花頭

尾八原ジュージ

日常のこと

 朝七時のバスには白い花頭が乗ってくる。ほっそりした関節のない腕をくねらせて運転手に定期券を見せているから、たぶん会社か学校に通っているのだろうと思う。頭を重そうにゆさゆさ揺すって通り過ぎたあとには、いつもふたつみっつ花弁が落ちている。

「私花粉症なのよね」

 後ろの席から年取った女の声が聞こえる。

「増えたわねぇ、最近」

 ひとり言にしては少しばかり大きすぎる声だ。白い花頭は聞こえていない様子で小さく首を傾け、ポールに沿って立っている。本当は聞こえているけど何も言わないだけかもしれない。

 海浜公園前のバス停でわたしはバスを下りる。下りたばかりのバスを振り返ると、窓ガラス越しに花頭のふっさりとしたシルエットが見える。


 わたしの仕事はヒサメ捕りだ。最近はもっぱら海浜公園近くの高級住宅街に通っている。海の近くのお屋敷にはヒサメがよく出るのだ。この辺りには古い家柄が多く、中には私の師匠の代からのお得意様もある。

 師匠は優れたヒサメ捕りだったけれど、仕事中にヒサメが体内に入って死んでしまった。普通のヒサメならば滅多にそんなことにはならないのだけれど、その個体は成熟しきった卵を抱いていた。珍しいことだ。

 死後解剖された師匠の遺体からは、米粒のようなヒサメのこどもがぼろぼろ出てきたという。


 仙山邸はわたしのお得意様のひとつだ。奥様とお嬢様が花道を嗜んでいるので、広いお屋敷にはつきものの幽霊が出ない代わりに、ヒサメがよく湧く。

 わたしは孟夏箸を使ってヒサメを捕る。昔ながらのやり方で、薬剤を使わないから仙山邸のような植物の多い屋敷では特に好まれる。おかげさまでわたしのスケジュール帳は一年先までいっぱいだ。

 わたしが階段の脇でヒサメを捕っていると、大島紬を着た奥様が両腕いっぱいに花束を抱えて近づいてくる。

「お花はいいわね。わたし赤い花が好きなの」

 そう言ってふっくらと笑い、踵を返してどこかへ歩いていく。締めている名古屋帯のお太鼓には、彼岸花が刺繍されている。


 仙山邸を出て、次は流野邸に向かう。昔旅館だったという流野邸は、度重なる増改築のために非常に複雑な構造になっており、執事のネネンガ氏が付き合ってくれないと、目的の場所にたどり着くことすらできない。

 ネネンガ氏はとても聡明で、かつ長年流野家に仕えているので、この奇っ怪な建物内でも決して迷うことがない。わたしがヒサメを捕っている間も、家人や使用人がひっきりなしにネネンガ氏の元を訪れて相談事をする。駅前のテナントビルの改修について流野氏と話をしながら、ネネンガ氏はわたしがヒサメを取り逃したり、情けをかけてやったりしないかどうか油断なく見張っている。ネネンガ氏はよく喋りよく動く。その紫色の花弁も滅多に落とさないので、わたしはネネンガ氏が花頭であることをつい忘れがちになる。


 お屋敷をふたつも回ると、ヒサメは籠にいっぱいになる。わたしは法律で定められた通り、近くの保健所にヒサメを持っていく。

 保健所の受付には青い花頭がいて、次々に訪れる来客に対応している。わたしが番号札とヒサメを詰めた籠を持ってカウンターに行くと、青い花頭はふさりと頭を一度下げてから「申請書と身分証を拝見します」と言う。毎日のように通っているのに、都度申請書を提出しなければならないのは面倒だ。きっとこの青い花頭もそう思っていることだろう。青い花頭は関節のない腕を動かし、カウンターに落ちた青い花弁を自らゴミ箱に落とす。

 荷物が軽くなった頃にはもう正午だ。わたしは海浜公園へ向かう。いくつかある東屋のひとつで、目の前に広がる海を眺めながら弁当を食べる。この途轍もなく大量の塩水を隔てた向こうにあるはずの、見たこともない異国のことなどを考える。もっとも見たことがないのだから、本当はこの海の向こうには何もないのかもしれない。


 弁当を食べた後は、海浜公園前図書館に移動する。ここは比較的新しいお得意様だ。よく晴れた昼下りの図書館は紙と埃の匂いがする。大きな天窓からは眠たくなるような日差しが差し込む。こんな日には、ヒサメは本棚の隅で寝ていることが多く、わたしは眠っているヒサメを孟夏箸で捕まえては籠に入れていく。比較的楽な仕事だ。窓の外から波の音が聞こえてくる。

 職員証を身につけた黄色い花頭が本を並べている。本を載せたワゴンを押して通り過ぎた後には、黄色い花びらがひとつふたつと落ちている。円盤型のお掃除ロボットが静かに後をつけていって、花びらを平たい体に吸い込む。

 図書館を出る途中、広いロビーを通りかかる。自動販売機の近くのベンチでは、小さな子供を連れた母親と思しき女性がふたり、しきりに話をしている。

「最近増えたわねぇ、花頭。増え過ぎじゃないかしら」

「そんな風に言ったら悪いわよ」

「だってなんだか怖いんだもの。もしもこの子が大きくなったとき、花頭と結婚するとか言い出したらどう? ちょっと考えてみてよ」

「いいからやめなさいよ。こんなところで」

 わたしは足早に外に出る。暖かい日差しが全身に染み渡る。


 図書館を出るともう今日の仕事はおしまいだ。わたしはふたたび保健所に向かう。その途中でわたしの携帯電話が鳴る。仙山邸からである。

『宅配の荷物にヒサメがくっついていたの。悪いけど取りに来てくださらない?』

 奥様の声だ。

 わたしは「すぐに伺います」と答えて電話を切り、保健所へ行こうとしていた気持ちを切り替えて仙山邸へ引き返す。

 奥様は庭に段ボール箱を出してわたしを待っていた。孟夏箸を取り出し、ヒサメをつまんでは籠に入れていく。

「上手ねぇ」

 脇で見ていた奥様が呟く。

「ねぇあなた、うちの専属にならない?」

 突然の申し出だった。わたしは考える。お金持ちの専属ヒサメ捕りになれば生活は安泰だ。あちこちに出張する必要もないだろう。でもわたしには他にもお得意様がいて、スケジュール帳は一年先まで埋まっている。その旨を告げてお断りすると、奥様は残念そうに「それじゃ仕方ないわね」と言い、ふと思いついたように手を伸ばしてわたしに触れる。

「わたし赤い花が好きなの」

 そう呟きながら、細い指でわたしの花弁を弄ぶ。赤い花びらがひとつ、青々とした芝生の上に音もなく落ちる。どうも奥様はわたしのことがお気に入りらしい。たぶんわたしがなかなか腕のいいヒサメ捕りで、そして赤い花頭だから。

 まもなく籠の中はヒサメで一杯になり、わたしは仙山邸を後にする。一度振り返ると、庭の真ん中に立ったままの奥様が、こちらを見ているのが目に入った。


 保健所ではまたあの青い花頭に出くわした。

「申請書と身分証を拝見します」

 手続きは変わらない。きっとこの青い花頭も(午前中に来たばかりなのに)などと煩わしく思っているのだろうと考えながら手続きを済ませ、籠の中身を引き取ってもらう。

「もし」と青い花頭が言う。「駅の方に行かれるなら、五分後に保健所の裏手からシャトルバスが出ますよ。一時間に一本しか出ないので不便ですが、どこまで乗っても百円です」

「ご親切にありがとう」

 わたしは軽く頭を下げる。その拍子に赤い花びらが一枚カウンターに落ちる。青い花頭はさっさと腕を動かして、慣れた様子でカウンターの下に落として片付ける。

 教えられた場所に行くと言われた通りにバス停があって、まもなくシャトルバスがやってくる。わたしは百円を払ってバスに乗り込む。座席は半ば埋まっている。関節のない体をくねらせて窓際の席に腰かけると、後ろから「また花頭だ。最近増えたなぁ」という声が聞こえる。

「いいじゃない、私好きよ」

 もうひとつの声が応える。

「僕だって別に嫌いなわけじゃないけど」

「ならいいじゃない」

 わたしは何も聞こえていないようなふりをして窓の外を眺める。海がみるみるうちに遠ざかっていく。

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花頭 尾八原ジュージ @zi-yon

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