第2話 レトロノーム

—あれ、零時十分?んなわけないでしょ

 おばあちゃんを家まで送り届けた帰り道、ぼくは自分の腕時計が止まっていることに気がついた。

—最後に時計見たのいつだっけ?

 店を出てから三十分は楽勝で過ぎているはずだ。記憶の海を照らし出すサーチライトのように、暗闇で無闇に泳ぐぼくの視線。その先にイマドキ珍しいオイルランプの灯りが浮かびあがった。古めかしい窓枠の中を柔らかいオレンジ色で満たしていて、その奥で何かがゆっくりと揺れ続けている。

—あれ?どっかで見たことあるこの光景

 突然デジャヴの波に飲み込まれそうになり、思考が空回りする。ぼくはそれがなんなのかを確かめようとその場所に近づいて行った。

—柱時計かぁ、懐かしいなあ

 それは子供の頃、夏休みになると遊びに行った福岡の祖父の家にあったような、古くて大きな柱時計の振り子だった。祖父は毎朝決まった時間に椅子に上ってはその柱時計のふたを開き、文字盤の上に空いた穴に鍵のようなものを差し込んでは丁寧にゼンマイを巻き上げ、最後に指でちょいと針を戻すのだ。それはぼくたち孫連中にとって一つの儀式のようなもので、いつもあんぐりと口を開けたまま黙ってそれを見上げていたものだ。

「じいちゃん、なんでいつも針を戻すの?」

 ある時そう尋ねたことがある。

「ふむ、先ば急いじゃいかんちゅうとうと」

 いま思えばあの時計は一日何分か進む時計だったんだろうと思う。でもぼくの大好きだった祖父はそう答えた。だからというわけじゃないけど、ぼくはゆっくりと生きて来たつもりだ。でも、ただゆっくり生きればいいってもんでもないような気もする。特に近頃。

—アンティークショップ?

 看板は出ていない。時折近くを結構なスピードで車が駆け抜ける。すぐそこは山手通りだ。こんなところにこんな店があったなんてまったく知らなかった。

 ぼくは無意識のうちに店のドアに手をかける。

—開いてる?こんな時間に?

 恐る恐るドアを開けるとあの柱時計の文字盤が目に入ってきた。やはり零時十分を指している。すべてがあり得ない状況だった。なんとなく何が起きてもおかしくないような気がした。けれどなぜか違和感はない。代わりに、さっき不意に包まれた既視感デジャヴのような空気が開けたドアの隙間から流れ出て来た。

「こんばんは」

 返事はない。ぼくは吸い込まれるように店の中に入る。

「うわぁ」

 ぼくは思わず声を漏らしていた。そんなに大きな店ではなかったが、大きいものから腕時計まですごい数の時計が並んでいたからだ。そのどれもが微かな音を立てている。けれどおなじ音は一つとしてない、そんな気がした。まるで生きているようだ、とも思った。一個一個の音は微妙にずれているんだけど、それが絶妙な間で調和して柔らかく包み込んでくれるようなこの不思議な空気を醸し出している。きっとこの空間に存在する音のしないクォーツ時計は一つ、ぼくの左腕で針を止めたこの時計だけに違いない。

「これが古時計屋かぁ」

 ぼくはついさっきどこかで耳にした声のその部分だけを思い出していた。


 中は思ったより暖かった。時計以外のものもそれを収納しているショーケースもみんな年代物らしく、外からは目立たないけど店内はなかなか雰囲気のある店だ。ぼくはそのまま陳列されている腕時計を見て回った。

—ブロバ?聞いたことないなぁ

—名前も変わってるけどこりゃまた妙なデザインだ

 いかにも古そうな腕時計、カラフルな配色で針がちょっとへんなカタチをした腕時計、どれもこれもきっとレアものなんだろうけど、時計にあまり関心のなかったぼくには聞き慣れないブランドばかりだった。ぼくが知っていたのはロレックスとオメガだけだ。けれどそれもみんな結構な年代物で、使い込まれた風合いが静かにその存在を主張しているかのようにも見えた。腕時計というものが見るだけでこんなに楽しめるものだとは思いもしなかった。数にしたら優に二百本はあっただろう。けれどその中でぼくが目を留めたのはロレックスでもオメガでもない、これまた聞いたことのないようなものだった。

 たくさんの年代物の腕時計が並ぶ中、ぼくはショーケースの一番端に控え目に置かれている、たった一つだけ値段のついていない腕時計に吸い寄せられるように近づいて行った。他の腕時計はどれも値札を見る限りとてもぼくの手には届きそうにないものだ。だからってこともあったんだろうけど、そのシンプルな革バンドのアーリーアメリカンな雰囲気テイストがぼくを呼んでいるような気がしたのも確かだ。

「なんかこれいいなぁ」

 ぼくはそう呟きながらショーケースの硝子に顔を張り付けるようにしてその腕時計に見入っていた。

坊主ぼうず、なんか気に入ったのがあるか?」

「うわっ」

 いきなり声をかけられて思わずぴょんと跳ね上がってしまった。背中から来られると尻もちもつけない。バランスを崩したぼくはもつれる足を解くようにして振り返った。今日はよく後ろから声をかけられる日だ。ぼくはいつからこんなに無防備になったんだろうか?

「びっくりするじゃないですか!」

 とは言ったものの、ぼくはそのままフリーズしてしまった。

 そこには腕を組んだ店のあるじおぼしき老齢の男性が立っていた。口をへの字に曲げたその顔はひと癖もふた癖もありそうな頑固親父といった空気をまとっている。七十代半ばだとは思うけど、敢えて年齢不詳と言った方が正しいのかもしれない。細面でぼくより背はずっと低いのに圧倒的な存在感があった。なんとも言えない力強い眼光がセルフレームの眼鏡の奥から覗いている。

—このオヤジ、ただもんじゃない

 直感的にそう思った途端、身体が動かなくなった。だいたい怪しいのはこっちの方だ。

「すみません、こんな時間に。まさか営業中だとは思わなかったので、ちょうど目の前に時計屋さんがあったから…そしたら腕時計が壊れちゃったみたいで、」

—それじゃあ順番無茶苦茶だろが

 自分でも呆れるくらい動揺していた。しどろもどろで意味不明ないいわけになってしまう。でもあるじにとってはそんなことどうでもいいみたいだった。

「で、どれが気に入った」

 その空気にすっかり呑み込まれてしまったぼくはゆっくりと振り返り、言われた通りショーケースの中の腕時計を指さした。

「そいつはハミルトンとイリノイのダブルネームと言ってな、二つの時計屋の名前が刻まれとるだろ?。滅多なことじゃお目にかかれない代物だ」

 ゆっくりとした主のしゃべり声が天井の高い空間に残響する。説得力が違った。ぼくにはその意味がさっぱり理解できなかったが、なんとなくわかったような気になった。

「ダブルネームかぁ、よくわかんないけど」

「坊主、なかなかいいセンスしてるじゃないか。だがな、そいつは手巻きだ。おまえさんのそのポンコツと違って面倒くさいぞ」

 低い声でそう言うと眼鏡の奥の目が細くなり、主の表情が微かにゆるんだ。ぼくも思わず笑った。なんでって?

—だって、ポンコツって、今時言わないでしょ?

 なんだかその声と言葉のアンバランスさが微妙に可笑しかった。

 ぼくが笑う。

 主も笑う。

 ぼくらの笑い声が響きあう。

 一見気難しくてめちゃめちゃ偉そうな人なのに、笑うと優しい顔に変わった。ぼくはそれを見て少し胸をなで下ろして、それから何気にもう一度ショーケースを覗いたんだけど、その時奇妙なことに気がついたんだ。

 硝子には店内の光景が映り込んでいる。当然ながらぼくの肩越しに主の姿も映っているんだけど、その姿が見えたり見えなかったりするんだ。普通なら背筋に悪寒が走る場面なんだけど、この空間ではそんなこといくらでもありそうに思えて全然気にならなかった。それより主の匂いというか、そのかもし出す空気にどことなく懐かしさを憶えて逆に居心地がよくなってきたくらいだ。なんだか幼い頃の自分に戻ったような気分だった。

「これ、いくらですか?」

 ぼくは主の笑顔に気を許し、思いきって聞いてみた。するとどうだい。ふっと笑顔が消えてあっという間に口もとがへの字に戻ってしまったのだ。

「見りゃわかるだろう」

 あっさりと言い放たれる。やっぱりただ者じゃない。油断大敵だ。

「だってこれだけ値段ついてないじゃないすか」

 ぼくは唇の先をとがらせていたように思う。

「値段がついてないということがどういうことだかわかるか?坊主」

 意味がよくわからなかった。それに、その坊主ってのがいちいち気に障る。ぼくはこれでも間もなく三十路だ。でも主はそんなことまるでおかまいなしという様子で、答えに詰まるぼくを見ながらニヤリと笑う。

「つまりな、売る気がないということだ」

 まるでぼくをからかって遊んでいるようだった。でも意地が悪いという風でもない。

「ってことは商品じゃないものをショーケースに置いてるってことですか?」

 ぼくはちょっと抵抗してみた。

「いや、基本的にそいつは商品だ。だが誰にでも売るつもりがあるというわけではない。そういうことだ」

 そう言われると意地でもその腕時計が欲しくなってくる。それが人情ってもんだ。主はそれをわかって言っているようにも思えた。まさに百戦錬磨の商人あきんどって感じだ。看板に頼って仕事をしているような青臭い営業マンに太刀打ちできるわけがない。

「それでこれ、実際は幾らくらいの物なんですか?」

 それでももう一度ダメもとで食い下がる。

「古時計なんてもんは売り手の言い値で決まる。おれが百万と言えば百万、十万と言えば十万、そんなもんだ」

—ダメだ、とてもじゃないがかなわない

 ぼくは黙ったままもう一度その腕時計を振り返った。手巻きだけどパワーセーバー付きだ。それがなんなのかよくわからなかったが、肝心な値段の部分が空欄になったままの値札の上にそう書いてある。

 ぼくは一旦、値段から話題を逸らすことにした。縦の攻めが通じないなら横に揺さぶりをかける。試合運びの定石だ。

「パワーセーバーって、なんですか?」

「…」

—もしかして英語に弱い?思ったより効果的だったかも

 してやったりだ。思わずぼくもニヤリと笑う。 

「まあ、簡単に言えば、うむ、パワーをセーブするってことだ」

—そのまんまじゃんかよ、オヤジ

 唖然とした。おおよそ雰囲気に似つかわしくない冗談だ。ぼくが呆れて何も言えないでいるのに気がついたのか、主は少し慌てて付け足した。どんなベテランも隙をつけばミスはする。

「しっかりと巻き上げれば結構持つってことだ」

—なるほどそれならわかりやすいや

 そいつはそれ以外どうってことのない腕時計だったけど、とにかくシンプルなのがよかった。ぼくのクォーツ時計には色んな機能がついていたけど、どれも使った試しがない。

「いいなぁ」

 思わずそう呟いていた。

「そんなに欲しいか?坊主」

 その一言に振り返り、黙って頷いた。主の顔に笑顔が戻る。

「そうか。なら、いくらで買うか?」

 今度は逆に奇襲攻撃をかけられる。ますます面食らった。

「明日銀行に行けば二〜三十万は貯金があったはずなんすけど」

「いい古時計はな、あっという間に売れちまうもんだ。こんな店に来る客はみんなたいした時計好きだからすぐ目をつける。つまりな、見つけた時が買い時ってことだ」

—そうか、この人はこの会話ゲームを楽しんでるんだ

 ようやくぼくはそのことに気がついた。

—よし、受けて立ってやろうじゃないか

 弱腰だった自分に気合いを入れ、態勢の立て直しにかかる。

「クレジットカードなんて、使えません?」

「掛け売りはせん」

 そう来るだろうな、とは思った。こうなったら若さ故の勢いしかない。

—一発勝負だ

 ぼくが突然懐に手を入れると、主は一瞬ひるんだ。

 沈黙が流れる。

 ぼくはそのままポケットから財布を取り出し、たった一枚の1万円札を抜き出してそばのテーブルの上に置いた。さらにポケットから一円玉四枚と五円玉二枚を引っ張り出してその横に並べる。情けないかな、どう数えても一万飛び飛び十四円だ。

—さすがにこれじゃあムリだよなぁ

 そう思ったがいまさら引っ込みがつかない。ぼくは主に向かって開き直った。

「すいません、いまのぼくのあり金全部です。あと百二十円あったんですけど、さっきあげちゃいました」

「なんだそれだけかぁ、情けないなぁ」

 図星をつかれてがっくり来た。まぁ言われても仕方ない。

「あっ!」

 ぼくは突然思い出してスーツの胸ポケットに手を突っ込んだ。けれど思ったより深くて指が届かない。

「なんだ、まだあるのか?」

 ぼくは慌てて上着を脱ぐと逆さにしてバサバサと振ってみた。

「おばあちゃんにもらったお小遣い」

—チャリーン 

 時計が刻むアダージョのリズムにあわせて三連符が跳ねるように、硬い音を響かせてテーブルの上にバウンドしたギザ十がクルクル踊り始める。

—バンッ!

 ぼくはその上に勢いよく手を乗せてそのまま主の方に滑らせる。

「ぼくのラッキーコインです」

 そのままそっと手を離す。

「ん?」

 主はそれをつまみ上げるとしげしげと見つめた。単なる洒落しゃれのつもりだったんだけど、その反応は意外なものだった。

「ほう、昭和三十年のギザ十か、珍しいな」

「え?」

「こいつもそうそうお目にかかれるもんじゃないぞ。珍品だ」

「ええっ、ひょっとしてすごく高かったりするんですか?」

「まあな」

「やった。で、いくらくらい?」

「古銭のこたぁ詳しくはわからんが、まぁ二〜三百円はするかな?」

「なんだ」

 ちょっとばかし期待したんだけど、よく考えてみれば十円は十円だ。しかも新品ならまだしも、使い古されてすっかり角が取れてしまっているのだ。タバスコで磨けばピカピカにはなるかもしれないけど、やはり時代にまれた跡までは隠せない。値が付いたってたかが知れてる。目の玉が飛び出るようなお宝ならとっくに古銭商の店先にでも並んでいるはずだ。

「こいつを」

「え?」 

「さっき角のばあさんがくれたのか?」

「くれたっていうか、さっきって、え?見てたんすか?」

 主はにっこりするだけでそれには何も答えなかった。それから思い出したようにあの柱時計に目をやった。

—あれ?

 その時ぼくは気がついた。時計屋の主の腕に腕時計がない。

「よし、売ってやろう。これは釣りだ」

 そう言うと主はテーブルの上に置かれた一万飛び飛び十四円をぼくに戻してよこした。ますます意味がわからなかった。ぼくは返す言葉もなく呆然と立ち尽くしていた。

「ほら、阿呆面あほづらしてないでさっさとそいつをもってこんかい。棚の鍵は開いている。ああ、そのインチキ時計はここに置いていけ」

 そう言うと主はぼくに背を向け、いろんな道具が雑然と並ぶ作業机の方に歩いて行った。


 ショーケースから取り出して来た腕時計を手渡すと、主は手慣れた手つきでルーペを目に当てその外観をチェックし始めた。ぼくは自分の腕時計を外してそっと机の上に置いた。

「さっきも言ったが、こいつは手巻きだ。巻く時はきっちり最後まで巻き上げてやる。中途半端に巻いていると機嫌が悪くなるからな」

「はい」

「ついでにな、心を込めて巻いてやるとこいつはゆとりを与えてくれる。そのゆとりを感じることを忘れちゃいかん。覚えておけよ」

「はい」

 その時は正直なところ随分と大袈裟な、と思った。が、その道のプロが言うことだ。一応素直に返事をしておいた。

「いいか坊主、おれはな、この時計を十円で売ったわけじゃない」

「え?あ、はい」

「おまえさんの人生と引き替えにこの時計を売ったんだ、わかるか?」

「それって、どういう意味ですか?」

 思わずぼくは確認した。これでも一応銀行員だ。ただより高いものはない、後で厄介なことになったら面倒だ。

「大丈夫、心配するな、そういう意味じゃない」

「はい?」

—ぼくはそんなにわかりやすい男なんだろうか?

「そうだ」

「え?」

「まあ出世払いのようなもんだ」

 ぼくが呆気にとられている間に主は裏蓋を外し、ピンセットと細いネジ回しを手に中身をチェックし始めた。なんだか名残を惜しんでいるようにも見えた。

「ほら、見てみろ」

 主がルーペを差し出した。ぼくはそれを受け取ると主のように目に当て、ムーブメントのむき出しになった腕時計の内側を覗いてみた。初めはなかなか焦点が合わずに目がクラクラしたが直に慣れた。そこにはこれまで見たことのないような光景があった。主がいつからか見つめ続けて来たミクロの世界だ。

—すごいや

 そう思った瞬間、ぼくの中を何かが駆け抜けた。

「どうだ?」

 主が耳元で囁く。

「これ、人間が作ったんすか?」

「そうだ」

 ぼくは漠然と手術で開かれた肋骨の内側で力強く刻む心臓をイメージしていた。

「生きてるみたいだろ?」

 なんだか無邪気な声だった。ぼくはそのまま主の顔を見た。ルーペを通したぼくの視界に、得意気な主の素顔がまあるく広がった。拡大されてなんだか間が抜けた顔に見えた。主の体温ぬくもりが伝わって来た。

「ちょっと、顔近づけ過ぎです」

 この人はきっと苦労を知り抜いた上で幸せな人生を手に入れたに違いない。その時ぼくは確信した。

「設定はマイナスにしておいた」

「マイナス?」

「初心者向けということだ」

 そう言うと主はまたニヤリと微笑んだ。意味がよくわからなかったが、それ以上訊いても答えてくれそうになかった。慣れた手つきで裏蓋のネジを締めると受話器を取り上げ首と肩の間に挟んで117にダイヤルをする。針をあわせた後受話器を戻し、満足そうに腕時計を磨いている横顔に今度はこう尋ねてみる。

「あのぉ」

「なんだ」

「それじゃあその十円は?」

 帳尻が合わないと気になるのが銀行員のさがだ。例え十円でも見逃すわけにはいかない。主は座ったままぼくを見上げた。満面の笑みがこぼれる。

「坊主とおれの記念のシルシだ。別に頂戴ちょうだいしたわけじゃない」

 そう言うと壁の棚に視線を投げた。

「え?」

 そこには金魚のカタチをしたガラスの貯金箱が置いてあって、中にたくさんのギザ十が詰まっていた。案外かわいいところもある。しかし答にはなっていない。

「預かる以上はいずれ返す。たんまり利息を付けてな」

「なんだか怪しいなぁ」 

「何もかもそのうちわかる。苦労はするかもしれんが、後悔はさせん。これは男の約束だ」

 そう言って立ち上がると、ぼくの左腕にその腕時計をはめてくれた。腕時計とぼくの顔を交互に見る主はどこか誇らしげだった。

「さあ、そろそろ店仕舞いの時間だ」

 ポンポン、と手を叩くと主はまた椅子に腰掛ける。

 そして深い溜め息を、ひとつ。

 なんだか急に老け込んだように見えた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だ大丈夫だ、心配要らん。これでもうやることは終わりだ」

「あの、家の人は?呼びましょうか?」

「二階で休んどる。それより明日も仕事だろ?」

「はい」

「ならさっさと帰って寝ろ。おれはこのまま失礼する」

 主はそう言うと腕を組んで目を閉じようとした。

「ちょっとおやじさん、こんなとこで寝ちゃダメですよ」

 すると再びぼくを見上げて笑いながら言った。

「そうだ、おれは親父のようなもんだ。心しておけ」

 さっきから言っていることがまるで意味不明だ。なんて返事をすればいいのかさっぱりわからない。

「わかったか?」

 なんだか優し気なんだけど、有無を言わせないような厳しさを感じさせる眼だった。

「はい」

「よし、さっさと行け。遅刻はいかんぞ」

 そう言って目を閉じると、主はもう何も言わなくなった。ぼくはそばにきちんと畳んで置かれてあった膝掛けをかけてあげた。


 そっと店を出た。扉に下げてある小さな鈴の音とともに背中でドアが閉まる気配がする。するとベールを剥ぐように、ついさっきまでぼくを包んでいたあの既視感デジャヴにも似た暖かい空気がスーッと周囲から引いていくのがわかった。寒さが戻り、ぼくの感覚は現実に引き戻される。

—ひょっとして、いまのは、ユメ?

 ぼくは買った?ばかりの時計がないんじゃないかと不安になり、思わず右手で触って確かめた。でも指先に触れたのはあの壊れたクォーツ時計の安っぽい金属の感触ではなく、間違いなく革バンドのそれだった。そう、あのハミルトンとイリノイのダブルネームとかいう腕時計はちゃんとぼくの左腕にはめられていたのだ。

 ぼくは振り向いた。もちろんちゃんとそこに店はあった。しかしいつの間にかランプの灯りも電灯も消え、カーテンは閉じられ、店は霧のような青白い静けさに包まれていた。戻りたい衝動に駆られた。が、主の最後の声がぼくにそれを許さなかった。

「よし、さっさと行け」

 ぼくはその声に背中を押され、狐につままれたような気分のままその場を離れた。通い慣れた道まで出ると、やっといつもの自分に戻れた気がした。

 ようやく部屋にたどり着いた頃、どこかで救急車のサイレンが鳴り響いていた。

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