第8話 ラウンドアバウトミッドナイト

 その数日後、次長の読みを裏付けるようにドイツ連銀総裁がドル高を希望する発言を発表した。さらに追い打ちをかけるようにハラー大蔵次官が「ドルが安い理由がない」との強気な発言を添えて中長期的なドルマルク適正レンジの具体的な数字を打ち出したことから対マルクドルレートが急騰しドル高気運が強まることになった。

 アメリカに至ってはサマーズ財務長官がドル高歓迎の声明を出し、米国内でもアメリカ経済の先行きに対する意見が割れていることが露呈されたが、アメリカ経済における責任者のこの発言はドルロングには追い風となった。

 八月三日、それまで90円台後半で睨み合いを続けていたドル円レートが六月末以来およそ一ヶ月ぶりの100円台を回復、安値高値の差は22銭と大きな動きはなかったものの100円44銭という高値をつけたことから、ぼくは自分の持ち続けていたドルロングをどうするかそろそろ考えなければならなくなった。状況的に見てここ一週間が勝負、そう思ったぼくは次長に相談して売りに出る許可を取った。翌日こそ一時的な修正局面に入りドルは若干値を下げたが、そこからあっという間に持ち直し力強く推移、翌週になってもドル高のトレンドが弱まることはなかった。途中何度も喉から手が出かけたが次長にストップをかけられた。

「細かな対応もいいが、こういう時の相場の力強さを肌で感じろ」

 これはとても難しいことなんだけど、しばらくはドルが強いなとは思った。ただそれがいつまで続くかがわからない。ぼくはいつまで持ち続けるかという観点からどこで折り合いをつけるかという観点へ頭を切り換えた。次長の言うことも確かだけど、逆に相場の雰囲気に流され、欲を出し過ぎてだらだらと持ち続けてもいけない。ディーラーが陥りやすい相場の落とし穴だ。

 八月九日、ぼくは101円47銭の高値を記録した直後に101円45銭で迷わず十本のポジションすべてを売った。結局あの日98円25銭でキープしたドルロングは3円20銭の差益を得てさらに約3200万円の儲けを産み出した。けれどこのドルの勢いも結果的に長くは続かなかった。お盆明けに100円台後半をつけたのを最後に90円台に逆戻りし、以後長期的な円高ドル安傾向トレンドに戻ることになる。

 今回こそ発作の力を借りなかったが、次長のアドバイスがなければ先走ってしまいここまでの勝ちは取れなかったはずだ。いずれにしてもまだ半人前ということに変わりはない。


—真夏の夜のユメはいつまでも続かない


 基本的にぼくは悲観論者ペシミストだ。それまで営業一筋で来たぼくが突然異動してきて、しかも初めて持たされたインターバンクでのポジションで奇跡的な勝利を収めた事実は、市場に銀行と次長の名前を轟かせただけでなく、行内にぼくの名前を広めることになった。当然ぼくには注目が集まることになる。

 普通の展開ならここでぼくの鼻は急に高くなるはずだ。でも、いま言った通りぼくは悲観論者ペシミストだ。残念ながらそういうありがちな展開にはならない。

—あれはその通り、奇跡、なんだ

 みんなの注目が集まり、期待されればされるほどそれがぼくの両肩に重くのしかかって来た。それだけじゃない。

—あれは実力で取ったもんじゃない

 そんな負い目がぼくへのプレッシャーを倍増させた。すべてをぶちまけてしまいたかった。けれど話したところでそんなこと誰も信じちゃくれない。逆にあれは実力ではないと言えば言うほど謙虚だとか思われて、

—やっぱり出来るヤツは違う

 だなんて、ぼくのイメージがどんどん一人歩きを始めたんだ。そんな自分のイメージに追いつかなきゃならないとぼくは必死でついていこうとした。なりふりなんて構っちゃいられない。ぼくは全神経を張り巡らせ、日中の顧客取引の時でさえ相場の浮き沈みを捉えてはわずかな差益を求め、損失は最小に食い止めようと躍起になって頭を回転させた。オーダーに対するプライスを出しながらカバーディールの最善のタイミングを探り続ける。もちろんそんなのみんなやっていることだ。でもぼくはもっと緻密に、もっともっと効率的にと自分を追い込んでいった。もちろんそれがぼくの技量を自然と押し上げていたんだけど、自分ではそんなことまるで気がつかなかった。うまくいって当たり前、うまくいかなきゃ自分を責める。ぼくはいつの間にかまた自分を褒めてやることを忘れ、精神を消耗し続けていた。

 もちろん夜になればインターバンク取引のOJTがある。けれど次長ももうベタでは張り付いてくれなかった。

—もう誰も頼れない

 だからぼくは手堅く攻めた。もう少しいけると思っても一歩手前でアクションを取り、差益が減ってでもリスクをヘッジする。ちょっとでも下がれば迷わず売りに出て損失を最小限に抑える。消極的だけど、持ち過ぎている間にドルが下がってロングがしこってしまい、やけくそになってひっくり返すような事態だけは回避し続けた。だいたいそういう時に限って今度はショートが持ち上げられてしまうものだ。周りを見ていると結構こういう人が少なくない。ちなみにこの場合はひっくり返してもドテンとは言わない。相場はその場の雰囲気に流されず、やめる時はすっぱり止めるのが肝心だとぼくは学んだ。そして体勢を立て直してからその先の展開を予測し直し、次の仕掛けのタイミングを伺うんだ。だからやたら手数が多い割に実りが少なかった。その代わり損もしなかった。地道な積み重ねと言えば言えないこともないんだけど、いま思えばムダが多かった。すり減らした神経や費やした時間に見合うだけの収穫が得られることなんてほとんどない。でも持ちっぱなしでどーんと構えて待つなんて芸当はとてもじゃないけどぼく一人では出来なかった。当然銀行にいる時間が長くなり、彼女と過ごす時間は減っていく。まるで丘サーファーがうろつく浜辺に恋人をほっぽり出して、小さな波を必死になって追いかけるサーファーみたいだった。それでも業績は小刻みに上がっていった。しばらくして自分の判断で動かせる権限リミットを与えられ、ぼくはついに念願のインターバンクディーラーになった。けれどその代わりに、もっと大切なものをなくしかけていた。


「なんだかさ、ディーリングって潜水艦みたいだね」

 ある休日の夜また彼女が突然ヘンなことを言い出した。

「今日は潜水艦、ですか?」

「そう、深海の暗闇の中で息を潜めて気配を探りながら攻撃のタイミングを図ってる、ようなもんでしょ?」

 言われてみれば確かにぼくは海上で繰り広げられる激しい戦闘を黙ってみている潜水艦に似ていたかもしれない。でもその実は何をどうしていいかわからず身動きが取れないだけだった。

 市場の海が凪いでいる時はぼくにだって余裕を持って艦の指揮を執ることが出来る。しかし大きな事件が起これば相場は嵐のようにうねるし、極端な相場が続けば介入への警戒感も強まる。巨額の資金を注ぎ込んで仕掛けて出てくるヘッジファンドのような存在も意識しなければならない。だから何かしらの大きな動きが予測されたり、経済に影響力のある人物が何か発言したりした場合には突然乱高下が始まったりもする。そうなるともうじっくり考えているような時間はない。予測がつかないから瞬時の判断と対応が必要になる。ディーラーにとってはそんな時こそ儲ける絶好のチャンスだ。けれどOJTが終わり独り立ちしたとはいえ、ぼくの実力ではそこで一儲けしようだなんて色気を出したらあっという間に撃沈されてしまうのがオチだった。かといってもう次長に相談ばかりもしていられない立場だ。自分の判断で動かなければならない。でも自分一人だったらただじっと海中深く潜行して指をくわえて見ているしかない、はずだった。

 ところが、だ。

 そんな時にたまたまあの発作に襲われることが何度かあった。先が見えれば先手が打てる。なりふりかまっていられないから当然ぼくは勝負に出る。大荒れに荒れる相場を目の当たりにしても何もせずに黙ってじっとしていたぼくが突然大きく動き出し、誰もがビックリするような結果を出す。なぜぼくにそんな芸当が出来るのかなんて理由は誰も知らない。だから本当は何もできずに途方に暮れているのが実情なのに、周りからはどんなに相場が荒れても慌てず冷静にチャンスを窺っているかのように見られてしまうのだ。

 為替相場というのは本当に何が起きてもおかしくない世界だ。まだぼくが日本橋支店にいた頃FRBの議長が辞任すると言い出した時は五分間で7円も落ちた。でもなぜいまFRBの議長が辞任するということで五分間で7円も落ちなきゃいけないのかということは誰にも説明できないし、当然予測もできない。逆にぼくが国資を離れた翌年、ロングタームキャピタルというヘッジファンドが潰れた時はキャリートレードの巻き戻しで円を瞬間的に買わなきゃならない人が世界中にあふれ、二日間で20円も円高になった。為替市場ではこういうことが枚挙にいとまがないのだ。もしぼくがその時ここにいて発作に見舞われ、事前にその場面を目撃していたとしたら、恐らくとんでもない額の差益を得ていただろう。

—午前零時の男

 イメージとは怖いもので、いつの間にかそんなキャッチコピーまで付いてしまった。いつも零時近くになると動き出すからだ。なぜかわからないけど発作はだいたいその時間帯に起きた。ぼくはまるで役者同然に振る舞わなければならなくなり、とにかくホッと息のつける場所がなくなってしまっていた。


「潜水艦って凄いんだね」

 当時ある男性コミック誌に潜水艦ものの長編マンガが掲載されていて大好評を博していた。日米が極秘で開発した最新鋭原子力潜水艦を自衛官が乗っ取り、独立国家宣言をして軍備なき世界平和実現のため米ソ両大国を相手にたった一艦で戦いを挑むという物語だ。政治が絡むからマンガにしてはちょっと難しいんだけど、潜水艦の戦闘場面と政治外交のやりとりの場面が絶妙なバランスを保っていて読む人を飽きさせない。それに何よりよく考えられている。あんな風に話せたらこの話もきっと面白くなるに違いない。ぼくもちょっと読んだことがあるんだけど、あれだけ評判になった作品だから知っている人も少なくないだろう。でもさすがに少し右に傾き過ぎているような気がして、ぼくは途中で読むのをやめてしまっていた。彼女の手にはそのマンガの単行本があった。

「どこでみっけてきたの?それ」

「途中まで押し入れにあったんだけどね、試しに読んでみたらはまっちゃって、残り全部買って来たの」

 確かに彼女が好きそうな物語だ。腕時計を見ればわかるとおり、彼女はあまり女の子っぽいものを好まない。それにしても二十二巻だなんて、いつの間に読んでたんだろう。

「なんか仕掛けて出る時は魚雷発射って感じでしょ?」

 その目は輝き過ぎていた。

「そんなにかっこいいもんじゃないよ。それに人の命がかかってるわけじゃないし」

「でも浮き沈みもあるし、なんか似てる」

 そう言われてみれば似ていなくもない。けれどそれを言うなら、ぼくはいま圧潰深度ギリギリを潜行中って感じだ、しゃれにならない。

「あんな離れ業やってのけちゃうんだから、やっぱり凄いよ、うん」

 彼女はどうやら主人公の艦長にぼくのイメージを重ねているようだった。彼女のぼくに対する尊敬の念も全速前進、というよりむしろ暴走しかかっている。どっかで止めないことにはここでもイメージのぼくに現実のぼくが置いてきぼりにされてしまう。この場所だけはそれを阻止しなければならない。

 確かにあれを潜水艦にたとえるなら見事な操艦だった。フツウならよっぽどの実力がないと出来ないと思われて当然だ。本当はすぐアップアップするポンコツのディーゼル艦なのに、あの日以来彼女もすっかりぼくを原子力潜水艦だと思っている。それにもし仮に最新鋭の原潜だったとしても、

—我々の航海の真の目的は恐慌なき世界経済と市場システムを実現させることにある。近い将来、諸君はそれを目の当たりにすることになるだろう

 なーんてかっこいいセリフは死んでも吐けない。マンガのヒーローと比べられたらたまらない、器が違い過ぎる。

「だからあれは運がよかっただけの話なんだって」

 一体ぼくはこのセリフを何度吐いたことだろう。

「もうちょっと素直に喜べばいいのに」

 彼女に認められることはぼくにとって何より嬉しいことだった。けれどぼくが勝ち取った派手な取引はすべて例の不思議なチカラによって実現されたという事実がぼくを素直に喜ばせてくれなかった。いまのぼくの対外的イメージはあのいくつかの取引が描き出したものだ。おそらくはあのチカラを使わずにおなじような結果を出せるまで、ぼくのこの憂鬱は続くだろう。越えるべきは他の誰でもない、この自分だった。

—ぼくには制限付きだけど超能力があるみたいなんだ

 それがたとえ彼女であったとしても、そう簡単に理解してもらえる話じゃない。いつの間にかぼくはこの話になるといつもここでお茶を濁すようになっていた。彼女に対する唯一の隠し事だ。

「ちょっとコンビニ行って来るけど、なんか欲しいものある?」

「ナタデココ!」

 当時このナタデココが一大ブームになっていた。なんであんなものがあんなによく売れたのかよくわからないけど、とにかくコンビニでもファミレスでもスーパーでもそこここにナタデココ関連商品が並んでいた。でも日本のマーケットとは実に流行に流されやすいもので、翌年にはパンナコッタに取って代わられていた。あの大量のナタデココはどこに消えたのだろう?まあそんなことはどうでもいい。

「わかったよ、他にはいい?」

「一緒に行く!」

「いいよ、マンガ読んでなよ」

 彼女は面白くなさそうな顔をして言った。

「昔だったらそんなこと言わなかったのに」

 ちゃんと聞こえていた。その気持ちもよくわかっていた。でもその頃既にぼくは銀行だけでなく家に帰ってもそのプレッシャーを感じざるを得なくなっていた。だから時々外に脱出した。ぼくは彼女の声が聞こえなかったふりをして玄関を出た。


 正直なところ一人でいるとホッとした。かつては一人でいると溜め息ばかりだった。自由と孤独は紙一重、とはよく言ったものだ。そして人も時代も変わるのだ。ささやかな開放感の中、ぼくは鼻歌交じりにコンビニへ向かった。

 コンビニから出て来た時、角のおばあちゃんと鉢合わせた。

「あれ、おばあちゃん、またおでかけ?」

 ぼくは何気なく声をかけた。おばあちゃんはまたぼくに手を差し出した。ぼくはその手を握ろうと思いつつコンビニの前にいることを思い出してちょっと躊躇した。

「何いまさら照れてんだい。昔はあんなにおっぱい触らせろと騒いでおったくせに」

「ええ?ぼくがですか?」

 断っておくがそんなことを頼んだ憶えはただの一度もない。だいたい相手はおばあちゃんだ。ぼくは慌てて周囲を見渡した。

「なんならまた触らせてやろうか?」

「とんでもない、ご辞退申し上げます」

 ぼくは当然丁重にお断りした。その時脳裏をオヤジの顔がよぎった。

—ひょっとして、オヤジと間違えてる?

「わたしゃいつもボケとるわけじゃない。今日は一人で帰れる。ただの散歩だよ」

—また読まれてるよ

「すいません」

 ぼくは頭をかいた。けれどいつの間にか手は繋がれていた。

「大丈夫じゃて、あの真夏の夜のユメのことは誰にも話しちゃおらん、心配するな」

「おばあちゃん、その真夏の夜のユメって、何?」

「いまさらそれを言わせるのかい?恥ずかしい」

 完全にオヤジとぼくを間違えている。そんなに似ているんだろうか、かつてのオヤジに。

—それにしてもエロオヤジめ、そうとうな女好きだったな

 おそらく初体験の相手がこのおばあちゃんだったに違いない。だからいまだによく面倒を見てあげていたんだ。ぼくは勝手にそう決めつけた。

「真夜中近くなると時々思い出すんじゃよ」

「何を?」

「楽しかった頃のいろんな思い出をね」

「ぼくも真夜中近くなると時々見えるんです」

 おばあちゃんになら言っても平気なような気がした。

「何が?」

「これから先に起こることが。ほんの短い間なんだけどね」

「その話は前にも聞いた」

「ええっ?」

—以前に聞いたことがある?

 ぼくがおばあちゃんにこの話をしたのは今日が初めてだ。ってことはオヤジもこのチカラを持っていたってことか?

「まあ真夜中ってのは昨日と今日と明日が同居する場所だからねぇ、心に余裕があるうちは先が見えるかもしれん、余裕がなければいましか見えないだろう。見る先なければ過去が、悟りあらば何が見えてもおかしくはないじゃろ」

 うーん、今夜のおばあちゃんは確かにひと味違う。

「おばあちゃん、いまは楽しくないの?」

「世代交代は避けられないからねぇ、お宅みたいに間一世代抜けていればまだ現役でいられたのかもしれないがね」

「なんでうちは一世代抜けてるんですか?」

「なぁにボケたようなこと言ってんだよ。あんたが一番よく知っとるじゃろう」

「それが彼女になんと説明すればいいのかがわからなくて」

 ぼくは半分オヤジ、半分自分で話していた。

「まあ話さん方がいいだろうねぇ。じいさんだと思っていたのが父親で小料理屋の女将が母親だなんてことが知れたらあの子自身だけでなくこの辺り一帯大騒ぎになる」

「ええっ、やっぱり」

「昔からここに住んでいる連中はみんな知っておる。でも決して口にしない出来事じゃ。別に祟りがあるってわけじゃないが、いつの間にかそうなっておった。東京の町にも歴史はある」

「じゃあ花屋のおばちゃんも、商店街の会長さんも、みんな知ってるんだ」

「ああ」

 ぼくは漠然と抱いていた想像が事実と聞かされてさすがに驚いた。

「まあ名家の令嬢を嫁さんにもらった時までは絵に描いたような幸せだったからねぇ。よくできた娘さんだったし、あたしが見てもヤキモチを妬きたくなるくらい仲が良かった。それだけに亡くなった時は声もかけられんかったよ」

「なんの病気だったんでしたっけ?」

 ぼくはさらに鎌をかけた。

「何言ってるんだい。白血病とかいうヤツじゃろが」

「ホントに?」

「必死に看病しとったけどねぇ、結婚して五年も経たないうちに亡くなってしもうた。幼い息子を残してな。そしてその子もまた結婚してすぐに事故で亡くしてしもうた」

—そうだったんだ

 ぼくはちょっと胸が痛んだ。あのオヤジにもそんな歴史があったんだ。

「その頃女将さんは?」

「あの子は当時若くして結婚した頃でな。離婚したのはそのずっと後の話じゃ。路頭に迷って道を踏み外しかけたところに手をさしのべたのが」

「オヤジ、か」

「いいや、あんたじゃろが」

「ん?そっか」

 おばあちゃんが本当に惚けていたのかどうか、ぼくはいまだによくわからない。けれど後にも先にもこの話に触れたのはただの一回きりだ。だからそれが想像なのか事実なのかもわからない。その後一度それとなく花屋のおばちゃんに振ってみたんだけど、

—そりゃあなたいくらなんでも考え過ぎよ

 と鼻で笑われてしまった。

「女将さんと再婚すればよかったのにな?」

「何言ってんだい、自分の嫁さんは亡くなった彼女ただ一人だけだ。だからそのつもりもないし、だいたい再婚するのには自分は歳を取り過ぎている。離婚したとはいえ女将の息子の気持ちを思えば再婚というわけにもいかないと言ったのはあんたじゃろが」

「じゃあ女将さんの息子さんは彼女が妹だということは知らないんですか?」

「イヤ、薄々は勘づいておるじゃろが、もういい大人じゃ、いまさら何も言わんだろう。だいたいあの息子が留学している間にあの子が生まれたんじゃから本人にも確証はない。戸籍がどうなっているのかまでは知らんけどな。おそらく必死になって隠していたはずだ」

「その留学の費用を立て替えてあげたのもオヤジ、か」

「ああ、才能のある子じゃった。だが元がどんなに優秀でもカネの力を借りなければ伸びない才能もある。女手ひとつではそこまで面倒見切れるもんじゃない」

「だから彼女の面倒を女将さんがみてるわけだ」

「いいか、坊主、これはボケたばあさんの戯言たわごとだ。真に受けるなよ」

「あ、はい」

「あの子にも決して話すんじゃないよ。おまえさんはあの子と幸せになることだけを考えておればよい。知る必要もないことなのかもしれん。だが、いつか知る時が来るかもしれんからのぉ。その時におまえさんが動揺しないようにな。惚けたばあさんにしてやれるのはこれくらいのことしかない。日頃のお礼じゃよ」

 それっきりおばあちゃんはもとの角のおばあちゃんに戻ってしまった。ぼくはおばあちゃんを家まで送り、それからマンションに戻ったんだけど、なぜか彼女がいなくなっていた。

「ただいまー、ナタデココ買ってきたよ」

 返事がない。家中探してみたんだけど、リビングに読みかけのマンガが置いてあるだけで彼女の姿はなかった。

「なんだい、せっかく買って来たのに」

 ぼくはもう一度マンションを出ると駐車場を覗きハーレーがあるかどうかを確かめた。思った通りハーレーはない。ぼくは彼女の店に向かった。

 彼女の店の前にたどり着いたその時だった。ぼくはまたあの発作に襲われた。イヤな予感がした。イメージが脳裏を駆け抜ける。彼女の店の前にハーレーが停まっている。そこに見慣れない一台のスポーツカーが走って来てハーレーの後ろに停まる。ぼくは電信柱の陰に身を隠す。中から若い男の子が降りて来る。彼女が店から出てくる。にこにこ笑っているんだ。最近すっかり見なくなったあの笑顔があった。そこで声をかければ状況は変わったのかもしれない。でもぼくは声をかけられなかった。そこから先のことも見えてしまっていたからだと思う。

 しばらく楽しそうに会話を交わしてから、男の子が彼女に何かを手渡す。そして車に乗り込もうとしたその瞬間、ヤツは彼女に軽くキスをしやがるんだ。車が走り去ったところであの眩暈のような既視感がぼくの左の薬指から流れ出ていった。足下がふらついた。店の中から微かに柱時計が鳴る音が聞こえた。ふと気がつくと道路を挟んで正面に彼女が立っていた。

 彼女は突然視界に入ってきたぼくの姿を見て固まった。

「そういう、ことなの?」

 ぼくは精一杯の笑顔で見栄を張って、道路の反対側に向かって叫んだんだ。

「違うの!」

「何が?」

「だから違うの!」

「わかったよ。でもいまのおれは何をどう説明されてもたぶん信じられないと思うから、今日はひとりであっちに帰ってアタマ冷やすよ。自業自得だし。ナタデココは食べちゃうかもしんないけど。おやすみ」

 不自然なくらい明るく、ぼくはそう叫んだ。それからきびすを返し、なるべく肩を落とさないようにしながらマンションへの道を戻り始めた。

—そりゃそうだ。彼女を男が放っておくわけがない

—みんな未来のエリートだし、若いし、かないっこないよ

 ぼくは自分に言い訳を続けた。でも左の僕が黙っていなかった。

—一人いるじゃんよ、彼女を放っておいたバカな男が

—だいたいおまえ仕事や自分に対してプライドってもんがないのか?

—年齢だってまだ三十だろ、そんなに若くないか?

—はっきり言わせてもらえばな、卑屈なんだよ!

 容赦なかった。自分でもわかっていた。だからもがき続けた。でも出口が見つからなかった。そして彼女に甘えた。甘え過ぎた。一番甘えられる人こそ一番大切にしなきゃいけないのにそれを忘れた。人の心が陥りやすい人生の落とし穴だ。

 そのうち背後から唸るようなバイクの音が近づいて来るのに気づいた。彼女のハーレーだ。振り返ると後輪を滑らせながら住宅街の狭い曲がり角に突っ込んできたノーヘルの彼女がぼくの視界の前に姿を現した。くちびるを噛んでいた。きっと血が滲むくらいに噛んでいた。月灯りに彼女の流す涙が光って見えた。ハーレーの後輪は滑ったまま止まらず横倒しになり、路面から火花が散った。彼女は投げ出され壁に背中を打ち付けた。動かなくなったかと思った。けれど彼女はそこから這うようにして立ち上がるとぼくめがけて飛び込んできた。ぼくは彼女のタックルを受けとめた。彼女は擦り傷で血だらけになった両手の拳でぼくの胸を叩き続けた。

「わたしはこんなにあなたを信じているのに!」

 彼女が初めてぼくのために涙を流していた。

「どうしてあれっぽっちのことで信じてくれなくなっちゃうわけ?あんなことで諦めちゃうわけ?わたしってそんなもんなわけ?」

 ぼくは彼女を強く抱きしめた。

「ずるいよ、そんなの不公平だよ!」

 さらに強く、彼女がそれ以上もう何も言えないくらいに強く抱きしめた。彼女が落ち着くのを待ってからぼくは言った。相変わらず口下手で、ほかに言葉が思い浮かばなかった。

「ナタデココ、一緒に食べようか?」

 腕の中で彼女の小さなあたまが何度も頷いた。

 誰かが救急車を呼んでくれていた。幸い大きな怪我はなかったようだけど、大事を取って病院で検査を受けることになった。真夜中過ぎだっていうのに気づいたら大勢の人が集まって来ていた。

「後始末つけたらすぐ行くから、待ってて」

 物々しい雰囲気の赤い回転灯が明滅する中、救急車の担架の上で彼女は頷いて、それからひとこと言って笑った。

「ナタデココ」


 彼女のハーレーはかなり傷ついていたけど、付近の建造物は知り合いの家の生け垣が一カ所少し凹んだくらいで済んでいた。けが人も彼女だけだったので、警察の事故処理もそんなにかからなかった。ぼくは近所の家を一軒ずつ謝って回ったが、誰もぼくらを責める人はいなかった。その時すでに、ぼくらは近所でも有名なカップルになっていたらしい。

「何があったか知らんけど、大事にな」

「仲良くするんだよ」

 みんなに見られていた。

 一通り挨拶を済ませるとぼくは彼女のハーレーを押して店に行き、それからマンションまで戻った。部屋に入ると彼女が読みかけていたマンガとその続きを二冊、それに玄関に投げ出してあったナタデココを手に原チャリにまたがり、ぼくは病院にむかった。だいたい二十二巻になるまで、彼女がこんなに長いマンガを読んでいたことに気がつけなかった時点でぼくは完全に失格だ。

 病室に入ると彼女は眠っていた。ぼくが手を握るとそっと目を開けた。両腕は包帯でぐるぐる巻きにされ、マンガは自力では読めそうになかった。ぼくは天井から吊されたカーテンを閉めてからナタデココを食べさせた。それから隣に寝転がって一緒にマンガを読んだ。

「さすがにこれだけ途中が抜けてると展開がよくわかんないな」

 ぼくがそうつぶやくと彼女がひとつあくびをした。ぼくはベッドから起きあがると彼女の布団をかけなおしてやった。眠りに引き込まれそうになりながら彼女が言いかけた。

「あのね、あのスポーツカーの男の子はね、大学院の」

「もういいって。三十の男が二十歳ハタチそこそこの若造にヤキモチ妬いてどうすんだよ。いまおれが勝つべきなのは他の男じゃない、自分自身なんだ。だからそんなこともう心配しなくていい。謝るのはこっちの方だ。もう一人で暇つぶしにマンガ読ませたりなんかしないよ」

 ぼくは精一杯の意地を張ってみせた。彼女はまだ何か言いたそうだったけど、しばらくぼくの顔を見て考えてからその件に関してはもうそれ以上何も言わなくなった。

「でも、ホントに面白いんだよ、これ」

「知ってるよ。退院できるまでにここまで追いついておくよ。そしたら一緒に潜水艦の話をしよう」

「ありがとう」

 ぼくに向かって嬉しそうに笑った彼女を見たのは久しぶりだった。

「おやすみ」

 ぼくはそう言うと絆創膏の張ってある彼女のおでこにそっとキスをした。

「おやすみ、また夢で会おうね」

「じゃ、あとで」

「うん、あとで」

 彼女はそっと目を閉じた。

 それはしばらく忘れていた、ぼくと彼女しか知らない真夜中の挨拶だった。

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