第10話 プライド
ぼくは翌週からも銀行に出勤は出来たけど、その代わり相場に入っても動きが取れなくなった。安定剤のせいもあるのかボーッとしてしまい、あの相場に入る前のなんとも言えない緊張感も感じなくなっていた。ただひたすら相場を眺め、予測し続けた。そうやってみると、ぼくの読みは結構な確率で当たっていた。ディーラーにとっての最高のケースは当然読み通りに動いて当たった場合だ。もちろん思った通りに張って裏目に出た時のショックは大きい。けれど何よりもサイアクなのは、思った通りになったのに動かなかった時だ。
—動いていたら大当たりだったのに
そういう皮算用をいくらしても、なんにもならない。でも、動いた途端逆に向かいそうで、どうしても身動きが取れなかった。他の会社に勤める友達に言わせればそれは逸失利益で損失ではないと言うんだけど、動きが取れなかったことに悔しさを覚えなくなったらディーラー失格だ。勝負をかけないインターバンクディーラーからは利益も、損失も、経験も生まれて来ない。
見るに見かねた次長は、十二月に入ってぼくをインターバンクから外した。ぼくは抱えていたポジションをスクエアにし、カスタマーディーラーに戻った。
「おまえだけじゃない。ただ、ここを乗り切れるかどうかはおまえ自身にかかってるんだ。もう一度不安と戦う勇気が戻って来たらいつでも戻してやるからな。おれはまだまだこれからだと思うんだが、おまえがどうしてもと言うのなら次の異動で営業に戻してもかまわない。ディーラーに向かなかったとしても、おまえには確実に営業の才覚がある。とにかく少し休め」
いろいろと気遣ってくれるみんなの視線や言葉が痛かった。華々しくデビューを飾っただけにこの落差は大きい。けれどこれも初めから予測していたことだ。これまでの活躍はそもそも実力じゃない。だから遅かれ早かれこうなった。
—なんでここまでツライ目に遭わなきゃならないんだ?オヤジ
神さまの代わりにオヤジを恨んでみたりもした。だが心の中のオヤジはほくそ笑んだまま何も語らなかった。
—試練だ
ぼくはそう思うことにした。誰かを恨んだところで何も変わらない。いまのままの精神状態で営業に戻してもらったところでいい方に流れが変わるとも思えなかった。ぼくはただひたすらカスタマーディーラーを一所懸命に勤め上げた。年が明けた九五年一月十七日早朝、阪神淡路大震災が起きたが、この時もぼくは結局何も出来ずじまいだった。
インターバンクを外されたことは彼女には話さなかった。その彼女はあいかわらずあの調子で、まだ籍も入れていないのにもう完全に一蓮托生を決意している風だった。ぼくから見ればもうほとんど意地としか思えない。父親を看病している頃の母を思い出した。けれど両親は結婚して三十年も経った夫婦だ。三十一歳と二十三歳の未婚のカップルとはわけが違う。
そしてぼくは、ある決意を抱き始めた。
ぼくは彼女に気づかれないようにインターバンクディーラーを演じ続けた。本当はもうどうでもよくなっていたんだけど、仕事が終わってからも会社に残り時間を潰した。ポケットロイターも覗き続けたし、新聞や経済誌もいままでどおり目を通していた。
それでもポジションから解放されたぼくは少しずつ元気を取り戻して行った。だから彼女も初めのうちはそれを疑うことなく喜んだ。けれどそれまで二時間おきに目を覚ましていたはずのぼくが熟睡できるようになって来た頃から彼女もなんとなく不自然さを感じ始めたみたいだった。
「最近くすりが効くみたいでよく眠れるんだ」
ぼくはそう言って誤魔化したけど、彼女は何か腑に落ちないという表情でぼくを見つめていた。
一方でぼくは彼女のために出来ることはなんでもした。でもそれは彼女を繋ぎ止めるための行為ではなく、これまで彼女がぼくに与えてくれたいくつもの優しさに対するお礼のようなものだった。
「なんだか最近やけに優しくない?」
「そう?仕事にも慣れて来たし、体調も大分戻って来たからこれくらいしないと」
「ほんとかな?」
「何が?」
「なんか違うような気がする」
「なんも違わないよ」
「何か企んでない?」
彼女の勘はやっぱり鋭い。
春になる頃、ぼくは余っていた有給休暇を取らされた。何も気にかけることなく彼女とふたりでのんびりと過ごす時間は久しぶりだった。けれど大学院で研究を続け、自分の夢に向かって着実に歩みを進めている彼女を見ているとなんだか自分がとてもちっぽけに思えた。それに比べてぼくは
そしてついに決行の日が来た。
テレビでは春の選抜高等学校野球大会を放送していた。ぼくは彼女と缶ビール片手にポテチをかじりながらああだこうだ言っていた。すでにぼく一人で五本くらい開けていたけど、通常そのくらいで酔っ払うぼくじゃなかった。でも医者にもらった安定剤を飲んでいた分酔いが回ったのかもしれない。その日のぼくは自分でも手をつけられないくらいタチが悪かった。
「次はカーブに決まってるよ」
その通り、カーブが決まり打者は見送る。
「次は内角高めストレート」
ほらみろ、これでビビったらお終いだ。
「次は外角低めスライダー」
ドンぴしゃ、空振りの三振。
「すごいね、みんなわかっちゃうんだ」
「口で言うのは誰にでも出来るんだよ。ああいうの見てるとバカだねー、なんでそんなことがわかんないの?なんてみんな言ったりするんだけど、もし自分がそこに立ってたら、当然打てるわけないんだよ、だろ?」
「他人事だからなんでも言えるってこと?」
「そう、想像っていうリアルな感覚を伴わない世界では誰もが無責任に好き勝手なことを言う、ってことだ」
「でも現実にその世界に立つと言ってたことや出来ると思っていたことが出来なくなる、ってこと?」
「そうそう、そういうこと」
「まあ言われてみれば、確かにそうかもね」
「ディーラーにもそういうところがあって、素人の人でも新聞とか読んでたりするとこんなの円高に決まってる、とか言ったりするんだ。で120円が100円になったりすると、ほーら円高だ、と来る。でも、じゃあ自分でお金を張ってみれば?と言われたらそれが出来るかっていうとたいてい出来なくなっちゃうんだよ」
「なんでなんだろ?」
「不安というか、恐怖っていうのか、とにかく現実の持つ得体の知れない何かがあって、それと向き合っただけで戦う気力がふっと消えてしまうんだ。お金を張ったその瞬間にみんな悩み出しちゃうからね」
「見る、と、やる、では大違い、かぁ」
「近いところで賭け事なんかだとたまに出来ちゃう人もいるんだけどね。それが才能だ。友達とかにいなかった?賭けると急に強くなるヤツとか、逆に普段実力はあるのに賭けるとなぜか勝てなくなっちゃうやつとか」
「いたいた」
「勝負勘ってやつかな?もちろんビギナーズラックなんて言葉があるくらいだから運ってのもある。でもディーリングの場合勘とか運だけじゃ勝負できない」
「他に何が要るの?」
「情報だ。どんなに小さいことでも見落とさずに片っ端から集めて来てまずアタマの中にぶちまけるんだ。ひとつひとつのピースをいろんな角度から眺めてみて、それからお手本のないジグゾーパズルみたいにしてそれぞれを繋いでいくんだ。そこに浮かんでくる絵が未来予想図。当たるかどうかはわかんないんだけどね」
「情報収集力と分析力ってことか」
「勘と情報、どちらか一方でも欠けていたら本物のディーラーにはなり得ない。たとえインターバンクでポジションを持っていたとしてもね」
「でも実際にやっている人でも両方兼ね備えた人はそうそういないんでしょ?」
「市場に勘だけで賭けているヤツがいるとしたら、そいつは単なるばくち打ち、情報だけで勝負しているとしたらほとんど勝てない。勝てなきゃただの解説者だ」
「解説者かぁ、きびしいな」
「たとえどんなかつての名選手がやっていたとしても現役でない限り解説は解説だ。いまの自分の実力が通用しなくなったから引退して解説をやってるわけで、所詮傍観者の無責任な戯言でしょ?ましてやテレビの前で観戦している素人の読みなんてなんの説得力もない。そんなもん実際のグランドの上じゃマッチの火のようなもんなんだよ。だいたいぼくらがあのバッターボックスに立ったところでびびっちゃって一振りも出来っこない。あの臨場感というか、緊迫感みたいなもんに気力が呑まれちゃって、バットを振る勇気も出てこない」
「そりゃそうだけど、プロや高校野球の選抜選手と素人を比較するのはいくらなんでもムリがない?」
「そうだ、ムチャだ。でもぼくはインターバンク・スタジアムのバッターボックスでプロに戦いを挑むそのムチャなドシロウトなんだよ」
「そんなことないよ、わたしには立派なディーラーに見」
「いいんだいいんだ、そんな気休め言ってくれなくても」
「気休めなんかじゃないもん」
彼女は明らかにムッとしていた。でもぼくはもう止まらない。
「OK、んじゃ百歩譲っておれに勘と情報分析力の両方が備わっているとしよう。スポーツ選手で言えば運動能力と技術ってとこかな?」
「うん」
「そうだよ、ぼくは立派なプロだ、肩書き上は」
ぼくは大袈裟なフリで両手を広げて見せた。彼女が大きく溜め息をつく。そして、ぼくは広げた両手を力なく落とす。
「でもチャンスに打って出る勇気がなければ勝ち残ってはいけない、一流にはなれないんだ。才能は宝の持ち腐れ、努力は水の泡だ」
なんだか自分じゃない誰かが自分の声を使って喋っている、そんな感覚だった。
—巫女さんはきっとこんな気分なんだろうな
すっかり立場が弱くなった左の僕がぼそっとこぼした。
彼女の心配そうな目がぼくを見つめている。
「大丈夫だよ、心配するなって。おれはまだまだ酔っ払ってないし、十分冷静だよ」
—嘘つけ、おまえは感情的になるほど饒舌になるんだろが
—もうなんでもいいんだ、ほっといてくれ
「んじゃまだ酔っ払ってないことの証明に素人が陥りがちな市場の罠についてわかりやすく説明してみせるよ」
ぼくはそう言ってテーブルの上のパワーブックの脇に置いてあったマウスパッドをひっくり返して彼女とぼくの間に置いた。
「これが市場、ドル円マーケットだとする」
「うん」
それから使ってない灰皿に投げ込んであった小銭の中から二つを選んで手に取った。一つは日本の百円玉、もう一つはアメリカの1ドル硬貨だ。1ドル硬貨の方が若干大きいけどパッと見はほとんど変わらない。
—こいつはアメリカを旅していてもたまにしか手に入らないんだ
親父がそう言ってとっておいた物だ。百円玉は指先に見えるように持ち、1ドル硬貨は手のひらの内側に隠して持つ。ぼくは指先の百円玉を彼女の目の前に差し出した。
「今日のドル円レートは1ドル=100円だと仮定しよう」
「うん」
彼女はそれを受け取りながら頷く。
「もし君がここにその百円玉を放り込めば?」
ぼくは彼女の指先にある百円玉をマウスパッドの上に置くよう促した。黒いパッドの上に白い彼女の指先が銀色の硬貨を置く。絶妙な配色だ。ぼくはそれを指先で真ん中にずらすフリをしながら手のひらの中の1ドルコインとすり替えた。カンタンな手品だ。でも堂々とやられると誰もがびっくりする。
「?」
「1ドルが返ってくる、でしょ?」
「えええっ?なになにこれ?」
「1ドル硬貨。なかなかお目にかかれない珍品だ」
あの日の
「それが君のドルポジションだ」
「へえ、でもなんでなんで?もう一回やって、も一回」
彼女は1ドル硬貨よりもぼくの話よりもいまは手品の方に興味があるらしい。機械工学専攻の院生だけど、やっぱり普通の女の子だ。
「そんなに何度もやるもんじゃないよ」
ぼくはちょっと得意気になる。
「話を戻そう」
「つまんないの」
彼女は渋々頷いた。
「レートが1ドル=100円の時ここに百円玉を放り込むと1ドルが返ってくるんだ、わかるよね?」
「うん、それくらいわかるよ」
「んじゃ今度はその1ドル硬貨を放り込んだら?」
彼女の表情が嬉しそうに緩む。いとおしかった。好きとか、愛してるとか、あんまし言ってあげたことがなかったけど、それだけじゃ表現しきれないようないとおしさで胸が溢れていた。
「百円!」
そう言って彼女は1ドル硬貨をひっくり返ったマウスパッドの上に置く。ぼくはそれを百円玉にすり替えてみせる。大きな目がこぼれ落ちそうなくらい大きくなる。
「喜び過ぎ。子供じゃないんだから」
思ってもいないことを言う自分。
「だって、だって不思議じゃない?ね、も一回」
「もうやんない、ネタバレするから」
「いじわるっ」
「話を戻そう。これじゃぜんぜん進まない」
「わかったよ。だから後でもう一回やってね」
よっぽど不思議に見えたみたいだ。ぼくの手品はまんざらでもないらしい。
「じゃあ1ドル投げ込んだんだけど90円しか出てこなかったら?」
彼女はちょっと首を傾げてから答えた。
「円高?ドル安?」
「そう、そのとおり!」
「120円出て来ちゃったら?」
「円安ドル高!」
嬉しそうに答える。彼女のアタマにはカンタン過ぎる質問なんだろうけど、きっと彼女にとってはそんなことどうでもいいことなんだ。こうやってぼくから自分の知らない世界の話を聞くだけで充分瞳を輝かせることが出来るだけの感性を彼女は持っている。
「それくらいわかるわな。じゃあもとい、1ドル=100円の相場に百万円入れたら?」
「一万ドル!」
「そうだ。でも問題はここから先の話だ」
「うんうん」
「じゃあね、もし君がいま百万円の貯金を持ってたとする、トラの子だ」
—おれ、酔っ払ってっかも
トラの子、のところで少し舌がもつれた。
「うん」
「ところが新聞とか読んでると1ドル=100円なんて相場は行き過ぎた円高だ、と書いてあるとする。電車の宙づりでもテレビのニュースでもみんなそう言ってる。いろんなデータが沢山並べられて、各国の首脳陣も警戒してるし経済評論家ももっともらしくそう語る。これはきっと円安ドル高に進むに違いない、って思わない?」
「うん、思うと思う」
「そこに百万円だ。ちょっと色気出してみたくならない?」
「なるかもっ」
「そこでだ、思いきってトラの子の百万円を市場に注ぎ込んで一万ドルを手に入れたとする」
「一万ドルのドルロング・ポジションだね」
彼女はよく思わぬ言葉を口にする。つまり、常日頃からぼくの話を一所懸命聞いてくれているのだ。そしてよく憶えてくれてもいる。それは決して知的水準が高いからだけじゃない。相手を理解したいという気持ち、おなじ時間や世界を共有したいという純粋な思いが強いからなんだと思う。だから活き活きとした空気が全身から伝わってくる。いまのこのぼくとは大違いだ。こんなに素敵な子が、自分なんかでいいわけがない。あのオヤジが手塩にかけて育て上げたそれこそトラの子を、ぼくなんかが引き継いでいけるわけがない。ぼくが彼女に相応しい男でさえいられたらこんなに幸せな光景はないのに。
「そうだ、ドルが上がることを期待して作った買い持ちだから一万ドルのドルロング・ポジションだ。つまり極端な話1ドル=120円になればいいわけだ。そしたらいくらの儲けになる?」
「二十万円、けっこう儲かるんだな」
「まあ一気に二十円もレートが変わることはそうそうないけどね」
「でもあり得なくもない話だもんね?」
「もちろん。ちょうどいまから十年前のことだけど、ドルがたった一日で二十円落っこちたこともある」
「へえ、やっぱりあるんだ、そんなこと」
あの八五年九月二十二日のプラザ合意の翌日、月曜日の二十四時間でドル円レートは1ドル=235円から一気に約20円下落した。日本のマーケットは連休中だったから大慌てだったという話を次長に聞かされたことがある。確かにあり得ない話じゃない。
「で、ところが、だ。ドルを持った途端レートが99円90銭になっちゃったとする」
「なんにもしてないのに千円の損か」
「そう、為替なんてやったことのない奴らはみんな、たかが10銭、そんなの何も動いてないようなもんじゃない、とか言うんだよ。でも実際にお金をかけた途端みんな心配になって来ちゃうんだよな」
「なんとなくわかる気がする」
「さらに99円になっちゃったとする。あれ?百万円が九十九万円になっちゃったんだけどどうしよう?ってもう不安で仕方なくなってくる。ダメ押しで98円になる。もうダメだぁ、これ以上損は出来ないよ、とか言って堪えきれずにドルを売っちゃったりすると、そっからだぁーっと流れが変わって一気に120円まで行っちゃったりするもんなんだよ」
「そんなもんか」
「やってないときはみんな自分の思った通りに動くと感じるんだけど、実際にお金を動かし出すと理由がないことでめちゃくちゃ幅が動くから、そういう精神の葛藤に耐えられなくなる人がほとんどだ。後から見ると一時的な相場の綾だとか修正局面だとか言うんだけど、実際に自分がそこに入ってお金を動かしていると、たとえそれが銀行のお金だとしても、どこまで逆に行っちゃうんだろう?損しちゃうんだろう?って不安で不安で耐えられなくなって胃に穴が空いちゃったりする。おれみたいに弱いヤツはね」
彼女は深刻な表情で語るぼくの話なんてそっちのけって顔で首を傾げながら何か考えているようだった。それから
「パチンコとおんなじだ」
「は?今日はパチンコ、ですか?」
またまた突然の展開に声が裏返る。いや、あの時彼女は予感して咄嗟に話を逸らせたのかもしれない。
「うん、おじいちゃんパチンコだけはまるで弱くてしきりと台を変えちゃうの。で、その後わたしが座るとすぐに出るんだ、へへへ」
「おじいちゃんパチンコもやるの?」
「うん、英才教育とか言っておじいちゃんに時々つきあわされてた」
「英才教育?中学生の頃から?」
「うん」
「呆れた」
—だいたいオヤジめ、こんなところまで来てまだ登場する気か?
—すんごいシリアスな気分なのにどうしてそう雰囲気を壊すかな
「ほとんどおんなじだけど、ちょっと違うかな」
「何が違うの?」
「張るモノが違う」
「張るモノ?」
彼女が怪訝な顔をする。
「賭け事より先を読む客観的なデータが多いんだ。だから、」
「だから?」
「当たるはずだという確信の方が外れるかもしれないという疑惑よりずっと強い。つまり、外した時のショックが大きい」
「諦めがつかないってこと?」
「いや、許せない、って言う方が近いのかな?」
さすがに彼女も話をはぐらかすのを諦めたようだった。かつてぼくの中で力強く燃えていた情熱の火は、もはや風前の灯火だった。
「賭け事でなくなるのは自分のカネだ。ディーリングは自分のカネじゃない、銀行の金だ。いくらでもスクエアに出来るから自分の懐は痛まない。でもその分心が痛むんだ、つまり」
「つまり?」
「ディーリングはカネを張るんじゃない」
「じゃあ何を張るの?」
「プライド、だ」
もう彼女は何も言わなかった。
「ごめん、別れてくれないか?」
「え?」
唐突だとは思ったが、ぼくは思い切って切り出した。意識的だったのか、衝動的だったのか、いまでもよくわからない。
「どうして?」
意に反して彼女の表情は変わらなかった。
「どうしたってぼくは君に不釣り合いだ。こんなダメな男よりもっと若くて先のあるヤツの方が君にはふさわしい」
「なんでそんなこと言うの?」
「そう言うしか他にないんだよ!」
ぼくはポテチの袋を床にぶちまけるくらい荒れていた。大好きな彼女に当たり散らすくらいに。でも、それがぼくなりの優しさのつもりでもあった。そうでもしない限り彼女はぼくから離れてはいかない。そしてぼくはどんどんダメになっていく。これ以上惨めになる自分を彼女にだけは見られたくなかった。
「銀行、辞めようと思うんだ。かといっておじいちゃんの遺産に頼りたくもない。だからぼくは君を守ってあげられない。自分になんて勝てっこないんだ。どう頑張っても自信が持てない。約束違反だ、仕方ないだろ?まだ若いんだからいくらでもいい人見つかるよ」
彼女は何も言わずに立ち上がり、玄関から出て行った。
「なんか一言くらい言えよ」
ぼくは見送りもせず、無意味に流れる高校野球の画面をただ呆然と見つめ続けていた。
—またもとの生活に戻るだけだ
ぼくは床にへたり込んだまま、散らばったポテトチップスのカケラを一つずつ拾い集め、それをかじりながら泣いた。ポテチも涙もしょっぱくてどっちの味がどっちなのかよくわからなかった。
玄関には合い鍵が一つ、そっと置かれていた。
三月末、ぼくは辞表を提出しに銀行まで行った。
「何も辞めなくたっていいだろ」
次長は驚いてそう言ってくれた。まるで彼女と話している時のぼくのように、声がひっくり返っていた。あの冷静な次長が動揺するのを初めて見た。
「ディーラーとしてのプライドに関してはまだ自分を許せるんです。でも、結局ぼくは彼女にふさわしい男にはなれませんでした。それが許せないんです」
次長はぼくのことをしばらく何も言わずに見つめていた。それからおもむろに口を開いた。
「なんだかおれには言ってることが無茶苦茶に聞こえるけど、まあ、その顔を見る限りいまは何を言ってもムダって感じだな。とりあえずこれは預かっておく。で、これからどうするつもりだ?」
「福岡の実家に戻って、おふくろの家業の手伝いでもします」
「そうか。わかった。新年度の有休消化まではこの辞表は預かっておく。それがなくなったら、やむを得ん、受理するよ」
次長もまた、以外とあっさりしていた。ちょっとがっくり来たけど、もうそんなことどうでもよくなっていた。
「いろいろとありがとうございました」
ぼくは深々と頭を下げ、あのビルを後にした。でっかい船だから一人くらい落っこちても、しばらく誰も気がついてくれないだろう。まるでスクリューの曳き波の後に漂流する遭難者の気分だった。
—これこそゼツボウの海だ
ぼくでもいまなら詩人になれる、そんな気がした。
それからの数日間、ぼくはひたすら荷物の整理をした。彼女が部屋に残して行ったものを段ボールに詰めて玄関の前に出しておいた。
要するにただ意地を張っていただけだったんだと思う。未練タラタラなのがイヤだったからそうでもしないと踏ん切りがつかなかった。彼女からはぷっつりと連絡が途絶えた。
—よっぽど呆れられたんだろうなぁ
そう思った。ちょっとやり過ぎだったかもしれない。
—もう少しかっこよく別れてもよかったかも
それこそ後の祭りだった。
それからぼくはとりあえず帰省に必要な荷物だけをまとめて鞄に詰め込んだ。いま電話すると大騒ぎになるから両親には会ってから話すことにした。
—これじゃまるで夜逃げだ
そんなことを思いながら夜マンションを出る前にもう一度部屋を見渡した。一年半という月日を思うと、そのどこにも彼女がいた気配があった。そして、そばにいたぼくもまた彼女とおなじ空気を呼吸し、ともに笑い、泣いてきた。彼女の息がない部屋に居続けたら苦しくて苦しくて、窒息してしまいそうな気がした。だからもうここにはいられない、そう思った。
彼女はいつもぼくだけをまっすぐ見つめてくれていた。もうあんな子に会うこともないだろう。ぼくの中に大きな後悔が残っていた。だからぼくは駅に向かったけど、なかなか電車には乗れなかったんだ。もう一度だけでいい、彼女の顔を見ておきたかった。福岡へ戻ることも、荷物は段ボールに詰めて玄関先に出しておいたことも告げておかなきゃいけない、鍵も渡さなきゃならない、なんて自分に言い訳しながら、ぼくは初めて二人が出会ったあの花屋の前で彼女の帰りを待ち続けた。けれど彼女はなかなか戻っては来なかった。
もう最終の新幹線には間に合わない。かといってあの部屋に戻る気もしなかった。
—ビジネスホテルにでも泊まるか
ぼくは腹が減ったのでそばのコンビニであんパンと牛乳を買ってきた。この組み合わせはぼくにとっては子供の頃からのベストマッチングだ。外に出て、それを食べようとした時だった。かわいい仔犬がぼくの足下にすり寄ってきた。
「なんだい、おまえもひとりぼっちなのか?」
仔犬はクンクン言いながらぼくの足下に身体をなすりつけてくる。
「そっか、おまえも腹減ってんだ。よし、これ食え」
ぼくは仔犬にパンをちぎって食べさせ、牛乳を飲ませてやった。
「これでおなか一杯になったろ。早くあったかいところにいきな」
その時だった。彼女が目の前を通り過ぎた。
「あ、」
ぼくは彼女の名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
—いまさらどの面下げて会えってんだよ
彼女の後ろ姿は街灯の下に消えて行った。肩を落としたぼくは仔犬をそっと抱き上げた。
「なあ、ポチ。あの子がおれの彼女だったんだぜ、信じらんないだろ?これでよかったんだよな?おれじゃ釣り合い取れないもんな」
そう言って仔犬の頭を撫でている時、ぼくはあることに気づいた。すっかり忘れていた、あの壊れた中途半端なパワーセーバー、その目盛りが少しずつ少しずつ増えていく。おそらく仔犬の世話をしている時間だけ、パワーがセーブされているのだ。そして、時計の針はまもなく深夜零時を指そうとしていた。
—なるほど、そういうことだったのか
この時になってぼくは初めてこの時計のカラクリに気がついた。
—こいつはロスタイムをカウントしてたんだ
そして時計が零時を指した瞬間、またあの不思議な感覚が訪れた。左手の薬指が痙攣し
気がつくとぼくは丁度コンビニから出て来たところだった。かわいい仔犬がぼくの足下にすり寄って来る。そしてパンと牛乳を分けてやる。
「これでおなか一杯になったろ。早くあったかいところにいきな」
—彼女が来る、ロスタイムに賭けるワンチャンスだ
ぼくは迷った。でも、もう後悔だけはしたくなかった。つまりぼくは意固地になっていただけで、本心から彼女と別れたいだなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったんだ。
だから彼女の姿が見えた時、ぼくは心を決めた。時計の針が零時を指し、また左手の薬指からあの既視感が流れ出る瞬間ぼくは身構えた。放心している場合じゃない。ぼくは時間の呪縛から解き放たれ、彼女の背中を追って駆け出していた。ポチも後を着いて走って来た。ぼくらはもうひとりぼっちじゃなかった。
ぼくに気づいた彼女は、ちっとも落ち込んでなんかいなかった。
「はやまるなよ、坊主。逃がしたらでかいぞ、わたしは」
彼女はそう言うと、にっこり笑った。そしていつもの調子でつけくわえた。
「手品もう一回、約束だよ」
そういえばぼくは自分がわかりやすい男だってことをすっかり忘れていた。
ぼくらは二人で歩き始めた。ポチもついてきた。いやいやオチじゃなくて、ポチだ。
遅咲きの夜桜の下を歩いた。花びらが舞っていた。なんだか空気まで桜色のような気がして気持ちが良かった。こうやって通勤以外の目的でこの町を歩くことが最近まるでなかったから、なんだか通い慣れた道が新鮮にも感じた。変わってしまったこともたくさんあるけど、変わらないものもたくさんあった。ぼくの心の中に、これまでの人生の数々の場面が駆けめぐった。
「身体を壊しちまったら、何もかも終わりなんだよ」
それでもやらずにはいられなかった親父に対しての反発感、
「身を粉にして働いて、切り捨てかよ」
社会に対する不信感、
「なんでおれなんだよ」
出来過ぎた彼女に対する劣等感。
ぼくの中でいろんな感情がひしめき合っていた。大切な人の前で、仲間の前で、いつも胸を張っていられる自分でありたいと思い続けて来たこと。そんなことを支離滅裂に彼女に話し続けた。
「自分のことを、あなたはまだなんにもわかっていないの」
ポチを抱き上げた彼女はそう言った。
「わたしが好きなのは銀行員のあなたじゃないんだよ、わかる?」
それから彼女はポチに話しかけるようにこう言った。
「もしかしたらこの子に見えるあなたと、わたしに見えるあなたはおんなじなのかもしれないな」
—何かを成し遂げたい
ぼくの胸でずっと空回りし続けていたそんな思いが花開き、そして舞い散ろうとしている中で聞いたその一言は、自分が思っている自分がすべてではないということを伝えていた。
「おまえだけじゃない」
次長の言葉を思い出した。そうだ、誰にだってつらいことはある。でも彼の言うとおり、自分でなんとかするしかない。
—このまま逃げるか?
—どこまで逃げたって逃げ切れやしないよ
—そりゃそうさ自分だもん。ずっとついて回ってくる
「いつでも戻してやる」
次長の言葉は、慰めではなかった。逃げても意味がないことに早く気づけということだったに違いない。彼もまた、ぼくが戻って来ると信じて待ってくれているはずだ。
でも、混乱したぼくはそんな周囲の人の気持ちに気が付けずにいた。ただ自分のメンツに囚われていただけだ。中途半端なまま戻って同じことの繰り返しをしたくなかった。銀行の仲間にこれ以上恥もさらしたくなかった。それならいっそのこと、社会的な自分を抹殺してしまいたいと思った。そのためにぼくは退職という二文字を選んだ。
—社会的自殺行為?
—結局そんなんで辞めても中途半端なままだ。生きてるって事に変わりはない
アタマの片隅ではわかっていた。ぼくはそんなにばかじゃない。でも、たとえ花は散っても、樹がなくならなければいずれまた花は咲く。ぼくはそんな風に甘く考えていた。
「何その鞄?」
彼女が訊いた。
「実はついさっきまで本気で福岡の実家に帰ろうと思ってたんだ」
ぼくは思わず照れ笑いした。
「ほんとに銀行辞めちゃう気だったの?」
「だって、これ以上続けてもカッコつかないし、意味ないもん」
「そっかなぁ」
「おじいちゃんはそれを望んでたんでしょ?仕事を辞めて、君のためだけに生きてくれる人を探していた。でもおれじゃおじいちゃんの代わりは務まらない。格が違いすぎるよ。役不足だ」
「なんか違う気がする」
「違うかな?」
「あなたが会社を辞めることと、わたしの幸せとはイコールではないわ。そんなつもりでおじいちゃんはあなたを選んだわけじゃない」
「そっかぁ」
「受験がイヤになってわたしがやめたいって言い出した時おじいちゃん言ってた。引き際のないやめ方はするな、それは単なるムダ死にだって」
「ムダ死に、か」
「だから自分がやめたい時にはやめないことだって。どうせやめるんなら周りから、こんなにうまく行ってるのになんでやめちゃうの?もったいない、って言われる時にやめるべきだって」
「うーん、そりゃ確かに理想的な辞め方かもしれないけど」
「そこが一時的な感情に振りまわされて人生を棒に振る弱い人間とそうでない人間の違いだって。だいたいムダ死にしてやり直せるほど第二の人生甘くないってさ」
「きっついなぁ」
ぼくは立ち止まった。彼女は続けた。
「花を切り落とすのはいつでも出来る、一瞬だって。でも一度切り落としたら二度と元には戻れないんだってことを忘れるなって。未来は選ぶことが出来るけど、一度過ぎてしまえば決して変えることが出来ない過去に変わるんだって」
何も言えなかった。
「それでもやめると言うなら、意味のあるやめ方をしろ、いままで苦労した分だけの元を取れとも言ってた」
なんだか、オヤジがそこにいるような気がした。
「人生にムダな時間など一秒たりともないって。意味のないことなんて一つもないって」
胸の奥にずっとわだかまっていた何かが溶け出して止まらなくなった。
「いこ」
彼女の手がぼくの手を取った。その手に引かれて、ぼくは子供みたいに泣きながら夜桜の下を歩いて行った。そのまわりをポチが駆け回っていた。
ぼくらは途中店に寄った。なんでもヒューズが飛んだらしくそれを交換するというのだ。
「ブレーカーのスイッチあげればいいだけの話なんじゃないの?」
「それがね、うちはお店の部分だけ古いの。キッチンをリフォームした時ついでに新しいのに交換しようとしたら店にあちこち穴を開けられるのはイヤだっておじいちゃん意地張って。だから、これ」
「うわー、懐かしい」
彼女が開いた手のひらの上には、両端が鍵型になった昔ながらのヒューズがあった。
「ちょっと交換してくるから待っててね」
「おれがやろうか?」
「いいよ、こういうのわたしの方が得意だし、感電されても困るから」
「あちゃー」
彼女はそう言うと二階へ上がって行った。ぼくは暗闇の中、自分が買った時計が置いてあったショーケースの前に歩いて行った。そこだけはあの時のままの状態で残してある。ほどなくして店内に灯りが点った。ショーケースのガラスにあの晩のオヤジの姿が浮かび上がる。
「だがな、坊主。ムダにしないのも、意味を持たせるのも結局は自分だ。やるだけやって、それでしくじったら、それもまた意味のある敗北になる。何もせずに白旗をあげるよりよっぽどよいわ。情けないなぁ、途中の勝負の一つや二つ負けたってどうってことないだろ。肝心なのは死ぬ時にどう思うかだ。要するに最後に笑ったもん勝ちってことだ」
ぼくは振り向いて答えた。
「はい」
腕を組んだへの字が頷いて、そして、ふっと消えた。
九五年四月十九日、その日ドルは史上最安値の1ドル79円75銭を記録した。
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