第4話 デジャヴ

 彼女の態度に一度はホッとしたものの、やはり内心穏やかではなかった。どういう事情かわからないが、強盗殺人犯にされちゃたまらない。

—だいたいぼくは何もワルイコトはしちゃいない

 確かにあの時ショーケースの硝子に映ったり消えたりしてはいたものの、まだあるじにはしっかりと両足がついていたから、少なくとも昨夜ぼくがあの店を出た後に主が亡くなったのは間違いない。でもあの時計の不自然な動きからするとアリバイなんてとてもじゃないが証明できない。ましてやもし仮に主が亡くなった後でぼくが時計を買ったんだとしたらなおさらだ。誰も理解できない物語だなんて暢気のんきなことを言ってる場合じゃない。それどころか誰にも信じてもらえなくなってしまう。

—いずれにしても強盗殺人犯だなんて、あんまりだ。

 とにかく彼女が来れば何が起きたのかはわかる。いまはひたすら待つしかない。彼女は喪主だ。親族もいないらしいから通夜の席を離れるのも一苦労だろう。もしかしたら来られないかもしれないし、来るとしてもおそらく真夜中過ぎだ。それまで結構時間がある。

 ぼくは冷蔵庫から取り出した缶ビールを片手に風呂場に向かい、湯船の給湯スイッチを入れた。それから寝間着代わりのナイキのジャージに着替えると、新品なのに今日一日ですっかりくたびれたスーツをデスクの椅子の背にかけた。いつもならアイロンを当ててきちんとハンガーに掛けるところなんだけど、なんだか気持ちに余裕がなかった。

 それから新聞の夕刊を読みながら途中コンビニで買ってきたカルビ丼を食べて暇をつぶした。けれどちっとも時間は進んでくれない。ゆっくりと風呂につかってみたりしたものの、やっぱりなんだか落ち着かない。ぼくはベッドに寝っ転がり、リモコンでテレビのスイッチを点けた。ドラマか映画でも観て気をまぎらわし、彼女が来るまでなるべくそのことは考えないようにしよう、と自分に言い聞かせた。けれど状況が状況なだけになかなかそうもいかない。

—はぁ

 ぼくはひとつ溜め息をつくと、そっと目を閉じた。

—うぅ、さぶっ

 寒気を感じて目を覚ました。風呂につかり過ぎて暑かったから暖房のスイッチを消したままいつの間にか寝ていたのだ。既に時計は零時近くを指していた。テレビはつけっぱなしだ。ぼくは横になったまま部屋の中を見回す。特に具体的にはどこも変わったところはない。だけど、なんとなくいつもと違う感じがした。何がどう違うということではない。空気が違うのだ。

—これ、どっかで見たことある場面

 最も毎日自分が暮らしている部屋だから見たことがあるのは当然のことなんだけど、そういうのともまた違う不思議な感覚だった。そのうち左の薬指がひくひくと妙な動きを始めた。目には見えないけど、間違いなく昨夜あの店で感じたのとおなじ既視感デジャヴのような空気がどこからか集まって来て、その薬指からぼくの中に流れ込んで来るのだ。ぼくは何気なくテレビの方を見る。ニュースをやっていた。

 ところが、だ。

 まだ見たことのないニュースのはずなのに、それを全部知っているような気がした。ぼくは上体を起こすと、試しにアナウンサーにあわせて自分も復唱してみた。

「今日未明、東京都大田区の路上で小学四年生の女児が白い車に乗った何者かに連れ去られ〜。お終いに今日の為替と株の値動きです。今日の東京外国為替市場円相場は、アメリカの第三四半期国内総生産が大方の予想通り回復基調を示したことから全体的に値動きの激しい展開となりましたが、終値は始まりより16銭円高ドル安の1ドル108円49銭で取引を終えています。これを受けてニューヨーク市場では108円45銭から55銭で取引が始まっています。次に東京株式市場は小幅の値動きで…」

 なんと驚くなかれ、ぼくは一字一句間違えず、アナウンサーの言うとおりに復唱してのけたのだ。

—これって、いったい?

 確かにぼくは記憶力に長けている。それだけで世間を渡って来たようなものだ。けれど、見てもいないことは覚えようがない。

 いま自分の身に何かとんでもなく大きな力が作用している。何をどうすればいいのかもわからず途方に暮れているうちに零時の時報が部屋に響いた。するとどうだい、今度はぼくの中にいたあの不思議な空気というか力がまた薬指から抜け出ていったんだ。眩暈めまいがして再びベッドに倒れ込んだぼくは抜け殻のように脱力していた。

 その時ぼくの携帯が鳴った。

「もしもし、遅くにごめんね。いまやっと落ち着いたとこなの。これからちょっとなら出られそうだから、そっちに行ってもいい?」

「ああ、いいよ。こっちももう何がなんだかわからないんだ。来てもらえたら助かるよ。でもこんな時間に一人で大丈夫?迎えに行こうか?」

「絶対ダメ!わたしなら大丈夫、バイクだから心配要らないよ」

—バイク?原チャリか

「気をつけてな」

 ぼくはそれからマンションの場所と部屋番号を教えて電話を切った。数分後、なんだかやたらと大きなバイクの音が響いて来た。まさかとは思ったが、そのエンジン音は家のマンションの玄関辺りで三回ほど軽くふかしてからパタッと鳴りやんだ。沈黙が訪れる。

—まさか

 ほどなくして、オートロックのチャイムが鳴った。

「ピンポーン」

—やっぱり

 インターフォンの受話器を取る。

「はいはい」

「あ、わたしです」

「あいよ、いまそこ開けるからそのまま上がってきて」

—いったい何者なんだ、あのふたりは

 ふたたびチャイムが鳴った。

 一応ピーピングホールから覗いて彼女であることを確認する。ぼくは鍵とチェーンを外してドアを開いた。ジーンズとTシャツの上に革ジャンを羽織った彼女がいた。これじゃまるで七変化だ。

「おつかれ」

「ごめんね、遅くなっちゃって」

「ねえ、いまのバイクの音、あれで来たの?」

「うん、なんで?」

 彼女はブーツを脱ぎながら答えた。

「あのバイクなに?」

「ハーレー」

「ハーレー!」

 半分声がひっくり返ってしまった。

「おかしい?」

「いや、おかしくはないけど」

 ブーツを脱ぎ終わった彼女は手で少し髪を直すと、ぼくをまっすぐ見つめて話し始めた。線香の匂いはしない。代わりにほのかなシャンプーの香りがした。 

「初めは原チャリ乗ってたの。そしたらおじいちゃんが、おまえが乗ると三輪車みたいだって笑うから」

「笑うから?」

「だったらもうちょっと大きいの買ってよ、って冗談のつもりで言ったの。そしたら次の日に」

「ハーレー買ってきたの?」

「これなら自分も昔乗ってたし、ぶつかってもそう簡単にひっくり返らないし、何よりそんじょそこらの男じゃ寄りつかないって」

 目が点になっているぼくの顔を見て彼女は続けた。

「そりゃ、わたしだってびっくりしたわよ。ちょっと大きいの、って言ったら翌日にあれだもの。呆れてものも言えなかったわ」

「そりゃそうだよな」

 でもなんだかあのオヤジなら平気でやりそうだ。

「でもそんな大型乗る免許持ってないよ、って言ったら」

「言ったら?」

「なきゃ取りゃいいだろ、って」

「だって大型って教習所じゃ教えてないでしょ?」

「そう、だから教えてもらったの」

「誰に?」

「おじいちゃんよ」

「どこで?」

「うん、そこら辺」

 そう言うと彼女はぺろっと舌を出した。そういうところはまだあどけない。

「そこらへん?」

 だいたい原チャリは危ないとか言いながら、家の近所でハーレーを無免許運転させるなんて本末転倒も甚だしいぞ、オヤジ。

「あの?」

「ん?」

「上がってもいい?」

「あ、ごめんごめん、どうぞ」

 ぼくは彼女をリビングの方に案内した。

「免許取るの大変だっただろ?」

「うん、でも一回で取れたから」

—一発かよ!

 やっぱりこの一族はどうにかしてる。

 リビングに入ると今度は彼女が驚いた。

「何よこれ、一人暮らしにしちゃやけに広くない?」

父親おやじが病気になって福岡にあるおふくろの実家に引っ越しちゃったんだけど、いま売っても損するだけだって残していってくれたんだ。普通おれの歳のサラリーマンじゃこんなとこ住めやしない」

「そんなに悪いの?」

「いや、もう退院してるんだけどね。まぁこの話はまたおいおい」

「ふうん。でもいい暮らししてんだぁ」

「別に狭くてもかまわないんだけど、家賃払わなくていいからさ」

「ねえ、彼女、いるの?」

「え、いないけど、なんで?」

「なんだか男の一人暮らしにしてはきれいに片づいてるなあって思って。普通雑誌や煙草の吸い殻が山積みになってたりするんじゃないの?」

「片づける前に散らかさないから。風呂入って寝るだけだもん。煙草も吸わないし。それってテレビの観過ぎじゃない?」

「そっかなぁ」

 彼女はものめずらしそうに部屋に置かれているものを見て回る。

「何これ?」

「ああ、それ?砂漠の花。花って言っても植物じゃなくて雲母だけど」

「あの鈴のたくさんついた牛の頭蓋骨みたいなヤツは?」

「あ、あれは確かペルーの楽器じゃなかったっけな?」

「なんだかこの部屋って、博物館みたいだね」

 確かに。

以前親父おやじが商社に勤めていて、出張行く度に妙なもんばっか買って来たんだ。みやげもの屋で売ってるもんだとメイドインジャパンだったりするとか言って。でもそれがけっこう楽しみでさ」

「ふうん、へんな親子」

—君らにだけは言われたくない

 彼女はそれからしばらく窓の外の景色を眺めていた。

「建っちゃったんだね」

「ああ、都庁?」

 ぼくの部屋はマンションの上の方にあるから結構眺めはいい。丁度目の前に高層ビル群がある。

「うん。あれが建つ少し前だったんだよなぁ、おじいちゃんにバイク教わったの」

 ちょっと遠い目をしていた。ぼくは黙ってお茶を入れながら彼女のモノローグに耳を傾ける。

「いまちょうど都庁の渡り廊下がある下を走ってる道があるんだけどね、高層ビルの中でそこだけぽっかり空間が空いていたの」

 そう言うと嬉しそうな顔で振り向いた。ぼくは黙って頷く。

「信号を曲がるといきなり視界が開けてね、なんだか飛行機の滑走路みたいに一直線の道で」

 緊張の糸が少しほぐれたのかもしれない。きっとこれが、

—彼女の素顔だ

「おじいちゃんの背中にしがみついてね、バイクが加速していくとふわーって飛べるような気がしてね、つい両手を広げたくなっちゃうんだ。よく怒られた」

 あそこならぼくもよく覚えてる。夜とかに車で走るとほんとに空に向かって舞い上がるような浮遊感が味わえた。

「今度一緒に走りにいこうよ」

—だからもう都庁の渡り廊下が行く手を遮っていて飛べないんだよ

 そんな野暮なこと言えるわけがなかった。彼女はいま回顧の世界にいる。そこに新都庁はない。あるのは空と風と直線道路、それにおじいちゃんの背中だけだ。

「うん、でもおれ車しか運転できないよ」

「いいじゃん、わたしの原チャリ貸したげる」

「ハーレーと原チャリですか?追いつけないでしょ」

 思わずぼくは苦笑いする。

「じゃあもしよかったら、」

「よかったら?」

「わたしの後ろに乗っけてあげてもいいよ」

—情けねー

 という気もしたが、それも悪くないかもしれない。

「わかった、お願いするよ」

 ぼくはティーポットとマグカップを二つダイニングテーブルに並べた。中身はジャスミン茶だ。別にお茶に詳しいわけじゃなかったが、ぼくは紅茶もコーヒーもあまり好きな方ではない。他になければ飲む程度だ。その代わり父がよく中国で買って来たジャスミン茶が好きだった。まだキッチンの棚に山ほど在庫がある。もっと気の利いた器で出したかったけど、ヘレンドもローゼンタールもマイセンも中国の茶器もみんなおふくろが福岡に持って行ってしまったのでこんなもんしか残ってなかった。とはいえこれまで来客があったわけでもないからあっても使う機会なんてなかったんだけど。

「ほら、お茶淹れたよ」

「ありがと」

 彼女はようやくダイニングの椅子に収まった。座ると本当に小さく見える。

「ジャスミンだ」

 湯気の立つマグカップを両手で持って顔に近づける仕種しぐさを見ていると、背は高いけど、心は守ってあげたいサイズなんだと思った。それに、まだ今日会ったばかりだというのに一緒にいるとなんだか気持ちが落ち着く。

「あ、そうそう、肝心なこと忘れてた」

「ん?」

「ゴウトウサツジンハンの話」

「あちっ!」

 ぼくはいきなり吹き出した。せっかくいい気分だったのに、これじゃあ台無しだ。

「あ、ごめんなさい、大丈夫?」

「だいじょぶだいじょぶ」

 ほんとはかなり熱かったけど。

「誰も来なかった?」

「たぶん」

「たぶんて、寝てたの?」

「そう」

「呆れた人ね、人がこんなに心配してたっていうのに」

「全然話が見えないんだけど、一体何がどうなってんの?」

「今日っていうか、日が変わったからもう昨日?二十九日午前二時頃にうちのおじいちゃん、いや、祖父が亡くなりました」

「ええっ、二時頃?」

—まずいよ、ぼくがちょうど部屋に戻った頃だ

「十二、いや零時半頃ね、一度倒れたの。それで近所の人とか呼んだんだけど」

—零時半?そんなわけない。ボクはその頃オヤジと店にいたはずだ

—いや、ちょっと待てよ、僕だっておなじ頃飲み屋にいたぞ

—どっちの零時半だろう?もうわけがわからん

「おじいちゃんね、確かにここんとこちょっと調子悪かったんだ。一昨日も朝は元気だったんだけど、お昼頃からどうも気分が悪いって言い出してご飯も食べずにずっと休んでたのよ。倒れたなんてことこれまで一度もなかったし、だから救急車呼ぼうかどうか相談してたら、いきなり目を覚まして」

 なんだか聞きたいことがたくさんあったが、とにかくまずは彼女の話を聞くことにした。

「おはよう、諸君。救急車など呼ぶ必要はない、とか言って」

「らしいな」

 思わずぼくは笑ってしまった。

「それからみんなをむりやり追い返して」

「追い返して?」

「それからむくっと起き上がって、ヘンなこと言い出したの」

「ヘンなこと、って?」

「もうすぐ店の前を角のばあちゃんを連れた坊主が通る、とか」

「角のおばあちゃんって、あのアルツハイマーの?」

「そう、ばあさんもかつてはいい女だったとか言っちゃって。どうせ店もヒマだし、誰も相手にしてやらないからってうちのおじいちゃん毎日話相手になってあげてたのよ。一昨日も朝早くからうちに来てたんだけどね」

「ふーん」

 おばあちゃんの昔の姿を想像してみたが、想像がつかなかった。

「そしたらさ、本当に通ったの、お店の前を若い男の人と一緒に」

—あの時だ

「何してるの、って、ちゃんと寝てなきゃダメじゃない、って言ったんだけどね…」

「言ったんだけど?」

「昼間さぼったからこれから店を開けるって言いだしたのよ」

「そんな時間に開店ですか?」

 なるほど、なんだか無茶苦茶だけど、夜中に店をやっていた経緯はわかった。

「こんな時間に開けてもお客さん誰も来ないよ、って言ったんだけど」

「そしたら?」

「坊主が来る、とか言ってお布団から出て来てお店の準備始めたのよ。まあ準備って言ってもヘンな仕掛けになっててね、修理台の脇の紐を引っ張るだけで電気や暖房やカーテンがみんな自動的に点いたり消えたり開いたり閉じたりする仕組みになってるんだけどね」

 彼女が上目遣いにぼくの表情を窺う。

「ヘンでしょ?」

 迷わず答える。

「ヘンです」

 なるほど、そういうことだったのか。ぼくは納得した。これで疑問はほとんど解決できる。でも、一番肝心なことが残っていた。

「二週間くらい前だったかな?突然昔からずっとお気に入りだった自分の時計を外してね、一度オーバーホールしてからよく磨いては付けたり外したり、ショーケースに入れたり出したりしてたのよ。それから何人かあの時計が欲しいって言ってくるお客さんがいたんだけど、どんなにお金積まれても頑として譲らなかったの。それがいまあなたがしている時計ね」

「それでドロボー扱いされたってわけか」

「ごめんね。お店の準備始める時にわざわざその時計外してショーケースに入れてたからよく覚えてるの」

「で、その後どうしたの?」

「にっこり笑ってね、もう大丈夫だから寝なさいって、その顔が…」

「その顔が?」

「なんだか本当に元気そうに見えたの。昔に戻ったみたいに」

—確かに、憎たらしいくらい元気だったもんなぁ

「早くいけ早くいけって手を振るもんだから、一旦二階に上がってベッドに入ったんだ。そのうち下から笑い声とか聞こえてきてね、楽しそうだなぁ、とか思いながらウトウトしてたの。気がついたら静かになってて、なんか様子がおかしいから下に降りて行ったのが二時過ぎ。そしたら」

「作業机の、椅子に、座った、まま?」

「なんで知ってるのよ?」

「おいおい、おれはおじいちゃんに何もヘンなことはしてないよ」

「やっぱりお店にいたのね?」

「そう、だって時計が壊れちゃって、気がついたら店の前にいて、店がやってたからなんとなくふらりと入って」

「それで?」

「気に入った時計があるか?って言うから」

「言うから?」

「この時計がほしい、って言ったら、譲ってやる、って」

「いくらで?」

 ぼくは迷ったが、彼女を信じて正直に答えた。

「これだけ値段がついてなかったからいくらですか?って聞いたら」

「古時計の値段なんて売り手が決めるもんだ、でしょ?」

「そう。でもどうしても欲しいって頼み込んだんだ。そしたら」

「そしたら?」

「逆にいくらで買うか、って言うから、明日貯金下ろしてきます、って言ったんだ。だって持ち金1万円ちょっとしかなかったから。そしたら」

「ほしいと思ったらいまが買い時、でしょ?」

「ははは、そのとおり」

「まだ笑える余裕はない!で?」

「有り金全部出して机に並べたんだ。そしたら売ってやるって」

「一万円で?」

「いや、おれの人生」

「え?」

「だから、おれの人生と引き替えに売ってやるって。机に並べたお金は釣りだって言って全部返してくれた。おれだっておかしいとは思ったさ。そしたら出世払いのようなものだって言うから。ホントだよ、信じてくれよ」

 最後のところで力を込める。自分で喋っていて、あまりに非現実的な会話になんだか芝居を演じているような気分になって来た。

「あきれた人」

「ごめん」

「あなたじゃなくて、おじいちゃん」

「おもしろい人だよなぁあの頑固じじい。あ、ごめん」

「いいよ、ホントのことだもん。頑固だけどバカみたいなお人好し」

「へえ、そうだったんだ」

 また彼女の心が想い出で満たされていく。しばらくそっとしておいてあげたかったけど、直にあふれてしまいそうだったからぼくは口を開いた。まだ時間のツジツマがあってない。

「それよりさ、おれがいなくなった後どうなったんだよ?」

 彼女は我に返る。

「もうタイヘンだったんだから。すぐに救急車呼んで、近所の知り合い呼び戻して大騒ぎ。でも」

「でも?」

 彼女はそこでくちびるを噛み、睫を伏せて軽く首を振った。

「病院に着いた時には、もう。で、お医者さんが病院でなくなったわけじゃないから警察に通報しないと、って」

「それで、来たんだ、おまわりさん」

「来た来た。いろいろ聞かれて、何か店の中でなくなったものはありませんか?って聞かれたから」

 彼女はじーっとぼくの腕時計に目を遣りながらそう言った。

 冷や汗が垂れてきた。

「聞かれたから?」

 すると彼女は突然椅子から立ち上がり、ぼくの左腕を指さしながら叫んだ。

「あの時計がなくなってる!」

「って言っちゃったの?」

「言うわけないでしょ」

—お嬢さん、それ、全然しゃれになってません

 彼女は溜め息をつくと肩を落としてまた小さく椅子に収まった。なんだかびっくり箱みたいな女の子だ。

「なんだよ、それをはやく言ってよ。もうこの数時間ドキドキものだったんだから」

「寝てたくせに」

 確かにぼくはどこかで安心していた。それは彼女たちを信じていたからなのかもしれない。

「あー助かった。それにしてもなんで警察に言わなかったの?」

「金目のモノが目当ての強盗だったらもっと他に持って行く時計はいくらでもあるわ。争った形跡はないし、だいたいケガ一つしてないんだもの。あの時計だけがなかったっていうことはおじいちゃんが自分の意志で譲ったとしか考えられないでしょ?」

「なるほど、そりゃそうだ」

「つまり譲られた相手はおじいちゃんが選んだ人ってことよ。その人が捕まっておじいちゃんが喜ぶわけないじゃない」

「まあまあ、ちょっと落ち着いて」

 ぼくはティーポットに手を伸ばし、二つのカップに残りのお茶をつぎ足した。湯気とともにジャスミンの香りが広がる。彼女はそれで少し落ち着くはずだ。

「それに」

「それに?」

「わたしがそばに畳んでおいた膝掛けをかけてくれてたでしょ」

「ああ、寒そうだったから。そんなところで寝るなって言ったんだけど」

「死んじゃった人にわざわざ膝掛けなんて掛ける?生きてたから掛けたんでしょ?だいたい悪い人はそんなことしないよ。話し声も楽しそうだったし」

 この子は恐ろしくアタマの回転が早い。そして何より冷静だった。どんなに洞察力があったって、普通二十歳ちょっとの女の子がそんな状況で警察から事情聴取されている間にそこまで考える余裕はないはずだ。

「ねえ」

 ぼくは尋ねてみることにした。

「なぁに?」

「予感してたの?」

 彼女は黙って頷いた。

「ふたりとも?」

「うん、たぶん」

—ちょっと待てよ、ってことはオヤジは初めからおれに譲るつもりで待ってたってことか?

「ところがね、駆けつけてくれた近所の人が、あの時計が欲しいって言うお客さんに商品じゃないから譲らないって言っていたのにないのはおかしい、って言い出し始めちゃって、また事情聴取。とにかくうまく丸め込むのが大変だったの。それなのに時計はめたままノコノコとお通夜にやって来るんだもん。誰も気づかなかったみたいだからよかったけど、お焼香の時はハラハラしたよ」

「ノコノコで悪かったな。これも何かの縁だからって思っただけだよ。まさかあのオヤジのお通夜だなんて思いもしなかった。ましてや君がお孫さんなんて」

「そうだったんだ、ありがと、ごめんね」

「いや、こっちこそありがと、ホント助かったよ。おれも時間の流れがなんだかおかしくなってて、アリバイなんて証明できるどころじゃなかったんだ。警察が来る前に話が聞けてよかったよ」

「どういうこと?」

「話すと長くなるんだけどさ、昨日行きつけの小料理屋を出たのがちょうどその零時半頃なんだ。その時にはたぶんもう時計は止まってたと思うんだけど、酔っ払ってて時計が壊れていることには全然気がつかなかった」

「それで?」

「そのあと店を出たら道に迷ったおばあちゃんに偶然出くわして家まで送って行ったんだ」

「角のおばあちゃんだ」

「たぶん」

「それで?」

「それでその帰り道に時計が止まってることに気がついて、その時偶然おじいちゃんの店の前を通った。まさかとは思ったけど開いていたからなんてことなしに店に入っちゃったんだ。そしたら店の時計が指してる時間が零時十分、壊れた時計も零時十分で止まってた。ありえないだろ?後はさっき話したとおり」

 彼女はくすくすと笑い始めた。

「それって、柱時計の時間でしょ?」

「そうだけど、何がおかしいんだよ」

「だって、おかしいんだもん」

「どういう意味だよ」

「おじいちゃん春になるとサマータイムサマータイムってうるさくてね、お客さんを教育するとかなんとか言って」

「なるほど、サマータイムか。って、ええ?サマータイムなら一時間進めるんだよね?」

 柱時計の時間がサマータイムだったとすると実際には二十三時十分ということになる。それじゃあますます時間が噛み合わない。

「そうなんだけどね。十月も終わるから少し早いけど戻そうかって話しててね。一昨昨日わたしが一時間戻したのよ。うちではお店の柱時計だけサマータイムにしてあるんだけどね、最近調子悪かったし、おじいちゃんには大変でしょ?だから背の高いわたしがやっておいたのよ」

「ふーん」

「なのにわたし戻したことを言うのを忘れててね。それを知らずにおじいちゃん一昨日の朝さらに一時間戻しちゃったんだ。すぐ気がついて言ったんだけどね。直す前にこんなことになっちゃって」

 彼女はそう言うと、肩をすぼめながらいたずらっぽく笑った。

「つまり、どういうこと?」

「だからあの時間は日本の時間にはあってないの。一時間遅れ」

—そうか、そういうことだったのか。つまり店に入ったのは一時十分ということだ

 ようやく疑問が解決した。それにしてもこの二十四時間の動揺はいったいなんだったんだろう。

—みんなこのふたりのせいだ!

「ようやく納得したよ。まだアリバイは何もないけど、司法解剖されたわけでもないし、なんとなく大丈夫な気がする。事情はよくわかった。それにしてもとんでもない時計屋だなぁ」

 ぼくはそれですっかり安心しちゃって、ついさっき経験した不思議な出来事のことなんてもうすっかり忘れていた。

「でも」

「ん?」

「朝駅で会ってなかったら、警察に話してたかもしれないよ」

「それはそれで運命だろ?べつに君が悪いわけじゃないし、よしんば痛くもない腹を探られたとしても何も出てこない」

「運命かぁ」

 その時ぼくはなんとなく小料理屋の女将さんの言葉を思い出していた。

「ねえ、そろそろ戻った方が良くない?」

「そうだけど、」

「だけど?」

「帰りたくない」

「なんで?おじいちゃんかわいそうじゃない」

「ここにいるとなんだかおじいちゃんが生きてるような気がするんだもん」

「まあ急なことだったしね。帰れば棺の中だ。現実から逃げたくなるのもムリないさ」

「そうじゃなくって」

「え?」

「あなたといるとおじいちゃんが生きてる気がするのよ、っていうか亡くなった気がしないの」

「またわけのわからないことを」

 急にくしゃみが出た。

「風邪、ひいたんじゃない?」

「アレルギーかな?お線香、ダメなんだ」

「え?わたしまだお線香臭い?」

「いや、全然匂わないよ」

 またくしゃみが一つ出た。

「あのさ、お風呂上がりにそのカッコでうたた寝してたでしょ?」

 図星だ。ぼくは頷いた。

「湯冷めしたに決まってるじゃない。わたし自分のことばっかりで全然気がつかなかったよ。ごめん、どうしよう風邪引いちゃったら。ちょっとお願いだからなんか着て来て!」

 確かにちょっと熱っぽい感じもしたが、別に彼女のせいじゃない。仕方なくぼくは寝室に戻ると、洋服ダンスからフリースのプルオーバーを引っ張り出して着た。

「もう寒いんだからいくらお風呂上がりでもTシャツいっちょなんかでいちゃダメだよ」

「だいじょぶだいじょぶ。ちょっとした知恵熱だよ。明日は休みだし、暖かくして寝てりゃすぐよくなるって。とにかく一度戻りなよ。明日は告別式もあるんだし」

 ぼくは椅子から立ち上がりリビングのドアを開けた。彼女も渋々立ち上がりトボトボ後をついてきた。でも玄関でブーツを履いた途端彼女は別人になる。

「明日もわたしが来るまでここから出ないようにね。もうしばらく安心できないから」

「ええっ?明日も来るつもり?」

「いけない?」

「いや、そりゃ嬉しいけど、さすがに明日はムリでしょ」

 またまたくしゃみが一つ。

「だいたいこんな面倒に巻き込んだのはおじいちゃんだもの、わたしにも責任があるわ」

「わかったよ、待ってる。でもムリしなくていいからな」

 そう言いながらぼくは鼻水を啜る。

「お互いコドクの身でしょ、助け合わなきゃ」

 そう言ってにこっと笑った次の瞬間、彼女の姿が視界から消えた。気がついたら抱きつかれていた。シャンプーの香りが胸の中に広がった。あまりに唐突な展開に予測がついていけず、ぼくの両手は行き場をなくしてペンギンの羽根のようにパタパタしていた。かっこ悪い。

「なんだかやっと落ち着けたみたい。ありがと、おやすみ」

 彼女はそう言うとぼくの左頬に微かなキスの感触を残して、振り向きもせずに玄関のドアを出て行った。予定していたちっちとサリーのキスのイメージとはかけ離れていたけど。

—最近の女の子は積極的だ

 そのせいもあったのか、翌日ぼくは三十九度を越える熱を出して久しぶりにぶっ倒れた。そういえば昨日、オフィスから出る時に口からでまかせを言ったのを思い出した。嘘から出た誠だった。


 高熱にうなされて目覚めたぼくは病院に行こうと思ったのだが、彼女との約束を思い出して諦めた。ホットミルクを作り、その場しのぎだとは思ったが家にあった風邪薬が三錠だけ残っていたのでそれを飲んでひたすら寝て彼女を待った。

 午後十時頃、ベッドでうずくまるぼくの耳にあのハーレーの音が響いてきた。本当に彼女はまたやって来たのだ。大量の買い物袋を下げて。

「大丈夫?」

「だいじょぶじゃない」

「みたいだね。横になってて」

 そう言われてぼくは寝室に戻り、再びベッドに倒れ込む。

 コンコン、

 ドアをノックする音が聴こえた。

「入ってもいい?」

「いいよ」

 と声の方に寝返りを打ったら彼女はもうそこにそびえ立っていた。

—なんだよ、入っていい?って、もう入ってんじゃん

 彼女がかがむ。超望遠のズームアップだ。ぼくはいまさらとは思ったけど、彼女に風邪をうつさないよう布団を鼻の上まで引き上げた。

「で、具合はどうなの?」

「まあたいしたことはないよ」

「その真っ赤な顔で?」

 強がってみたところでフラフラなのは一目瞭然だ。

「ちょっと喉と関節が痛いけど、いや、かなり痛いかも」

 彼女の手がおでこに触れる。冷たくて心地よかった。

「病院は行ったの?」

「来るまで出るなって言われてたから行ってない」

 冷たい手のひらはあっという間にぼくの体温を吸収してしまう。

「食欲はある?昨日からなんにも食べてないんでしょ?」

「うん、お腹は空いてるかも」

「いまから水炊きとお雑炊作ってあげるから、その間ちょっと寝てなよ」

「ああ、そうするよ」

 その手がぼくのおでこを撫でた。なんだか子供に戻った気分だった。

「おやすみ」

「ありがと、おやすみ」

 ぼくの返事に微笑むと彼女は立ち上がり、椅子にかけっぱなしにしてあったスーツの上下を手に寝室を出て行った。 

 なんかヘンだった。たった一人の身内が亡くなったっていうのに、彼女はむしろ楽しそうだった。いや、別に悪い意味じゃなくて、普通ならこういう時落ち込んじゃって人の面倒をみてる余裕なんてないはずなのに、なんていうか、前向きというか、強いというか、とにかく失意が感じられなかった。

 ぼくが寝室で寝ていると、包丁のトントンいうリズムと彼女の鼻歌が水炊きのいい香りとともに流れてきた。あきらかに彼女はゴキゲンだ。彼女の呼び声でぼくはベッドから起きあがると、ガウンなんてカッコの良い物はないから近いところでダウンを羽織ってダイニングに向かった。

「何そのカッコ」

 実に遠慮なく笑う子だ。

「そんなに笑うなよ、ヘロヘロなんだから」

 ぼくがテーブルにつくと彼女が鍋の蓋を開けてくれた。

「はい、どうぞ、召し上がれ」

「うわぁ、美味しそう」

 湯気の向こうに鶏のつくねと豆腐、それに白菜や長ネギ、水菜がきれいに並んでいるのが浮かび上がった。

「食べられそう?」

「うん」

「でもムリして食べないようにね。すぐにお雑炊にしちゃうから」

「ビールでも飲む?」

「何言ってんの!」

「ダメですか?」

「ダメに決まってんでしょ!食べたら薬を飲むの。買って来たから」

「はいはい」

 不揃いな器たちが食卓に並んでいる。珍しく勢揃いだ。ぼくは可笑しくなって思わず笑ってしまった。

「あのさぁ、食器くらい揃えようよ。これじゃあんまりだもん」

「うん、そうだね。でもなんとなく楽しくない?こういうのも」

「一回だけならね。料理は器で第一印象決まっちゃうんだから」

「確かに」

「来週一緒に買いにいこ?」

「いこいこ」

「もういいかな?」

 小鉢代わりにご飯茶碗が二つ、鍋の隣に大根おろしとレモンが入った硝子の器、そして見慣れないポン酢と醤油の瓶が二つ並んでいる。

「嫌いじゃなかったら大根おろし使った方がいいよ、消化にいいから」

「うん」

「ポン酢とお醤油は四国から取り寄せたものだから美味しいよ」

 確かに香味がうちの冷蔵庫にあるものとは格段に違う。でも、どっかで口にしたことがある香味だった。

「鶏はね、ウィングスティック入れると結構美味しいんだけど、お腹に負担がかかるといけないからつくねにしといた。出汁は取れてるから食べなくてもいいからね」

 彼女はそう言いながら、お鍋から小鉢にきれいに取り分けて渡してくれた。

「ありがと」

 ぼくは箸を付ける。

「美味しい!いい香りがする」

「カラダが温まるから針生姜入れといたんだ」

「すごいや、こんなに料理がうまいとは思わなかった」

「ただの水炊きじゃそんなに腕は振るえないよ」

くずきりだ」

「葛きりは喉ごしがいいし、風邪にも効くから」

「うん、美味しい」

 ぼくは一頻り無心で鍋に集中した。たぶんこの時、ぼくは恋に落ちたんだと思う。こんな風に自分のために料理を作ってもらったことなんてもう何年もなかった。いつも外食か、コンビニの弁当。

 向かい合って食事をする幸せ、

 一人ではないという忘れかけた幸せ、

 好きな人が自分のことを気遣ってくれる幸せ、

 こんなぼくにもまだこれだけ沢山の幸せがあったんだと気づいた瞬間にこみ上げてきた驚きにも似た感情。人生捨てたもんじゃない。

 ぼくは、美味しい美味しいと連発しながら、実は湯気に隠れてちょっとばかしうるうる来ていたんだ。そんなぼくを、彼女は頬杖をつきながら笑って見てた。

「食べなよ、美味しいよ」

「うん」

 ぼくも彼女の器になるべくきれいに水炊きをよそってあげた。ようやく彼女は箸をつけた。

 鍋の中身がすっかりきれいになくなる頃、ぼくはかなり元気を取り戻していた。

「あのさ、」

「うん」

「昨日おじいちゃんが死んだ気がしないって言ってたけど、なんとなくわかるような気がするよ」

「でしょ?なんかまだ生きててどっかそこら辺に隠れてるような気がするの。あの人なら十分あり得そうだもの」

 彼女は嬉しそうに言いながら、鍋の中に残った細かい具をきれいにさらうとそこにご飯を入れた。ぼくはコンロの火を弱火に調節する。

「それにしてもさ、あの不敵なほくそ笑みを浮かべた遺影、もっと他にいいのなかったの?最初見た時あんまりよく特徴が出てて笑いそうになったもん。まあしんみりするよりいいかもだけど」

「なんでも株で大当たりした時の写真らしいの。その時の仲間の人が持って来て、ご自分の葬儀の際はこれを遺影に使うように言われてましたって」

「株?」

「まだわたし中学生の頃だったからあんまりよく覚えてないんだけど、おじいちゃんでんでん、でんでん言ってたから、たぶんNTTが民営化した時のことだと思うんだけど」

—でんでん?電電公社のことですか

「あれってうちの親父も買ってたけど、一般投資家はみんな持ち過ぎて失敗したって言うけどね。おじいちゃんそんな才覚あったんだ」

「そう、わたしもお通夜の時にその人に聞いて初めて知ったんだけどね、おじいちゃん昔は証券会社に勤めていてかなり偉かったらしいの。でも派閥争いの仲裁に入ったら逆にその責任を押しつけられて辞めちゃったんだって」

—なんだい、時計屋じゃなくて株屋だったんだ。どおりでアタマが切れるわけだ

「ふうん、それにしても随分な話だな」

「だから昨日も本当は内輪だけの質素な葬儀にしようとかみんなで話してたんだけど、いきなりいろんな人がやってきてあの有様。お通夜の席もぼくらがいますからお休み下さいって何度も言われるからここに来ちゃったの。だってなんだかあの遺影の前にいたら、行ってこい行ってこい、って言われてるような気がして」

 ぼくはお通夜の時にずらっと並んでいたあの花輪や供花を思い出していた。

—やっぱり何か仕組まれてる臭い。考え過ぎのような気もするが

「そうそう、それでね、会社の部下の人たちも反対したらしいんだけどね、おじいちゃんもともとそういう揉め事がイヤで、それでケンカが収まるのならって引き受けちゃったらしいの」 

「なんかカッコ良過ぎやしないか?その話」

 ちょっと誇らしげな彼女には悪いけど、あきらかに話を美化し過ぎているような気がした。あのオヤジは絶対にただのお人好しなんかじゃない。

「でもその代わり退職前に役員になれたからまだよかったって」

—ほらみろ!

 役員になる場合、通常一回職員として退職してから就任するものだ。つまりあのオヤジは泥をかぶる代償として二回の退職金を手に入れたのに違いない、とぼくはその時そう思った。どう考えても肩書きに執着するような性格じゃなさそうだ。

 もちろん会社によってシステムも違うし、だいたいその時はまだ退職なんて考えたこともなかったから、ぼくには彼の退職金の額なんて想像がつかなかった。けれど一部上場の証券会社役員ならそこそこ大きな額になるはずだ。

 若造のぼくが言うのもなんだが、あの手のタイプは仕事は出来るが世渡りがヘタなことが多い。サラリーマンのピラミッドは出来るヤツほど窮屈に感じるものだ。

—実力だけで昇っていけるほど組織は甘くない

 上に行けば行くほどそれが骨身に凍みる。あの人もきっと例外じゃなかったはずだ。そろそろ潮時だと思ったに違いない。たった一人の家族である孫娘のこともある。名より実を取った、きっとそういうことだ。

「辞めちゃってどうしたの?」

「世界中のパートナーと一緒に株なんかの売買をしてたんだって」

—パートナー?

「株なんかって、おい、ヘッジファンドに出資でもしてたのかよ」

—まさか、ヘッジファンドは預入額が最低でも数億円単位だ。いかに得体の知れないオヤジでもそこまで資産があるとは思えない

「わかんないけど、何?それ」

「まあわかりやすく言えば、とんでもない富裕層とか機関投資家が表向きには内緒で資金を出し合って、株とか為替とかありとあらゆる市場で起きる相場の変動を狙って仕掛けちゃ利鞘を荒稼ぎする小さなグループ、ってとこかな?公募はしないで私募のカタチを取った投資信託だから規制がないんだ。その分リスクも高い」

「なんだかちっともよくわからないけど、その仲間があの写真を持って来てくれた人達なのかなぁ」

—もしかしたらあり得ない話じゃないかも

 ぼくは昔読んだホテルという小説を思い出した。人は見かけだけでは判断できない。それどころか彼女の話を聞いていると、あってもおかしくなさそうなエピソードがいくつも出て来そうだ。

「わかんないけどね」

 さもなければ、その退職金を第一次NTT放出株の購入資金に充てて、下がる直前に売りに出た。でもあの当時市場の予想は大方が二次三次にかけてまだまだ上がると読んでいた。プロだからと言ってしまえばそれまでだが、なんか臭う。

「NTT株かぁ。何かインサイダー情報でも手に入れたのかな?」

「何?それ」

「インチキ、いや、っていうかうまいことやったな、ってこと」

—しくじった、言葉を間違えた

 彼女が口をつぐんでしまった。言葉はいつだって取り消しが効かない。慌ててぼくはフォローする。

「でも証券取引法で証券会社を辞めた人は一定期間株の売買を制限されたりもするはずだ。おじいちゃんほどの人ならそれくらい当然知ってただろうから、そうそうヤバイことはしなかったろうし、しばらくはおとなしくしていたはずだよ」

「わかんない、わたしその頃のことになっちゃうと、もうほとんど記憶にないの。覚えているのは、」

「のは?」

「ベト、ナム」

「何それ?」

「うん、うちは代々ふつうの町の時計屋さんだったらしいの。でもクォーツ時計が主流になってから全然商売にならなくなって畳んじゃったんだって」

—どうりでクォーツ時計を目のかたきにするわけだ

「たぶん会社を辞めた頃だと思うんだけど、おじいちゃん突然ベトナムに行ってたくさん古時計買い込んで来たんだ。それを全部修理して、お店を改装してまた開いたの。リベンジ第一弾、とか言って」

—リベンジ第一弾ですか。てことは株が第二弾なわけね

 それでようやくあの遺影の意味がわかった。

「なんでまたベトナムなの?」

「ベトナム戦争の遺留品がたくさんあるのよ。中にはケースと中身が違ったり、ムーブメントに偽の刻印とかされてたり部品が足りなかったりするまがい物が多いんだけどね、とにかく安いんだって。軍用に作られた珍しい時計とか、程度のいい物も結構あるから売り手より詳しけりゃ逆にだまくらかせるとか豪語してた。あとは自分で足りない部品作ったりしながらなんだか一所懸命やってたよ」

「なるほどね、ちゃんとひいおじいちゃんから時計屋の血は継いでたんだ」

 ぼくはちょっと安心した。それから時計屋と彼女の今後に思いをめぐらせた。

「ところでさ、仕事してるの?」

「ううん、まだ学生だもん」

「どこ?」

「東大」

「東大!」

 思わず叫んでしまう。

「おかしい?」

 彼女は間違いなく向こう気が強い。

「おかしくはないけど、学部は?」

「工学部」

「工学部ですか?」

 今度は声がひっくり返る。

「何年生?」

「四年生」

「四年生かぁ。じゃあ就職?」

「一応いくつか就職試験は受けたんだけど、もうちょっと勉強したいな、と思って大学院に進学することにしたの」

「ふうん、修士かぁ、確かに理系なら悪くないかもな。専攻は?」

「機械工学」

「機械工学!」

—おれはオウムか?

 やっぱり孫にもかなわない。なんだか泣きたいキモチ。

「だまされたんだもん」

「え?」

「人を騙してポンコツ売りつけて商売してるような我楽多屋にはカネがないから、チャラチャラした私立には行かせられない、って」

—おいおいオヤジ、んじゃおれの人生ポンコツと引き替えかよ?

 呆れてものも言えない。それに、

—チャラチャラした私立大卒の男で悪かったな、くそオヤジめ

「だから済まないが学生やりたいなら国立に行ってくれって」

「どこがだまされたの?」

「だってお金あったんだもん。今日弁護士の人に聞いた」

 少し頬を膨らませた顔がアンバランスでかわいかった。

「結果オーライじゃん」

「わたしは女子大とかに行ってもっと学生生活を楽しみたかったの」

「楽しんでないの?」

「だって合コンとかに誘われても東大っていうだけでみんな引いちゃうんだもん。こんなんじゃ誰も寄りついて来ないよ」

—ムリもない

「昔っから厳しくて」

「どんな風に?」

「一日一善、とか」

「とか?」

「背筋は伸ばせ、とか」

—全然普通じゃん

「字が下手な女は男にだまされるとか、人が驚くようなことをやれとか、料理が出来ない女にだけはなるな、とかなんとか」

 なんだかおかしくなってきた。

「中学生の頃にはもうあの売れない我楽多屋やってたからすっかり信じちゃって、困らせたらいけないって一所懸命勉強して、近所の小料理屋のおばちゃんに料理教えてもらって」

「あっ、ああっ!」

 やっと気がついた。ぼくは彼女に会ったことがある。

「え?」

「あの店の手伝いしてたおさげでめがねのでかい女の子」

 どっかで食べたことのある味のはずだ。あの小料理屋に行き始めたのはぼくが入行してすぐ日本橋に勤めていた頃だ。ちょうどその頃おふくろは親父の看病にかかりきりで、ぼくの世話なんてしてる余裕はなかった。それで仕事帰りにあの店に寄るようになったんだ。確かにあの頃女子高生の子が一人手伝いに来ていたのを覚えている。いつも座って見ていたからなのかもしれないが、とにかくやけに高い身長とレトロなセルフレームの眼鏡が印象的だった。でも、大阪から戻って来た時にはもういなかった。そりゃそうだ、その間に彼女は受験に合格して大学生になっていたのだ。

 それにしても、

—まるで別人だ

「メガネにでかくて悪かったわね」

 彼女はそう言いながら、鍋の中で煮立った雑炊の上に溶き卵をかけて蓋をした。ぼくはすかさずコンロの火を消す。

「んじゃ、おれのこと覚えてない?」

「全然覚えてない」

—あちゃ、自爆

「お雑炊出来たよ。食べられる?」

「いただきます」

 申し訳ないけど、そりゃあもうとにかくやたらと旨かったよ。それはあの料理屋の味とはまた違う、家庭の味だった。

—何が違う?

 まだ鍋、しかも水炊きしか食べてない分際で偉そうなことは言えない。が、とにかくその時ぼくはそう思ったのだ。

—恋は最高の調味料にもなる?

 いやいや、そんな失礼な。確かに美味しいんだ。でもそれはポン酢がおなじだからじゃない、場所が違うからでもない。

「おじいちゃんは亡くなっちゃったけど、そしたらわたしの周りに色んなものを残してくれてたことに気がついたんだ。きっとだからなんか死んじゃったような気がしない、って思うのよ」

 彼女の口から溜め息がこぼれ落ちた。

「実はね、おじいちゃん、女将さんと仲良しだったんだ」

「ええっ」

「再婚すれば、って言ったんだけどね、わたしのことで手一杯だって。だいたいこの歳でいまさら再婚だなんて恥ずかしくて出来るかって」

 その気持ちもわかるが、何か裏がありそうだった。でもそれはここでは追求しないことにした。彼女が知らなくていい事実もあるはずだ。

「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした」

「片づけ手伝うよ」

「今日はいいよ、横になってて」

「ありがと、じゃあお言葉に甘えてそうするよ」

 ぼくが寝室で寝ていると、彼女が何かを手に持ってクルクル回しながら入ってきた。どうみても心配な顔というよりは楽しそうな顔だ。

「これ計って、体温計持って来たから」

「うん、なんでクルクル回してんの?」

「水銀計はね、こうやってケースの紐の両端を持って鉄棒の大車輪みたいにして回した後びょーんと引っ張って回すとブンブン独楽ごまの原理で目盛りが一気に下がるんだって。おじいちゃんが言ってた」

—別にどう回したって遠心力で目盛りは戻るじゃんよ

「ホントに機械工学専攻なの?」

「ムダ口たたいてないで、いまわたしの前じゃ赤子も同然なんだからね、ほれ」

 ぼくは渡された体温計を脇の下に挟み込もうとした。でも力が入らないうえに着ぶくれしていてうまく挟まらない。

「ほんとに手がかかるヤツだなぁ。貸してみい」

「うひょ」

「何喜んでんの」

「違うよ、手が冷たいの、手が」

 でも、嬉しかった。イシキモウロウのシアワセ。モルヒネってこんな感じなんだろうか。

 彼女は腕時計で時間を計っていた。ちょっと男物っぽい、ストップウォッチが付いているやつだ。

「それって、クォーツ?」

「違うよ、機械式。自動巻だけどね」

「なんてやつ?」

「ユリスナダンのクロノ。体温計取るよ」

 また冷たくて細い彼女の指先が布団の中から滑り込んでくる。

—キモチイイ

「うぃーっす、何度?」

 彼女は体温計を見たまましばし動かなくなった。

「違う違う、ユリスナダン」

 会話が噛みあわないのは熱のせいか?彼女の心配りか?彼女の手がおでこに触れた。今度はもっとひんやりした。でもそれは彼女の体温ではなく、熱冷ましに張る冷えピタだった。まさに赤ん坊になった気分。

 もう少し一緒にいたかったから抵抗したんだけど、その後彼女に無理矢理くすりを飲まされたぼくは静かに眠りに落ちていった。遠ざかる意識の向こうで、アイロンを掛けるスチームの音が聞こえていた。なんだかおふくろ達と一緒に暮らしていた頃を思い出した。それにしてもどっからアイロンなんて見つけ出して来たんだろう?

 朝起きると、いなくなっているはずの彼女がぼくの腕の中にすっぽりと収まって静かな寝息を立てていた。長い手足を折りたたむと本当に小さくなる。

「やれやれ、風邪がうつったらどうすんだよ」

 ぼくは彼女を抱きよせ、布団をしっかりかけ直してやった。両親が使っていたこのベッドはぼく一人にはちょっと広過ぎて寂しい感じがしていたんだけど、彼女といるにはちょうどいいサイズなのかもしれないと思った。ふと見ると、壁のハンガーにきっちりとアイロンの当てられたスーツが掛けられていた。

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