我楽多奇譚〜ロスタイム〜
Kenn Kato
第1話 ラッキーコイン
その瞬間まで、誰もが日本代表のワールドカップ初出場は間違いないと信じて疑わなかった。試合の流れではどう見ても日本が押されていたのに緊迫した試合展開になったのは、相手チームのイラクに必要以上に厳しかった審判のおかげだったのかもしれない。日本の二点目はぼくの目にもオフサイドとしか映らなかった。しかし勝負は勝負だ。日本は二対一でリードしていた。
いまとなっては知らない人などいないのかもしれないが、サッカーのように大人数が体当たりで勝負するスポーツの場合、試合中に怪我人が出たり、熱狂的な
その頃ぼくは丸の内にある銀行の本店に勤務していて、幾つもある営業部の一つで主に中小企業を中心とした営業、その中でもぼくは特に当時急速に拡大し始めていたインターネット関連のベンチャー企業を担当していたんだ。まだADSLも光通信もなくて、電話回線にパソコンを繋いでピーピーガーガー言わせながらアクセスするのが常識だったから、なかなかうまく繋がらなくてみんな途中で諦めちゃうような時代だった。中高生が携帯を使って当たり前のように電車の中からネットにアクセスしてしまう今から考えると想像もつかないような世界、それがほんの二十年ほど前なんだから、こうやって振り返ってみるとあらためて時代の流れの速さには驚かされる。
それでもやっとISDNが普及し始め、プロバイダとかも乱立してたから、通信速度は遅いけど誰もがネットにアクセスできるような環境は整っていた。それなのになかなか一般の消費者に受け入れてもらえないジレンマを抱えていたネット業界は、例えるなら空っぽのでっかいどんぶりに群がって「これからこの中に美味しい料理が入るから覗いてごらんよ」と必死に客寄せをしていたようなもので、実際は中身の料理がまだ全然できていない段階だった。
国境のないインターネットは潜在的な可能性が巨大なだけに当たれば大きい市場とは言え、まだ実績の見えない世界に賭けるのはリスクが高い。でも、景気が後退している時に躍進するのがベンチャービジネスだ。闇に現れた一筋の希望の光。長引く不況のためにお金の借り手が激減していた状況下では、銀行にとってもまた新規開拓の一分野として無視できない存在だった。
銀行の営業とか言うとよくわからないかもしれないけど、簡単に言えば融資、つまりお金を貸したり、そのお金を回収したりする仕事だ。だいたい昼は外回りで、帰ってからデスクに座って上司に融資の承認を得るための
既にバブル経済崩壊から二年半が経過してはいたものの、まだ行内の雰囲気はそんなにせっぱ詰まった感じではなかった。ただ不動産業なんかはそろそろ担保割れの問題とかが出て来ていたから、やはりこれから先に対する漠然とした不安を誰もが抱えていたんだとは思う。だからサッカーの日本代表がワールドカップ出場に王手をかけたというニュースは、気休めに過ぎないものではあったけど、間違いなくぼくらにとっても数少ない明るいニュースだった。当然誰もが注目することになる。
その日もぼくは最初から残業で銀行に残るつもりだった。
「おい、どうせ今日も残るんだろ?」
エレベーターに乗り合わせた先輩に声をかけられた。
「あ、はい」
やたら面倒見がいいことで有名な先輩だったが、何かと言うと声をかけてくれたり、訊いてもいないことを教えてくれるその人がぼくはちょっと苦手だった。悪気がない分だけタチが悪い。
「今夜のワールドカップ予選、みんなで観てかないかって話があるんだけど、どう?家に帰ったってどうせ同じようなもんだろ?」
—ほら、余計なお世話だ
まあ言われてみれば確かに家に帰っても試合は観るんだけど、だいたい試合が終わるのは確か日本時間の深夜だ。外国為替のディーラーでもないのに銀行で夜を越すのは気が引ける。試合は観たかったがせめて風呂ぐらいゆっくりと入りたい。そんなことを考えながらなんと応えようか迷っていると、
「なんだ、これか?」
その先輩はうつむいたぼくの顔を覗き込むようにして小指を立てて見せた。それを見てぼくの気分は一気に引いた。
—なんでそうわかりやすいのかなぁ?
年齢に関係なく世の中の男はオヤジ化するとみんなこうなる。
「結局男なんてソレしかアタマにないんじゃないの?」
なんて女性に言われても仕方がない。すべての男がそういうわけじゃないのにそう言われる原因はみんなあんた達にある。机があったら両手でバンッと叩いてやりたい気分だったが、あっても行動に移せないだろう自分が情けなかった。そしてぼくは悲しくなる。果たして自分もいつかはこうなるんだろうか?もっと違う歳の取り方が選べるなら、ぼくは間違いなくそっちを選ぶ。
「ええ、まあ」
ぼくは適当に流しておくことにした。
「なんだよ、めずらしいなおまえにしちゃ。ま、頑張れよ」
そう言うと彼はニヤニヤしながらエレベーターを降りていった。
—ほんとに余計なお世話だ
ぼくは女の子にはそこそこもてた方なんだとは思うけど、恋愛はあまり得意じゃなかった。喋るのが下手くそだったし、なんせ面倒くさい。だから合コンなんてものには顔を出したことがないし、女の子に好意を持たれてもあまり意に介さなかった。どんなにかわいくても、かわいけりゃいいってもんじゃない。相性とか雰囲気とか、ぼくにもぼくなりの条件がある。
「じゃあどんなのが好みのタイプなんだよ?」
そんなこともよく聞かれたが、それもまた愚問だ。なんでもかんでもパターン化してそれにあわせていったら人生の可能性なんてどんどん狭まっていってしまう。だからぼくは、
「思いもよらない人」
とか、
「気がついたら好きになっている人」
とか答えることにしていた。三十歳間近になれば誰だって自然に分別がついてくる。
—そんなあり得ないことに期待しても仕方がない
なんてわかったような顔をして半分それを
とにかくぼくは自分がピンと来ない限り行動には移さない。誤解されるとまた噂になって面倒だからむやみやたらと愛想を振りまいたりもしない。だからお決まりのようにゲイだとか噂を立てられ、女嫌いのイメージが周囲に定着していた。
どうでもいいことかもしれないけど、実はぼくにもそのちょっと前まで結構真剣につきあっていた子がいたんだ。大阪支店にいた頃知り合った地元の子で、とても明るくてちゃきちゃきした子だった。初めての転勤でちょっと不安だったぼくは随分と彼女に励まされた。もちろんこの当時は東京出身者の若手行員が地方支店に赴任する際には必ず独身寮に入ることになっていたから、平日はあまり自由な時間もなく、週末に彼女の部屋で過ごすくらいしかできなかったんだけどね。それでも大阪にほとんど知り合いがいなくて、おまけにあまり人付き合いが上手でないぼくを京都とか神戸とかあっちこっちに連れていってくれて、引きこもり状態から救い出してくれた。とってもぼくのことを考えてくれてたし、一時期はこの子となら結婚してもいいかなぁ、なんて真剣に考えたりもしたくらい仲がよかった。それなのに転勤で東京に戻って来てからまるでうまくいかなくなってしまい、いつの間にか向こうに新しい恋人ができてしまった。しかもよりにもよって数少ないぼくの友達が相手だ。これもまたよくあるパターンで、結局は
—遠くの恋より近くのぬくもりかよ
以来ちょっとした女性不信になってしまったわけだ。
エレベーターの扉が閉まる瞬間、ぼくはその先輩の背中に思いっきり舌を出してやった。でもすぐに後悔した。きっと明日の朝には銀行中で、
—あのゲイに彼女が出来た、だからやつはゲイじゃなくてバイだ
なんて無責任な噂が広まっているに違いない。
結局ぼくは九時には銀行を出た。いつもどおり中央線から総武線を乗り継いで東中野まで戻り、駅からの帰り道にある行きつけの小料理屋で食事を済ませてからマンションに戻るつもりだった。ところがワールドカップの予選観戦で店の営業時間を延長するらしく、小さな店内はいつになく活気に満ちあふれていた。ここからならマンションまで近いし、職場とは違い変に人間関係に気を遣う必要もない。だからぼくは集まって来た顔見知りのお客さんと一緒にそのまま店に居座り、テレビの画面を食い入るように見つめていたんだ。日本は既に宿敵韓国を下し、このまま一点差を守りきれば初のワールドカップ出場が決まる。当時はJリーグ発足でサッカーブームに火がつき始めた頃だったが、はっきり言って野球世代のぼくにはあまりピンと来なかった。周りもみんなおなじようなものでにわかサッカーファンばかりだったけど、それでも日の丸が上がるとがぜん応援にも力が入る。根っからのニッポン人のぼくもやはり手に汗を握っていた。
—ご覧のように間もなく四十二分になるところ。九回目のワールドカップ挑戦で悲願の初出場を目指しますニッポン
テレビの実況中継のアナウンサーが興奮気味に喋り続けている。店に残る誰もが固唾を飲んで間もなく訪れるはずのその瞬間を待ち受けていた。
武田のパスがイラクに渡ってしまい、すかさず速攻を受ける。
「おいおい、ハラハラさせてくれるなぁ」
誰かが呟く。思わず身を乗り出しながらテレビの画面に見入る。
—キーパー弾いた!松永ナイスプレイ。手元の時計では、いま四十五分になろうとしています。このワンプレイでしょう
ここさえ抑えれば世界に出られる。けれどこの時点でぼくは既に漠然とイヤな予感がしていた。ほぼ全員がペナルティーエリアに集まり必死の防御を続けている日本選手の表情を見る限り、どう見ても情勢は点数とは逆の方向に向かっていたからだ。
残り時間は少ない。だから選手も当然ゴール前への直接のセンタリングを警戒していたんだと思う。しかしその裏をかかれた。引き分けではワールドカップに進めないイラクは、既にその夢を絶たれていた分冷静だったのかもしれない。ショートコーナーで乱された日本ディフェンスの隙を嘲笑うかのように上げられたパスをイラクのFWオムラムがヘッドで捉えた。スローモーションのように放物線を描いたボールは宙を仰いだGK松永の頭上をすり抜けて無情にも白いゴールネットに吸い込まれる。
—ヘディングシュート!決まった!
一瞬の沈黙を切り裂くように、イラクサポーターの歓声が湧き上がる。残り時間はおそらく数十秒しかない。ピッチに倒れ込み、呆然とする日本選手。最後のキックオフで前線に送り込んだロングパスがタッチラインを割り、イラクボールのスローイングになったところで試合終了を告げる長く無情なホイッスルが鳴り響いた。
—ピー、ピーー、ピーーー
「マジかよ!」
「なんでロスタイムなんかで入れられんだよ、畜生」
隣の客がカウンターを叩きながら悔しがった。
「ほらほらビールがこぼれるだろ。たかがサッカーでそんなに熱くなるんじゃないよ、いい歳して」
女将さんが言った。
「これじゃ営業時間延長してもあまり意味なかったねぇ」
「でも確かにあとちょっとの時間だったんだけどなぁ」
そしてぼくにはいつだって勝利の美酒より敗北の苦渋の方が味わい深い。人はいつだって勝った理由は問わないけれど敗けた理由は追及する。それは関係者にとっては責任逃れのための生け贄探しに過ぎないのだろうが、選手たちにとってその命題は次に繋がる大きな教訓を残してくれるものだ、とぼくは思うからだ。それはきっと、ぼくがまだ勝利を手にしたことがないからなのかもしれないけど、言い換えればどこかでまだ諦めていないということでもある。
「人生の勝利って、なんなんだろうね?」
ぼくが呟くと
「そりゃあ幸せになること、だろ?」
「じゃあシアワセって、何?」
「ずいぶんと難しい質問だね。そうだね、自分が幸せだと思うことなんじゃないのかね?」
「それからするとおれはいまんとこまだ負け組、かな」
「あたしゃね、最近よく聞くその勝ち組、負け組ってのが嫌いだね」
「なんで?」
「いやさ、こんな仕事してるとイヤでも毎晩いろんな愚痴を聞くでしょ?おまえは勝ち組だからいいとかさ、あいつは負け組だ、とかね」
「うん」
「でもね、その勝ち組の人が実は家庭に問題抱えてたりさ、負け組って言われてる人が趣味とか持ってて結構楽しそうに生きてたりするわけよ」
「他人が決めるもんじゃない、ってこと?」
「幸せの物差しなんて人によってまちまちだからね。要は自分がどう思うかってことなんじゃないのかね?」
「幸せは、自分の心が、決めるもの、か。どのみちおれは自分を幸せだとは思えないな」
「あたしなんかにしてみれば
確かに自分なんかより苦労している人は山ほどいる。慌ててぼくは付け足した。
「まぁ、不幸ってわけでもないけど」
「なに年寄りみたいなこと言ってんのよ。まだ人生終わったわけじゃないでしょ?」
「え?」
「これから先ながいんだから、何が起こるかわかんないよって言ってんのよ。運命の出会いとか、あるかもしれないでしょ?」
そう言って一瞬遠くを見つめながら
「時間がある限り幸せになれる可能性がある、ってことか」
「若い頃の私にもうちょっと時間があったらねぇ、再婚くらい出来たかもしれないのに、なんてね」
けれど、そう言いながら照れ笑いする彼女の顔は決して負け組には見えなかった。若い頃に離婚し、女手一つで息子を育て上げて来たことを彼女は誇りに思っている。さすがに苦労の跡は隠せないが、だからといって幸せじゃないとは言えない。
ぼくはテレビに視線を戻し、いつの日か復活するであろう彼らの勇姿を想像した。年の頃はぼくと大して変わらない。なのにこうも違う。
—おれのシアワセって、いったいなんなんだろうか?
ぼくがグラスに残った焼酎を飲み干して最後の一杯を注文すると、テーブルにこぼれたビールを拭きながら女将さんがぼそっと呟いた。
「欲しい時になくていらない時にあるのが時間だからね」
確かにそうなのかもしれない。
その時だった。
「女将さん!古時計屋のおっちゃんが」
慌てて駆け込んできた男性は店の中にぼくがいることに気がついて急に口ごもった。なんとなく気まずい空気が流れる。一瞬女将さんの表情が曇った。
「あ、」
ぼくは仕方なしに根が生えた重い腰を上げた。
「ごちそうさま。お勘定」
「すまないねえ」
「いえいえ、まだやらなきゃならない事もあるんでそろそろ帰りますよ」
そんなもんあるわけがなかった。その場しのぎの口から
—なんのために生きているんだろう?
とか、
—これから先おれの人生どうなってくんだろう?
とか、誰もが陥りがちなあの出口のない迷路にはまりこんで眠れない夜を過ごすことになる。眠れないと翌日は体調も機嫌も悪くなるし、仕事の効率も落ちればミスもするようになる。疲れも取れないから早く帰りたがるし、早く帰ればまたおなじ事の繰り返しでどんどん悪循環にはまっていく。幸福を論じる以前の問題だ。
だからぼくは残業手当が付かなくても銀行に残って仕事を片づけ、帰り道にこの店で食事を済ませてなるべく一人でいる時間を減らしている。部屋に帰ったら風呂に入ってニュースを見て寝るだけだ。それがこの街で、この時代に、一人穏やかに生きていくためにいつの間にかぼくが身につけた生きる術だった。だいたいぼくは残業しても仕事が終わらないほど能力がないわけじゃないし、自分の能力を越えた仕事を抱え込むほどやる気があるわけでもない。事のなりゆきから出た言葉とはいえ、忙しそうなフリをした自分の気まずさを修正するようにぼくはまた一言付け足した。
「サッカーも負けちゃったし…」
もちろん相手はそんなこと何も気にしちゃいない。
「あ、一万円札でもいいですか?」
財布の中身は賑やかな方が落ち着く。いくら一万円札でも一枚じゃ寂しいから。
「ごめんね、細かいのちょっと切らしちゃってるのよ」
ぼくは仕方なく残っていた千円札で支払いを済ませて店を出た。
今日になって急に気温が下がったようで夜風が少し冷たかった。もしかしたらそれは日本が負けたからなのかもしれないし、熱気に満ちた店から出て来たばかりだからなのかもしれない。ぼくはスーツの襟を立てると、呆れるくらい通い慣れた道を歩き始めた。
—もうすぐ誕生日か
今年も結局何も起こらないまま過ぎてしまった。イイコトもワルイコトも。代表選手は今頃悔し涙に濡れているに違いない。確かに負けは負けだけど、彼らは他人の記憶にだけでなく自分の記憶にも決して忘れることのない瞬間を刻み込んだんだ。それに比べてぼくの時間はどうだ?つるつるののっぺらぼうだ。一分間に六十秒、一時間に六十分、一日に二十四時間のペースを実直に守りながらただ整然と流れていく。いつもはそれさえ忘れているけど、時々不意にこうしてその事実を思い出す。そしてぼくは無意識にタメイキをつく。その時風は小さな弧を描いてくるりと回り、平穏なぼくの心の淀みをほんの少しだけかき乱して、そして消える。
商店街を抜ける手前に自販機があった。酔い覚ましに温かい缶コーヒーでも買おうかと思ったものの、札入れには一万円札一枚しか残っていないことを思い出す。
「あれ、あったかなぁ」
ひとりごとを呟きながらズボンのポケットの小銭を漁ってみる姿は、端から見ればたぶん十分立派なただの酔っ払いだ。消費税が導入されてからポケットの中はいつも小銭だらけだったが、今日はやけに軽い。引っ張り出した手のひらの上には一円玉と五円玉とレシートに混ざって百円玉が一枚だけ顔をのぞかせていた。でも十円玉はない。
「ちぇっ、なんだよ」
ぼくは軽く舌打ちしてからちょっとばかし祈るような気分で反対のポケットを探る。指先が二枚の十円玉を感知する。ホッとして取り出してみると一枚は新しいので、もう一枚は縁にギザギザのついた古いものだった。いつからか「ギザ十」と呼んでいたこの古い十円玉はなんの根拠もないがぼくのラッキーコインだ。べつに
—ラッキー
こういうのを小さなシアワセと呼ぶのかもしれない。そして、ぼくはいつも通り百円玉から自販機に投入する、はずだった。けれどこの時すでにぼくの時間は少しずつ日常から逸脱し始めていた。
「あのぉ」
突然背後から投げかけられた言葉にびくっとして振り向くと、そこには傘をさした一人の女性が立っていた。ついさっきまで辺りには誰もいなかったはずだ。どっかに隠れていて気配を殺して近づいて来た?いやいや、それじゃまるで忍者だ。
ぼくは傘の陰に隠れる顔を覗いてみた。かなりのおばあちゃんだ。雨でもない真夜中の商店街に立つその姿はどう見ても奇妙だった。
「おばあちゃん、どうしたの?こんな時間に」
「十円玉ひとつ貸してちょうだい」
少し
「はい?」
「確か自分の家はこの辺りだと思ったんだけど、帰れなくなっちゃってねぇ。迎えに来てもらおうと思って電話をかけようとしたらお財布を持ってくるのを忘れたようで」
あんまりしっかりとした話し方だったので少し驚いた。ぼくは一瞬躊躇したが、どうせあげるなら、とギザ十を彼女の手に握らせた。まだ缶コーヒーは買える。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ありがとう。すみませんねぇ」
しかしそう言ったきり動こうとしない。
「ん?おばあちゃん、電話かけるんじゃないの?」
「それが、どこを探しても赤電話が見当たらないんだよ」
傘を肩にかけ、くるくるまわしながら辺りを見回すとおばあちゃんは俯いた。
「おばあちゃんそりゃそうだよ、もう赤電話はほとんどなくなっちゃってね、緑とかグレーとかの色に変わっちゃってるんだよ」
なんとなくだけど、気まずい沈黙が流れる。
じっとぼくを見つめるしわくちゃなおばあちゃんの顔。その小さな目からいきなり一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ええっ?なんでかなぁ、おばあちゃん」
ぼくは突然の展開に戸惑い、おろおろと周囲を見渡す。
ひとっこひとりいなかった。ぼくは自分に言い聞かせる。
—相手は若い女の子じゃなくて、おばあちゃんなんだ。うろたえるな自分!
「わかった、わかったよおばあちゃん。頼むから泣かないでくれよ」
まるで子供だ。ぼくはただおばあちゃんの疑問に対してなるべく親切に、わかりやすく、当たり前の答を返しただけのつもりだったんだけど、なんだか傷つけちゃったみたいで気の毒なことをした気分になる。思わず逸らした視線が、ちょうどおばあちゃんの胸の辺りにぶるさがっているお札のようなものを見つけた。よく見ると住所や名前が書いてある。
—そういうことか
そりゃそうだ、だいたいこんな深夜に老人が一人歩きしている方が不自然だ。
「おばあちゃん、これちょっと借りるよ」
ぼくは彼女の首から札を外し、自販機の隣に置いてある緑電話からそこに記されている電話番号をダイヤルした。ぼくの携帯から電話をすれば済む話だったが、赤電話がなくなったことにショックを受けている老人の前でさすがに携帯は使えなかった。呼び出し音が一回鳴っただけですぐに繋がった。
—ピー
久しく聴かなかったコインの追加を促す音とともにカシャン!と小気味よい音を響かせて十円玉が中に落ちる。
「あの、もしもし、夜分遅くに申し訳ございません」
ぼくは電話口に出た女性に自分の身分を告げてから事情を話した。当時まだ銀行の名前は水戸黄門の印籠みたいなチカラを持っていて、それが本物かどうかさえわからないのに口にするだけですぐに信用してもらえた。いまから考えると不用心な話だ。
「ほんとにご迷惑をおかけしちゃって。イヤだわ、おばあちゃんったら。最近突然家を出たまま帰ってこなくなるんですよ、お恥ずかしい話なんですけどね。でも必ずどっかで見つかっちゃうんですよねぇ、なんだか。だからご近所の皆さんには本当にご迷惑をおかけしてしまってもう、ほんとにイヤだわ。いまから引き取りに伺いますので駅前の交番にでも連れていっていただけませんか?あぁよかった。それにしても…」
よく喋る人だった。要約すれば三分にはほど遠い会話の内容だ。でも「立て板に水」って言うのか、遮ろうにも間がないし、なにせ声がでかい。ぼくは受話器を少し耳から離してひたすら先方の話を聞きながら電話が切れないよう次のコインを入れようとした。が、手元にあるのは百円玉だけだ。もう一枚の十円玉はおばあちゃんの手のひらの中にある。
ぼくはなんとなくイヤな予感がして振り向いた。案の定おばあちゃんは勝手に歩き出していた。電話の向こうではそんなことお構いなしといった感じで相変わらず喋り続けている。
「ああっ、ちょ、ちょっと待って」
ぼくは泣く泣く百円玉を放り込んでおばあちゃんを追いかける。
「おばあちゃんダメだよ、すぐ勝手にどっか行っちゃうんだから」
ぼくはそう言いながらおばあちゃんの肩をつかんだ。でもおばあちゃんは頑として振り向こうとしない。
「どうしたんだよ、もう」
ぼくはまた傘の下からおばあちゃんの顔を覗き込んだ。
「あ、ひょっとしておばあちゃん、聞こえてたんだ」
その顔がこわばり、目だけが赤く潤んでいた。
「ごめんよ、そこまで気が回らなかったんだよ、お願いだから一緒に帰ろうよ」
するとおばあちゃんは左の手を差し出した。ぼくは溜め息を一つついてその手を握った。あっという間に笑顔が戻る。
「ひさしぶりだねぇ、あんたとこうして手を繋ぐのも」
ほんとにこのおばあちゃんは何がなんだかわからなくなってしまったんだろうか?だって、右手はしっかり十円玉を握りしめているし、お嫁さんの悪い冗談にも反応したように思える。
—まぁ、いっか、そんなことどうでも
ぼくはおばあちゃんと手を繋いだままゆっくりと公衆電話まで戻ると、ぶらさがった受話器を取り上げた。
「済みません、お待たせしました。いや、帰り道の途中なのでぼくがそちらまでお連れします」
そう告げて受話器を戻した。初めからそう言えば済んだことだった。缶コーヒーは公衆電話に飲み込まれ、代わりに真夜中の住宅街をおばあちゃんとランデブーだ。
—なんでいつもこうなんだろう、おれって
ぼくは心の中で呟いた。
「いつもいつもすまないねぇ」
まるで見透かされているような一言だった。わかっているのかいないのか、さっぱりわからない。いや、冷静に考えればわかっているはずがない。単なる偶然だ。
でも温かい缶コーヒーを握っているはずだったぼくの右手は、代わりにいまおばちゃんの温かい手のひらを握っている。そのぬくもりは久しく忘れていた感覚だった。これもちょっとした人生のハプニングだ。
「おばあちゃん、こんな時間にどこ行くつもりだったの?」
試しに訊いてみた。
「あんたが傘を忘れたんで目黒の駅まで迎えに行こうと思ったんだけどねぇ」
—おばあちゃん、ここは東中野だよ
そう言いかけた声をぼくは慌てて飲み込んだ。せっかくゴキゲンなのにまた泣かれたらたまらない。自分にとっての正論がすべての人に通じるとは限らないのだ。
「そっかぁ、ありがとね」
それ以上かける言葉は見当たらなかった。おばあちゃんは嬉しそうに微笑むと、右手に握りしめていたあのギザ十をぼくのスーツの胸ポケットに入れてポンポンと軽く叩いた。誰かに見られているような気がして、ちょっと照れ臭くなった。
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