さらば青春

苫澤正樹

さらば青春

「先生、ここにいらっしゃったんですか」

 そう言うと担当は雨合羽を脱ぎながら、軒下にいた古牧達ふるまきたつの横にもぐり込んだ。

 滝のようにしぶく雨にも構わずチェリーをふかす達矢に、

「この大雨じゃ、湿っておいしくないんじゃありませんか」

 担当が愛煙家として知られるこの老練の作家の心をおもんばかって言う。

 しかし達矢はその心づかいに、

「いや……今日は、ここで吸いたい気分なんだ。飽きるまでしばらくいいかね」

 ふっとほほえむと、またぷかりと煙を吐き出した。


 ——ここは最寄駅からでも、乗合で三十分はかかる小さな沼のほとりの集落であり、昨年還暦を迎えた達矢が生まれ育った場所でもある。

 背後の家は今でこそ門扉を固く閉ざした廃屋寸前のぼろ家だが、元は雑貨屋兼煙草屋であった。

 子供は駄菓子、大人は煙草が売れ筋のこの店では、看板娘の「姉ちゃん」が走り回り田畑だらけの農村風景に花を添えていた。

 子供たちにとって「姉ちゃん」は憧れであり、いつか大人になったら映画の俳優のように渋く決めて彼女から煙草を買うのが夢だった。

 昭和四十五年。成人を迎えた達矢は夢を果たすべく、ここに煙草を買いに来た。

 お目当ては新銘柄のチェリーだ。終戦時になくなった銘柄の二代目である。

「そうか、たっちゃんも大人かあ」

 そう言うと、「姉ちゃん」はにこにことチェリーを取り出す。

 その時、ぽんと背中をたたかれ、

「がんばんなさいよ、デビュー作は姉ちゃんが最初に読んだげるから」

 そんな約束を交わしたのを今でも覚えている。


 だが、その約束は無情にも反故となった。

 十五年後、「姉ちゃん」は癌でにわかに帰らぬ人となり、店は廃業となった。

 皮肉にもデビューの一年前のことである。達矢は、ただただ涙した。

 そしてバブルが弾けて不景気が地方を覆い尽くすとともに、集落からも人が去って行き今ではあちこち荒地だらけになってしまっている。

 それから二十五年。空家のまま放置されたこの店も、用水路改修のため近々取り壊されることになったのだ。

 そして今、もう一つ達矢に追い打ちをかけるような事件が起こった。

「チェリー、廃止だそうですね」

「ああ……」

 先日災害の影響で一時発売停止となっていた煙草のうち、二十三の銘柄を販売再開せず廃止するという発表があった。

 その中に、ちょうど去年発売四十年を迎えたチェリーも含まれていたのだ。

 なぜと思いはしたが、理由が工場の潰滅では受け容れるより他なかった。

 達矢はせめてもの名残にと、本棚に飾ってある初めて買ったチェリーの包装紙の横に、最後の一箱を置くつもりでいる。

「先生、どうぞ」

 次のチェリーをくわえた達矢に、担当がしゅっとマッチをすって差し出す。

 陽にあせた格子窓が、にわかに昔の色を取り戻したように見えた。

「ありがとう」

 答えた左手に力が入り、箱が歪む。

 屋根から落ちる雨水を越えて、ほの辛い紫煙が流れて行く。

 その向こうで何もかもを洗い流して行こうとするかのように、雨粒がペーヴメントをたたく音がただひたすらに響いていた。


<了>

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さらば青春 苫澤正樹 @Masaki_Tomasawa

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