第6話 トゥールビヨン

 それからおよそ一ヶ月後、ポケットロイターの使い方にもすっかり慣れた頃ぼくらの異動が発表になった。あれからも時々あの左手の薬指がひくひくした後に起こる既視感デジャヴの金縛りみたいな眩暈の発作に襲われたが、別に身体の調子はどこも悪くなかったし、

—ああ、これどっかで見たことあるっ

 ていう感覚にもいい加減慣れてきたし、いつも隣に彼女がいたから思い浮かぶのはほとんど彼女の笑顔とか寝顔その他の顔だし、特別問題にも感じなくなっていた。なんとなくオヤジが様子を見に来ているような気もしたけど、もし仮にそうだったとしてもぼくらはとにかく仲良くしていたので文句はないだろう。それにこの頃にはダブルネームのパワーセーバーが正常に作動しないことにもすっかり慣れっこになっていた。

 その朝オフィスに入っていくといきなり内勤の女の子に声をかけられた。

「おめでとうございます」

「え?」

「異動発表になってますよ。国資コクシですって」

「ええっ?」

—本人が見る前に言うなよ

「さみしくなりますね。でも、頑張ってください」

—頼むからそんな目で見ないでくれ

 いかに本社内の異動とはいえ、通常前日には内示があるもんだ。

「課長、おはようございます」

 新しく福岡から来た課長も次長とは随分タイプが違うけど、体育会系で感じのいい人だった。支店での引き継ぎが思うようにいかなかったらしく、次長がいなくなってから三日ほど遅れて赴任して来た。

「おう、おめでとう。頑張れよ」

「あの、すみません、ぼくなんにも聞いてなかったので」

「ええ?そうだったの?ごめんごめん、てっきり次長から聞いているとばかり思ってた」

「え?あ、やっぱりあれだったんですか」

—確かにあれは内示のようなもんだ

「済まんな、昨日声かけようかと思ったんだけど、ちょっと来るの遅れちまった分まだバタバタしてて、次長が話しておいたっておっしゃってたので甘えちゃったんだよ。いや、本来ならおれから伝えなきゃならんことだ。本当に申し訳ない」

「いや、そうじゃないんです。次長のお話がちょっと普通と違っただけのことですから」

「まあ、いずれにしてもめでたいことだ。営業から出るの、初めてだろ?」

「はい」

「あそこはおれも行ったことがないから大したこたぁ言えんが、頑張ってこい」

—課長、それじゃ大したことってより、なんにも言ってません

 三日間で担当していたすべての企業を後任の後輩に引き継ぐのはそう容易いことではない。そんなにムリして働いてきたつもりはなかったけど、振り返ってみるとそれなりのものだった。もっとも情報系のベンチャービジネスに強い営業なんてそうそういなかったから、その意味ではこのマーケットに関する限り行内ではほぼ一人勝ちだったと思う。もちろんその分だけ稟議を通すのには苦労した。

—なんだかこうしてみると色々あったな

 これまで自分が起こしてきた稟議書のファイルをあらためて見直して、ちょっと自分を褒めてやりたくなった。

—最近、おれってちょっと変わったかな?

 大学で情報科学を専攻した時には完全なるマイノリティーで、変わり者扱いされたと言っても過言ではない。就職の時もタイヘンだった。当時はまだ携帯電話が鞄くらい大きかった時代で、いろいろ話題にはなっていたものの本格的に普及し始めたのはぼくが就職した後のことだった。そんな時代だ。面接で何を勉強したかと聞かれても、答えを理解してくれる人がいなかった。

—システムエンジニアにでもなった方がいいんじゃないの?

 そう言って笑われたこともあった。もちろんぼくはプログラムも組めたけど、それを武器に渡り歩いていくほどの才能はなかった。システムエンジニアやプログラマーのような情報系技術者の技術レベルは今後飛躍的に向上し、ぼくのレベルを遙かに凌ぐ才能がいくらでも出てくるだろうと思った。でも、それをビジネスにしていくという発想が決定的に欠けているという確信もあった。言い換えれば当時情報は完全に理系のフィールド内にあり、文系の視点で捉えること自体が常識としてあり得ない時代だったのだ。そんなマイノリティーコンプレックスがぼくを寡黙にしたのかもしれない。

—近い将来、誰もが携帯端末でインターネットにアクセスできるようになります

 就職協定解禁日、そんなぼくの必死な訴えかけに耳を貸してくれた唯一の人が、初めてこの銀行に面接で訪れた時に話を聞いてくれた次長だ。

 まあどこの企業もそうは言うんだろうけど、うちの銀行の場合とりわけ行員に対する信頼が厚く、それ故にその行員が一緒に働きたいと思う人材であることを採用条件の大前提に掲げている。同時に学生に選ばれる企業であることを目標としているから、その時銀行の顔になる面接官には当然それに相応しい人を任命する。

 そう言われて見ると確かに次長は威圧感より安心感を与えてくれる人当たりのいい印象だった。一次面接の数は三千人とも言われているからたぶん次長は憶えてないだろうけど、本店の営業部に転勤してきた時に顔を見てすぐに気がついた。でも、なぜかそのことは未だ話せないままだ。

—なかなか理解してもらえないということは、競合する者がいないということでもあるからな

 面接の時、そんなことも言われた。そして四年半の歳月を経て彼と再会し、ぼくの夢は実現された。まだまだ一般的に認知されたとは言い難いが、どう化けるかわからないという意味で誰もが無視することのできないフィールドになったことだけは確かだ。

 そう考えると充実感で胸が満たされたが、同時に寂しくもあった。このマーケットの潜在規模は計り知れない。しかも技術革新のスピードは凄まじいほど速い。おそらく十年後にはインフラの整備も整い、端末も普及するからインターネットを利用した情報ビジネスは巨大な市場を持っているはずだ。もう少し頑張ればもっと大きな商売が出来るようになる。ここで手放すのは少し惜しいような気がした。だから次長から異動をほのめかされた時に「まだしばらくはここでいいです」と言ったのも嘘じゃない。ただ、自分を変えてみたい自分がディーリングに興味を持っていたのも事実だ。

 誰がそこに座っても回っていくのが組織。後任の彼は優秀だったし、中途半端にやり残した仕事もなかったし、それに何より引っ越しがなかったから思ったより引き継ぎはスムースだった。一度ディーリングルームに出向いて部長には挨拶してきたが、次長はなんだか声をかけられるような雰囲気でもなかったのでメモと借りていたポケットロイターだけをデスクに残しておいた。

「新しいのが支給されるみたいなので、お借りしていたものをお返ししておきます。引き続きよろしくお願いします」

 そして街が赤と緑のクリスマスカラーに彩られた十二月の初め、ぼくはついにディーリングルームに席を移した。

「よっ、ひさしぶり、よく来た」

「ひさしぶりじゃないっすよ、次長。なんにも言ってくれないんですもん」

「かなりフライングだったからあれしか言えなかったんだ。あの後行こうかとも思ったんだが、ちょっと大きなポジションを持たなきゃならなくなってさ。おまえならそのくらい読めると思ってな。許せ」

「あ、これ、支給されました」

 ぼくは得意気に最新型のポケットロイターを取り出して見せた。

「これからは二十四時間、そいつにがんじがらめにされることになる。それなりの覚悟をするように」

 なんだかいつもより厳しそうな顔だった。まあ同じ所から異動して来たことを考えれば多少厳しめになるのも仕方ない。ぼくは気を取り直して返事をした。

「はい」

 次長は一瞬にこっとしてから続けた。

「ディーリングはチームワークがあって初めて成立する仕事だ。誰が重要で誰が重要でないということは一切ないからそのつもりで。全員がそれぞれに重要な役割を担っている。見た目の派手さだけで追いかけるなよ。野球で言えば一番二番バッターがしっかりしていないとどんな強打者が4番にいても勝負には勝てない」

 そういえば次長はなんでも野球に例えるのが好きだった。

「インターバンクでポジションを持つスポットディーラーは他のディーラーが支えてくれているから打って出れる。君にはしばらくいろんな仕事を経験してもらい、どの打順にもっとも向いているかを見させてもらうよ。紹介する」

 ちなみにここでの次長の役職名はチーフディーラー、役目はポジションを持つスポットディーラー達の統括ならびに、自らの判断でインターバンクへ勝負を仕掛けて為替利益を得ることだ。大体一般のスポットディーラーが日中維持できるポジションは約一千万ドル、チーフクラスだと約一億ドルがだいたいの相場だったが、次長の場合は実績が大きいので恐らくそれ以上であることに間違いはない。もちろんディーラーのその時々の実績でその限度額は変わるけど、八五年のプラザ合意以降外為マーケットは急速に拡大していたから全体的に限度額も拡大傾向にあった。

 ぼくは実際の仕事に触れながら業務内容を覚えていくOJTというトレーニングのインストラクターを紹介された。それからの数日間、その先輩についてディーリングのシステムや専門用語、施設の仕組みや機材の使用方法、そしてカスタマーディーラーの業務内容について教わった。ディーラーたたき上げの次長に事前に話を聞かせてもらっていたせいか割とすんなり入っていけたけど、実際に初めて取引した時にはやたらと緊張して声がひっくり返り、みんなに散々笑われた。この時気づいたことだけど、市場が穏やかな時は結構みんな余裕があって静かなんだ。でも市場が動く気配が漂い始めると突如緊張感が張り詰め、動き出した瞬間から一気に叫び声が飛び交う。いつも一定のペースで仕事をしてきたぼくには、そのクルクル変わる不定期な波になかなかついていけなかった。

 クリスマスの前夜、

 ぼくらは初めて彼女の家で食事をする約束をしていた。

 ぼくは東京市場がクローズするとせっせと今日の取引報告書やその他の書類を作成し、さっさと帰り支度を始めた。

「今年は彼女とクリスマスか?」

 次長に冷やかされた。

「はい、おかげさまで。いいっすか?」

 ぼくは少し照れながら答えた。

「ああ、もちろん。落ち着いている時はゆっくり彼女と過ごしてあげることだ。これから先は忙しくなっていくからな、彼女の協力が何よりも欠かせなくなる。ほれ、これ彼女に」

 次長は机の下からワインを一本出して渡してくれた。

「ええ、いいんですか?」

「ほら、遠慮はいらない。おれからもよろしく言っておいてくれ」

「ありがとうございます」

「彼女も酒に強いんだっけ?」

「そりゃもう大好きですけど、弱いです」

「おれとおなじか。一緒に住んでるんだっけ?」

「はい」

「おじいさんの喪が明けたら結婚しちゃえよ」

「そしたら仲人やってくれますか?」

「ここで式をやってくれるならな。はは、ほら、時間がもったいない。とっとと帰れ」

「はい」

 ぼくは銀行を出るとタクシーを拾って銀座に向かい、デパートで指輪を一つ買った。ついでにワインを買って帰るつもりだったけど次長にもらったので、チーズとケーキを買って帰ることにした。


「何これ」

 初めて入る彼女の家の台所を見てびっくりした。結構綺麗なキッチンなのだ。

「すごいでしょ?」

 いつもの得意気な顔だ。

「大学に受かった時、お祝いにリフォームしてくれたの」

「なんじゃそりゃ」

 カウンターになったキッチンの手前がダイニングになっている。どう見ても表のおんぼろなイメージとはかけ離れていた。どうやら店と家は別の建物で後から中を繋いだようだ。天井は吹き抜けになっていて渡り廊下がある。

「高さもわたしの背の高さにあわせてくれてるんだよ」

 部屋にはシチューのいい匂いが立ちこめている。

「これ、次長から。あとケーキとこれ、チーズ買ってきた」

「あら、随分いい上司なんだね」

「これから忙しくなると彼女の協力なしにはやっていけなくなるからよろしく伝えてくれって」

「うーん、なんだか臭うなぁ。贈賄くさい」

 彼女は時々ぼくの口調の真似をする。

「何言ってんだよ、ホントにいい人なんだから。自分の奥さんにも苦労かけたからってさ」

「ほら、やっぱり」

 ぼくはうろうろ辺りを見回した。キッチンの奥に何か機械のようなものが見える。

「あっち覗いてみてもいい?」

「いいよ、元おじいちゃん、現わたしの仕事部屋」

 その空間だけは蛍光灯になっていて、居住スペースとは照明の雰囲気が違っている。

「なんだこりゃ?」

 いろんな機械がずらっと並んでいた。どう見ても工場だ。よくわからないが金属を扱う機械であることだけは間違いない。

「そこで時計のパーツとか作るの」

「ふうん」

 丁度その反対側、キッチンカウンターの正面に和室があった。そこだけ昔のままになっているみたいでちょっとアンバランスだ。でもそのまま残しておきたかったんだろう。使い古された小さなコタツと、仏壇が置いてあった。ぼくはスリッパを脱いでその前に行き、お線香を焚いて手を合わせた。

—上がらせていただいてます。怒らないでやってください

「ありがと、おじいちゃん喜んでるよ」

 彼女がそう言って笑う。

「なんか手伝おうか?」

「ああ、じゃあこれだけ切って並べておいて」

 ぼくは渡されたフランスパンを薄く切ってきれいにお皿に盛りつけた。すぐにやることがなくなり、落ち着かなくなる。

 二階へ繋がる階段の下に何やら三角の扉があった。

「ここは物置?」

 何気なく開けたら急に、

「そこはダメ!」

 と彼女が叫んだ。

「うわっ」

 ぼくは慌ててドアを閉めたが、実はチラッとだけ見てしまった。

「ごめん、そこはおじいちゃんしか入っちゃいけない部屋なの」

「ごめんごめん、大丈夫見てないから」

 そこにはディーリングルームのようなモニター画面とコンピューターが並んでいた。おそらくあの部屋で株なんかの取引をしていたんだろう。いま思えばデイトレーダーの走りだったのかもしれない。ぼくの銀行が戦艦ならこの家は巡洋艦みたいなものだ。

—オヤジ、恐るべし

「できたよー」

 ぼくらは白木で出来たテーブルに座り、ワインを開けて乾杯した。

「メリークリスマス」

 もちろんグラスは三つだ。

 それからぼくはポケットの中のプレゼントを取り出した。

「うそ、いいの?」

「開けてみて」

 もちろんここから先の喜びようは想像に難くないだろうから省略する。婚約指輪にするようなめちゃめちゃ高級な物ではないけど、けっこう値は張った。つきあってまだ間もないけどなんだか随分昔から一緒にいるような気がしたし、恋人以上に色々してもらってるし、外回りからの帰り道ショーウィンドーで見かけて以来ずっと似合いそうだなとは思ってたんだ。

「指輪してるの見たことないから、どうかな、とは思ったんだけど」

「違うの、金属を扱う作業をするからしなかっただけ。もらったこともないし」

 そう言うと彼女はその箱をぼくに差し出した。ちょっと照れ臭かったけどおじいちゃんのグラスの前でぼくは彼女の薬指にその指輪をはめてあげた。サイズがちょっと小さ過ぎたかな、と思ってたんだけど、ちょうどぴったりだった。

「いただきまぁす」

 ぼくらは食事に箸、いや、スプーンをつけた。もちろん洋食だってなかなかの味だ。

「それで仕事の方はどうなの?落ち着いた?」

「うん、全然畑が違うからわけわかんなかったんだけど、やっと雰囲気だけには慣れてきたよ」

「すごい金額賭けたりしてるの?」

「それがまだまだ下積みでさ、当分はカスタマーディーラーだけだと思うよ。まあずぶの素人だから一からやっていかないことにゃ始まんないよ」

「まあ、そうがっかりしないで。千里の道も一歩からって言うし」

「そっちはどうなの?」

「一応卒論の課題も決まって、だいたいの構想も出来たんだけど」

「なになに?」

「まあわかりやすく言うと、重力が精密機械に及ぼす影響について、ってとこかな」

 またまた彼女は得意気にぼくの口調を真似てそう言った。

「なんですか?それ」

「姿勢差って言ってね、時計みたいな小さな機械でも傾いたりすると微妙に重力の影響を受けて、動力の伝わり方にずれが生じるの。それが誤差の一つの原因にもなってるわけよ」

 彼女は腕時計を外してぼくの前に差し出した。あのユリスナンダとかいうやつだ。

「例えばね、こうやって文字盤を上にして置いた時と、ひっくり返して置いた時では誤差の幅が全然違ったりするの。不思議でしょ?」

「ふうん」

「縦にして置く時もこんな風にリューズを上にした場合と逆にしたにした場合とでは違いが出るんだよ」

「なるほど」

「でもね、腕時計とかは手の動きによっていろんな姿勢になるから、その誤差が平均化されて日常ではあまり気にならない範囲に収まってたりするのよ。でもビブログラフっていう誤差測定器で計ると姿勢差がガタガタだったりするのよね」

「姿勢差ねぇ」

「いまから二百年前に発明されたトゥールビヨンっていうすごい時計があるんだけどね、その誤差を分散化させる特別な仕掛けがしてあるの。だからほとんど進んだり遅れたりしないのよ。でも重力の影響を受けているという根本が解決されたわけじゃないから、そこを追求していけばもっと他にもいろんな設計が出来るんじゃないかと思うの」

 明らかに彼女は興奮している。

「・・・」

「二百年も前だよ。それ以来まるで進歩していないの。液晶時計が開発されたせいもあると思うんだけど、技術が置いてきぼりにされたまま誰も手をつけずにほったらかしにされてるのよ。もったいないと思わない?」

 完全にぼくは置いてきぼりだ。

「うーん、ちんぷんかんぷん」

 ぼくは笑った、

 彼女も笑った、

 そしてその中にあのオヤジの笑い声が共鳴しているような気がした。減ることのないグラスの中のワインに波紋が広がる。

 ぼくらはよく食べた。シチューもタラモサラダもチーズもフランスパンもきれいさっぱりなくなった。ぼくは冷蔵庫からケーキを出して来たついでにワインのグラスを下げようとしたが彼女はつかんで離さない。

「ケーキにワインですか?」

「何、いけない?」

「いや、いけなかないけど、コーヒーの方がいいかなぁと思って」

 ぼくはオヤジの家で緊張していたのか、ワインはあまり進んでいなかった。

「アタシはワインがいいの!」

 その後もよせと言うのに彼女はごきげんでワインを飲み続け、ボトルが空になる頃にはかなりいい感じに酔っ払っていた。

「モウラメ」

 もはや呂律がまわっていない。

「だからもうやめにしておけって言ったのに。弱いんだから」

「らってせっかくのいたらきものなのに残しちゃ失礼れひょ」

「わかった、わかったから。とにかく二階で横になってなよ」

「お風呂入る」

「はあ?何言ってんですか、そんなんで入ったらぶっ倒れちまうよ」

「かたづける」

「いいって、後はおれがやっておくから」

 ぼくは無理矢理彼女を二階の寝室まで引っ張り上げた。

「いっちゃらめ」

 彼女はぼくにしがみついてきたが、さすがにオヤジのお膝元でいちゃいちゃするのには抵抗感があった。

「片づけ物が終わったら戻ってくるから、待ってなって」

 オヤジの空気と彼女の無邪気の間に板挟みにされてなんとなく居心地がしっくりこない。本音を言えばマンションに戻りたいところだけど、まな板の上のイカのようになった彼女はもう立ち上がることすら出来ないありさまだ。かといってクリスマスイヴに指輪まで渡しておいて置き去りにして帰るのもあんまりだ。

—坊主とおれの記念のシルシだ。別に頂戴ちょうだいしたわけじゃない

 洗い物をしながらオヤジの言葉を思い出していた。

 片づけをひととおり済ませてから彼女の様子を見に行ったが、気持ちよさそうに眠っていた。やっぱりここが落ち着くんだろう。ぼくは布団をかけ直してから試しに隣に入ってみた。

 自分のベッドということもあるのかもしれないが、彼女はど真ん中で寝ていた。どう考えてもこのスペースでは眠れない。動かすのには大きいし、起こすのもかわいそうだから、そのままそっと部屋を出た。階段を下りてすぐ右手がダイニング、左に行くと店の作業机の脇に出る。時計の音に誘われるようにぼくは狭い廊下を抜け、暗い店の床にそっと足を下ろした。靴下越しのひんやりとした感触を通して時計の鼓動が伝わってくる。ぼくはそこにあったオヤジのサンダルを履いて作業机の前に座ってみた。上から紐が垂れ下がっていて、先っぽには昔の和式水洗トイレにあったような取っ手がついている。オヤジになった気分で何気なくそれを引っ張ってみた。

「あっ」

 ろうそくの火を灯した時のような柔らかさで店内に明かりが満ちていく。蛍光灯は一つもない。まるで銅板の上に釘で打ち付けた絵のような雰囲気だった。そしてその明かりの中に、静かに眠り続けていたあのギザ十が姿を現した。

—たかが十円玉、されど十円玉か

 知らない人が見たら置き去りにされたただの十円玉だ。誰も手をつけたりしない。でもぼくとオヤジにとって、それは特別なシルシだった。

 ぼくはそのギザ十を手に取ってしばらく眺めてから、自分の人生をオヤジの懐に預けるような気持ちで金魚の貯金箱の中に落とした。鈍色の音が響く。店内で時を刻み続ける時計たちが微かにざわめいたような気がした。

—今度来る時はこれごと頂戴しますから

 ぼくは手を合わせてそう言うと、再び店内を闇に戻した。点く時と違って、消える時は一瞬だった。中央の部分だけたくし上げられたビロードのカーテンも留め具が外れてあっという間に閉じる。

—なんて横着な仕掛けなんだ!

 呆気にとられる。

 それから二階に戻り、彼女の隣に潜り込んだ。

「冷たいよ!」

 そう言う彼女をむりやり抱きしめる。彼女がすっぽり懐に収まると、ぼくらはシングルベッドでも眠れそうなサイズになった。ぼくと彼女の体温差が分散化されていく。

—トゥールビヨンねぇ

 そう呟きながらそっと目を閉じた。彼女の吐息がぼくの呼吸に溶け込んでいく。やがてどこからが彼女でどこまでが自分なのかよくわからなくなった頃、まるで葉先からこぼれたしずくのように、ぼくは眠りの淵に落ちて行った。

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