第3話 ゴウトウサツジンハン

 部屋に入ると急に全身から力が抜けたような気がしたぼくは、玄関に鞄を置き去りにしたまま寝室に直行しベッドにごろんと寝っ転がった。古いのに新しい時計を手に入れたことが嬉しくてそいつをじっくり眺めようと腕から外したその時、また妙なことに気がついたんだ。時計の針がいつのまにか一時間ほど進んでいた。

—ええっ?

 ぼくは慌ててベッドから起きあがり部屋のデジタル時計を見た。ところがその緑色の数字も間違いなく腕時計とおなじ二時五分を表示していたのだ。

 店に入ったのは零時十分、

 結構長居はしたけど柱時計は鳴ってないから店にいたのがだいたい四十五分、

 店からマンションまで十分。

 多少のずれがあるとしても一時ちょっと過ぎがいいところだ。

—いや待てよ。試合が終わったのがそもそも零時過ぎだ。いったい何がどうなってんだ?

 止まっているわけではなさそうだが、どこまで信用していいのかわからなくなった。でもどう見ても欠陥商品には思えない。他の時計同様、秒針は確実に一分間六十秒で時を刻んでいたからだ。

 飲み過ぎたというほど飲んじゃいないはずだった。が、酔っぱらいはいつだってそう答える。ぼくはちょっと酔いを覚まそうとバスルームに向かった。素っ裸のまま風呂場に入ると足の裏が冷たかった。思わず爪先を上げる。これも子供の頃からの習慣だ。ぼくはいつもこれで冬が近づいていることを知る。不格好ぶかっこうな姿勢のまま蛇口をひねり、手でシャワーの温度を確かめながらぼーっと考えた。シャワーから出てくる水がなかなか熱くならないのは水道管が冷え込んでいるからなのか、それともぼくの時間の感覚が狂っているからなのか、よくわからなくなってきた。

 サッカーの試合時間から考えると、飲み屋を出た時すでに前の腕時計は止まっていたはずだ。だとすれば零時十分を指していたのはわかる。それが時計の壊れた時間、おそらく試合が終了した直後だろう。でもその後おばあちゃんを送って来た時間を考えると古時計屋の柱時計がおなじ時間を指していたのは絶対に腑に落ちない。そして店から家まで歩いて帰るわずかな間に時間は一気に一時間も進んだのだ。時間の流れがどうかしてる。

—夢かうつつ

 シャワーを浴びながらふとそんな言葉を思い出した。やっぱりこれは夢の中の出来事なのかもしれない。

 タオルで身体を拭く。

 ジャージに着替える。

 ドライヤーで髪を乾かす。

 歯を磨く。

 目覚ましをセットする。

—うーん、どれも現実にしか思えない

 ぼくは枕元にあの時計を置くと明かりを消してベッドにもぐりこんだ。朝目が覚めた時こいつは跡形もなく消えているかもしれない。ちょっと残念な気もしたが、それはそれで一番納得がいく結末だ。

—もしあったら?

 何かが起きる前兆なのかもしれない。どこにでもありそうなぼくの人生が、どこの誰にも理解できないような不思議な物語になる。ちょっと怖い気もしたが、それはそれでまた面白い展開だ。

—とにかく明日帰りにもう一度あの店に行って調子を見てもらおう

 そう思いながらぼくは静かに目を閉じた。

 なんだかドキドキしていた。胸の鼓動と枕元の時計が刻む音がシンクロナイズしていく。ドキドキしているのに安心した。なぜ?

—だってぼくはいま、生きてるんだ

 きっとそんな風に思えたからなんだと思う。まるであの古時計屋に集まったいくつもの時計の一つになった気分だった。

—待てよ?心拍数が六十なんて少な過ぎやしないか?

 一瞬そんなことも脳裏をよぎった。でもすぐにどうでもよくなって、ぼくはまっさかさまに眠りに落ちていった。

 タイムマシンという名前のジェットコースターに乗るユメを見た。場所はもちろんディズニーランドで、入口の辺りに看板が立っていた。スポンサーの名前にはハミルトンとイリノイ、そしてなぜかぼくの勤める銀行とあの古時計屋の名前が並んでいた。もちろんぼくは一人じゃない。彼女は楽しそうに笑っていた。でもぼくは正直なところジェットコースターが大の苦手だ。だから卵形のカプセルが現在駅プレゼントステーションという名の終点に到着する頃にはすっかり目が回っていて、彼女の顔がよく見えなかった。降車を促すベルが鳴り、ロックが外れたセーフティーバーを上げる。はしゃぎながら出口に向かって駆け出す彼女。追いかけるぼく。でも足下がふらついてなかなか追いつけない。よく思うんだけど、ぼくのイメージはあまりにありふれていて自分でも情けなくなるくらいわかりやすい。やがて彼女は地上に繋がる出口にたどり着きこっちを振り返るんだ。やっと追いつけると思いきや、自動ドアが開いてたちまち外の光が流れ込んで来る。瞳孔が開きっぱなしのぼくの視界の中で、結局彼女の輪郭は最後まではっきりしないまま白く飛んでしまった。 

 閉め忘れたブラインドの隙間から覗き込む澄んだ青い空の視線の中でぼくは目を覚ました。目覚ましは鳴っていない?いや、鳴ったような気もしなくも、ない。

 そのままするりと抜け出してしまうのには少しもったいないユメのような気もしたが、それに流されてしまうほどやわな精神ではない。オトナになりきれない部分はたくさんあるが、長い銀行勤めで社会人としては結構鍛えられてきた方だ。

 寝ぼけたアタマに気合いを入れようと思いっきりのびをする。その時左のひじの辺りに何か硬いものが触れた。

「あ!」

 時計はあった。昨夜の出来事は夢なんかではなかったのだ。そして案の定、ぼくは寝坊していた。この時計も都合よく遅れてはくれないらしい。鳴らない目覚まし時計と同じ時間を指していた。

「いけねっ」

 ベッドから跳ね起きる。顔を洗い、歯を磨きながら髪を整える。

ぼくはタンスから新しく買っておいた冬物のスーツを取り出して見事なスピードでそれに着替えた。

 朝食は諦めたが、時計の針を時報に合わせてから主に言われたとおり竜頭リューズだけはきっちりと巻き上げた。

 ところが、だ。

 きっちり巻き上げるとパワーセーバーの目盛りも上がっていくはずなのにゼロのまま微動だにしない。ちょっと見では日付を表示する小窓のようにも見えるが0なんて日付はない。すべて揃えたはずなのに何かが足りない、なんとなくそんなような違和感を感じた。

「なんだよオヤジ、やっぱり壊れてるじゃないか」

 ぼくは玄関に投げ出してあった鞄を拾い上げると靴を引っかけてそのままドアを飛び出し、鍵をかけてからエレベーターに向かって走り出した。

 遅い時間のせいか駅に向かう道はいつもより人通りが多かった。ぼくは朝だけ西口の小さな改札を使っている。途中に店はほとんどないが最短距離だからだ。山手通りを渡り、緩い坂を下りた所にある信号を左に折れると狭い私道になっていて小さな花屋があり、そのすぐ目の前が線路だ。フェンス沿いに左に折れると駅の階段がある。次かその次に来る電車に乗らないとぼくは遅刻になる。

 ところが、だ。

 ぼくの「どこの誰にも理解できないような不思議な物語」は実に巧妙に仕組まれていて、今日みたいな日に限って何かあるものだ。信号を左に入った途端、花屋の前でしゃがみ込んだ若い女性の視線と鉢合わせした。不意に目の前でフラッシュを焚かれたような感覚に襲われ、慌てて足を止める。

 べつに取り立てておしゃれな服を着ていたわけでも、短いスカートを履いていたわけでもなかった。ジーンズの上にTシャツとセーターを着ただけのどうってことないご近所スタイルだ。けれどなぜか彼女のイメージは分厚いはずのぼくのフィルターをあっさりと透過し、いとも簡単に心臓に絡みついてしまった。

 けれど彼女の方はそんなぼくにはあまり関心がなかったようで、すぐにまた俯いてしまう。最初は気分でも悪いのかと思った。

—声、かけてみようか?

 右のボクが囁く。

—そんな時間あるわけねぇだろ、とっとと行こうよ

 左の僕が却下する。

—でも立てないみたいじゃん、かわいそうだよ。それに…なんだかめちゃめちゃかわいくない?

 右のボクが主張する。いつもなら左の僕の主張の方が通るんだけど、誰かが困っているような時だけはどちらの答えもおなじになる。それに左の僕も珍しく彼女のことを気に入ったみたいだ。

—なんだい、そういうことかよ。しょうがないなぁ、まったく

 ぼくは意を決して彼女の所まで歩いて行った。

「あの、ご気分、悪いんですか?」

「あ、いえ、そういうんじゃないんですけど、泣いてたらコンタクトが外れちゃって、どっかに落っことしちゃったみたいなんです」

「ありゃ、そりゃ大変だ」

 ぼくはその場にしゃがみ込み一緒に探し始めた。

「いまの時間人通り多いから踏んづけられてないといいんだけど」

 しかし地面の上のどこを探しても見つからない。

 その時電車がホームに滑り込んできた。それを横目で見たのに気づかれたのか、彼女が言った。

「あの、お急ぎじゃないんですか?大丈夫ですよ、わたし」

—ほら、相手にもされてないし、次ぎ逃したら完全に遅刻だぜ

 ぼくは夢中になると左の僕の言葉なんかまったくのスルーだ。彼女の言葉にも気がつかなかったフリでぼくは一所懸命探し続ける。

「ああっ、あんまり動かないで、踏んづけちゃうかもしれない」

 彼女はよっぽど視界が悪いみたいで、膝をつきながら手探りで探すので思わずぼくはそう叫んだ。

「はい、すみません!」

 そう言って彼女が上半身を引いた時、彼女のセーターの胸元の辺りが一瞬キラリと光った。よく見ると何かが光を反射させている。

「あっ、じっとして」

 ぼくは失礼にならないよう、そっと静かに彼女の胸元に右手を伸ばした。そして、指先に小さな小さなコンタクトを捕獲した。

「あった、あった、あった」

「ええ?あった?ほんとだ見つかった、見つかったー」

 ぼくらは大騒ぎして喜んだ。その時初めて彼女の笑顔を間近で見た。泣いたせいか目は腫れぼったかったけど、栗色の短い髪がきれいに切り揃えられていて、清潔感があるというか、かわいい感じなんだけどどことなく凛とした雰囲気のある女の子だった。

—今朝のユメは正夢かも!

 右のボクが思わずはしゃぐ。確かにそこまではあのユメに出て来た女の子とイメージを重ねあわせることが出来た。

 ところが、だ。

 彼女はぼくからそっとコンタクトを受け取るとすーっと立ち上がった。すっと、じゃない、すーっと、だ。下から見上げているとまるであおりで構えた超望遠レンズを一気に引いていくようにも見えた。

—おいおいどこまで引くんじゃい

—うわぁー、思ったより背が高いよ、この子

 しゃがんでる時に小さく見えたのはあたまが小さいからなのか、足が長いからなのか、細身だからなのか、とにかく身長が183センチあるぼくの目の辺りまで背丈があったからたぶん170センチ以上はあると思う。履いている靴もスニーカーだ。ユメに出て来た彼女はもっと小柄で守ってあげたいイメージだった。

—それにしても、一体この子に何があったんだろう?

 ぼくはきっとぽかんと口を開けたままだったに違いない。

「ちょっとごめんなさい。これつけないと右目がなんにも見えないんで」

 彼女はそう言うと少し横を向き、指先に乗せたコンタクトを舌先で軽く舐めると、慣れた手つきで右目にはめた。喋り方がはっきりしてる。

—礼儀正しそうだけど、ちょっと気が強いかも

 ぼくは慌てて立ち上がった。

 彼女は手のひらで少し顔を隠すようにして、

「すみませんこんなボロボロの顔で。ほんと助かりました、ありがとうございました」

 丁寧にそう言うとぺこりと頭を下げた。

「いえいえ、とんでもない」

—あの、お礼をしたいので連絡先だけでも

—なんて彼女が言うわけないだろ?

 期待したぼくがばかだった。それどころかいきなり、

「ああっ!その時計」

 と叫んだんだ。まるで別人じゃないかと思うほどその叫び方と喋り方にはギャップがあった。思わず一歩後ろに右足を引くくらいその反応の仕方が大袈裟にも思えた。その時はまだ彼女の素顔なんてまるで知らなかったし、第一ぼくには事情がまったく飲み込めていなかったからだ。ほめられたと勘違いしたぼくは嬉しそうに答えた。何も知らずに。

「いいでしょ、昨日買ったというか、譲ってもらったというか、とにかくいま一番のお気に入りなんだ」

 彼女が何か言いかけたが、滑り込んできた次の電車の音に呑み込まれてしまった。これを逃したらカンペキ遅刻だ。

「あ、ごめん、これ逃すと遅刻なんだ。何があったか知らないけど、とにかく元気出して!じゃお先」

 ぼくは彼女に聞こえるよう大きな声でそう言うと相手の返事を待たずに階段を駆け上った。いま思うと、その後ろ姿はアホなくらい爽やかだったに違いない。まさに天然のお人好しだ。

 ギリギリで電車に駆け込み、ほっとしたところでふと思った。

—はて、どっかで見かけたことがあったかな?

 まったく記憶にはないのになんとなくそう思った。ユメのイメージとは必ずしも一致しないのにどうやらそれでも気になるらしい。

—あの感じじゃ今度会っても覚えていてはくれないだろうな

 そう思うと少し残念な気がした。でも、なんだか今日は朝からいい感じだ。もしかしてこの時計のおかげなのかもしれない。

—なんたって人生と引き替えにこの時計を手に入れたんだから

 そう思ってつり革につかまっている左手の時計を見た。

—ん?

 なんか違った。

—何が違うんだろ?

「あっ」

 思わず声を漏らしてしまった。

 そうそう、あのパワーセーバーの小窓の数字が0からほんの少し動いていたのだ。ほんの少し、ってとこが気にはなるが、これも前向きな変化ではある。ぼくはさらにいい気分になる。

 そして何気なくいつもの習慣で鞄を開けた。が、そこにあるはずの新聞はなかった。慌ててたから郵便受けからピックアップするのを忘れていたのだ。仕方がないので座っている人が読んでいるスポーツ新聞を盗み読みする。

 もちろん一面トップは昨日の試合。まだ「ドーハの悲劇」という言葉はなかったけど、ワールドカップの初出場を逃したことが大々的に取り上げられていた。まぁ観ていたのだから読んでもあまり意味がないんだけど、それでもスポーツ新聞の記事っていうのはよくできてるもので、結果を知っていてもつい読みたくなるような見出しが付いているものだ。しかしぼくが見ているのに気づいたのか、そいつは急にページをめくりやがった。ちらっと視線があう。

—むっ、意地の悪いヤツ

 ぼくはそっぽを向く。そっちの方にもう一人経済新聞を読んでいる人がいた。ぼくが取っているのとおなじやつだ。

 ある記事の小見出しが目に留まった。昨日の夜、というか今朝早く、つまりぼくがあのユメを見ていた頃だと思う。外国為替市場で円相場がまさにジェットコースターのように乱高下していたらしい。

 ぼくはこれでも銀行に勤めて七年半が経つ。ちゃらんぽらんに仕事しているように見えるかもしれないが、当然相場くらい常に意識している。為替市場の動向が銀行の取引先企業の経営状態を左右するからだ。東京に来てからのぼくの取引先に輸出向け商品を扱っているようなところはあまり多くなかったけど、一部にはパソコン、携帯電話なんかに使われる電子部品や記録媒体、コンピューター周辺機器なんかを輸出しているような企業もあったし、現在はつきあいがないとはいえ大阪時代の取引先はほとんどが輸出関連企業だったから彼らのその後も気がかりだ。それに銀行全体でみれば取引先の多くが輸出企業だから、特に円高傾向にある時は何かと気になるものだ。 

 

 円高っていうのは円が強くなる、つまり円の価値が上がるということだ。通貨の価値はその国のその時々の状況次第で上がったり下がったりする。経済に強い人なら誰でも知っていることだけど、あまり馴染みのない人にはピンと来ないかもしれない。でもこの話の今後の展開を考えると、いずれどこかで触れなきゃいけないことだから、ここでちょっと外国為替の相場について話しておきたいんだ。面倒だったら2〜3ページ飛ばしてくれてもかまわない。

 日本の円の他にも通貨には沢山の種類がある。例えばドルにも色々あって、

 ドル、オーストラリアドル、香港ドル、

 同じドルでもみんな違う通貨だ。ドルはアメリカの通貨だから米ドルとも言う。フランにも、

 フランスフラン、スイスフランがある。

 ドイツはマルク、イタリアはリラだ。余談だけどフランスフランもドイツマルクもイタリアリラも後のヨーロッパ経済統合でみんな統一されてユーロに変わっちゃったけど、なぜかスイスフランはそのままだしイギリスもポンドのままだ。中国の元とかタイのバーツなんてのもある。要は国の数だけ通貨の種類があると言っても過言ではない。

 だいたい大きな銀行に行けばほとんどの通貨が日本円で買えるし、その逆も出来る。これが両替だ。そしてそれぞれみんな値段が違うから面白い。そしてこの通貨の値段は日替わりで変わる。これが相場とかレートとか言われているものだ。

 銀行も窓口までなら誰でも入れるし、別に両替しなくてもかまわないんだから、キャッシュディスペンサーでお金をおろすついでにでも外国為替両替カウンターまで足を運んでごらんよ。その値段表が必ずどこかに掲載されているはずだ。銀行にいるとなぜか見張られているような気がするから用事だけ済ませてすぐ出て来たくなっちゃうものだけど、ちょっと足を止めてみるだけでもけっこう発見がある。もちろん見張りの警備員もいるし監視カメラとかも付いているけど、それは何も銀行に限ったことじゃない。駅にもコンビニにも、街中のいたる所に監視カメラが付いているんだから銀行だけ意識するのも変な話だ。

 ぼくらにとって一番身近な外国通貨はドルだから、ちょっとドルと円の相場について考えてみよう。

 ここで仮に1ドル=100円という相場があったとする。この場合、日本の企業が100円の商品を輸出すれば現地の人は1ドルで買えることになる。ところが円高が進み相場が1ドル=90円になると、1ドル払っても日本円に換算した場合日本円価格の100円には10円足りなくなるからその分ドルを多く支払わなければならなくなる。つまり、おなじ商品なのに円が強くなった分ドル価格が値上がりしてしまうんだ。

 日本の企業側からすればドル価格が上がったからと言って収入が増えるわけじゃない。日本円に両替すれば100円のままだ。価格が上がると買い控えるのはどこの国も変わらない。つまり円高が進めば輸出先での商品価格が上がるから売上が減少し、苦しまぎれに売上を維持しようと価格を据え置けば利益が減る。いずれにしても輸出企業は打撃を受けることになる。その代表とも言える大手自動車メーカーの場合、1円円高になるだけで200億〜400億円の利益が消えるという。ぼくの取引先にそんな大きな企業はないけど、銀行としては取引があるから他人事じゃない。

 他方で円高のメリットを受ける部分もある。円高が進めば海外での買い物が安くなる。おなじ1ドルの商品でもこの場合いままで100円で買っていたものが90円で買えてしまうことになるから、輸入品や海外で調達するものが多い場合仕入れ値や費用が安く済むのだ。円高になると日本人の海外旅行客が増えるのも、旅行の最大の目的であるブランド品が安く買えるからに他ならない。ここだけ見ると確かに円高にもメリットはある。特に海外で買い付けをして国内で販売する中小の並行輸入業者なんかはホクホクだ。旅行会社も海外旅行者が増える分メリットを受ける方かもしれない。

 しかしおなじ旅行業界でももっと国際的で規模も大きい航空会社の場合はちょっとややこしい。例の小料理屋で知り合った人がある航空会社の営業に勤めているらしいんだけど、飛行機は出発する便と到着する便の座席数がおなじだから円高になっても円安になっても影響が出ると話して聞かせてくれたことがある。確かに円高で観光に対する意欲が好転するから日本人の海外旅行客は増える。しかし逆に海外からの旅行客は減ることになる。それに輸出企業はある程度円高が進むと売上や利益が減るからどこも業務渡航費用、つまりビジネスマンの出張費を削減してくる。出張の回数自体が減ることももちろんあるんだけど、基本的にビジネスにはない割引運賃がエコノミーにはあるからランクを下げられるだけでかなり影響が大きいらしい。観光ツアー向けの代理店営業から法人営業に異動させられた途端立場が変わると彼はぼやいていた。全体的には観光に対する意欲向上で得られる増収の部分が収入構成では一番大きいし、ジェット機に使う燃油費が安く済むので円高はトータルで見れば若干プラスという感じらしい。おなじ会社の営業でも円高を歓迎する社員とそうじゃない社員がはっきり分かれるというのも珍しいケースかもしれない。

 もちろん為替の動向はあくまでも不安要素の一つでしかないからそれだけで企業の経営状態、収支が決まるわけじゃない。逆にぼくらが取引先の企業に望む理想は、多少の為替変動ではびくともしないような経営体質を持つ屈強な企業であるということだ。けれど現実にはそうカンタンに事は運ばない。

 丁度ぼくが就職試験を受けていた頃の一九八五年九月二十二日、この日がバブル誕生の日だ。ニューヨークのセントラルパーク前にある、映画なんかにもよく出てくるとっても素敵な古いホテル、プラザホテルで行われた先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議でのプラザ合意後にバブル経済は始まった。この合意で行き過ぎたドル高是正のために主要各国の為替レートが見直され、それを受けて急速に円高が進行していった。外国為替市場でも相場が大きく動くようになったから、この頃から投機目的の取引が活発に行われるようになっていった。

 日本では急速に円高が進行したことにより輸出が減少したため一旦国内景気は低迷した。しかし日銀が円高不況に対する懸念から低金利政策を継続する一方で日本企業は次第に円高メリットを享受するようになり国内景気は回復に転じた。円が強くなればみんなが円に群がる。ヤンキースよりも強い読売ジャイアンツのチケットみたいなもんだ。みんなが欲しいのに市場に円がないと景気上昇の勢いが消えてしまうから、低金利のまま市場にお金が流出した。我も我もと安い金利でお金を借りまくり、それが不動産市場や株式市場に大量に流れ込んだんだ。何もしなくても土地や株価が上がるから、持っているだけで資産の価値はどんどん高くなっていった。だから個人も企業も、お金はいくらでもあると思い込んだ。でもそれは本当の意味の収入ではなく、あくまでも資産価値の持つ含み益でしかない。それなのに調子に乗ってムダにお金を使いまくった。ところが膨らみ過ぎたバブルが弾けて資産価値が激減し、あったはずのお金がなくなってしまった。でもそれはあったはずなのではなく、あったと思いこんでいただけのことだ。これがバブルと言われる所以だ。バブルとはすなわち、市場原理そのものに他ならない。

—何もしなくてもどんどん増えてくじゃん

 と思いきやバブルが崩壊し、高かったはずの株券もゴルフの会員権も紙切れ同然になり、土地の値段も霜が降りるくらいに下がってしまった。持っている資産の価値がガラクタ同然になれば金持ちも一夜にして普通の人になる。突然の景気後退に誰もが泡を食い、ものが売れなくなり、そしてムダや借金だけが残った。

 ものが売れなくて収入が増えないなら費用を抑えるのも確かに重要なことだ。けれど商売をしている以上、どんなに厳しい状況下でも費用を越える収入、つまり利益を出していかなければならないことに変わりはない。バブル崩壊後、費用を削ることばかりに気を取られ、利益を増やすための努力を怠ってしまった企業は少なくない。そういう企業はみんな倒産していった。でもそれはバブル全盛期にも言えることだ。何もしなくても売れるから商品の開発などをおろそかにしていた企業もまた多い。数は少ないけれど、その頃バブルに溺れることなく地道に努力を続け、バブルで得た利益を無駄遣いせずに確実なカタチに変えて蓄えていった企業はしっかり生き残っていた。なんだか現代版「アリとキリギリス」って感じだ。溜まったツケが歪みに耐えきれなくなり、津波のように一気に日本経済を襲った。みんなが踊らされた結果受けた傷口は広く深いから、いまだになかなか脱出できないでいる。一般の企業や個人にとって投機目的の資産運用なんてのはあくまでも副業のひとつでしかない。いまだに電話でのそういう勧誘が後を絶たないみたいだけど、だいたいなんにもしなくてもどんどん資産価値が増えていきます、なぁんてオイシイ話があるわけないだろ?それだけで食っていこうと思うならそれなりのリスクを負わないとならない。いつ弾けるかわからない風船を夢中になって膨らます前に、本業をおろそかにしちゃいけないってことだ。

 サッカーに例えるなら、どんなに失点を少なく抑えても、それ以上に得点しなければ勝てないということになる。負けが続けば2部リーグに降格させられ、スポンサーも離れるから人気も収入も激減する。その結果いい選手を獲得できなくなり、さらにチームが弱体化していくという悪循環に陥る。生き残ることの厳しさは、基本的にスポーツも企業経営も変わらない。

 逆に派手に5失点しても6得点すれば勝ちは勝ち。

 これがバブル時代の発想だ。バブル経済が崩壊し、どの企業も得点力が極端にレベルダウンした。けれど失点は変わらない。そこで失点を減らすために行われた苦肉の策が構造改革、すなわちリストラだ。ヒトもモノもカネもムダな部分はすべて削り落とすことで費用を抑えるやり方だが、自分がムダだったなんてつもりはこれっぽっちもなかったのにあおりを受けて一緒くたに削られた方はたまったもんじゃない。

—キモチはわかるが、まあ落ち着いて落ち着いて

 わかった、ちょっと話を戻そう。

 とにかく、次第に赤字が膨らんでいくような経営を続ければぼくら銀行も融資がしにくくなる。貸しても返ってこない可能性が高くなるからだ。ぼくらにとって取引先企業の経営状態は、常に利益を出していてくれないと困る。

 これでいいかい?

—もちろんだ

 なんだかちょっとややこしくなっちゃったけど、本当はもっとややこしい。でも難しくなり過ぎて話に飽きられても困るし、ぼくはいまここで経済の話をしたいわけじゃないからこのくらいにしておかないといけない。まあ一応ぼくも銀行員の端くれで、普段こんなことを考えながら仕事してるんだって雰囲気が、なんとなくでもわかってもらえたらそれでいい。

—言っておくけど、ぼくは単にお人好しなだけじゃない

 ここで一番言いたかったのは、そこなんだ。

 

 東中野から新宿まで五分、そこで総武線から中央線の快速に乗り換えなければならない。ぼくはその記事の小見出しに続く詳細が気になって、目を凝らして読もうと試みたが途中で諦めた。その人が座っている席が離れ過ぎているからか、経済新聞の活字が他の新聞より小さいからか、とにかく字が細かくて読めなかったのだ。どのみち銀行で新聞は読めるし、社内のレポートを見ればもっと詳しいことがわかる。

 乗り換えに五分ほどかかるが乗ってしまえば東京駅まで十五分、通勤にはたった三十分しかかからない。ぼくは毎朝この三十分で一通り新聞に目を通してしまう。だからいつもは新聞の記事しか目に入っていないんだけど、今日はその新聞がないせいかなんだかやたらと周囲がよく見えた。逆に言えば普段いかに周囲に気を配っていないか、ということになる。

 運良くぼくは中央線快速乗車待ちの列の一番前に並べた。何気なくホームを見渡すと右の方から杖を持った若い男の人が歩いてくる。白線の後ろ側に設置された視覚障害者用の黄色い誘導ブロックの凹凸を杖で一所懸命探りながら歩いているのに、乗車待ちの人はその上に並んだまま動こうともしない。杖がそのうちの一人の足に触れる。読みかけのマンガ雑誌から顔を上げ訝しげな目で見返す大学生風の男。若者は杖を両手にきちんと持つと、

「すみません」

 と頭を下げた。その光景にちょっとムッと来た。

—なんでやねん

 え?なんで大阪弁かって?

 ぼくの父は長年東京の商社に勤めてけっこう頑張っていたんだけど、頑張りすぎて肝臓を患い入院してしまった。結局会社に戻った時に自分の居場所はなく、前述のリストラで選択定年を余儀なくされたクチだ。いまでは東京の家をぼくに明け渡し、博多にある母の実家の家業を手伝いながら自宅療養をしている。先を急ぐなという祖父の忠告どおりには生きられなかったわけだ。ぼくがいまいち仕事にのめり込めないのはそんな父親の姿を見ていたからなのかもしれない。企業戦士もスポーツ選手も、会社のために、チームのためにムリをして身体を壊したらそれでお払い箱だ。

 そんなわけで寂しいことにいまはもう東京に実家はないが、ぼくは東京生まれの東京育ち。だからちゃんとした大阪弁は話せない。けれど大阪支店に勤務していた頃に大阪人には相当ゴネられた。だからなのか、イライラしてくるとなぜか中途半端な大阪弁がしゃしゃり出てくる。

 ぼくは見かねて乗車待ちの列を離れるとそこまで歩いて行き、

「あんたらちょっとここ空けといてや」

 と大きめの声で一発かましてやった。こういう時大阪弁は絶大な威力を発揮する。視線が一気にぼくに集まり、あっという間に黄色の道が開けた。

「どっ、どうもありがとうございます」

 そう言って頭を下げる彼は明らかに狼狽していた。ぼくの姿が見えない彼がどんな人を想像したか考えてみたら、ムリもない。

—ちょっとやり過ぎたかぁ

 何をするにも加減ってものがある。反省。

「気ぃつけてくださいねぇ」

 ぼくは努めて優しく付け足したつもりだったが、なんだか妙な大阪弁になってしまった。

—男の人の優しい大阪弁なんて、知らないし

 ぼくは心の中でそう呟きながら、どう見ても足早に去っていく彼の背中を見送った。

 ほんまもんの大阪人ならそのまま元いた最前列に当然のごとく戻るんだろうけど、そこは東京人、さすがにそこまで強気になれない。ぼくは仕方なく最後尾に並び直した。

—あー、痛いなぁその目

 それでもまだ視線を感じる。ぼくはさっきまでの勢いが嘘のように俯いてしまう。こういう時、なぜか人の心は羞恥心に満たされる。良いことをしたにも関わらずなぜこんな居心地の悪い気分になるんだろう。三十年近く生きて来たけど、これだけはいまだによくわからない。学校で教わることと現実の社会で起きることが必ずしも一致しないパターンの典型だ。それはおそらく、善意の人を偽者と疑うオトナの色めがねが窮屈にしているからに違いない。でも学校では「偽善者」と「善者」の見分け方なんて教えてくれなかった。世間とは、当たり前のことを一つするのにもいちいち勇気が要る場所になってしまったのだ。

 アナウンスがホームに響く。

—もうすぐ電車が来る、あとちょっとの辛抱だ

 ドアが開いて列が解け、人波に呑み込まれればもう誰が誰だかわからなくなる。その一分後にはみんなぼくのことなんか忘れてしまうはずだ。東京の浄化作用は旅客機についているあのうるさいバキューム式トイレよりも強い。

 すると、ひょいと前から手が伸びてきてぼくの肩をチョンチョンと叩いた。顔を上げると並んでいる人の何人かがぼくを見て前の方を指さしている。ぼくは頭をきながら元いた場所に移動した。

—東京もまだまだ捨てたもんじゃない

 ぼくはまたちょっと嬉しくなった。


 東京駅を降りて歩いて五分、ぼくは戦艦のような細長いカタチをした銀行の通用口をくぐる。そこはちょうど船尾の部分に当たるんだけど、本当に池があってスクリューのような羽根が回っているんだ。ちょっと変わってるでしょ?

 実は銀行にもいろいろと種類があって、当時ぼくの勤めていた銀行はその意味で通常みんなが銀行と呼んでいる都銀とはちょっと毛色の違う銀行だった。とはいえ、どの銀行もお金で商売をする企業であることに変わりはない。間に商品というモノがないだけによくわかりにくい商売だけど、要するにあちこちから集めてきたお金を誰かに貸すことで得られる利息や、その他の方法で運用して得た利益で成り立っている。

—その他の方法?

 勘のいい人はここまでちゃんと読んでくれていればもうわかるかもしれない。そうじゃない人はこの微妙な言いまわしが気になるかもしれないけど、直にわかるからちょっと待っていて欲しい。

 通用口を入って一番手前にあるエレベーターに乗り、五階で降りて廊下を右に進んでいく。このビルでは五基のエレベーターがすべて廊下の真ん中に配置されてあり、それを挟んで船首に向かって右側はだいたい応接室や会議室になっていて、左側に各部のオフィスがずらっと並んでいる。だから右側と左側では静けさがまるで違うんだ。打合せに来るお客様がごちゃごちゃした銀行の台所をなるべく見ないで済むように配慮されている。特に営業の場合ひとの出入りが多いから、これは信用第一の銀行にとってイメージをよく見せるための重要なポイントでもある。

 営業部は営業第一部から始まってすべて番号がついている。ちなみにどの部も貸出残高は数千億だ。全部で十以上もあるから当然ワンフロアで足りるわけがなく、四階と五階に別けられている。

 一階の正面玄関を入った真ん前にある中央のエレベーターはお客様専用になっていて行員は使えない。ぼくのデスクがある場所はちょうど五階のその辺りにある。いつも通りの歩数で自分の営業部までたどりつき、開けっ放しになったドアをくぐる。

「おはようございます」

 ぼくはよく噂のネタにはなるが、別に銀行の仲間と仲が悪いわけじゃない。

「よ、めずらしく今日は遅いお出ましだな」

 ぼくの上司はディーラー上がりで有名な人らしい。ディーラーとは外国為替取引をする人のことで、銀行員にとっては花形職種だ。だから彼がめちゃくちゃ頭が切れるのも納得がいく。噂だと入社してすぐいまの国際資金部、略称国資コクシの前身である外国資金部に配属になり、しばらくずっとディーリングルームにいたらしい。ちなみにディーリングルームとはその外国為替取引をする大きな部屋のことだ。

 その後銀行に入社したのに数字しか見たことがなく、お金を貸したことはおろかお札を数えたこともない自分に疑問を感じ、上司に掛け合って営業に来たという珍しいパターンだ。その後も営業と国資コクシを行ったり来たり。で、四十代ちょっとでもう次長だ。厳しいけど、自分にも厳しいし、ひとりひとりよく面倒を見てくれる上司だったので人望も厚かった。それに銀行員と言えば当時ドブネズミルックとか言われてた紺かグレーの地味なスーツのイメージが強いけど、うちの銀行にはなぜかおしゃれな人も多い。課長の身長はそれほど高くないけど、いつも仕立ての良さそうなスーツをさりげなく着ているのがかっこよくて、密かに憧れであったりもした。

「サッカーのせいで寝坊しました」

 なぜか彼の前に立つと姿勢もしゃべりも急にシャキっとする。

「みんなおなじだよ。泊まり込みで観戦してた連中は目がウサギだ。祝杯がやけ酒になったらしくて朝から酒臭くて」

—ホントだ、不細工なウサギたち

「ディーラーっていうのもあんな感じなんすか?」

「たまにな、相場に面倒な動きがあると帰れなくなったりする」

「銀行に泊まり込みじゃゆっくり休めませんね」

「それがそうでもないんだよ」

「え?そうなんすか?」

 意外な答えだった。

「このビルって戦艦みたいなカタチをしてるけど、必要なものがなんでも揃ってるだろ。ミサイルとか爆弾とか、レーダーとかさ」

 彼は笑いながらそう言った。ぼくは出来は悪いけど、けっこうかわいがってもらってる。

「そりゃそうですけど」

「それに何かあるとすぐ誰かに起こしてもらえるからかえって銀行の方が熟睡できる。家にも一応モニターとかはあるけど何かと不便だからな。真夜中にモニター見てて慌てて嫁さんに車で送ってもらうってのもなんだろ?」

「そんなもんなんすね」

「なんだい、おまえディーラー志望だっけ?」

「いやいやいやいや、別にそこまでじゃないんですけど、今朝の相場の乱れに関する記事を新聞でみたばかりなので、なんとなく。ディーラーなんてぼくにはちょっとムリです」

「なんで?」

「アタマの回転も速い方じゃないし、あんまり勉強もしてないので」

「そうかな?ありゃ回転が速きゃいいってもんじゃないし、そういうタイプは結構先走って失敗することもあるからな。むしろじっくり考えてから行動に移すタイプの方が向いてる所もあるんだけど、まあいずれにしてもあまりお勧めはしないな」

「やっぱりそんなにタイヘンなんですか?」

「ほとんど儲からない」

「ええ?そうなんですか?」

「これまでおれは先輩も後輩も含めて何百人という数のディーラーを見てきただろ?部下として仕えたり、上司として育てたりしてきたけど、任期中のトータルで言えばまず七割は損するな。で、なんとか大過なくその赴任期間を過ごせる人が二割くらい。すんごい勉強して努力して儲かるヤツはせいぜい一割だ。向いてない人が来るとかわいそうになる。精神的に弱い人は心がやられちまったり、たった一週間負けが続いただけで白髪になっちゃった人も知ってるよ。海外では首つっちまった人も出たくらいだ」

「そういう人たちはみんな辞めちゃうんですか?」

「辞めちゃう人もいるけど、ほとんどが配置転換だよ。なにもディーラーに向いてないからってその人の能力がないということにはならないだろ?営業やらせたらピカイチだってヤツもいるしな。逆にディーラーで出来ても営業行ったらさっぱりダメってヤツもいるだろうし、そこは適材適所に戻すってことになるさ」

「そんなもん、なんですね」

 ぼくはちょっと現実の厳しさを垣間見た気がした。

「なんだい、もっと儲かると思ったか?」

 答えに詰まるぼくを見て彼はまた笑う。

「空調のよく効いた部屋で机の前に座って電話でやりとりしてるだけで儲かるなら、世の中みんな大金持ちだろが」

「確かに」

「それにそこだけ聞いてるとなんだかとんでもない場所のように思えるかもしれんが、営業だって大変だろ?調査だって人事だってみんなそれなりに大変なんだよ。その苦労も面白さもやった者にしかわからない。やる、と、見るでは大違いだ」

 返す言葉が見つからなかった。ぼくは何もわかっちゃいない。レベルが違い過ぎる。

「まだ結婚はしないの?」

 突然話題が変わる。

「い、いえ、当分独身だと思います」

「ちゃんと遊んでるか?」

「いえ」

「情けねぇなぁ、みてくればっかで」

「はい」

「入行してどのくらい経つ?営業長いんだっけ?」

「八年目です。日本橋で二年、大阪で二年、ここに来て三年半。日本橋では債券預金でしたから、営業は大阪からです。ですから五年半になります」

「ふむ」

 そう言うと彼は腕を組み床をじっと見つめた。それから組んだ腕の片方だけ外して顎を触る。爪先で床にぐるぐる円を描いてからおもむろに口を開く。考え事をする時のこの人の癖だ。

「そうか、ならいまのうちに一度くらいやっておいてもいいかもしれんな」

 またにこっ、と笑う。

「またまたご冗談を、まだしばらくはここでいいです」

「何言ってんだよ、決めるのはぼくらじゃない。御上だよ」

 彼はぼくの肩を一つ叩いて耳元で囁く。

「いまのうちに遊んどけよ。じゃなきゃさっさと嫁さんもらっとけ」

 彼はそう言い残すと笑い声を響かせて自分のデスクに戻った。

—なんか気になるなぁ、いまの意味深な発言

 サラリーマンにとって最も気になるのは、いつだって異動と昇進の話だ。ほとんどの場合、ただの考え過ぎなのだが。


 その日は朝の次長の一言が気にかかり、時計の修理のこともあったからあまり仕事が手につかなかった。定時になるとぼくはそそくさと書類をまとめ鞄に詰めて席を立った。

「すみません、ちょっと体調が悪いのでお先に失礼します」

 またあれこれ詮索されるのがイヤで口からでまかせを言った。いつもよりずっと早く帰るぼくをみんなはきょとんとした顔で見ていたが、ぼくはそのまま蜘蛛の巣をぶっちぎるような勢いでオフィスを横切り、廊下に出るとエレベーターに駆け込んだ。一階でタイムカードを押し銀行を飛び出す。

 満員の電車を乗り換え、東中野で降りると脇目も振らずあの古時計屋に向かって歩いて行った。店が近づいてくる。しかしどこか様子がおかしい。

—ええっ!

 あの店は確かに存在した。しかしこともあろうかお通夜の真っ最中だったのだ。

—いったい誰のお通夜だ?

 中に入ろうかどうかぼくは一瞬躊躇した。なにせ店のオヤジと一回あっただけだ。けれどこれも何かの縁だと思った。時計の修理は後日また来ればいい。一応スーツも着てるし、とりあえずお焼香だけでもと弔問客の列に並んだ。見覚えのある顔がちらほら、その中には例のおばあちゃんもお嫁さんと一緒にいたし、小料理屋の女将さんもなんだか忙しそうに動き回っていた。確かにご近所だから当たり前と言えば当たり前なんだけど、大手企業の名義で出された立派な花輪や供花がたくさん並んでるし、弔問客の数もやけに多い。ただの古時計屋のお通夜にしてはどう見ても大がかりだ。息子さんでも亡くなったんだろうか?きっと立派な人だったに違いない。

 こんな時になんだが、ぼくはお香が苦手だ。アレルギーなのか、途中くしゃみが出そうになって堪えるのが大変だった。3度目のくしゃみを呑み込んでようやくぼくの番がめぐって来た頃には、なんだかいい感じに涙目になっていた。近くにいる人には故人と旧知の仲に見えたに違いない。ぼくは型どおり遺族に頭を下げる。その時彼女と視線があった。

「あああーっ」

 どちらが先に叫んだのかはわからない。ぼくはすっかり気が動転して、

—一礼して→二回焼香して→合掌

 だなんて暢気のんきに手順を考えていたんだけど、何がなんだかわからなくなった。そしてその時になって初めて気づいた。今度はもっと大きな衝撃がぼくを襲った。

 見覚えのある不敵な笑いを浮かべた遺影、

 そうだ、亡くなったのはまぎれもなくあのオヤジだったのだ。

—おい、オヤジ、じゃあこの時計は誰が修理するんだよ

—ギザ十の利息も元本も貰ってないじゃんか

 もうしばらくそこにいたい気もしたが、後ろで待っている人の手前そうもいかない。ぼくはもう一度遺族に一礼するとお焼香を済ませた弔問客の流れに沿ってそのまますぐに店の外に出た。

 ひそひそ話が聞こえてきた。

「かわいそうにね。おじいちゃんと二人きりだったからね」

「この先どうするのかしら?あの子」

 ぼくは足を止め、その声に耳を傾けた。遺族の席には何人か座っていたが、確かに彼女が喪主っていうのも不自然に思えた。

—どんな事情があるんだろう?

 そんなことを考えていたら、耳元でいきなり言われたんだ。

「ちょっと、なんで来たのよ!」

 振り向くと喪服の彼女がぼくを睨んでいた。孫娘とはいえ血は争えないらしい。迫力満点だ。

「いや、時計の調子が悪かったから見てもらおうと思って寄ったら、まさかこんなことに、なってたんです」

 ずっと年下の女の子を相手にしどろもどろのぼく。

「いい?事情は後で話すけど、とにかくいまはここにいちゃダメ」

「なんでだよ」

「その時計、欲しがってた人が何人かここに来てるのよ。一昨日も来てたんだけどおじいちゃんが売らなかったの」

「どういうこと?」

「下手したら強盗殺人犯にされちゃうよ」

—ゴウトウサツジンハン?

「なんだそれ?」

 その響きが、なんだか中華料理のメニューのように聴こえた。

「だから詳しいことは後で話すって。連絡先教えて」

 今の時代なら、こういう時はラインか携帯のメールアドレスでも教えるんだろう。当時の携帯には既にポケベル宛にメッセージを送る機能があったんだけど、利用している人を見たことはなかった。ショートメールサービスが開始されたのはずっと後の九七年だ。なんでも携帯電話会社にしてみればイチオシの機能だったらしい。でもあの頃は誰に聞いても「携帯のメールなんて誰も使わないよ」と鼻で笑っていたんだから世の変わり様は恐ろしい。その後九九年に開始されたiモードサービスで携帯メールは爆発的に普及することになる。そこから先のことはみんなもよく知っているだろう。この二十年間で携帯電話関連企業の技術革新と普及へ向けた営業努力は見事に結実したってわけだ。でも、同時に彼らは日本人の生活も文化も価値観も大きく変えてしまった。いまや携帯電話という道具に日常を支配されている若者が街に溢れている。

 ぼくはポケットから名刺入れを取り出し、自分の名刺に携帯の電話番号を書いて渡した。なんだか彼女に押されっぱなしのままだ。

—この子と結婚したら、絶対に亭主関白はあり得ない

 こんな時に何を不謹慎なと怒られそうだが、そんなことを考えられるくらい悲壮感の感じられないお通夜だった。主が亡くなったのは確かに残念なことなんだけど、なんだかぼくにはまだ生きてるんじゃないかと思えたのだ。一度しか会ったことがないからだと言われてしまえばそれまでのことだけど、とにかくそこら辺の物陰からニヤニヤしながら見てるような、そんな気配を感じていた。

「おうちにいてね。落ち着いたら後で必ずいくから。それまで誰が来ても絶対に玄関開けちゃダメよ」

「わかったよ」

「わたし、いかなくちゃ。ごめんなさい。じゃ、後で」

 彼女は小走りに戻っていった。途中で一度思い出したように振り返り、それから初めてにっこり笑った。

「コンタクト、ありがとう」

 そう言って小さく手を振ると彼女は再び店の中に吸い込まれていった。何がなんだかよくわからなかったが、少なくとも彼女は好意的な感じがした。ぼくはちょっとホッとした。

—それに和服姿も悪くない

 そう思った。

 風に漂う彼女の残り香が鼻をくすぐった。

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