第11話 プライスレス

 その後ぼくは銀行に戻り、次長に辞表を返してもらった。彼はにこっと笑っただけで何も言わなかった。銀行の仲間も特にそのことには何も触れず、ただ単に長期休暇から戻って来たみたいに接してくれた。

 ぼくは素直にその心遣いに甘えることにした。あんなに複雑に凝り固まっていたはずの胸のわだかまりはすっかり解け、ぼくは気を取り直して仕事を再開した。

 一ヶ月ほどスポットディーラーをこなしてリハビリを済ませてから、ぼくはまたインターバンクでポジションを取るようになった。辞表騒動は誰に笑われても仕方ないような独り相撲だったけど、それでもぼくが初めて自分自身と向き合い、足りないなりに考えに考え抜いた上で取った行動だった。他人がどう思おうが本人が真剣に悩んで、落ちるとこまで落ちたことに変わりはない。そしてそこから這い上がってきたヤツはそれなりに強くもなる。だからもうしくじってもそうすぐにはへこたれなくなっていた。ぼくはあの一件を通じて、人はいつだって自分一人で生きているのではないということを知った。プライドは意地やメンツと似てはいるが、決定的に違うところがある。それは許す再生力チカラと、人の言葉に耳を傾け、心を理解し、それを受けとめる柔軟性だ。かつて自分のことで精一杯だった中途半端な青年は、いつの間にか立派な大人になっていた。

 それから結構頑張って、結果的に国資にいた四年間でのトータルでみれば、あの時計の力を借りた分なんとかディーラーとしては一割の部類に入ることができた。プラスってやつだ。でも実力で言えば大過なく過ごせる二割の部類、つまりトントンが精一杯だったろう。でも、何もしないトントンじゃなくて、仕掛けてみたり、耐えてみたり、大きな勝負に出て負けちゃ、小さい勝ちを重ねて取り戻したりしたトントンだったから面白かったよ。

 九五年四月十九日、あの日はまだ休みを取っていたとはいえ、円史上最高値1ドル=79円75銭も経験したし、九七年七月には奇跡とまで言われていたアジアの経済成長がストップしたアジア通貨危機も経験した。タイのバーツ切り下げをきっかけに端を発したこの事件の影響で、インドネシアでは三十年以上も続いたスハルト政権が崩壊に追い込まれたほどだ。欧米一辺倒だった世界経済にアジア経済が与える影響は確実に大きくなっていった。

 かと思えば凪いだ相場に活気を与えようなんてみんなで画策して、半分いたずら気分で仕掛けたこともあった。いつもドキドキものでスリルに満ちていて、みんなで大はしゃぎしたり、息をのんだり、悔しがったりした。

 そして時に「してやったり」とひとり密やかに喜んだり、「またやっちゃったよ」とひとり落ち込んだり、ディーリングルームというガラスの箱の中に想い出がどんどん詰め込まれていった。それは為替とは違い、値がつけられるものではなく、永遠に減ることもない。

 その後一度営業にも戻ったんだけど、その時にはすっかりメディア情報部なんてIT関連企業専門のセクションが出来上がっちゃっていて、もう出る幕なし。ぼくが国資にいく頃すれ違いでハーバード大に留学していた一年後輩が独立し、インターネット事業で巨大なショッピングモールを築き上げようとしていた時代だった。彼は後にその商売で一世を風靡するが、そんな頃にぼくらはまるで世紀末に統一されて誕生したユーロの後を追いかけるように、銀行再編の波に飲まれてもみくちゃにされちゃったんだ。

 ぼくは組合の執行委員になり、新しい仲間との合併にむけてまた眠れない夜を重ねることになった。でももう自分を見失うことはなかった。もちろんあの苦い経験がぼくを強くしたってこともあるんだろうけど、為替取引で悩むよりも仲間のことを考える方が自分には向いていたのかもしれない。自分たちの銀行の看板を下ろした時には、決して沈まないと言われていた戦艦が沈んだ時にそれを見送った船員のような悲しい気分だったけど、それでもいまこうして元気にやっている。合併した後ぼくは組合から復職して現在に至るってわけだ。組合から戻る時もお嫁さんに泣いて頼まれた。

「お願いだから国資だけはやめてちょうだい」

 あの一件以来転勤が近づく度にそう言われるんだ。そんなこと言われたってぼくが決めることじゃない。決めるのは御上だ。国資の後の転勤先が福岡に決まった時にはお嫁さんにも両親にも泣いて喜ばれた。古時計屋はしばらく休業してぼくらは福岡に転勤した。もちろんポチも一緒だ。そして東京に戻って来る異動先が組合だと言われた時もお嫁さんは思わず万歳三唱をして喜んだ。福岡に行ってすぐ娘も生まれたから、プラス「わんっ!」でのカムバックだ。予定より少し早く東京に戻ることになっちゃったので両親は寂しがったけどね。ちなみに世界経済に大きな打撃を与えた911アメリカ同時多発テロ事件はちょうど組合にいた頃だった。

 そして組合から一旦営業に復職したぼくはその後管理職となり、ニューヨーク支店での海外勤務を経て、いまなぜかわからないけど人事部にいる。だからいままでのことがみんな役に立ってるんだ。オヤジの言う通り、あの出来事は意味のある敗北になったってわけさ。これはこれでまたタイヘンなんだけどね。


 え?

 お嫁さん?

 福岡から帰ってすぐあの古時計屋をリニューアルオープンしたよ。

 もちろんいまもハーレーに乗ってるよ。

 ああ、たまに後ろにも乗っけてもらってるさ。

 ママチャリにも乗ってるけど。

 おまけにいまじゃ機械工学博士だ。

 やってらんないよ。


 次長?

 それがつい最近役員になっちゃったんだよ。役員になるとディーラーは出来なくなっちゃうんだ。だからせっかく偉くなったのにえらく落ち込んじゃってたから励ましてあげた。外為法変わったんだから自宅でも取引できるじゃないですか、って。

「自分の財布なんかでちまちまやってられっかよ」

 なんて強がってたけど絶対やってると思う。彼の場合自宅のコンピューターに向かってマジでやってそうだからコワイ。まあ権限リミットは奥さんが握ってるんだろうけどね。


 角のおばあちゃん?

 残念ながらぼくらがニューヨークにいる時に他界されました。享年百二歳だったそうだから大往生だけどね。


 時計?

 もちろんいまもしてるさ。一度彼女がいい色の革バンドを見つけて来て交換してくれたけど時計自体は変わらない。そう、さっきから君がチラチラ見てるこの腕時計だよ、ほらハミルトンとイリノイって名前が入ってるだろ?この文字盤の12の数字の下にある小窓がパワーセーバーの目盛りだ。

 実はあの後しばらくしてからちょっと思いついて試してみたんだ。いろんな人に親切にしてみてさ、パワーセーバーのメモリが増えるかどうか。ひょっとしたらトゥールビヨンも真っ青な仕掛けが施してあるかもしれないだろ?

 でも、試した結果は期待はずれだった。これはぼくの勝手な推測だけど、下心っていうか、どうやらロスタイムを稼ぐ目的で人に親切にしてもダメなんだよ。全然目盛りが増えていかないんだ。サッカーの試合なんかでもそうでしょ?選手はみんな最初からロスタイムを稼ごうだなんて思いながらプレイしているわけじゃない。一所懸命プレイして、それでも試合が中断されたと審判員が認定した時間のみがロスタイムとしてカウントされる。この時計にはぼくに審判を下す神さまが宿っていて、ぼくが一所懸命生きているかどうかをよく見極めながら、ロスタイムとしてカウントするべきか否かを判断していたんじゃないかな?なんて気がするんだ。っていうか、いまはそう思うことにしている。


 発作?

 もちろんそれでも時々零時を過ぎるとロスタイム分だけ時間を遡る、あのデジャヴが身体の中に満ちていくような不思議な感覚には襲われたよ。それは下心なしに、代償も求めず心から誰かのために何かをしてあげたいという思い、それは言い換えればお人好しと言われ続けたぼく本来の「らしさ」から生まれた行為を無意識のうちにやっていたということの現れなのかもしれない。それを神さまはロスタイムとして認定してくれた。だからあの発作が出るということは悪いことではなく、いいことなんだと思っていたんだ。

 でも、深夜零時近くになってぼくの脳裏を次々と過ぎるあの映像イメージが、それからの数分から数十分の間に起きる本当の未来を暗示しているとしたら、怖くない?だって、見えたところでその見えた未来を変えることは出来ないし、為替市場の動向のようにそれが直接自分の身に関わることじゃなければ何か動きも取れるんだけど、直接自分の身に関わることだと零時を過ぎるまでは何も出来ない。それがいいことならば別に構わないんだけど、悪いことだったらサイアクでしょ?彼女が事故った夜もそうだった。

 ある時ぼくはそれに気がついたんだ。深夜に車に乗っていてあの発作に見舞われた時、すごいスピードで車と車の間を縫うようにして追い越していくバイクが事故に遭うイメージを見たんだ。そのイメージの中でぼくはクラクションを鳴らしていた。その数分後、背後からそのバイクが轟音とともに迫ってきた。

—あのバイク危ない!

 ぼくはそれを伝えようと必死になってクラクションを鳴らした。けれど相手にもされず、間もなくそのバイクは本当にトラックとタクシーの間に挟まれて大事故になった。

—もしもそれが自分達のことだったら・・・

 考えただけでもぞっとするでしょ?知ることが幸か不幸か問われれば答えるのはとても難しいことなんだとは思うんだけど、結局、

—知ることの幸福もあるけど知らないことの幸福もある

 ぼくはそういう結論に達した。

 それで毎晩十時頃になるとあの時計を腕から外すようになったんだ。

「なんで最近いつもこの時間になると時計外すの?」

 それまで宵っ張りで風呂に入る時と寝る直前まで時計を外すことのなかったぼくが毎日その時間に時計を外すようになったのを見てある晩彼女がそう尋ねて来た。十時過ぎに帰ってくると腕に時計がないことにも気づいて不思議に思ったらしい。ぼくはその時すべてを話すべきかどうか迷ったんだけど、あれはオヤジとぼくだけの秘密、男同士の暗黙の了解のような気がして話せなかった。というか、彼女を巻き込んじゃいけないような気がしたんだ。ちょうど福岡転勤のちょっと前くらいだったんだけど、その時すでにぼくらは結婚していて彼女のおなかの中に赤ちゃんがいることもわかっていたし、無闇に心配をかけたくなかった。でも嘘もつきたくなかったから、ぼくは咄嗟に中途半端な答を返した。

「どうもこの時計パワーセーバーの調子がよくないみたいなんだ」

「この時間になるとおかしくなるの?」

 もちろん彼女は怪訝そうな顔をした。そりゃそうだ、毎晩十時になると調子が悪くなるパワーセーバーなんてどう考えたっておかしいよ。だからぼくはにこっと笑っていつもの調子でこう言った。

「ヘンでしょ?」

「ヘンです!」

 彼女は笑いながらあのお決まりのセリフで答えると、それ以上何も聞かなかった。彼女はぼくを信用してくれていた。別に銀行員だからってわけじゃない。彼女は出会ってこのかたただの一度もぼくを疑ってかかったことはない。で、思い出したように付け加えたんだ。

「そういえばその時計オーバーホールしてなかったっけ」

「何それ?」

「古時計屋のだんなさんがそんなことも知らないの?分解掃除のことだよ。定期点検。機械式腕時計は普通三年から五年に一回はやるもんだよ」

「分解掃除かぁ、そういえばオヤジに譲ってもらってからそろそろ四年経つしなぁ」

 ぼくは一瞬どうしようか迷った。それで何かが判ってしまうかもしれない。ほっとするような、寂しいような、微妙なニュアンスの感情だった。でも彼女はなんの躊躇ためらいもなく机の上の時計を取り上げた。そうだ、彼女は精密機械のプロだ。ぼくのこのあり得ない経験を話したところで、じゃあその心配を取り除いてあげる、くらいしか言わないだろう。

「やっといてあげるから貸して。ついでに不具合がないかどうかも確かめといてあげる。なんせポンコツだから、ね?」

 ぼくはそこで諦めた。

「んじゃお願い」

「その間お店にあるのどれか適当にしててよ」

 それでぼくはしばらくあの時計を外して、店にあった他の時計をしてみたんだ。案の定、あの発作はまるで起きなかった。だからやっぱり原因はあの時計にあるに違いないと思う。でもたとえどんなポンコツだってお気に入りだ。ぼくは他の時計がどうもしっくり来なくて早くあの時計に戻したかった。

 でも思った通りオーバーホールには結構時間がかかった。なんでも彼女はパワーセーバーのパーツの中に見慣れない目盛りのついた小さなスイッチのようなものを見つけたとか言っていた。なんでも+と0と|の目盛りが刻まれていて、それが|の位置にセットされていたからパワーセーバーの数字がなかなか増えなかったみたいだと彼女は言うんだけど、彼女自身そのスイッチがなんの役目を果たしているのかよくわからなくて一所懸命解明しようと試みていたらしい。しきりと首を傾げていたけど結局諦めたようだ。けれど確かにスイッチが0の位置に来るように調節し直したらパワーセーバーが正常に作動するようになった。だからいまはどうってことのない普通の時計さ。でも、この時計に魔法のチカラが隠されているのかどうか、本当のところはわからない。

 もしかしたらオヤジが知っていたのかもしれないけど、いまとなっては知りようがない。ただ魔法のチカラは別として、オヤジがわざとパワーセーバーがうまく作動しないように仕込んだ時計をぼくに渡した可能性はある。だって、そうすれば必ずあの店に修理しに行くから、ぼくと彼女は遅かれ早かれ出会うことになっていたわけだ。あのオヤジならそのくらいのことはしかねない。でも、これもいまとなってはわからない。だいたいあのオヤジがなぜぼくなんかを選んだのかがいまだにさっぱりわからないんだ。オヤジがあのパワーセーバーをうまく使っていたのは間違いないと思うんだけど、なぜあの日零時過ぎに起こることを予測できていたのかも謎のままだ。それに彼女の両親のことについても、あの晩におばあちゃんから聞かされた話以外は何も聞いていないし、戸籍上は確かに両親の名前が記載されていて彼女が生まれた直後に亡くなっていることがわかった。亡くなった日付が同じだったから事故に遭ったというのは本当だったんだと思う。彼女を息子夫婦の子供として入籍していたというのであればあり得ない話しではないけれど、おばあちゃんの話が事実なのかと問われればまゆつばものだとしか答えられない。まあ彼女自身憶えていないんだからどうしようもないんだけど、それも知らないことのシアワセなのかもしれない。いやいや、知ろうが知るまいがぼくらの幸せにはなんの変わりもない。だから女将さんにも敢えてその話は聞いていない。

 そもそも出会いの時から謎だらけだ。そのうちのいくつかはオヤジの予言通り解明したけど、まだほとんどが謎に包まれたままだ。ぼくも、彼女も。

「苦労はするだろうが、後悔はさせん」

 あの時は何を言っているのかまるで意味不明だったけど、いまのぼくにはその苦労という言葉がいろんな意味に取れるようになった。含みがあり過ぎてどうにでも取れるから真意は読み切れないけど、そこはさすがオヤジだ。なんだったらもう一度最初の方を思い返してみてくれれば、ぼくの言っている意味がよくわかるよ。

 それだけじゃない。あれからぼくはたくさんの経験を積んで、百パーセントにはほど遠いけれど、かなりの確率でいろんなことの先を読めるようになった。もちろん深夜零時前に限らずね。これは経験から来る洞察力であって超能力なんかじゃない。それに人間には第六感というチカラが潜在的に備わっているとも言われる。あの時計が持つ不思議なチカラがすべて洞察力や第六感によるものだとはさすがに言えないけど、少なくともいまのぼくにはそれで十分だ。うーん、もしかしたらそんな風に考えられるようになったのは、ぼくが男としてまた少し成長したということなのかもしれないな。

—そろそろ国資に戻ってみてもいいかな?

 なんちゃって。

 いや、もしかしたら本当にあのオヤジが二百年の時を越えた技術であるトゥールビヨンも真っ青な特別な仕掛けを開発して、この時計に埋め込んだのかもしれない。もしオヤジが生きていたら、ぼくは恐る恐る尋ねるんだろう。

「あのぉ、この機能はなんて言うんですか?」

 オヤジは腕を組んだまま首を傾げて、少し考えるだろう。それからおもむろにへの字の口を開くんだ

「まあ、どかんと一発当てるから、タイム…ドカンってとこだ」

 あのオヤジなら言いかねない、だろ?

 だからいつの日かぼくが年老いた時、たとえば孫娘の行く末を案じるあまりその目盛りがついたスイッチを締め直すことがあるのかもしれない。

 そしてあのショーケースの中に値段の部分だけ空欄になった値札を付けて飾ったりして、それに目を付けた若者に訊かれるんだ。

「これ、いくらですか?」

 口はへの字に、腕は組んだまま、そしてあっさりと言い放つ。

「見りゃわかるだろう」

 若者は一瞬たじろぐ。そしてちょっとムキになって、唇の先をとがらせて聞き返してくるんだ。

「だってこれだけ値段ついてないじゃないすか」

 腕を組んだぼくは一瞬にこっと笑い、そしてこう言う。

「値段がついてないということがどういうことだかわかるか?坊主」

 なんてね。


 真実はその時までお預けだ。


 

                    了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

我楽多奇譚〜ロスタイム〜 Kenn Kato @kennkato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ