第7話 ビギナーズラック

「七本プライス下さい!」

「ゴウサンゴウロク」

「ゴウサンゴウロクで。はい、マイン!それではゴウロクで七本買っておきました。毎度ありがとうございます」

 それでも三ヶ月経つ頃にはいっちょ前にカスタマーディーラーをこなしていた。まあ無難な線でしかないけれどそれなりに市場分析も出来るようになり、お客様からの問い合わせにしどろもどろになるようなこともなくなった。必要書類の記入も誰に頼ることもなく出来るようになっていた。ただまだこの頃は営業の時と違ってこれといった残業もなく、平日は銀行に残っていろんな人の取引を見たり、いろいろ教えてもらったり、ファイルされている過去の資料を読んだりして過ごし、週末はなるべくはやく銀行を出て彼女と映画を観たり、買い物したりして過ごした。本当はもっといろんな事を勉強して早くみんなに追いつきたかったんだけど、マジメな顔して次長が言うんだ。

「いまのうちにつかまえとけ、半年で勝負に出るんだ」

 出会って間もなかったし、オヤジのこともあったのでまだ当分結婚なんて考えるつもりはなかったんだけど、おかげさまで彼女とはいい感じで、ふたりともかなりハッピーだったんだ。

 ところがその半年を過ぎた辺りから次長の言うことが少しずつ変わって来た。

「いい時ばかりじゃない。あんまり甘やかすなよ」

 その頃からぼくはドル円スポットディーラーのOJTに入り、まもなく市場の値動きを見ながらプライスを出すようになっていた。でも相変わらず自分の判断でインターバンクに仕掛けて出るポジションを持たされることはなく、朝顧客取引分だけのドルポジションを持って、夕方マーケットが閉まるとスクエアにするデイライト・ポジションの繰り返しだったから、早くオーバーナイトのポジションを持ってみたくて仕方がなかった。

 そんなぼくのキモチを知ってか知らずか次長は相変わらずのマイペースだった。東京市場は一応夕方の五時でクローズするけど、国内市場を中心に動く証券市場とは違って外国為替は東京だけじゃなくニューヨークやロンドンを初め世界中の都市で取引されているから、厳密に言うと二十四時間クローズすることはない。ただどこの国にも就業時間ってものがあるから、便宜上「クローズする」と言っているだけの話だ。ちなみに売り手のディーラーと買い手のディーラーを結びつける仲介業者をブローカーと言うんだけど、かつてはそのブローカーの都合で東京市場は三時半でクローズしていた。ところが外国為替市場にも近代化の波が押し寄せ、コンピューターによる電子ブローカーシステムが導入されて省力化が図られた結果、現在では五時のクローズとなっている。その五時というのも、おそらくは銀行の就業時間に合わせているからだと思う。

 そんな時代の波をくぐり抜けて来たディーラーだからか、次長はそのスマートな外見とは裏腹な図太い神経の持ち主でもあった。もちろん巨額の取引を仕切る管理職だから就業時間なんてあってないようなものだ。その時々の状況で朝早く出勤していたり、徹夜することもしばしばあったからムリもないんだろうけど、デスクの後ろにある休憩室のソファーで真っ昼間からがぁがぁイビキをかいて寝ていたりもする。かと思えば夜四〜五人で一旦外に食事に出て軽く一杯引っかけてから銀行に戻り、ニューヨークの重要な数字の出る十時半頃からまた夜中まで取引をしたりもする。その威風堂々たる姿は、営業にいた頃の穏やかな次長とはまるで別人だった。男にヤキモチを妬くなんて考えたこともなかったけど、彼と一緒に行動する若手インターバンクディーラーの中には国資生え抜きの同期なんかもいたから、それがちょっと悔しくてぼくは必死に勉強を続けた。だからポケットロイターと新聞と経済誌は片時も手放せなかった。


 インターバンクに自分のポジションで賭けるチャンスはなかなか持たせてもらえなかったけど、その半年間だけでもいろんな事を経験した。専門的なことを言うとそれだけで目が回っちゃうからすっ飛ばして話すけど、ぼくはその中でいくつかのことを学んだ。それは経済のことというよりも、むしろ人生についてなのかもしれない。

 一つは、結果よりも経過の方が大切だってこと。たとえば月末になるとその月の平均為替レートが出るけど、それがたとえおなじ1ドル=100円だったとしても、あまり浮き沈みなくずっと100円前後で推移していった月と、90円になったり110円になったりの波乱含みの展開で推移していった月とでは大きく異なる。ディーラーの場合、波乱含みの展開の方がチャンスは遙かに大きい。人の心はいつだってつい結果ばかりを気にするけど、同じ結果ならやっぱり紆余曲折があった方がドラマになる。もっとも平穏無事な毎日を望む人もいるから一方的には言えないんだけど、要は価値観の問題だ。でも人はないものねだりばかりするから、ぼくのようにあまり変わり映えのしない毎日を送ってきた男の目には、そんなドラマのある人生の方が素敵に思えて来たんだ。


 その夏のある晩、めずらしく彼女とちょっとしたケンカをした。というかつきあって半年以上も経てば何もないほうがおかしいんだけど、ここしばらくなんとなくぎこちなかったのも事実だから遅かれ早かれそうなったんだとは思う。いまから考えればごもっともな話で、ぼくが彼女より為替の方に夢中だったのは誰の目にも明らかだった。それでも彼女は我慢していてくれたんだと思う。

「ねえ、ちょっと、ご飯の時とかならまだ仕方ないけど、なにもこんな時までそれ見なくてもいいんじゃない?」

 ベッドの中で彼女に言われた。そりゃあその通りなんだけど、最近の値動きにちょっと含みがありそうで、何が起きるのか気が許せなかったんだ。

「ごめんなさい」

「もういいよ、わたし寝る」

 彼女は背中を向けてしまった。

「あー、参ったなぁ。ごめんよ、許してよ」

「い、や、だ」

 さすがの彼女もここまでやられると意固地にもなる。諦めてほとぼりを冷ますしかない。寒ければそのうちくっついてくるんだろうけど、もうすっかり暑くなっていたからそんな自然治癒力にも期待はできない。すると背中越しに彼女がぼそっとつぶやいた。

「他の女の人に浮気されるよりも、オカネに浮気される方がまだいいのかな?」

「べつにそんなつもりじゃ、」

「オヤスミ」

 彼女はそれきり何も言わなくなった。

—おれ、最近ちょっと変わり過ぎかな?

 人とすれ違う時、自分に原因があると思えるうちはまだ救いがある。確かに最近自分がおかしいとも思う。銀行にいる間はまだいい。みんなおなじ穴のむじなだからだ。でも家に帰るとそうもいかない。家族や恋人にとっての自分は為替ディーラーではないからだ。他の仲間がどうしているのかはわからないけど、きっとみんなおなじような問題を抱えているに違いない。

—何が変わったんだ?

 自分に問いかけてみる。

—そういえば最近あの発作がない

 それは一見するといいことのようにも思えたけど、なんか違うような気がする。

—こころに余裕がない

 そんな気もした。オヤジの言葉を思い出す。でもどう考えてもすべてがうまくいっている。余裕はあるはずだ。その時久しぶりに左の僕が現れた。

—調子に乗ってんじゃないの?

 そんなはずはない。ぼくはまだ半人前だ。ディーラーとしてはまだ何も実績は出していないし、調子に乗るべき時じゃない。

—じゃあ恋人としての自分はどうなんだよ?

 そういえばあいつの誕生日っていつだっけ?

—七月の二十日だよ

 今日は何日だっけ?

—七月の二十日だよ。いや、明けて二十一日か。

 いけねっ、もう過ぎてるじゃん。うっかりしてた!

 ぼくは慌てて起き上がり彼女の背中を見た。耳を澄ます。でも彼女はすっかり眠りに落ちてしまったみたいで、すやすやと寝息を立てていた。

 もう寝ちゃってるよ。

 今更たたき起こして言うのもなんだった。ぼくは額に手を当て、諦めてまたベッドに沈み込んだ。

—息子としての自分は?

 おふくろの誕生日はいつだっけ?

—二月だろ

 考えてみれば正月にも帰れなかった。

—帰らなかったんだろ?

 確かに。彼女と一緒にいたかったし、新しい仕事に慣れるので必死だったし。でも帰ろうと思えば帰れたはずだ。

—電話くらいしてもいいんじゃないの?

 そうだ、電話すらしてない。親父の調子はどうなんだろか?

 ぼくは間違いなくお金のチカラに取り憑かれ始めていた。取り憑かれるということは、本来の自分が消えかけているということだ。ところで右のボクはどこにいっちまったんだ?

—目がすっかりドル円マークになっちまってるよ

 嵐の前の静けさだ。放っておいたら何か起こる。これじゃマーケットとおんなじだ。ぼくは思わず苦笑いした。潜伏期間中に手を打たないとぼくがぼくでなくなってしまうかもしれない。なんだって失って初めて気がついたのでは遅いのだ。

—人間関係市場で常に先手を打って来たのがおれなんじゃないのか?

 思いやりに欠けてるってことか?

—さあね、でもおれはいまの自分、あんまり好きじゃないな

 そうは言いながらもぼくは枕元のポケットロイターに手を伸ばした。相場はこれで見る限り一見落ち着いているように見える。でもアメリカ国際経済研究所の所長が来日していることを考えると、近いうちに何かあるはずだ。この小さな画面の向こう側でおなじように何かが起きる気配を感じ、虎視眈々こしたんたんとチャンスをうかがっているディーラーが世界中にいる。その緊張感みたいなものがひしひしと伝わってくる。

—もう勝手にしろよ、どうなっても知らんからな

 わかってるよ、自分のことだ、自分でなんとかするさ。


 その晩はあまりよく寝付けず、ぼくは五時過ぎにベッドを抜け出した。ぐっすり眠っている彼女を起こさないようにそっと部屋のドアを閉めると、そのままリビングに向かった。枕元に置いてあったダブルネームをしっかりと巻き上げてから腕にはめる。

 昨日また脱いで椅子の背にかけたままだったはずのスーツがアイロンをかけて壁のハンガーに吊されていた。年頃の女の子だ。きっと彼女はアイロンをかけながら誕生日のサプライズを期待して待っていたに違いない。いや、ひょっとしたらその時にはもう忘れられていることに気づいていたかもしれない。

—彼女は何も変わっていない

 その時彼女はもう大学は卒業していたが、大学院での研究がかなり大変だったはずだ。それにも関わらずぼくのことには手を抜かなかった。

—それに比べておれときたら、誕生日まで忘れちまって

 リビングの隣にあるクローゼット代わりの小さな部屋に入るとふたりの洋服ダンスが並んで置いてある。ぼくのタンスを開けると洗濯物がきちんと畳んで並べてあった。ぼくはその中からTシャツとジーンズをとりだして着替えると、財布を持って駅に向かった。花屋はもうこの時間には開いているはずだった。

「おはようございます」

「あれ、今日はまた随分と早いね。お休みかい?」

 彼女と一緒にいるようになってから近所に知り合いが増えた。オヤジはこの辺りの商店街も牛耳っていたらしい。

「そうじゃなくて、花がほしいんです。昨日彼女の誕生日だったのにすっかり忘れてて」

 店の中にはマイナスイオンが溢れていた。

「あれ、そいつはまずいね。なんにする?」

 ぼくは大きく深呼吸してから答えた。

「赤いバラあります?彼女好きなんです」

「知ってるよ、つきあい長いからね。百本くらいいっとくかい?」

「そういきたい気分なんですけど、給料日前なんで大きいの二十三本でお願いします」

「じゃあ飾りはおまけしとくよ」

 花屋のおばさんはそれは見事な花束を作ってくれた。途中でちょっと値段が心配になっちゃったけど、おばさんは朝から絶好調だった。見事な手さばきで花を束ねていくノリノリの職人芸はもはや誰の手にも止められない、そんな感じだった。でも、これだけ素敵な花束なら多少値が張ってもそれだけの価値はあると思ったから、最後まで何も言わずにその技に見入っていた。

「ええっ?そんなんでいいんですか?」

 だから値段を聞いて思わず聞き返してしまった。

「赤いバラ二十三本分でしょ。飾りはおまけしておくって言ったじゃない」

 確かに赤いバラは二十三本だったけど、それを包み込むようにいろんな花が使われていて、まるで彼女がみんなに囲まれてお祝いしてもらっているような雰囲気だった。他の花は控え目に配置されていて、決して派手なわけではない。でもどう考えてもおまけの範疇は越えている。

「この花があなたね、こっちは亡くなったおじいちゃん、で、これが女将さんで、これが私の気持ち、って感じよ」

 おばさんは得意気な顔で笑うとタオルで額の汗をぬぐった。

「あのぉ」

「ん?」

「これじゃ、どう考えても赤字だと思うんですけど」

 支払いを済ませる時、一応訊いてみた。

「いいんだよ、その分他の人の代金に上乗せしとくから」

 そう言うとおばさんは豪快に笑った。笑いながらそばの引き出しからきれいなレターセットを出すと、それをお釣りと一緒に渡してくれた。

「いつも一緒にいるとね、逆に伝えられないことも増えるから。おめでとうだけじゃなくてごめんなさいもあるし、今日は手紙をかいておあげなさい」

 その言葉を聞いて素直に甘えることにした。

「ありがとうございます」

 ぼくはおばさんに頭を下げると、花束を持って大急ぎでマンションに戻った。リビングのテーブルに花を飾り、カードではなく手紙を書いた。最近数字ばっかり見ていて、言葉を書くのが久しぶりだったので三回も書き直した。でも、どう見てもぼくに文才はない。

—誕生日おめでとう、昨日はごめん。正直最近少し焦ってます。なんだかぼくには君ができ過ぎちゃってて、つり合い取れないような気がして今ひとつ自信が持てないから。ぼくの大好きな人の前で胸を張れるまで、もう少し頑張らせてください、お願いします。いつもありがとう、ほんとうにありがとう

 ぼくはその手紙を書き終えると封筒に入れ、花束の中にそっと埋め込んだ。それからスーツに着替え、少し早めに銀行に向かった。


「おう、早いじゃないか」

 案の定次長は来ていた。

「おはようございます」

「なんだい、冴えない顔して。彼女とケンカでもしたか?」

「図星です」

「ははは、楽しそうでいい」

「よくないです」

「原因は、何?」

「職業病です」

「何やらかしたの?」

 興味津々って目でぼくの顔を覗き込んでくる。

「次長も好きですね」

「部下の家庭状況を把握しておくのもおれの役目だからな」

「あの」

「なんだ?」

「次長、奥さんとうまくいってます?」

「いってるよ、山あり谷ありだけど。まあ最近あっちの方はまるでないけどな」

「そんな余裕ないですよね?ね?」

「なんだよそれ、おまえもしかしてその最中に値動きのチェックでもしたの?」

「図星です」

「やっちゃったんだ」

「でも、チェックせずにはいられなかったんです」

 次長が堪えきれずに笑い出した。

「笑い事じゃありませんっ」

「ごめんごめん。でもここにいる連中は誰でも遅かれ早かれ経験することだ」

「次長も?」

「ああ、おれも。一週間口きいてくれなかった。おまえも要領悪いなぁ。そういう時は始める前に一通り見ておいて、後は彼女側の枕元の見えるところにさりげなく置いておくもんだ」

「なんでですか?」

「ばかだなぁ、相手の背中で見てりゃ気づかれないだろが」

—ダメだこりゃ

「奥さんが一週間口きいてくれなかったの、わかる気がします」

「それで、どうした?」

「他の女に浮気されるより、為替に浮気される方がまだいいかもって」

「いや、立派立派。思ったより彼女の方が成長速いかも」

「ちょっとは真剣に聞いてくださいよ」

「聞いてるって。だから時間のある時はなるべく一緒にいてやることだって言ってんだろ?おまえ最近仕事のことばっかになっちまってんだもん。もっとメリハリつけなきゃメリハリ。じゃなきゃディーラーなんてやってらんないよ」

「はい」

 ぼくはがっくりきた。その通りだ。

「値動きが気になるのはこの商売やってりゃ仕方ないことだ。ディーリングルームでもないのに家の中でBGMがわりに音声でずっと流してるってヤツもいる。他で手を抜いてなきゃ、ここだけは譲れない、くらい言えるだろ」

「誕生日、忘れてたんです」

「ありゃりゃ」

「で、今朝早起きして花束買って置いてきました」

「取り返しのつかないことになる前にできるだけフォローすることだな。で、彼女の誕生日も忘れるくらい気になる動きってなんだ?」

「いや、ぼくにはあまり関係ないことかもしれませんが、どうも相場を見ていると近いうちに何かあるような匂いがして眠れなくて」

「なんだ、すねてるのか?」

 そう言って次長は笑いながら紙コップにコーヒーを入れてくれた。

「ありがとうございます」

「で、それはなんでかな?」

「いまIIEの所長が講演で来日してるじゃないですか」

 IIEとはアメリカの国際経済研究所、アメリカ大統領の経済政策を支える重要なシンクタンクのことだ。彼らの発言が市場に及ぼす影響は各国の首脳やFRBの議長などに次いで大きい。そこの所長と主任研究員が今日東京で講演をすることになっていた。

「昨年の暮れくらいからの大きな流れで見ると既に10円も円高になってます」

 昨年の十一月、ぼくがディーリングルームに見学に来た日のドル円レートは確か108円中盤くらいだったはずだ。それが昨日の時点では98円終盤での引けとなっている。流れとしては円高の傾向が強い。

「値動きを見る限りではいまはまだ様子見って感じなんですけど、それにしてもちょっとドルが弱過ぎる。そろそろ誰かが何かしら言い出す頃だと思うんです」

「ふん、それで?」

「だから夕方頃からコメント発表に期待したドル買いのトレンドに一時的に移行すると思うんですよね。マーケットでは適正レンジは98円から103円だと表明するって噂が流れてますから。確かにアメリカの景気回復は堅調です。その意味ではもっとドルが強くてもいいはずです。でもいまの景気回復は個人消費や民間住宅投資のような内需を主因としたものだという点を考えると、その勢いを失速させる要因はなるべく抑えておきたいというのが本音でしょうから、まんまドル高を歓迎するような発言をするかどうか。最近のインタビューとか読んでると、ちょっと微妙な発言があるので」

「ほう、適正レンジが予想から外れた場合マーケットは一時的に混乱すると踏んだってことか?」

「はい、ってなんの根拠もないんですけどね、素人の勘ですから」

「ふむ、おまえもそろそろインターバンクに出てみるか?」

「ええ?いいんですか」

「もちろんおれの監視付きだが」

「お願いします!」

「よしわかった、じゃあ十本預ける。好きなようにやって見ろ」

「いきなり十本ですか?」

「そうだ、文句あるか?」

「いえいえ、滅相もございません」

 インターバンクで初めて自分が持つポジション。銀行のお金とはいえ一千万ドル、日本円だと約十億円の金額だ。

 ぼくは日中ドル円レートの値動きをいつもより強く意識しながら通常の顧客取引業務をこなし、東京市場がクローズした後次長と打合せがてら軽く食事を済ませてから自分のポジションについたのが午後七時頃。ちょうどその時間だとロンドン市場が始まった頃だ。ちなみにロンドンは東京より九時間遅れている。というより、東京がロンドンより九時間進んでいると言った方が正しいのかもしれない。なぜならロンドン時間は世界の標準時間でもあるからだ。そして日本の時差は+9だ。

 98円60銭でドルを三本買いドルポジションに入った途端、ドルは98円50銭まで落ちてしまう。理由はわからないがなんにもしていない段階ですでに30万円の含み損だ。さらに追い打ちをかけるように小刻みにドルが値を下げていく。

—これがやる、と、見るの違いか

 もの凄いプレッシャーだった。脂汗が出てくる。でもこれに負けちゃいけない。

「おいおい、なんだか下がってきたなぁ、大丈夫か?」

 次長がニヤニヤしながら茶々を入れる。

「大丈夫です。ちょっとアベレージコスト立て直します」

 ぼくはさらに98円35銭で六本ドルを追加した。これで平均の持ち値レートは98円43銭になる。

「細かいなぁ」

「いいんです、初心者なんですから。次長のように図太くはやれません。難平ですよ、ナンピン。だいたい次長とは桁が違うんですから細かくなって当然ですよ」

 ぼくは独り言のように呟いていた。難平とはよく言ったもので、買った後に相場が下がって含み損が出た時に買い足して平均レートをよくするやり方だ。難を平らにならすから、ナンピン。何度聞いても麻雀を思い出す言葉の響きだ。

 するとしばらくして今度はドルが値を上げ始めた。ロイターモニターの数字も、グラフの線もどんどん上がっていく。ぼくはさらに98円45銭の段階でもう一本ドルを買い足した。

「これでしばらく様子を見ます」

 ドルは思惑通り順調に値を上げていった。しばらくぼくのそばで黙って見ていた次長が腕を組んだまま笑った。

「予定通りじゃないか」

「ぼくが考えるくらいなんだから、誰だってそう思います」

 けれど、予定していた肝心な動きがなかった。記者会見のニュースも入って来なければ、コメントがあったという連絡もない。そのうち講演会を聴きに行っていた先輩達まで戻って来てしまった。次長はいつの間にか席に戻り、すやすやと寝息を立てていた。

 ぼくの周りに先輩が何人か集まって来た。知らんぷりをしているようで、実はいろいろ心配してくれているのだ。みんなそれぞれに腕を組んでモニターを見る。

「今日の講演内容はどうだったの?」

「当たらず触らずって感じの無難な内容だったらしいですけど、特に具体的な数字には言及していなかったそうです」

「でも聴いててなんかすっきりしない感がしたなぁ」

「本人的にも本音と建て前の間で揺れてんだろ」

「確かにドルは安過ぎるよ。ドイツ辺りが痺れ切らしてそろそろ文句言い出しそうだからヘタなこと言えないしな。気ぃ遣ってんじゃない」

「もうこの時間じゃ今日コメント発表ってことはないな」

「ロンドンの様子を見てからってことなんじゃないの?」

「ってことはなんらかのコメントがあるとすれば明日の朝帰国前に、ってとこか」

 そんな会話が背中で繰り広げられている。

「ビミョーだな」

「彼がだんまり決め込んでいる間に他が何か言い出すかもしれないけど、いずれにしてもドル高のトレンドには変わりないでしょ」

「ヘタに刺激したくないって腹もあるだろから、何もコメントは出さないという可能性もなきにしもあらずだけど、いずれにしてもしばらくは待ち、かな」

 そうこうしているうちにもドルはじわじわと値を上げ続けている。

「いずれにしても彼に関しては明日の朝まで動きはないだろう」

「様子見だ、様子見」

「さ、お家に帰ろう」

 誰かがそう言ってぼくの肩をポンと叩いた。それがわけもなく嬉しかった。周りに集まって来ていた先輩は去り、あっという間にディーリングルームを出て行ってしまった。ぼくは黙って上がり続けるモニターの数字を眺めていた。

「よし、おれたちも帰ろうか」

 次長の声でぼくは我に返った。

「え?ぼくはもうちょっと残ります」

「気持ちはわかるが、動きのない時に集中してると肝心な時に気が抜けちまうぞ。そういう時のためにこれがあるんだろが。無意味な徹夜をさせてたら彼女に怒られる。何かあったら来ればいい」

 次長がポケットロイターを肩の辺りで軽く振って見せた。

—いけねっ、また彼女のことをすっかり忘れてた

「はい」

 後ろ髪を引かれる思いだったが、仕方なく帰り支度を始めた。鍵をかけ忘れたまま家を出て来たような気分で、ぼくは家路についた。


「おっ」

 玄関をあけると彼女のサンダルがあった。

「ただいま」

 ぼくは部屋の中まで届くように大きな声でそう言った。家中にスパイスのいい香りが漂っている。 

「おかえりい」

 彼女が玄関まで迎えに出て来た。

「来てたんだ」

「悪い?」

 まだちょっとトゲがある。

「とんでもございません」

「一人であっちいてもつまんないし」

—ひまつぶしかい

 でも、この匂いはたぶんドライカレーだ。子供じみて笑われるかもしれないけど、ぼくは彼女が作るインドネシア風のドライカレーが大好きだ。それを作って待っているということは今朝の花束に効果があったということでもある。最安値につけていたぼくの値も少し回復したということか。

 とはいえ、昨日の今日だ。なかなか会話は弾まない。

「いただきます」

「いただきます」

「おいしいね」

 沈黙。

 ターメリックとエスニックなスパイスで炒めたご飯にカレー粉で炒めた挽肉がかけてあり、その上に目玉焼きが乗っかっているだけのカンタンな料理なんだけど、これがまたうまいんだ。ぼくは卵が大好きでいつも卵の黄身だけを最後まで残して食べる癖があるんだけど、今日もいつも通りの手順で食べていた。

 でも、どんなに美味しくても、気まずいと喉を通りにくい。何か言わなきゃ、と気ばかり焦って、結局ぼくの重たい口は開かない。

 その時だった。突然スプーンを持った彼女の手がまるで猫の手のようにぼくのお皿の上まで伸びて来て、きれいな半熟の卵を

 プシッ、

 と潰した。

「あっ!」

 まさに一瞬のことだ。

「ああぁ」

 ぼくが途方に暮れて何も言えないでいるのに、彼女は素知らぬ顔をして食べ続けている。

「く」

「?」

「くっくっく」

—笑ってる?

「沈黙も均衡もいつか誰かの手で破られるものなのだよ」

 そう言うと彼女の笑いは止まらなくなった。

「なんでこういうことするかなぁー」

「だって、一度やってみたかったんだもん。でもあんまりケンカとかしないからなかなかチャンスがなくて。理由もないのにやったらまじで怒っちゃいそうだったし」 

「それって、シェイクスピア?」

「全然違うと思う」

「なんだ」

「ぼやぼやしてると人にチャンスを持ってかれちゃうぞ。どうせ持ってかれるくらいならさっさと自分でやっちゃった方がいいよ」

 その一言がぼくには色んな意味に取れた。けれど彼女のその突拍子もない行動が会話のきっかけを与えてくれたのは間違いない。

「最後に食べるぷるぷるの黄身がおいしいのに」

「食材にはみんな役割があるんだから、ちゃんとバランスよく食べてあげて。黄身はコクを出してくれるし、辛味の強い食事に混ぜるとそれが少し抑えられるから他の食材の味が前に出てくるの。そのヘンな食べ方をするなとは言わないけど、せめて朝ご飯の目玉焼きの時だけにして」

「ヘンかな?」

「ヘンです!」

「はい、わかりやした」

 いつもこの子に救われてばかりだ。

 しばらく世間話をした後、ぼくは思い切って仕事の話をしてみた。

「今日初めて十本のポジションを持たせてもらった」

「十本って、一千万ドル?」

「うん」

「うそ、十億円じゃない!」

「そう。まあ銀行のお金だけどね」

「よかったね」

 彼女はそう言うと嬉しそうににっこり笑った。ちゃんと話を聞いてくれる。

「ぼくは仕掛けるつもりだったんだけど、肩すかしを食った」

「そっか」

「いいとこ見せなくちゃって思うんだけど、いっつも空回からまわりだ」

「自分で思う自分と、他人が思う自分は必ずしも一致しないもんなんじゃない?」

「え?」

「だって、わたしにはいいトコたくさん見えてるもん」

「そっかなぁ」 

「まあ謙虚なのはいいけど、もう少し自信を持てるといいのは確かだよねぇ」

「はい」

「わたしに対しても自分に対しても胸を張り続けていたいんでしょ?」

「ああ」

「そのために必要なことなんでしょ?」

「うん」

「わたしへの気持ちがこの先ずーっと変わらないなら、協力してあげてもいいかな。でもその代わり自信が持てた時にはちゃんとわたしの気持ちに答えてちょうだい。それが交換条件。OK?」

 ぼくは大きく頷いた。

「ありがとな」

 その晩ぼくは卵をくずしたドライカレーを三杯たいらげた。

—なんでいままでこんなことに気がつかなかったんだろう?

 言われてみれば確かに卵を混ぜて食べると一つ一つの味と香りが溶けあっているように感じるし、喉ごしも滑らかになる。それにその方がかえって卵の優しい香りが引き立つような気がしてなんとなく嬉しくなった。

—卵って、何気でいいヤツって感じだよな

 その時妙に卵に親近感を覚えたのはぼくがディーラーの初心者たまごだったからってわけじゃないと思うんだ。もっと別に理由があるような気がしたけど、それがなんなのかまでは考えなかった。

—それぞれの役割かあ。おれの役割ってなんなんだろ?

 ふとそんなことも思った。でも満腹になった胃袋に血流が集中してアタマにまでまわらなかった。ホッとしたのとがっくりきたのが重なって気が抜けてしまったせいか、シャワーを浴びた後リビングのソファーでいつの間にか鼾をかいて寝ていたらしい。

「ほら、そんなとこで鼾かいてんならちゃんと寝たら?風邪ひくよ」

 タオルであたまをくるむとゆで卵みたいに見える彼女に言われてぼくはベッドに入った。でも横になった途端に目が冴えてしまう。うとうとすることはできても深く眠れないのだ。為替の値動きが神経の奥にまで絡みついて離してくれない。ぼくは二時間おきに目を覚ましてはポケットロイターをチェックしていた。でも彼女はもう何も言わなかった。


 結局翌朝になってもコメントの発表はなかった。ぼくはなんだか思いっきり空振りをした気分だったが、周りは特段気にもかけていない様子だった。たぶんぼくの考えるようなことなんてベテランはみんな考えている。

 個々人が受け持つポジションの取引内容の詳細は基本的に喋らなければ動かしている本人以外誰もわからない。素知らぬ顔だ。もちろんみんなお互いに情報交換はするし、上司にアドバイスを求めたりもするから何も知らないわけじゃない。ただ本人が勝っている時に余計なことを言う必要はないし、負けている時にどんなに励ましても気安めにしかならないから、敢えて必要以上のことは言わないことが多い。ぼくががっくり来ていることもわかっているだろう。でも、そんなことはこれから先いくらでもある。それを越えていくために必要なのが経験であり、自分自身の精神力なのだ。

 ポジションを持っている以上勝負は続いていることになるから、この打席で何もなくてもどうってことはない。ただ、ぼくはなんか煮え切らない気分だった。

「おう、パンダみたいな顔してどうした?」

 次長に会うなり言われた。

「なんだか市場が気になって二時間毎に目が覚めちゃうんです」

「ははは、おれなんか毎日そうだ」

 その日、週末の東京市場は全体に肩すかしを食った感が否めず、あまり派手な動きはなかった。ただコメントがなかったということは市場に流れるドル高の空気感を容認したと判断する向きもあり、小幅な値動きながら依然ドルは上がっていた。決定的な動きがないとはいえ、ドルが値を上げている以上ドルロングを抱えている立場としては必ずしも悪い方向に進んでいるわけではない。

「今日も早めに帰ります」

「おう、そうしとけ」

 ぼくは七時には銀行を引き揚げ、とぼとぼと家路についた。


 いつもより時間が早かったので帰り際彼女の店に寄ってみた。

「あっ、おばあちゃん久しぶり。元気そうじゃないですか」

「はて、あんたは誰じゃったかな?」

 角のおばあちゃんが遊びに来ていた。この時初めて知ったんだけど、あの晩ぼくをこの店に誘い込んだ例の柱時計の持ち主はおばあちゃんだった。

 彼女の話によると、おばあちゃんのご主人が亡くなった日から振り子は振れるが針が進まなくなり、それを修理したのがオヤジだったそうだ。なんでも柱時計は古いものなのでもう部品がなく、そうカンタンには修理が出来ないらしい。直した後一度角の家に返したものの、おばあちゃんの調子が悪くなった辺りから今度は振り子が振らなくなってしまい、結局ここに戻されたという。丁度その頃角の家が建て直されて大きな柱時計を置く場所がなくなってしまったらしく、粗大ゴミにするわけにもいかないということでオヤジが引き取った。以来ずっとここに置いてある。おばあちゃんにとっては想い出がたくさん詰まっている時計だ。だからいまも時々こうして柱時計に会いに来る。

 ぼくらは一時間ばかしおばあちゃんの話につきあい、それから角の家まで送り届けた。そのまま彼女とマンションまで戻り、シャワーを浴びた後軽く食事をしてベッドに入った時だった。十時半ちょい過ぎだったと思う。いつもの通り、寝る前にポケットロイターで市況を確認していたぼくの左手の薬指が突然また痙攣し始め、どこからか集まって来たあの既視感のような空気がそこから身体中に流れこんで来た。

 ハーレー、風、ヒカリの曲線、彼女の背中、通用口の池にあるスクリュー、警備のおじさんの笑顔、ディーリングルーム、次長の顔、ぼくの中で様々なイメージが交錯した。それからポケットロイターの画面にこれから起こるはずのニュースが次から次へと流れ始めたのだ。

—なんなんだ、これ?

 ぼくはその中に現れた一行を見逃さなかった。

—IIE所長、帰国後インタビューに答える。ドル円は90〜100円が適正レンジで、100円以上のドル高には介入が必要

—来た!

 ぼくはもう一度確認するためにその一行にカーソルを会わせてクリックしようと試みた。けれどその時刻になっていないからポケットロイターは操作できない。っていうか、操作しようとするとそのイメージが消えて元に戻ってしまうのだ。

—でも、間違いなく、動く

 ぼくは確信した。ポケットロイター上の時計では発表時間は確か23:45頃だったはずだ。もう一度ダブルネームで現在時刻を確認する。ほぼ一時間後だ。

—まだ間に合う

 ぼくは眠りかけた彼女をたたき起こした。

「うん?」

 寝ぼけまなこの彼女に真剣な顔のぼくが尋ねる。

「ハーレー、あっちだっけ?」

「ううん、下にあるよ」

—ラッキー

「頼む!銀行まで送ってくれないか?」

「いまから?」

「昨日の話なんだけど、なんだか急に動きそうなんだ、頼むよ」

「いいよ、ちょっと待ってて、急いで着替えるから」

 ぼくも一応スーツに着替えて待機した。ジャージだとディーラーの戦場フィールドにはそぐわない。どんな時でもかっこは大切だ。試合用のユニフォームを着るだけで緊張感もぐっと出てくる。なんだか高校時代にやっていたラグビーの、あの試合前の雰囲気を思い出した。あんまし強くはなかったけど、気合いだけはいっちょまえだった。ちなみにぼくのポジションはフルバックだ。いっつも後ろで、フォワードが進んでくれないと前には出られなかったから、あんまり目立てなくて悔しかった。攻められれば最後の砦だし、止められないとカッコがつかない。たいして強くないチームのフルバックはつらい。ゴールポストがやたらと遠く感じたのを憶えている。

「お待たせ、行くよ。飛ばすからね」

 ぼくはハーレーの後ろにまたがり、彼女の背中に抱きついた。

 ん?かっこ悪い?

—だってぼくはフルバックだ、何が悪い?

 唸るようなエンジンの音が一、二、三回と跳ね上がり、ぼくらは夜の山手通りを爆走し始めた。

「うひょー、爽快」

 初台で甲州街道を左折したハーレーが、まるで時空トンネルをくぐるようなスピードで光と闇の中を駆け抜ける。現在時刻を追い越して未来へ突入していく気分だ。ぼくらを乗せたタイムマシンは、銀行までたった二十分で到着した。これならもうジェットコースターも怖くない。

「頑張ってね!」

 そう叫ぶ彼女に向かって親指を立てながら頷くと、ぼくはヘルメットとゴーグルをつけたまま走り出した。警備室で警備員のおじさんに笑われて慌てて外したんだ。IDカードを提示して通用口を抜け、じれったいエレベーターを待ちきれず階段を三段跳びで駆け上がる。ヘルメットを脇に抱えながら、まるで相手フォワードのタックルをかわすような勢いでディーリングルームの重い扉を開け、トライを決めるような気分で中に飛び込んだ。

 昼間の喧噪が嘘のように静まりかえった空気、だだっ広いディーリングルームが、それこそグラウンドに思えた。ふと我に返り、心を澄ます。まだ既視感は続いていた。あと三十分で試合が始まる。勝負は十五分。夜間は止められているはずのあのスクリューが、全速で回転し始めた、そんな気がした。

「なんかあったか?」

 やっぱり次長はいた。予定通りだ。

「彼はワシントン到着後のインタビューでコメントを発表するつもりです」

「おいおい、なんでそんなことがわかるんだ?」

 次長は信じてくれていないみたいだった。それならそれでかまわない。ぼくは勝負に出る。

「勘、みたいなもんです」

—来た!

 ぼくはまた眩暈を覚えた。ぼやけた視界の向こうでロイターモニターの数字が不自然なスピードで上がっていく。チャートのグラフ表示の線もするすると線を延ばしていた。当然次長には見えてるわけがない。

「次長、99円ゴーナナまで上がります」

「なんだか相当な自信だな。まあちょっと待て、おれも結構ドルロング抱えたままここ数日じっと待ちで来たんだ」

—ほらみろ、自分だっておんなじこと考えてたくせに

 次長が休憩室で寝ていた先輩と残業していた後輩を呼んで来た。臨戦態勢だ。そしてぼくの予言通りドルは値を上げ続け、しばらくして、99円台中盤に突入した。

「ほんとかよ、まだ上がるのか?」

「まだ上がります。市場は完全にコメント発表を意識してドル買いに走っていますが、ドル高を懸念するようなレンジだとは予想していません」

「発表の予想レンジは?」

「昨日までの噂では適正レンジは98円から103円と言われてましたが、実際は90円から100円が適正レンジで、それ以上のドル高には介入が必要だというコメントになるはずです。予想外にドル高を懸念する発表になれば市場はドル買いに走っていますから短時間の間にパニック的にドルが売り浴びせられるはずです。ゴーナナでドテンショートに転じます」

 ドテンとはいままでとは反対のポジションを取ることだ。ドルが上がることを狙っていたドルロングポジションから一転して下がることを狙うドルショートポジションに移行する。まさに手のひらを返すというのがぴったりな駆け引きだが、時間との勝負に情けは要らない。

 TOKYOと記された壁の時計が十一時四十五分を指した。次長が天井に設置されている電光掲示板を見上げる。ぼくもその視線の先を追いかける。

—IIE所長、帰国後インタビューに答える。ドル円は90〜100円が適正レンジで、100円以上のドル高には介入が必要

「おいおい嘘だろう、ホントだよ。発表になった。わかった、おれもこのディールに乗せてもらうよ」

—嘘だろう?ホントだよ

 次長はえらく矛盾したことを言っていたが、そんなぼけに突っ込んでいるヒマはない。

「いまです、売りに出ます」

「よし!」

 ぼくらは99円57銭でドルロングをひっくり返し、さらに売りを浴びせた。ぼくだけのポジションじゃ売り浴びせと言える程の額じゃないけど、次長の持ち分を考えたらそれくらい言ってもいいだろう。また市場関係者の間でうちの銀行と次長の名前が噂になるに違いない。

 ドルがみるみる下がっていく。まさに急降下だ。

「この後十分足らずで98円ニーゴーまで一気に下がるはずなので、そこでまたドルを買い戻します。その後は相場の綾であっという間に99円ニーマル辺りまで戻ります」

 相場はまるでぼくがシナリオを描いたように展開した。

「ぼくにわかるのはここまでです。また売りに出ますか?」

 次長はちょっと考えてから答えた。

「いや、これでしばらくは誰も何も言えないだろう。ティートマイヤーかハラーあたりがドル高を主張する気配は感じていたんだが」

 ティートマイヤーとはドイツ連銀総裁、ハラーはドイツの大蔵次官だ。ぼくはさすがに疲れ果てていて、これから先の動きをマルクまで連動させて考えられるだけの気力が残ってなかった。床を見つめながら次長の爪先が円を描き、腕を組んでいた右手が顎にかかる。

「釘を刺されて頭打ちの恰好になったとはいえドル高基調に変わりはない」

「じゃあこのままドルロングキープってことで?」

「ああ、それでいこう」

 結局ぼくは最初のドル買いで1100万円強、一円以上上がったところでドテン売り越し、下げを取って1300万ちょい、そして底値で買ったドルが修正局面に入り1円近く上がったところでキープしたドルロングの含み益を考えればさらに約1000万円の利益を出したことになる。合計3400万円の儲けだった。取引が終わった頃、みんなが駆けつけて来た。でも既にすべては終わっていた。たった十五分足らずの攻防で、ぼくは放心状態だった。あの既視感もいつの間にかなくなっていた。

「なんでわかった?」

 次長に訊かれた。

「いや、飛行機の出発時間が十時五十分だったので、フライトタイムが十二時間半と考えるとこの時間帯がラストチャンスだとは思ってたんです」

「おれもそれは考えたんだが、それじゃ具体的な数字まで読める理由にはならんだろう」

 話そうかどうか迷ったけど、きっと信じてもらえないのでごまかしておいた。

「素人の勘、ビギナーズラックです」

 次長はきっぱりとそれを否定した。

「いや、ディーリングにビギナーズラックはない」

「とにかく根拠のない勘です。ぼくの才能ではありません」

「おまえのように地道に前段の努力を惜しまないのは必須条件だ。その上で何かしら気配を感じると言うのなら、それはまぎれもなくディーラーの勘だ。勝負に出る時の勇気というのかもしれない。確かに理屈では説明できない感覚だ。おみそれしたよ、おかげでおれもかなり助かった。ここのところ負け続きだったからさ。まさかおまえに助けられるとは正直思ってなかったよ」

「次長がですか?またまた」

「ホントだよ。顔に出さないだけだ」

 あの次長の得意気な顔はいまでも忘れられない。ぼくの心の勲章だ。助けられたことよりも、ぼくに助けられたということが嬉しかったんだと思う。

「タクシーで来たのか?」

「いや、たたき起こして彼女のハーレーできました」

「ハーレーか。速いわけだ。今度また礼をしなくちゃならんな」

 一時間後、ぼくが銀行を出てくると彼女が待ってくれていた。

「帰っていいって言ったのに」

「どうだった?」

 ぼくは親指を上げて彼女の方に差し出した。

「3400万円の儲け」

「すごいじゃない!」

 彼女がエンジンをかける。ぼくは再びヘルメットをかぶり、喜ぶ彼女の後ろに今度は堂々とまたがる。気持ちひとつでかっこ悪かったこともかっこよく思えるから不思議だ。

「都庁の方抜けてみようか?」

 ぼくは彼女の耳元で叫んだ。

「うん」

 二気筒の力強い音を響かせて、ぼくらを乗せたハーレーは真夜中の丸の内を滑り出した。いまならあの新都庁の渡り廊下を曲芸飛行でくぐり抜け、そらに向けて一気に急上昇できるような気がしていた。もちろんぼくらはその夜ひとつになり、何度も感覚の空を乱高下した。ポケットロイターは次長の言うとおり一応彼女の側の枕下に置いたけど、飛んでる間は一度も見なかった。けれど着陸した後彼女が寝息を立てる頃にはぼくはすっかり素に戻り、やはり深い眠りにつけることはなかった。ポケットロイターを手にしながら、次長の笑顔を思い出していた。

—ディーリングにビギナーズラックはない、か

 確かにあれはビギナーズラックではない。

 ぼくは複雑な気分だった。

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