第9話 ブルーマンデー・ブラックフライデー
幸い彼女は両腕に軽い外傷を負っただけで大事には至らなかった。精密検査のために入院はしたもののすぐに退院できた。しばらくは包帯姿が痛々しかったけど、大学院もまだ休みだったし、研究も予定より早く進んでいたから特に影響が出ることもなかった。でも彼女にとってはとんだ夏休みになった。
—で、許しちゃうわけ?
そりゃあいろいろ考えたよ。でもあれだけじゃ浮気してたと断言は出来ないだろ?大学院とはいえまだ学生なんだから友達がいたっておかしくもなんともない。そのうちの一人が彼女のことを好きで何かを届けるのを口実に会いに来ただけかもしれない。ちょっと頭もいいし、ルックスも今風だし、きっとおぼっちゃんだからモテモテで、調子に乗ってチュッとしちゃっただけかもしんない。言っておくけどぶちゅーじゃない、意表をついたようにチュッとしただけだ。彼女からしたわけでもない。
確かに彼女もそれで悪い気はしなかったのかもしれない。このままぼくが気づかずに放置しておけば持って行かれたかもしれない。楽しげに話してたのは気になるけど、彼女の家から出て来たわけでもない。それにもし仮に何かあったとしても、ぼくのことがどうでもよくなってたらあんなに取り乱したりしないはずだ。ぼくはそのことだけを信じる。何かあったとしてもぼくは知らない。知らないことで悩んでも意味がない。
—お人好しのとこは死んでも変わんないな
そうだ、ぼくはお人好しだ。お人好しのどこが悪い。
何が起こるかわからない、
相場どころの騒ぎじゃない。人生だっておなじだ。人のイノチに値段をつけるつもりはないけど、それを信頼という言葉に置き換えるのなら、それはその人のその時の状況で上がったり下がったりする。恋愛関係という相場の中で、対彼女ぼくレートは明らかに下がっていた。ただひとつ為替と違うのは、理由がなければ落ちないということだ。つまり相場の綾のような自動的な修正作用は期待できない。
—下がるのはあっという間、元に戻すのは至難の業
ぼくは彼女との関係をなんとか繋ぎ止めてはいるものの、好転に向かう上昇気流がまったく見出せない。
—勝つべき相手は自分自身だ
なんて大口を叩いておきながら何も出来ずにいる自分の現状を嘆きつつ、ぼくはひたすら途方に暮れていた。
それでも時間は容赦なく流れ、世界は回り続ける。どんなにプライベートに問題を抱えていたとしても、仕事も相場も止まってはくれない。ぼくは月曜になる度に、ひたすらブルーな溜め息を鞄に無理矢理押し込んで銀行に向かった。東京駅から歩いて五分もかからないはずの道のりがやたら遠く感じた。
—おえっ
途中で何度も立ち止まり、胃袋の底からこみ上げて来る消化不良の数字を呑み込んだ。丸い数字は呑み込んでもすぐまた喉元までせり上がってくるし、角のある数字は食道や胃袋の内壁に引っかかって粘膜を傷つけるからしくしく痛む。げっぷに紛れ込んだ小数点が東京の空に舞い上がり、目がチカチカした。通勤に向かう人々の足音までが、まるであのスピーカーから垂れ流される音声レートのように聴こえ、ぼくはその真ん中で立ち尽くした。
そんな苦悶の中でぼくはまたあることに気がついた。営業にいた頃には新規開拓で一社獲得すればそれは確実に自分の実績として残り、決して消えることはなかった。ところがディーラーの場合、もし仮にいま十億稼いでいたとしても、明日から負け続ければすぐにその実績が消えてしまうことだってあり得るのだ。それを次長のように野球でたとえるなら、営業の実績は打点、ディーラーの実績は打率、ってことになる。ヒットを出し続けない限り、打率は消耗していくのだ。このプレッシャーは並大抵のものではない。それが二十四時間、ぼくらの精神にまとわりつく。
例の不思議なチカラのおかげとはいえ、実績だけ見れば新人にはあり得ないくらい大幅に勝っていたから別になんの問題もないはずだった。それなのに、ぼくはすでに銀行に行くのがイヤになっていた。極度のストレスが心と体を蝕み、すっかり痩せてしまってもいた。つい半年ほど前には毎日銀行に行くのが楽しくてしょうがなかったのに、銀行の前に来ただけで吐き気がする。それくらい人は変わる。そして、それでも出勤しなければならないのがサラリーマンの宿命だ。
「どう?少しは自信がついた?」
十月末、昨年はオヤジの件ですっかりと忘れていたぼくの誕生日のお祝いにふたりでレストランに行った時のことだった。彼女が恐る恐るって顔でぼくに訊いた。当然憔悴しきっていることには気がついていただろう。でも、順調に実績を上げているのになぜそんな風になるのか、彼女にはまるで理解できなかったに違いない。
「それが、全然ダメなんだ」
ぼくはまったく食事が喉を通らなかった。
「なんで?頑張ってるのに。結構勝ってるんでしょ?」
「キミだから言うけど、確かに健闘しているとは思うよ。でも、」
「でも?」
「そういう時に調子に乗って人に自慢したりしちゃうと、お金の神さまが上から見ていて叱られちゃうような気がするんだ。だから」
「だから?」
「怖いんだ」
ぼくはナイフとフォークをお皿に置くと、机の上のポケットロイターを取り上げた。
「とにかく常に怖くてしょうがないんだ。理由があっても、なくても、動く時は突然もの凄く動く。いつ何があってもおかしくないから、ポジションを持っている間は相場の動きが気になって気になってどうしようもない。だからこうしてふたりで食事している時も、みんなで飲んでいる時もずっとこれを手放せない。急に動いた時に銀行にいるとも限らないから携帯電話が通じない店では食事も出来ない」
「しかたないよ、それが仕事なんだから」
「不安に縛られる仕事?もういい加減疲れちゃったよ」
そう言って頭を抱えるぼくに、彼女は口を閉ざした。
「どんなに実績を積んで来たって、明日から勝てなくなることだって十分にあり得るんだ。それが怖くて、せっかく家に帰って来ても熟睡なんてできやしない。夜中だって何度も目が覚めて、その度に相場に動きがないか確認しないと落ち着かない。これじゃ、」
「これじゃ?」
—ほとんどビョーキだよ
心配そうに訊いてくる彼女にそこまでは言えなかった。最近、先輩が胃潰瘍で入院した。十円はげなんて当たり前の世界だ。一週間負け続けただけで白髪になっちゃったりするって言うのもいまのぼくには笑えない話だ。実際に海外では首を吊った人だっている。何も言えないでいるぼくの心中を察してくれたのか彼女がぼそっと呟いた。
「身体だけが心配だよ」
「ごめん、せっかくの食事なのに、また台無しだ」
「いいよ、わたしだって心配かけてるし」
「よかないよ。みんな自分の彼女や家族が巻き添え食ってんだよ?守ってあげたいのに、喜ばせてあげたいのに、心が金縛りにあってるみたいで何一つ出来やしない。あの時はあんな偉そうなこと言っちゃったけど、自分に勝つまでなんて悠長なこと言ってたら誰かに持ってかれちゃうよ」
だめだ、溜め息しか出ない。
「大丈夫だよ、わたしはどこにもいかないから、それだけは安心して、ね?」
そんな姿を目の当たりにしている彼女はぼくなんかよりずっと辛かったはずだ。
「ねえ」
「ん?」
「自分に勝つことって、そんなに重要なことなの?」
「おれの場合、特殊な事情を抱えてるから」
「特殊な事情?」
—しまった
「わたしに関係あること?」
「あると言えばあるし、ないと言えば、ない」
「おじいちゃん、でしょ?」
「ああ、そうだ。おじいちゃんとの約束だ。でもそれは君と出会う前のことだ。まあ前って言っても直前だけど」
「どんな?」
「男と男の約束だ。申し訳ないけどこれ以上は言えない」
「やっぱりおじいちゃんのせいなのね」
「それは違う。おれが一方的におじいちゃんの言葉を信じてるだけだ」
—苦労はするかもしれんが、後悔はさせん。これは男の約束だ
ぼくは知らず知らずにあの約束を信じていたのだ。だからかろうじて踏ん張っていられる。
「ねえ」
「何?」
「なんで君はこんなになっちゃったおれと一緒にいるの?どう見たっていまのおれはまともじゃないはずだ」
「そうね、なんでここまでして?って正直思うこともあるよ」
「はっきり言うなぁ」
「でもね、」
「でも?」
「他にいないの」
「好きな人が?」
「そうと言えばそうだけど、違うと言えば、違う」
「やっぱ、おじいちゃん?」
「ええ、そうよ」
「おじいちゃんがなんか予言した?」
「いいえ、違うわ」
彼女はきっぱりと否定した。
「それも、」
「それも?」
「わたしが一方的に思い込んでるだけ」
「おれがおじいちゃんに似てるから?」
彼女は一瞬首を傾げた。
「そうかもしれない」
「やっぱりファザコンかぁ」
ぼくはまた溜め息をついた。
「それを言うならグランパパコンプレックスね。でもおじいちゃんとあなたが違う人だってことくらいわたしにもわかってるわ」
「どこが似てるのかな?」
「似てるって言うよりも、おなじ空気を持っているのかも」
「おなじ、空気か」
「それじゃ不満?」
「不満じゃないけど、複雑な気分だ」
「あのね、ひとつだけ言わせてくれる?」
「はい」
「好きでいるのに理由なんて必要なの?」
—神さまはかくも無情なるものか
明けた月曜日、ぼくはついに三十一歳の誕生日を迎えた。そして唯一対外的にメンツを保っていたディーラーとしてのぼくにも、とうとうスランプがやってきた。とんだバースデープレゼントだ。
始まりはいつもと変わらぬブルーマンデーだった。仕事にはすっかり慣れていた。あの不思議な発作もぱったりやんでしまっていたが、ぼく自身にもそれに頼ろうなんて気持ちは微塵もなかった。だからいつも通りに席には着いたんだけど、たぶん正気を失っていたんだと思う。月曜日だというのにアタマの回転がすっかり止まってしまっていて、あまり動きもない相場で無意味に仕掛けて失敗した。
—何やってんだろう、おれ
たいした額の損失ではなかったが、それ以上に落ち込んだ。
翌日、ぼくはそれを取り戻そうと気を引き締めてかかったつもりだった。確実な線を狙って小刻みに手堅く勝負したんだけど、これもことごとく裏目に出て連敗。
「勝ちばかりは続かないが、負けばかりも続かないもんだ」
次長に笑いながら励まされた翌水曜日には、突如現れた「なんちゃって介入」に見事に踊らされ、三連敗だ。「なんちゃって介入」とは、行きすぎた相場を是正するために各国政府が市場に参加する「介入」を装った初歩的な仕掛けだ。
ディーラーは常に各国の経済や政治の状況を把握しているから、その時の実情と相場のバランスが極端に崩れている場合、介入を想定して「いつ来るかいつ来るか」ってみんな構えている。事前に噂とかが流れたりすることもあるので、相場が一見静まりかえっているように見えてもディーリングルームではその真偽をめぐっての情報がやりとりされていたりもする。水面下でのちょっとした心理戦だ。だから誰かがそのフリをしただけで市場が堰を切ったように動き出し、瞬間的に激しい売買が行われるんだ。けれど本当の介入の場合、国家が相場をコントロールする決意を持って市場に参加してくるだけに、投入される金額は通常の取引では太刀打ちできないくらい巨額になる。当然どんなに上手にそのフリをして見せたところでしょせん長続きはしない。
だから冷静に様子を見ていればすぐに見破れるはずなんだけど、ぼくは神経過敏になっていたからつい過剰反応してしまい、まんまとハマっちまったってわけだ。なんとか立て直そうとしたんだけど結局後手後手に回ってしまい、仕掛けたヤツに全部持っていかれた。慎重過ぎるはずのぼくがもっともらしくない負けを喫した。ここまで来るともうなし崩し的に落ちていくものだ。
—自分の読み通りやるとことごとく裏目に出る
木曜日、ぼくはそう考えてわざと自分の読みとは逆に仕掛けてみた。ところがそういう時に限って自分の読み通りに市場が動いたりする。結局ぼくは自分自身に打ちのめされて銀行を後にした。もう笑って誤魔化すしかなかった。
さらに金曜日、ぼくは突然何を思ったか、
—ケチケチ打って出るからいけない、
と大きく勝負に出て見事に敗退、手痛い損失を出してしまった。もはやこうなると救いの手も差し伸べようがない。
—ブラックフライデーか
確か二九年のブラックサーズデーも八七年のブラックマンデーも十月だった。ぼくのブラックフライデーもやはり十月に始まった。でも、ぼくのは自爆としか言いようがない。
当然家に帰っても会話はない。何を言っても、言われても、その途端自分のすべてがガラガラと音を立てて崩壊してしまいそうな気がした。彼女に話しはしなかったけど、一目瞭然だったと思う。それまで彼女の作ってくれた食事はただの一度も残したことがなかったぼくがほとんど箸をつけないなんて、異常事態以外の何ものでもない。
その晩、悔しくて悔しくて、ぼくは初めて仕事のことで泣いた。一度泣き始めたら涙が止まらなくなった。ぼくは声を押し殺して泣き続けた。なんとかしたくて一所懸命頑張っているのに、どうにも出来ない自分が惨めだった。
いつもなら寒がってくっついて来る季節なのにそうしなかったから、彼女はきっと気がついていたんだと思う。でも何も言わずに背中を向けて寝ていた。そして、ぼくは疲れ果て、久しぶりに深い眠りに落ちた。
翌朝の九時頃、ぼくは目を覚ました。いつもとは逆に、ぼくの背中を彼女が抱きしめてくれていた。
ぼくはただぼーっと白い壁を眺めていた。すると床の方から何か黒いものが這い上がってきた。
—アリ?
間もなく冬だというのに、マンションの上層階にアリがいるわけがない。けれどそのアリは壁の上を斜めに登りはじめ、しばらくすると相場のように上がったり下がったりし始めた。
—そろそろ上がる?
そう思うと登り出す。
—そろそろ下がる?
そう思うと降り始める。アリはぼくの意志に忠実に壁を歩き続けた。そして壁の端まで行くと、おなじ高さを維持したまま今度は反対の方から姿を現した。
—アリ得ない
「んん?」
彼女が目を覚ました。
—ダメだ!いまこんなことを言ったら大騒ぎになる
彼女にこれ以上心配をかけたくなかった。でも、彼女はその異常を敏感に察知した。
「どうかしたの?」
ぼくは
「あのさ、」
「うん」
「いま壁の上を、ね?」
「壁?そこの、壁?」
「うん」
「壁がどうかしたの?」
「その、たとえばなんだけど」
「うん」
「アリが登ったり降りたり、してるわけないよね?」
「え?」
「いま登るよ、ほら。今度は降りるよ、ほら」
しばし舐めるように壁を見つめた後、彼女はがばっと起き上がった。そのまま慌てて着替えると、いつからかリーボックに変わったジャージのぼくに無理矢理ダウンを着せて手を引っ張っていった。ハーレーの後ろでぼくは彼女の背中にしがみつきながら、まぶたの裏に焼き付いたアリの残像を振り払おうと懸命になった。アリは執拗にぼくの網膜の上を歩き回った。ぼくの腕に力が入る度、彼女はハーレーのギアを落とし、スロットルを開く。ハーレーのエンジンがレッドゾーンまで跳ね上がる度、アリが向かい風と振動で剥がれ落ちそうになる。しかしアリも必死だった。一本、二本と足が離れていく。が左の前足と中足だけで踏ん張る。触覚も足代わりだ。彼女が病院の前で急減速した時、アリとぼくの戦いは終わった。アリは予測しない急激な逆方向のマイナスGにもんどり打って思わずその足を離し、風に乗ってぼくらの遙か前方に飛んでいった。
—勝った!
ぼくは思わずそう呟いていた。
「幻覚、ねぇ」
その医者は、困ったなぁ、という表情でボサボサの頭をかいた。
「はい」
「畑が違うから全然わかんないんだよね、そういうの」
「へ?」
「なのに最近そういうの多くてさ。世の中どうなっちゃってんだろね?こっちが聞きたいよ」
—そ、そんなのありかよ?
「で、いまもいるの?そのアリ」
「いえ、病院の前でサヨナラしました」
「まあ、過度の緊張からくるストレス性のものでしょうね」
病院の救急で診てはもらったけど、その頃はまだ心療内科とかがその病院になくて、一通り検査をしてもらったものの結局安定剤を処方してもらっただけだった。ところがこの安定剤が厄介なんだ。飲んだらスカッとするのかと思ったら、ちっとも気分は良くならない。ただボーッとするだけだ。でもぼくは二度とアリに会いたくなかったから、医者に言われた通りにその薬を服用した。
「大丈夫?」
ぼくの目を覗き込む彼女の顔がふたつに見えた。
—アリは一匹でもイヤだけど、彼女が二人になる分にはまだいいか
そんな妙な納得をして、ぼくは彼女に精一杯笑って見せた。
「アリはしつこかったけど、たぶんもう大丈夫だと思うよ。だって、ちっこいからさすがにあそこからは戻って来れないでしょ、ははは」
彼女も笑ってくれたけど、その笑いはやっぱりひきつっていた。
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