログラムまで、そう決められています。それ以上になる場合は、国の許可が必要です。あなたの『絵』には積載許可証は出ていません」

「申請はあげたはずだ」

「許可されなかったのです」


 館長の声がだんだん高くなるのと対照的に、審査官の声は事務的な平静さを保っていた。


「この『絵』のことを知っているのか?」

「あなたのことも知っています。館長。人類が滅びようとするこの時代に、素人なのに紙屑同様となった絵画作品、特にヨハネス・フェルメールの絵画を収集、私設の美術館で公開している変わり者――ですよね」

「……」


 館長は言葉に詰まった。この審査官は自分のことを知っている。


「梱包された絵はフェルメールの『天文学者』と『地理学者』。積載申請は却下されました」

「なぜだ」

「価値がないからです。恒星間航行宇宙船はひとりでも多くの人たちを外宇宙へ送り出し、太陽の爆発から人びとを救い出すために建造されたもの。価値ないものを載せる余裕はないのです」

「フェルメールは偉大な芸術家だ。『地理学者/天文学者』は名画だ。それを価値がないなどと乱暴な……。現に先日も、小学生が最後の夏休みの自由研究にこの作品を」


 審査官は館長の抗弁を鼻先で笑った。


「子どもの自由研究にどれほどの価値が? 絵で人の空腹が満たされるわけではありません。絵で宇宙船が飛ぶわけでもありません。いったい絵にどんな力があるというのです?」

「偉大な芸術家の魂が、古代の人々の精神が……きみにはわからないのか」

「古今東西の芸術作品は、3Dスキャナによって解析され、デジタルデータの形で宇宙船のデータベース保存されています。必要な時には、すぐ復元できるのです」


 だから、すべての芸術作品のオリジナルはその価値を失ったのだ。さまざまな芸術家の作品がデータ化され、同時に無価値なものとして地球上につぎつきと遺棄された。


「紙屑同様の価値しかなくなり、かつての名画があなたのものとなったのがその証拠です。デジタルデータさえあれば、もうかさばるオリジナル作品は必要ありません」

「傲慢をいうな! 芸術家の魂をデジタル化できるものか。人の精神が無価値であるはずがない」



 なおも館長は言い募ったが、審査は打ち切られた。審査官は『地理学者/天文学者』の出国を認めなかった。



 どどどどど……。


 大気が悲鳴を上げているのが、鼓膜を震わせる振動を通して分かった。広い空に大きな円弧の軌跡を描いてロケットが飛んでゆく。火星軌道上で建設中の恒星間航行宇宙船「ちきゅう」に向けて、宇宙港から飛び立ったシャトルだ。


 ひとつ……、ふたつ……、三つ……。


 シャトルがつぎつぎと南の空を横切って、雲の彼方へと消えていく。


 フェルメールの展示室の窓は大きく開かれていて、秋の訪れを告げる風が、いまは何も掛けられていない壁に向かってカーテンを揺らしている。出国期限である8月31日になっても、館長は宇宙船に乗らなかった。小さな美術館のささやかなポーチに椅子を持ち出して、空を眺めている。もうヨハネス・フェルメールの絵はここにない。館長が航宙局出国審査室に置いてきたのだ。自身の出国許可証とともに。


「この絵を持っていけないというなら、わたしは出国しない」


 あのとき、館長は出国審査官に向かって言い放った。


「きみの考えは理解できる。大勢の人を載せて飛ぶ宇宙船に、余計なものを積み込む余裕がないのも本当だろう。しかし、この絵に価値がないというのは間違っている。価値がないのは、絵ではなくむしろわたしの方だ。何の役にもたたない老いぼれなのに、貴重な食糧を食うし、一人前の空気が必要なんだからね」


 何か言いたそうに口を開きかけた審査官を制して館長は続けた。


「この出国許可証は置いていく。この絵は、わたしと違って空気も食事も必要としない上に、見る人びとの心を癒し、豊かにしてくれるはずだ。わたしの代わりにこの絵を宇宙船に乗せてほしい。わたしの体重は60kg。この絵も2枚でちょうど60kgだ。わたしに用意された分をこの絵に分けてくれれば、なんの問題もないはずだ」


 わたしは出国しない――と出国審査官に宣言した館長は、梱包された絵に出国許可証を添え、そのまま振り返ることなく美術館へ戻ってきた。話を聞いて苦虫を噛みつぶしたような顔になった審査官がおかしかった。


 ……四つ、五つ、六つ。


 赤茶けた宇宙港から飛び立った、合計六隻のシャトルは青空に白い軌跡を残して、地球の重力圏を離れていった。あのシャトルのどれかにフェルメールの『地理学者/天文学者』は積み込まれているはずだ。そして、フェルメールを夏休みの自由研究に選んだあの男の子もきっと、あのシャトルのどこかに。


 遠く火星軌道上で出発のときを待っている恒星間航行宇宙船で、男の子はあの絵に出会うことができるだろうか。きっと驚くだろうな。そして、喜んでくれるに違いない。そのことを考えると愉快だ。椅子に腰を下ろした館長は、シャトルの消えた空を見上げながら微笑んでいた。


 この日で8月も終わりだというのに、大地を焦がす日差しは強さを増す一方だった。朝から来館者はひとりも現れていない。


(了)

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彼方のフェルメール 藤光 @gigan_280614

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