第5話 タイムイズマネー

 翌日の月曜日、彼女のおかげでなんとか体調を持ち直したぼくが出勤するとなにやらみんながざわざわとしていた。

 管理職の異動が発表になったらしい。異動発表の掲示板前はまるで蟻の巣の出口のような黒山の人だかりだった。ぼくも早く詳細を知りたかったが、蟻のうちの一匹になる気分でもなかったし、蟻の大群に風邪をばらまくのも申し訳ないのでとりあえず自分のデスクに向かい、書類箱にたまった回覧物をチェックし始めた。するとどこからか次長がやってきてポンと肩を叩き、異動者のリストを渡してくれた。

「まだ隣の課長が来てないから見終わったら彼のデスクに置いといてくれ。体調はもういいのか?」

 慌ててぼくは立ち上がった。

「ありがとうございます、なんとか生き返りました」

 彼は軽く微笑むと何も言わずそのまま行ってしまった。ぼくはすぐ回覧板に挟まれたリストをチェックしてみた。

—まじかよ、あったよ

 うちの銀行では他の企業と違って特に人事異動発令の時期が決まっているわけではなく、誰かが動くとそれに伴って一つずつずれていくことが多い。今回は現国際資金部次長の海外転勤が決まったため、その席にうちの次長が異動することになったのだ。発令日は今日十一月一日付、赴任は十五日。ちなみに後任は福岡支店から戻ってくる課長だったが、ぼくにはまだ面識のない人だった。

—二週間もあるのか、随分と長いな

 通常うちの銀行では、異動発令から赴任までの猶予期間は遠距離でも一週間から二週間、それ以外の異動であれば二〜三日しかない。今回の異動は海外支店と地方支店が絡んでいるからそれにあわせてあるのかもしれない。

 次長の場合、本人的には古巣への出戻りだからどうってことないんだろうけど、ぼくらにはかなりショックな異動だった。先週話していた時、彼はもう知っていたのだろう。なんとなく動きがあることにはみんな勘づいていたけど、さすがに発表されるとがっくり来る。

—朝から凹むなぁ、こりゃ

 とはいえ凹んでばかりもいられない。

—病み上がりだし、今日は外回りはちょっと短めに切り上げて、なるべく早く戻って来よう

 ぼくはオフィスの壁際に並んだ、テレビの画面を縦置きにしたようなやたらと大きい四台のワープロのうちの一つを起動させている間に隣の課長のデスクに回覧板を置きに行き、それから手帳のスケジュールで最初のアポイントメントが十時にあることを確認すると、ワープロにフロッピーを差し込んで書きかけになっていた書類に手をつけ始めた。


 その日は一旦外回りに出たが、午後二時頃にはもうオフィスに戻って来ていた。その時間オフィスに残っているのは管理職と内勤の女性社員くらいで、まだ営業の社員はほとんど出払っているから静かで仕事がしやすい。ぼくはいつもどおりまず机の上に張られた伝言メモをチェックした。その中に見慣れた直線的な文字があった。

「落ち着いたら声かけてください。ART」

 辺りを見回したが次長は見当たらない。ぼくはとりあえず他のメモに残された内容を処理していった。ほとんどが電話下さい、なんだけど。

 ARTとは次長のイニシャルだ。ちなみにぼくのはkk。稟議書などを提出する際、誰が作成し、誰がそれをチェックしている所属長なのかがわかるよう文末にこのイニシャルを並記する。管理職は大文字、それ以外は小文字と決められている。

「次長のはなんでARTなんですか?」

 大阪から転勤して来たばかりの頃尋ねたことがある。

「以前おんなじとこにtaが三人いてな、紛らわしいから考えろって言われちゃってね」

 言われてみればありがちなイニシャルかもしれない。ぼくのはありそうでないのか、これまでそういう問題にぶつかったことはない。

「それで名字を英語で書いて眺めてたら思い浮かんだんだ。ちょっと洒落てるだろ?それに三文字だから絶対にダブらない。ちょうどいまの君くらいの頃だよ」

 そんなことを言いながら照れ臭そうに笑っていたのをいまでも憶えている。

—kk/ART

 伝言メモに一通り目を通し対応を済ませると、ぼくは午前中から書きかけになっていた稟議書を一気に仕上げ、一度見直してからそのイニシャルを書き込んだ。自分で言うのもなんだが、予定通りに事が運ぶと実に気持ちがいい。ぼくはそれをプリントアウトするとデスクに戻って添付資料とあわせてステイプラーでとめ、くるっと椅子を回して立ち上がり、いつもの調子で次長に声を掛けようとした。でも彼はまだ離席中だった。言いかけた言葉が行き場をなくし、溜め息に変わる。

「課長、すいません、次長は?」

 ぼくは近くにいた課長に訊いた。

「あ、たぶん引き継ぎで国資コクシじゃないかな?さっき見かけたよ」

「そう、ですか。ありがとうございます」

 空席に届けに行くのはなんとなく気が引けた。これだけは今日中に次長印をもらって帰りたい気分だった。というか、おめでとうございますの一言でも言っておきたかったのだ。人が多い時に言うと、なんだかゴマをすってるみたいに思われそうでイヤだった。ぼくはそういうところが素直じゃない。バカみたいに突っ立っていると課長に言われた。

「そうだ、次長の飲み会のセッティング、やってやってよ」

「あ、はい」

 ぼくは慌てて振り向いた。なんだか最近自分の気持ちが他人に読まれているような気がする。

 ここにはぼくより後輩の連中が沢山いる。通常なら入行して二年目くらいの社員に幹事を任せるものだ。異動するのが管理職ってこともあるんだろうけど、敢えてぼくが言われるということは次長にかわいがられていると周りが思っている一つのシルシでもある。

「今週末、で大丈夫ですか?」

「来週だとドタバタだろうからその方がいいだろ。念のため本人に直接聞いてみてくれるか?」

「はい」

—わかりやすいのはぼくだけじゃない、か

 次長と課長は同期入社だ。本店の営業部はどこも大きい所帯のため部長の下に次長職が二人いて、それぞれに班を持つ課長職の統括にあたっている。うちの銀行は行員が少なかったので基本的にポストが足りなくなることはなかったが、次長のように年度途中で昇格すると一時的に一人多くなることがある。こういう時は近々そのうちの誰かが異動することになるが、それまでの経過的措置として昇格した次長が従来の課長職をそのまま継続することになる。この場合その次長職と課長職では見た目に大きな差はない。座っている席もおなじような場所だし、傍目には名刺を見ない限り次長だとはわからない。違うのは次長が従来の課長業務の他に部の予算管理を新たに任されたってことだけだ。でも、そこが大きく違う。

 ふたりは元々仲が良かったという。いまでも基本的にそれは変わらない。でも、少しずつ肩書きに差がついていくに連れ、距離感も広がる。組織である以上、下位職は上位職を立てなければならないから、普段周りに人が多い時には言葉一つにも気を遣う。でも、友達であることに変わりはない。課長はいつも穏やかでマイペースな人だ。そこにぼくはなんとなく親近感を覚える。似ているのだ、自分に。そしてここにもドラマがあり、複雑な心境がある。

 そんなことを考えながらぼーっとしていると、次長が戻って来た。

「なんだよ、やっぱり元気ないじゃないか?どうした?」

「どうしたって、次長、そりゃないでしょう。おめでとうございます」

 ぼくは軽く頭を下げた。次長が笑う。

「おう、さんきゅ。なんだい、その割には面白くなさそうな顔しちゃって」

「まあ、御上が決めることですから」

「そうそう、その通り。おれがいたって、おまえがそのうちどっかいっちまうだろ?それにおなじビルの中だ。悩みでもありゃいつでも相談に乗るさ」

「ホントかなぁ、あそこに行ったらおれのことなんかすっかり忘れちゃったりするんじゃないっすか?」

「まあ、当分は忘れるわけにはいかないだろうから、安心しろ」

—ん?どういう意味だ?

 彼はそう言って自分の席に座ると、ぼくに向かって手を差し出した。その手に稟議書を渡す。

「どれ、おう、あれか。おまえこういうとこ、ホントよく見つけてくるよな」

「潜在マーケットがハンパないですから。インフラも整って来ましたし」

 彼は一通り目を通して軽く頷いてから、机の引き出しを開けて自分の判子を押してくれた。

「ほい、おつかれ」

「えっ、一発OKっすか?」

「初めにおれが言ったポイントはすべて押さえてある。あとはそれが審査に通るかどうかだ。特に不安要素はないし、大丈夫だろ」

 そう言って彼は稟議書を机の上に置かれたOUTと書かれた方の書類箱に入れると、ぼくを見上げて尋ねる。

「ところで本当にもう体調はいいのか?」

「体調は戻りました」

 本当はまだ病み上がりで本調子ではなかったが、ぼくはできるだけ元気そうな顔をしてそう答えた。

「なら今晩ちょっとつきあわないか?」

「飲みですか?もちろん」

 次長の誘いを断るわけにはいかない。ついでに送別会の都合も訊いてみよう、そんなことを考えていたら次長に言われた。

「ああ、でもその前にもう一カ所つきあえよ」

「もう一カ所って、どこ行くんすか?」

「まあ、いいからついて来いよ」

 戻って来たばかりだというのに、彼はすぐ席を立ち上がりさっさと歩き出した。ぼくは慌ててついていく。

「おれが入社して初めて配属された頃はまだ外国資金部って言ってな、むしろ日の目の当たらない誰も知らないような部だったんだ」

「もう一カ所って、ディーリングルームですか?」

 彼は声に出して笑いながら答えた。

「一回連れてってやろうと思ってたんだけどさ、なかなかタイミングがあわなくてな。いまならおれが出入りしてても不思議はないだろ?」

「確かに」

 ぼくはちょっとワクワクしながら、次長の後に隠れるようにしてついて行こうとした。でも、ぼくは大き過ぎて、どうやっても次長の背中には隠れられそうにない。なんだか挙動不審だ。ぼくは諦めて、胸を張ってついて行くことにした。


 一つ言っておかなきゃならない。ここから先の話はちょっとややこしいかもしれない。でもこの物語の結末を知るためには絶対に欠かせない部分だから、どうしてもつきあって欲しいんだ。もちろんなるべく興味が持てるように、わかりやすく話すよ。詳しいことは理解できなくてもかまわない。ちんぷんかんぷんなら、おおざっぱな内容と、雰囲気や緊張感だけでも感じ取ってくれたらそれでいい。そうそう、まるでこの日のぼくになった気分で。


 いかに同じ銀行の中とはいえ、やはりテリトリーがある。間接部門でも審査部とか調査部といった査の字が付くぼくら営業に関係するセクションならまだ出入りはしやすいが、人事部とか総務部とかになるとなんとなく敷居が高く感じるものだ。秘書部や国際資金部みたいな特殊なことをやっている部門もまた、それなりの理由なしに部外者が出入りするのはちょっと気が引ける。

「おなじ銀行でもまったく空気が違うから覚悟しとけよ」

 入行したての時に一度見学したことはあったが、その時はすべてが目新しかったから漠然とした印象しか残っていない。

 次長の後を着いてエレベーターを降りる。

「結構静かなんですね?」

「と、思うだろ?」

 ぼくはこういう時の次長のいたずらな顔が好きだ。ぼくがこう言うのも失礼だが、ちょっと得意気な少年みたいな感じがする。

 想像していたよりも静かだと思ったのも束の間、国際資金部の入口のドアを見てその理由に気がついた。ガラス張りのだだっ広いディーリングルーム全体が防音設備で包まれているのだ。重いドアの隙間から流れ出るエネルギーの強さにまず驚かされる。

 六本プライス下さい!

 ロクハチナナマル!

 そんな声が聴こえてくる。おなじ銀行員でも専門知識がなければまったく意味不明な世界だ。

 もし!

 二本プライス下さい!

 ロクナナロクハチ、

 大きな声が飛び交う国際資金部、通称「国資コクシ」のゲートをくぐる。

—未体験ゾーン突入だ

 鍵の字になった通路を抜けたところに、その世界は広がっていた。

「うわぁ、まるで市場いちばみたいだ」

 どう見ても銀行って雰囲気じゃない。受話器片手に立ったり座ったり、身振り手振りを交えながら大きな声でやりとりする雰囲気はどこか築地の市場を連想させた。それにあちこちに設置されたスピーカーからリアルタイムに変化する為替レートが音声で流されている。

「そりゃそうさ、ここは為替の市場いちばだ」

 ただ一つ違うのは、商品が見えないというところだ。商売が成立してもマグロとかりんごのように物が行き交わない。

 もし!

 ドル円六本、六本プライスお願いします!

「あの?」

「ん?なんだ?」

「あの、もし!って・・・なんですか?」

「ああ、あれかぁ。もしもし言ってる時間はないってこと、だって言うんだけどな。いまだに俺は馴染めないけど、使ってる人もいる」

「だから省略して一回、ってことですか?」

「ああ、ヘンだろ?」

「ヘンです」

 壁には大きな時計が三つ並んでいる。それぞれ下にLONDON、TOKYO、NEW YORKと表示されている。外国為替はなにも東京だけで取引されているわけじゃない。この三つは主要市場しゅようしじょうだけど、これ以外にも世界中の都市で取引されている。どこも夕方になると一応クローズするけど、それがリンクしているから時差があっても市場は二十四時間クローズすることはない。それくらいぼくにもわかる。

「二十四時間クローズしないってことは、深夜勤もあるんですか?」

「昔はシフト制の勤務形態にして二十四時間常駐って銀行もあったけど、いまはあんまり聞かないな。うちは基本的に日勤だ。あとはその時の状況に応じて残業したり、朝早く来たり、まちまちだ」

「もしは一回なのに、受話器は二つ付いてる」

「でもよく見てみろよ、普通の電話みたいに受話器を置く場所はついてないんだぜ」

 ボタンがたくさん付いている大きな電話は、左右両脇に受話器が付いている。でも確かに受話器を置く凹みがない。パネルの両肩に引っかけてあるか、机の上に投げ出したままだ。そんなところからも時間と戦ってるって雰囲気がひしひしと伝わってくる。

「それにしてもすごい机ですね、みんな」

「ああ、ディーリングボードか。あのモニターにもこの音声とおなじレートが数字やチャートで表示されてるんだ」

 コンピューターや市況を表示するモニター画面が所狭しと並ぶ机がフロア一面に何列もずらりと並んでいる。熱気と情報、有機質な空気が無機質な数字を動かす、まったく匂いのしない市場いちば

「あんなのもついてんですね」

 ディーリングルームの天井にはよく駅なんかで見かけるのとおなじ赤い文字が右から左に流れる電光掲示板が設置されていた。最新の政治経済関連ニュースが流されている。

「ははは、ちょっとした情報兵器、レーダーみたいなもんだ。まあどこのディーリングルームにもあるけどな」

 腕を組んでオフィスの動きを見つめる次長が笑った。でもその目はすでにチーフディーラーの目になっている。

「うちでは基本的に外貨毎に各チームが組まれている。ドル円、ドルフラン、ドルマルク、その他いろいろだ。銀行にもよるんだけどな、中心は円とドルだけど、例えばマルクのようにドル円に続いて取引額の多い主要通貨の場合にはドル円、ドルマルク、マルク円とそれぞれにチームがある。それ以外のリラやスイスフラン、オーストラリアドルやアジア通貨の場合はクロスチームと言って一つのチームが全方向を観てるんだ」

「さっぱりわかりません」

「まあムリもない、そのうちわかるさ」

「それぞれスポットディーラーを中心としてカスタマーディーラー達がいて、そのチームを作っている。スポットディーラーはみんな外国為替取引をした為替リスクのある外貨の持ち高を持っている」

「それがポジションですね?」

「そうだ、ポジションを持つとはそういう意味だ。ただもっと厳密に言えば、上がるだろうとか下がるだろうとかいう思惑を持って構えるということだからポジションを取るとも言うんだ。まあだいたいみんな夕方になると精算しちゃうんだけどな。これをスクエアって言うんだが、ポジションに二十四時間縛られていると凄いプレッシャーがかかるからな。それを考えたらその方がよっぽど気楽だ」

「その代わり儲けるチャンスは少なくなるんですよね?」

「そうだ。でもデイライト、つまり昼間のポジションしか持たないディーラーの役目は顧客取引がメインで、別に投機的な成果をあげる目的でポジションを持ってるってわけじゃない。それに彼らだって翌日の仕事の効率をよくするために、銀行から帰っても常にポケットロイターという情報端末で市況を確認してるんだ」

「なるほど、思惑かぁ」

「ちなみにドル価格が上がるだろうという思惑で作ったドルの買い持ちをドルロング・ポジション、下がるだろうという思惑で作った売り持ちをドルショートって言う。これはよく使われる言葉だ」

「つまり思惑を持ってオーバーナイト・ポジションを取るにはそれなりの人でないといけないってことですか?」

「まあそう言うな。知識や経験に基づく分析力や実績にもよるし、発想力や決断力の有無とかいった才能にもよる。それに根本的な性格の向き不向きもある。年齢や職歴だけで決まるもんじゃないんだ」

「ふうん」

 やっぱり一筋縄ではいかないらしい。

「ほら、メインになるのはドル円だからちょっと覗いてみるか」

 ぼくらはもっとも活気のあるドル円チームに焦点を当てた。

「あの電話で対応しているディーラーはなんて言うんですか?」

「カスタマーディーラーだ」

「で、あのレートを決めているのがスポットディーラーすか?」

「そうだ」

 ディーリングルームにはカスタマーディーラーとスポットディーラーがいる。見た目の違いで言えば受話器を手に身振り手振りを交えて「プライス下さい!」と叫んでいるのがカスタマーディーラー、それに対して「ロクサンロクロク」と数字を答えているのがスポットディーラーだ。見た目にはカスタマーディーラーの方がいかにも取引してるって感じでディーラーっぽい。

「どちらが重要かと言われればどちらも重要だが、どちらがタイヘンかと言えばスポットディーラーだな」

「傍目から見ると逆に見えますけどね」

「ははは、近くに寄ればわかる」

「決定的な違いはなんですか?」

「さっき言ったとおりスポットディーラーはポジションを持ってるからな。つまり実際に自分が、って言っても銀行のカネなんだけどさ、銀行に円を払ってもらって購入した外貨、つまりさっき話したポジションを持っているってことだ。たとえば108円70銭で買った途端に108円60銭になったとする。何もしてないのにもうそれだけで損してるわけだろ?元の金額がでかいだけにちょっと下がっただけでもう気が気じゃないわけだ。ポジションを持っている限り市場動向により昼夜を問わず常にリスクを伴う。莫大な金額の責任を抱えてる。いつそれが暴落するかもわからないんだ。当然プレッシャーを感じるだろ?」

 カスタマーディーラーは顧客からの電話に対応し、為替相場の値動きやその分析、相場に影響を与えるようなニュースといった情報をサービスし、為替取引の注文を取ってくるのが役目だ。サービスを通じてお客様と対応するわけだから銀行の顔になる大事な役まわりでもあり、ある意味ぼくら営業に近い立場かもしれない。だから正確な情報と同時に良い対応も要求される。が、ポジションは取らない。

「ちょっとドル円のスポットディーラーのとこまで行ってみるか?」

「いいんすか?」

「ああ、かまわない。誰も他人を気にする余裕なんてないからさ」

 スポットディーラーのディーリングボードはモニターの数がやたらと多く、パソコンやデータを入力するためのキーボードが所狭しと並んでいる。

「それが相場をリアルタイムで表示するロイターモニター、そっちがそれをグラフで表したチャートのディスプレイ、右奥のヤツには顧客からの注文状況が映されている」

「目が回りそうですね」

「正面にあるヤツが電子ブローカーシステムの画面だ。一番上の段に表示されている数字がいま時点で入っている売り注文と買い注文の一番安い値段だ。その両脇にある小さい数字でそれぞれ何本あるのかがわかる仕組みになっている。これが自分の思い通りにバランスよく動いてくれれば楽なんだけどな、そうはいかない。この遣り繰りが大変なんだ」

 スポットディーラーは常に首を傾げたり、唸ったりしている。どうでもいいことかもしれないが、なぜか独り言も多いし、予備校時代にやってた癖が残っているのかしきりとペンをくるくる回してたりもする。これは恐らく常に「得はしてもいいけど、損をしてはならない」という為替リスクから来るプレッシャーを背負っているからに違いない。

「取引してポジションを取った時の持ち値をコストって言うんだ。何回か売り買いした後の持ち値の平均がアベレージコスト。いまそれを若干割り込んでるから彼は悩んでる」

 彼らは目の前に並ぶモニターに表示される為替相場の値動きを追いかけながら売買を行い、顧客にプライスを提示する。それで売買が成立すればその分ドルの残高が余ったり足りなくなったりするから、それを調整するための売買をするカバーディールを行ったりしているのだ、と次長は説明してくれた。その度にまた差益や差損が発生するというからややこしい。

「で、お客様が銀行から買う通貨を調達するのがインターバンク市場しじょうですか?」

「そうだインターバンク市場だ」

「なるほど」

 インターバンク市場とは銀行同士がドルを初めとする各国の通貨を売買する銀行間取引市場のことだ。

「日中はお客様からのオーダーにお応えしていかにいいプライスを迅速に出していくかというのが最重要ポイントになるから、カバーディールの際インターバンクとの取引で発生する差益や差損はあまり大きな問題じゃないんだ。もちろんスポットディーラーは日中の顧客取引中もなるべく上手に遣り繰りできるよう常にアタマをひねってるんだけどな。けれど東京市場がクローズした後は銀行自体が投機目的での売買をインターバンク市場で行うわけだ。だからインターバンクディーラーはオーバーナイト・ポジションを抱えて二十四時間常に為替レートを意識してなくちゃならない。彼らが夜中に銀行に残っていたり、飲み屋に入る時も携帯電話が繋がらない店には行けないと言うのはそういうことだ。昔は何度も赤電話から銀行に電話入れたよ、今いくらですか?ってさ。ほとんどビョーキだったよ」

「ディーリングの場合銀行は顧客取引で発生する差益とインターバンク取引で発生する差益の二本立てで稼いでいるわけですね?」

「その通りだ。まあ差益ばかりなら苦労は要らないんだけどな。だが顧客取引は投機目的が主体のビジネスではないからそんなに大きな儲けは期待できない。その分インターバンクで仕掛けるわけだ。それに戦争とかが近づくと相場が乱高下するから安定した外貨獲得が難しくなる。どの企業も数ヶ月先に調達すればよいと思っていた分が戦争で先行き不透明になるから、仕方なくいますぐ調達しなければならないというようなことも起こりうる。だからディーラーは戦争の動向を読みながら常に為替の値動きを監視して、いざ有事という時に備えたシナリオを組み立てる。その時になってからじゃ話にならないだろ?お客様からの要望に出来る限りお応えできるよう常に準備しておかなければならない。まあそのシナリオが必ずしも当たるとは限らないんだけどな」

 その時すぐ近くでオーダーが入った。オーダーのシステムは思ったよりカンタンだ。

 顧客は電話口で銀行に「ドル円5本」と申し出るだけで、銀行に対しドル円五本の建値クォーテーションすなわち買値ビッド売値オファーを要求していることになる。それに対して銀行のスポットディーラーは即座にプライスを弾き出し、それをカスタマーディーラーが伝える。売るか買うかを決めるのは顧客側だ。時にはその値段では売りも買いもできないとそのプライスを見送ることもある。この場合顧客はナッシング、とだけ答えればよい。

 はい、ドル円ファイブ、

 眼鏡を掛けた後輩の姿があった。どうやら彼はカスタマーディーラーらしい。オーダーが入ったようだ。ぼくは耳を傾ける。電話の向こうの顧客は大手の企業だ。ファイブとは五本ということだろう。彼はいったん受話器を耳から外すと大声で叫んだ。

 ドル円ファイブ下さい!

「一本、百万ドルですか?」

「そうだ」

 ロクロクロクナナ、

 スポットディーラーから返事が返ってくる。これが買値ビッド売値オファーを示すクォーテーション、すなわち建値だ。この場合のロクロクロクナナは1ドル当たりの銀行の買値ビッドが108円66銭、売値オファーが67銭だということを意味する。銀行はその差益で儲けるのだ。 

 マイン!

 マインとは英語のMine《マイン》、顧客がそれでドルを買ったことを意味する。ぼやぼやしてると相場はどんどん変わるから瞬時に答を出さなければならない。まさに一円以下の攻防だ。

 では、ロクナナで五本買っておきました。ありがとうございます!

 五百万ドル、日本円にして五億円以上のお金が一瞬にして右から左へ流れる。

 その逆がYours《ユアーズ》だ。

 ユアーズ!

 となればこれは、108円66銭で顧客が売ったことを意味する。

 ではロクロクで五本売っておきました。ありがとうございます!

 ということになり、今度は左から右へ五億円を超えるお金が流れる。もちろん売値と買値は刻々変わるからロクロクで買ったドルが必ずしもロクナナで売れるという保証はない。

「買値と売値の差って、どうやって決めるんですか?」

「建値する金額や相手によって変わってくる。額が大きくなれば差も大きくなるし、相手が顧客企業か銀行かによっても変わる」

「そりゃまあ当然ですね」

「ディーリングってさ、外貨のオークションみたいなもんなんだよ。売りたい人と買いたい人が向き合うカタチで値段の低い順にだあっと並んでいて、それぞれが売り買いしたい値段を申し出る。折り合いが付いたところで落札、って感じかな?」

「それだけ外貨を必要としている企業が多いって事なんですね」

「その通り。日中のディーリングは主にお客様である企業の外貨調達や日本円への両替のご要望にお応えするものだ。海外に工場を建てたり、現地の人を雇えばそれだけ巨額な外貨が必要になるし、海外で商品を輸出販売している企業はその売り上げを円に両替しないと借金が返せないとか、給料が払えないとかいった問題が出てくるだろ。それを調達して差し上げるのが第一の役目だ。ここではそんなに儲かるもんじゃない」

「儲けるのはインターバンク取引ですか?」 

「そうだ、インターバンク市場での取引は銀行にも投機目的があるし、それだけを目当てに参加するヘッジファンドや各国政府の介入とかもあったりするから取引規模が大きくなる。当然収益もそれなりに大きくなって来るから銀行としても期待するところは大きい。でも我々銀行の一義的な目的はそんなことじゃない。さっきも言った通り顧客取引で戦争のような政治がらみの影響から顧客の外貨調達を守ることが最優先課題なんだ。だから相場が凪いでいてなんにもなければ特にどうってことはないんだけどな。相場が荒れるとここでは罵声が飛び交うほどうるさくなるから防音処置がされてるってわけだ」

「ポジションを持つ本数は制限されてるんですよね」

「ああ、自分の判断で動かせるポジションの数を権限リミットと言うんだが、その人の立場と実績次第でまるで違う。だいたい若手だと十本ってとこかな?」

「なんだか雰囲気だけはよくわかりました」

「オーケー、んじゃちょっと先戻っててくれるか?」

「はい」

「まだ仕事残ってるのか?」

「稟議書一本!」

 ぼくは単純だからすぐ雰囲気に酔う。

「おまえもよくやるなぁ」

「今日できることは今日のうちにやっておきたいので」

「まあそのうちそんな余裕もなくなるよ。三十分位したら戻るから仕事終わったら声掛けてくれ」

「はい、わかりました」

—なんかやけに詳しく教えてくれるなぁ

 漠然とそう感じてはいたんだけど、「まあそのうちそんな余裕もなくなるよ」の一言で予感が確信に変わった。

 次長はそのままディーリングルームに残り、ぼくは営業に戻って残りの稟議書の作成に取りかかった。なんだか体中が熱くなっていた。

—面白そうだなぁ。やってみたい!

 その後次長と軽く飲みに行った。さらにいろいろ突っ込んだことを聞いた。彼はいいことばかりを並べ立てたりはしない。当然それに伴う苦労も語ってくれた。でも興味だけが先走って、まだぼくにはその苦労の本当の辛さがまるでわかっていなかった。まあムリもない。

「ほれ、これ貸してやるよ。新しいのもらったから」

 次長は帰りがけにポケットベルのようなものを渡してくれた。

「なんですか?これ」

「ポケットロイターだ」

「ポケットロイターって、あのロイターのですか?」

「そうだ。そこに為替の値動きがリアルタイムで表示される。現場にいる時のような空気の流れまでは読めないけどな。関連する最新ニュースも出てくるから勉強にもなるだろう」

「ふうん」

「ディーラーの十字架、みたいなもんだ。適当にいじってりゃすぐわかる」

「いいんですか?これ」

「そのうち要らなくなったら返してくれ」

「はい」

「じゃな、気をつけて帰れよ」

「はい!」

 次長はそう言うとタクシーを呼び止めた。

「あ、おまえ、彼女出来たか?」

「ええっ、なんでわかるんですか?」

「おまえはわかりやすいからさ。大事にしろよ。苦労させるからな」

 そう言うと彼はタクシーに乗り込んだ。


「ふうん、それでこれがそのポケットロイター?」

「そう、ここね、ほら、これが対ドルの各国通貨為替レートでこっちが金利、でこれが株価動向。で、こっちがロイター通信とかから入ってくる最新ニュース、どこどこの失業率やGDPが発表になったとか、どっかの国の大蔵大臣が転んで怪我したとかいうニュースまで入って来るらしい」

「うーん、ちんぷんかんぷん」

 彼女はそう言って笑った。

 ぼくは今日一日経験した驚きを彼女にもわかってもらいたくて、なるべくわかりやすく説明したつもりだったが、いかに彼女でもそうカンタンには理解できないものらしい。

「だって、わたしのアタマの中は機械のことしかないもん。入試だってそこまでリアルなこと勉強しないし」

 彼女は機械工学専攻だ。彼女もそのことについてたまに一所懸命話して聞かせてくれるが、やっぱりぼくにも、

—うーん、ちんぷんかんぷん

 としか答えられない。畑が違うとそんなものなのかもしれない。

まあぼくだってバイクのエンジンの構造くらいわかるけど、修理なんて到底できやしない。

 次長を見送った後、終電に駆け込んだぼくは駅からの帰り道、彼女の店に寄ってみた。すると入り口に彼女が昔乗っていたという原チャリが整備され、ぴかぴかにして停めてあったのだ。ぼくはかなりゴキゲンになってそれにまたがり、彼女のハーレーの後ろにくっついてマンションまでツーリングしたい気分だったが、

「お酒飲んでるからまた今度ね」

 と言われてしまい、ハーレーの後ろに乗せてもらって家まで帰って来た。部屋に入るとはしゃぎながらそのまま寝室に転がり込んで今日一日のことを話し、ポケットロイターをいじり回していた。

「いらないって言うからホントに何も作ってないんだけど大丈夫?」

「おれは大丈夫だけど、ちゃんと食べたの?」

「女将さんのとこ行ってご馳走になって来た」

 あ、言い忘れてたけど、ぼくらは週末ですっかりそういうことになっていたんだ。たぶん想像はついたと思うけど。

「あのさ、それってよくわかんないけど、自分もおなじとこに異動する、ってことなんじゃない?」

「まだ言われたわけじゃないけど、時期的にもそろそろかもな」

「なんだか話聞いてると全然相手してもらえなくなりそうな気もするんだけど」

「心配要らないよ。少なくとも当分は修行の身だから毎日泊まり込みってことはないし、遅くても必ずここには帰って来るんだから」

「だよね。おじいちゃん公認だし」

 勝手な思い込みだ。

「そうそう、鍵もお互い持ってるし」

—オヤジ、調子に乗り過ぎてごめんなさい

「なんかとっても嬉しそうだから、いいや」

「でもまだ決まったわけじゃないからね」

「院試は終わったけどまだ卒論あるし、ここの方がはかどるから」

 そう言うと、彼女は腕に飛び込んで来た。

「言ってることとやってることが違うような」

「いいの。本音と建て前の違い、建値みたいなもん」

 彼女は世話好きだけど、ぼくが調子のいい時はよく甘える子だった。ぼくはそんな彼女にそっとキスをした。彼女がいれば絶対に寝坊はしないで済むし、何より気持ちが落ち着いた。

この時ぼくらの未来を遮るようなことは何ひとつなかった。

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