あなたも一緒に傷ついて。

ようひ

ふたつの傷跡


 20歳になった最近のぼくは、最高にツイていた。

 落とした財布が盗まれることなく交番に預けられていたし、自販機のスロットが当たってもう1本オマケが出たし、朝のニュース番組で『みずがめ座』が3日連続1位だった。

 だからぼくは宝くじを1口だけ買った。

 このツキなら当たるだろう——このときは、そう思っていた。


 だが、愚かなぼくは知ることになる。

『確率は収束する』ように、人生もまた『上がり下がり』するものだと。



 §



 季節は夏で、ぼくは昨日20歳になったばかりだった。

 最高気温が35度の猛暑日が続いていた。

 こんなうだるような日々には、冷たすぎるほどのビールが飲みたくなる。


「ブルームーンとナッツを」


 初めて入ったバーで、ぼくはそう注文した。

 近所にあるのに2年間様子見していたバー。その扉をようやく押したのだ。

 寂れた内装と、聞いたことのない古いレコードミュージックが掛かっていた。

 90年代の映画に出てきそうな、絵に描いたようなバーだった。


「どうぞ」


 マスターの短い声とともに、注文したものがやってきた。

 ぼくはビールのグラスを持ち、息を止めて一気にあおった。


「んぐっ」


 おし、全部飲んだぞ――と思いきや、ビールは半分も減っていなかった。

 遅れてやってきた苦味に、ぼくは吐き気をこらえた。

 実はぼくはビールが飲めない。暑い日にはビール、と世間で言われているから飲んでみたのだ。しかし苦いだけで、ろくに飲めなかった。


『で、あいつとはヤれたのか?』

『それが実は男だったんだよ。騙された〜』

『こんな仕事、辞めてやる!』

『飲みすぎですよ、先輩。ほら、お水です』

『おーいマスタぁー、おかんじょう!』


 他の客の声が店内にこだましている。狭い店だから会話は筒抜けだ。

 ぼくは口元の泡をおしぼりで拭いた。ビールの苦みは引いてきたが、その味はまだ残っている。


「う……んむっ」


 口直しにナッツを口に放り込む。そしてぼくは眉をひそめた。

 ナッツは何も味がしなかった。これなら道路に転がってる石のほうが、まだ味がありそうだ。


「ずいぶんと不味そうにナッツを食べるんだね」


 ふと、煙草の臭いが強くなった。

 ぼくは声のした方に顔を向けた。

 いつの間にか、隣に女性が座っていた。

 一言でいうなら、ちゃんとした美女だった。


「もしかして、ぼくのことですか?」

「ナッツを不味そうに食べる選手権があれば、ブッチギリの優勝間違いなしだ」

「そんなつもりはなかったんですけど」

「きみがそうじゃなくても、そうである場合もある。才能とはそういうものさ」


 女性はパーマがかった長い茶髪を手ですくった。

 バーの薄暗い照明のせいか、大人の色気があった。着ているベージュのトレンチコートも、その一役を担っている。


「浮かない顔をしていたから、つい声をかけてしまったよ」

「そう見えましたか?」

「一目瞭然だね」

「参りました。あなたの言う通りです」

「ふふ。ま、一緒に飲もうじゃないか」


 グラスを差し出してきた女性。中にはワインが揺れている。

 ぼくはビールグラスを持ち、ワイングラスに合わせた。大きさが不揃いで、まるで美女と野獣のような乾杯だった。


「マスター、この人と同じの」


 女性は一気にワインを飲むと、次の酒を注文した。


「あなたはビールを飲む人ではないですよね?」

「こういうのは勢いとその場の空気だから」


 勢いと空気は同じなのでは、とぼくは思った。

 ビールが来て、再び「乾杯」とグラスを合わせた。

 女性は口をつけると、一気に飲み干した。彼女のグラスの中にはすでに泡だけしか残っていなかった。まるで魔法で消したみたいだった。


「ぷはー。……おい、なぜ飲まない?」

「え?」

「乾杯とは『杯を乾かす』と書く。きみの母国では乾くの意味は習わないのか?」

「湿度が高いから乾かないんです」

「しつど!」


 ぷは、と笑い出した女性。

 口元のほくろとともに、にこりと微笑んでいる。


「つまり、今のきみは『湿度』があるんだね?」

「まぁ、人間なので」

「それが浮かない顔と関係がある、と」

「……あなたは探偵なんですか?」

「ただの女だ。それも、とびっきり普通のな」


 その顔で普通だったら、オードリー・ヘップバーンもマリリン・モンローもリタ・ヘイワースも、伝説として現代に語り継がれてはいないだろう。

 

「そんな普通のわたしが、きみの湿度を当てよう」

「横暴です」

「男がひとりバーで飲む理由はふたつしかない。背伸びか、失望だ」


 もちろんぼくは、背伸び。


「きみは失望をしている」

「どうしてわかったんですか」

「なんとなくだ」


 女性がナッツを掴み、口に放り込んだ。彼女も不味そうな顔をした。


「そしてバーでひとりの寂しい男とくれば」

「寂しくなんかないですよ」

「失恋しかない」


 世の中には豪運の持ち主がいる。

 どんなに分析しようとも、その持ち主は逆立ちをしたって強運なのだ。

 産まれたときから、それ以前から、ずっと。


「どうだい。当たりだろう?」


 自信満々に言う彼女に、ぼくは拍手をした。


「コングラッチュレーション。ぼくの負けです」

「よし。では景品に酒をおごってくれ」

「飲みたいだけですよね?」

「飲む口実がほしいんだよ」


 こうしてぼくは、奇妙な女性に出会った。

 彼女は「美南」さんと言った。

 口元のほくろが印象的な、大人な雰囲気の女性だ。

 この美南さんとの出会いが、ぼくを大きく変えることになった。

 これは、その話だ。



 §



「気持ちよかったな。昨夜のセックス」


 朝一番に美南さんは言った。

 ぼくは台所でインスタント・コーヒーをふたつ淹れていた。


「申し訳ないんですけど、ヤってないですよ。ぼくたち」

「酔っていたのに、どうしてそう言い切れる?」

「なぜなら、ぼくがずっと起きてたから」

「それは反則だ」


 あの後の夜、美南さんはぼくの家に泊まった。

 彼女は魅力的な女性だった。にこやかな笑顔に、さらりとしたボブの茶髪。少し釣り上がった目つきに、すらりとした手足。しかしなんといっても、口元のほくろ。このほくろひとつが、ぼくを惑わせる。


「このコーヒー、クソ不味いな。ドブの水の方がまだマシだ」


 美南さんは意外にも口が悪い。

 酔ってない時の方がそうである人は、あんまりいない。


「ぼくはそうは思いません。才能と同じですね」

「なんだ、その青臭い言葉は。誰かの受け売りか?」

「……なんでもないです」


 台所でタバコを吸おうとすると、美南さんが隣に来た。

 タバコを差し出し、ぼくが火を付けると、「ありがと」と美南さんは目を細めた。


「朝の煙草はうまいな」

「そうですかね。ぼくはヤニクラで吐きそうです」

「なんのために煙草を吸ってるんだよ、きみは」


 なんで煙草を吸っているのか――ぼくにもわからなかった。

 美南さんの声はささやくようで、換気扇の音にかき消されそうなほど小さい声だった。昨日の彼女とは別人のようだった。

 しかしこのきっぱりとした性格は同じだ。

 双子が10年ぐらい離れて暮らしたら、こんなふうになりそうだ。


「で、どうして失恋なんかした?」

「そこは覚えてるんですね」


 さっきの『格言もどき』はきっぱりと忘れていたくせに。

 ぼくは煙草の灰を灰皿――昨日食べたパイナップルの空き缶――に落とした。


「聞いても面白くない話です」

「人を不幸は蜜の味って言うだろう」


 はっきりとそう言うものだから、逆に話してもいいと思えた。


「結婚する未来が見えないって言われました」


 つい昨日の話だ。

 ぼくは高校から付き合っていた彼女にフられた。

 衝撃のあまり、ぼくは「わかった」しか言えなかった。

 そうして後から寂しくなり、バーに訪れた。

 美南さんの言う「失望」にぴったり当てはまる。ジグソーパズルだ。


「はは。なんだそれ」


 美南さんは笑うと、煙草の灰を空き缶に落とした。少しズレて灰は床に落ちた。


「ぼくにもわかりませんよ。別に結婚する気なんてなかったのに」

「そうさ。彼女も結婚する気などなかっただろう。だからこそ、きみはフられたのだ」

「どういうことですか」

「それが女心だ。きみにはとうていたどり着けない境地にある」


 にやっと笑う美南さんに、少しだけむかっとする。

 だが、どこか腑に落ちた。

 理由などない理由の失恋――だということだろうか。


「たしかに、女心なんて一生理解できませんね」


 美南さんは静かに煙草を吸っていた。

 他人の煙草だというのに、美味そうに吸う人だった。



 §



 その日の午後。

 大学のくだらない講義が終わり、コンビニでカップ麺を買って帰った。

 マンションの錆びた階段を登り、枯れた観葉植物を横切る。

 蹴破れそうな扉を、ぼくは律儀に開けた。


「や。おかえり」


 リビングの向こうで美南さんが手を振っていた。


「なんでまだいるんですか。出ていくって言ってたのに」

「心と身体の仲が悪くてな」

「怠惰な人ですね」


 そう言いながら、美南さんがいることに安心している自分がいる。

 そりゃあぼくは失恋したのだ。人肌が恋しくたっていいだろう。


「そういえば、映画を一本だけ借りてきたよ」

「なんの映画ですか?」

「恋する惑星」


 こんなときに。ぼくに見せる映画か?


「ちゃんと選んでくださいよ」

「今のきみにぴったりだぞ」

「ぼくがトニー・レオンだって言うんですか?」

「あの台所のパイナップル缶を見たときにひらめいた。そしてわたしはブリジッド・リン」

「フェイ・ウォンじゃないんですね」

「主不在の家を漁る女だ」


 もしかしたら部屋になにかされたのかもしれない。

 美南さんはDVDデッキを操り、映画を再生した。

 画面に配給会社のロゴが表示される。


 映画が始まると、画面が揺れた。

 演出でもあったが、ぼくの眠気でもあった。

 昨日から眠れてない。この際だからと目を閉じた。


 淡い夢の中では。

 別れた彼女が、ぼくに手を振っていた。



 §



 目を覚ますと、映画はまだやっていた。

 でも画面は『恋する惑星』ではなく、『天使の涙』になっていた。


「1本だけって言ってましたよね?」

「ウォン・カーワァイは天才だな」

「それはそうですけど」


 ぼくはあくびをして、台所で煙草を吸った。

 美南さんもソロソロと付いてきたので、煙草を差し出して火をつけた。


「いったい、いつまでいるつもりなんですか」


 美南さんは美味そうに煙を吐き出した。


「わたしにしてほしいことはあるか?」

「あの、話を」

「聞いているが、聞かないことにした。だからわたしの質問の番になった」


 ルール無用のバーリ・トゥードだ。

 ぼくは少し考えてみた。

 美南さんにしてほしいこと。


「なんでもしてやろう。もちろん、セックスでもな」

「本当に?」

「その場合、この煙草を4カートンはもらおうか」


 ラッキー・ストライクなので合計2万4千円。

 なかなか妥当な値段設定だ。


「しかしきみは、そんなものは求めていない」

「そんなことないですよ。美南さんのような素敵な方とヤりたいです」

「バカな男は出会った初夜に襲うものだ。そうだろう?」

「どうせならバカになりたかったですよ」


 にかっと笑った美南さんは、空いてない別のパイナップル缶を指でなでた。映画を借りるついでに新しく買ってきたのだろう。まるで映画から出してきたような、そんな感じだった。


「このパイナップル缶のように、わたしを使いたまえ」

「あなたを食べろってことですか?」

「物の使い方は、人によって違うということだ」


 その言葉に、ぼくはピンとひらめいた。

 そして同時に、背筋がぞわっとした。

 

「じゃあ……いいですか?」

「なんでも言ってくれ」

「あなたも傷ついてください」


 美南さんがぼくを見る。猫のような丸い目をしていた。


「ぼくが受けた傷を、あなたも一緒に受けてほしいです」

「傷の共有……ということか?」

「ちょっと違う。別の方法で一緒に傷ついてほしいんです」


 さすがに意味がわからないのか、考え込む美南さん。

 もちろん、言ったぼくも困惑している。

 失恋で負ったこの傷を、美南さんにも付けるのだ。

 どうしてこんなことを言ったのだろう?


「ふむ……うん。面白い」


 腑に落ちたように美南さんは小さく笑った。

 そしてぼくを見た。その目は、面白い遊び道具を見つけた子どものような、真っ直ぐな目だった。 


「いいよ。きみに傷つけられてあげる」

「いいんですか?」

「ただひとつ、言っておくことがある」

「なんですか?」

「わたしは処女ではないよ」


 美南さんはぺろっと舌を突き出すと、また笑った。


「そんなこと、どうでもいいですよ」

「そうか。ならいいんだ」


 ぼくたちは静かに抱き合った。

 煙草の匂いが、ぼくたちを包みこんだ。



 §



 夏はあっけなく過ぎ、秋になった。

 ぼくはあいかわらず、ビールの飲み方が下手だった。


『いいかい。一気に飲まなきゃビールを飲んだことにはならないんだよ』


 かつて美南さんにそう教えられたというのに、まったく活用できていない。

 彼女がもし学校の担任の先生だったら、ぼくは間違いなく反発しているだろう。


 とにかく、20歳の秋だった。

 ぼくが通っている大学も、意味があるとは思えない講義ばかりだった。

 2年生にもなって、いまだに友達ができなかった。

 ぼくはいつもひとり寂しく大学を後にする。


「おかえり」


 家に帰ると、美南さんが台所で煙草を吸っていた。


「ただいま。ご飯どうしますか?」

「酒で腹を満たすってのはどうだ?」

「それならなにか食べてから行きましょうよ」

「本末転倒だが、それもいい」


 ぼくたちは近所の牛丼屋で腹を満たしてから、バーに行った。

 マスターにビールをふたつ注文した。つまみのナッツは頼まなかった。


「乾杯」

「乾杯」


 静かにグラスを鳴らし、ぼくはビールをあおった。

 教えの通りに、一気に飲む。

 おし、全部飲んだぞ……と思いきや、ビールは半分も減っていなかった。

 だけど、ようやく味の良さがわかってきた。


「ふふ。まだまだだね」


 口元の泡を手の甲でこする美南さんは、ちゃんとグラスが空になっていた。


「いきなり飛ばしすぎですよ」

「せっかく酒が飲めるんだ。豪快に行こうじゃないか」

「マスター、チェイサーもください」

「ついでにハイネケンも」


 ぼくがちびちびビールを飲んでいると、携帯が鳴った。面白みのない、初期設定のメロディだった。

 美南さんが「ちょっとごめんよ」と言って店の外に出ていった。携帯を耳に当てながら階段を降りていった。

 ぼくはひとり、ビールをちびちび飲んだ。はじめはさほど悪くなかったビールの味は、なんだか苦くなってきて、しまいには舐めることもできなくなった。


「美南さんと毎日楽しく過ごしてるみたいだね」


 その声がマスターのものだと、ぼくは遅れて気付いた。


「お訊ねしますが、ぼくがなぜ彼女と毎日過ごしているとわかったんですか?」

「人の行動は90%が無意識で行われているんだよ」

「会話の雰囲気ですか?」

「ビールの飲み方が、彼女にそっくりだ」

「それは知りませんでした」


 たしかに無意識だ、とぼくは思った。


「美南さんは面白い人だよね」

「面白すぎて困りますね」

「時代が違えば英雄になっていただろう」


 戦国時代に生きる美南さんを思い描く。

 酒豪、残虐、部下の信頼。

 ぼくが兵卒なら、間違いなく彼女についていっていただろう。

 ただ残念ながら、英雄と兵卒は簡単には会えない。

 大将の素顔など、1度でも拝めれば僥倖であろうに。


「今でも十分英雄ですよ」

「そう言えるきみが、美南さんには必要だ」

「必要?」


 マスターはきょとんとした。まるで「知らないのか」というように。


「喋りすぎた」


 マスターが去っていくと、カランカランとドア鈴の音がした。

 ぼくの前には、頼んでもいないのにナッツが置かれていた。マスターからのサービスだろうか。美南さんが来る気配を感じながら、ぼくはそのナッツを口に放り込んだ。そして後悔した。やっぱり不味かった。石を舐めていたほうがマシだ。


「いやぁ、すまないね」

「電話、大丈夫ですか?」

「たいしたことはないよ。ほら、もう少し飲もうじゃないか」


 そういう美南さんに、ぼくは違和感を覚えた。

 こんなぼくだが、勘は鋭い。

 美南さんの浮かべているほほえみが、たったいま、作り笑顔になった。

 そのことが、直感でわかった。


「乾杯」


 だから、この違和感の正体がすぐにわかった。

 現在と過去が、この数分ではっきりと袂を分けたことに。


「乾杯」


 美南さんと飲む酒は、今日が最後なんだ——と。



 §



 バーで浴びるほど酒を飲んだぼくたちは、公園で酔いを覚ました。


「いい夜空だな」

「曇りですけどね」

「わたしにとって、これが最高の夜空なんだよ」


 月も星も見えない夜。

 ぼくたちは公園のベンチに座った。

 禁煙区域だけど、それぞれの煙草に火を付けた。


「気分はいいですか?」

「あぁ……とってもいい気分だ」


 秋の風が、煙草の煙を運んでいく。

 誰かが言った。

 秋とは別れの季節なのだと。

 ある人は気温のせいだと言い、ある人は過ごした時間だと言う。


「いい気分、なんですね」


 秋ほど悲しくなる季節はない。

 もし今、季節を選ぶ権利をもらえるなら、真っ先に夏を選ぶだろう。


「美南さん」

「なんだ」

「もう、会えないんですか?」


 ぼくは訊いた。

 美南さんはぼくを見ながら、黙っていた。

 

「どうして、そう思うんだ?」


 選ばれた言葉は「理由なんてどうでもいい」が口癖の彼女らしくないものだった。


「なんとなく、そう思いました」

「なんとなく、か。卑怯な言葉だな」


 ほんとうに卑怯な言葉だ、と美南さんはもう一度言う。

 ぼくは足元の自分の靴に目を落とした。それは元彼女からの誕生日プレゼント。ピカピカで、たぶんこれからも履き続けるだろう。


「ぼくたちはずっと一緒にいましたよね」

「あぁ」

「大学講義を受けに行くのがこんなに嫌だと、初めて思ったほどです」

「あぁ」

「ぼくは、あなたに傷を付けたかったんです。それなのに、あなたは傷付いたそぶりすら見せない。ぼくがこんなに、あなたを好きでいるのに、傷ついてくれない」


 ぼくは美南さんの顔を見ずに言った。


「こんなにあなたが好きなのに、もう会えないんですか?」


 ぼくの言葉に、美南さんは小さく頷いた。


「あぁ。もう会えない」

「どうしてですか。ちゃんと理由を教えてください」

「その前にひとつだけ、懺悔をさせてほしい」


 美南さんがそう言うと、煙草の臭いが強くなった。

 彼女の顔が、ぼくのすぐ前にあった。

 赤い唇から吐き出される息が、ぼくに優しくかかった。


「きみの失恋を酒の肴にして悪かった」

「そんなことですか。別に気にしてませんよ」

「あの日――わたしは彼氏にフられたんだ」


 ぼくは唖然とした。

 美南さんという人は……人間関係なんて娯楽の一部でしかない様子だったし、あの日のバーで失恋した様子など微塵も感じられなかった。

 美南さんは続けた。


「あいつのこと、好きだったんだけどな。愛が重いって、ポイだ」

「美南さん、愛が重いんですか?」

「そう。とびっきりに」


 目の前でふわりと笑う美南さん。


「わたしに他人の失恋を笑う資格なんてなかった。出過ぎた真似をした」

「だから、気にしてませんって」


 そうか、と美南さんは言った。

 会話が途切れ、ぼくたちは黙って煙草を吸い続けた。

 そしてお互い煙草を吸い終わった。完全な沈黙だった。


「わたしに傷を付けられなかったと、きみは言ったな」


 静かな口調。

 でも少しだけ、声が震えている。


「傷はね、ちゃんと付いてるよ」

「嘘ですね」

「嘘じゃないよ。ほんとうのことだ」


 ぼくは美南さんを見た。

 美南さんは静かに涙を流していた。


「こんなに痛い傷を付けてくれるなんて、わたしもびっくりだよ」


 美南さんがこぼした涙が、ベンチに落ちる。


「傷を付けてくれてありがとう」

「それって……」

「うん。つまりは……こういうこと」


 美南さんは、ぼくの唇に唇を重ねた。

 煙草と酒の臭いがしたし、美南さんの唇は冷たかった。

 まるで大人の秋のようなキスだと、そう思った。


「ずるいですよ。こんなの」


 唇が離れて、ぼくは投げやりに言った。


「ぼくは嫌でもあなたを忘れられないじゃないですか」

「思い出の正体は傷だ。そうだろう?」


 口元をほろこばせる美南さん。


「やられるばっかりじゃ性に合わないからね。きみがそうしたいように、わたしもきみに傷をつけたかったんだ」

「イヤミな人ですね」

「これで失恋の傷心は癒えただろう?」

「この傷の方が、ずっと痛いです」


 ぼくがそういうと、美南さんはふわりと笑った。

 胸の奥がズキリと痛くなるような、美しい笑みだった。


「その傷を大事にしてくれ。これから先も、ずっと」


 そうしてぼくたちはもう一度、冷たいキスをした。



 §



 美南さんとの恋は、終わった。

 あれから一度も美南さんと会うことはなかった。

 

 ぼくは普通に大学を卒業し、普通に一般企業に就職した。

 仕事はなかなかに大変だし、面白みのない日々を送っている。

 酒も飲まなくなり、煙草も吸わなくなった。


 あれからぼくは――強くなったのだろう。

 嫌なことがあっても、それほど気にしなくなった。

 どんなことがあっても、あの傷に比べたら、屁でもないのだ。

 美南さんに付けられた、この傷と比べたら。


「ずっと残ってますよ。あなたの傷」


 

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あなたも一緒に傷ついて。 ようひ @youhi0924

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