一台の後続車も対向車もない閑散とした夜の道路を、愛車レクサスはひた走る。

 口に咥えた缶の中身を少量流し込み、インパネの諸々に眼をくれた。時間にしてほんの数秒。それから再び視界をフロントガラスに向ける。

 左のヘッドライトが、黒服の人影を眼の前の路上に照らした。

「なっ」

 全身が総毛立った。かわしきれる距離でもスピードでもない。激突は必至だ。

 半ば本能でハンドルを切った。同時に急ブレーキ。

 車体後部が大きく左に傾げ、反対に視界は右へ右へ流れていった。飲みかけの缶が口から離れ、助手席の足許に転げ落ちた。

 タイヤの摩擦音が長く響いた。ブレーキの反動で運転席から飛び出しそうになったが、シートベルトががっちり肩口に喰い込み、フロントガラスを自慢のスキンヘッドで突き破ることもなかった。

 車が完全に停止するまで、彼は覆い被さるようにハンドルにしがみつき、ただただ眼を固く瞑るしかなかった。ガクンと一際大きく車内が揺れ、耳障りな摩擦音は止んだ。

 車の動きも、どうやら完全に止まったらしい。両耳の奥にはタイヤの甲高い悲鳴が長らく反響を残し、停車後もなかなか耳から離れなかった。

「やっちまったか?」

 車内の彼は幸い無傷で済んだが、ヘッドライトの捉えたあの黒服はどうなったのだろう。時速八十キロの車両と生身の人間が正面衝突したなら。想像するだけでも胸が締めつけられる。心理的ダメージは大きかった。

「……いや」

 ブレーキを踏み込んだ瞬間、何かとぶつかったような感触はちっとも感じなかった。エアバッグも作動しなかった。あの至近距離で衝突を避けられたとはとても考えられないが、それなら何故、車のフロント部分はいかなる衝撃も受けなかったのか。

 怯えに剥き出した眼を、周囲の窓に走らせる。

 ブレーキ直前に右にハンドルを切った車両は、本来の進路を大きく逸れ、対向車線を塞ぐ恰好で横向きに停まっていた。対向車が来なかったのは幸いという他ないが、両車線とも夜間の交通量は少ないので、下手にハンドルを左に切ってガードレールに激突するよりは、適切な判断だったといえよう。

 何はともあれ、車外に出てみないことには周辺の状況が掴めない。固く握り締めていたハンドルからようやく手を離し、彼はエンジンをかけたままハザードランプを点灯させ、ノンアルコールビールの臭いが広がり始めた運転席から外に出た。

 遠い山間の風が穏やかに吹き下ろす静かな車道に、別の車両が通り過ぎる気配は皆無だ。少しの間なら車を放置しておいても問題あるまい。連なる街灯の消え去る直線道路の果てを眺め渡した後、彼は車両の前方に回り込んだ。

 ヘッドライト周辺のどこにも、ぶつかった形跡は見当たらない。念のため左側面部も調べてみたが、やはり車体に凹んだような跡は見つからなかった。

 路面に頬を擦りつけるようにして、暗く狭いシャーシの下を覗き込む。懸命に眼を凝らしたが、野良猫一匹見つけることはできなかった。

 溜め息交じりに立ち上がり、再び周囲に眼をやる。細い街灯と闇に紛れた樹々の他に見えるものといえば、電話ボックスくらいか。建物の類いは一軒もない。

 路面に黒々と灼きついたタイヤ跡が街灯明かりに浮かび上がり、異様に生々しく感じられた。道路周辺に人の姿はない。

「いや、いたよな、絶対いた」

 さっき見た黒服は、一体何だったのか。

 眼前の路面に佇立する不審な人影を、フロントガラス越しにはっきり眼にしたはずなのだが、ぶつかった様子はないし対象物が倒れているわけでもない。衝突寸前に素晴らしい反射神経で車の進路から飛び退き、そのまま文句の一つも言わずどこぞへ走り去った。そう考えざるをえない状況だった。

 傷害事件を回避できた安心感はあったが、狐に抓まれたような不可解な気分は拭いようがなかった。

 一杯そこそこのノンアルコールビールで幻覚を見たとは信じがたい。すると、先の人影は単なる眼の錯覚に過ぎなかったのか。歩道から飛び出してきたならまだしも、突然道の真ん中に浮かび出たが如き現れ方も、今思えば非常に現実離れしている。

「疲れてんだな、きっと」

 一人で勝手に合点し、彼は早くも心中の混乱に終止符を打った。山風が急に強さを増してきたが、頭部の禿山には、風に乱れ擦れ合う毛髪の一本もない。

 エンジンの低く轟く車両前を回り、ドアを開け放したままの運転席に向かう。

 零れた飲み物の甘苦い臭いが、運転席に上体を突っ込んだ彼の鼻を衝いた。背を屈め、助手席の床に転がったビール缶を拾い上げる。中身はほとんど残っていない。

 後ろも見ず、肩越しに空き缶を道路に投げ捨てると、左膝を運転席シート、右脚をアスファルトの路面という中途半端な姿勢で、ダッシュボードにあるはずの雑巾を捜し始めた。

「ん?」

 不意にあることに気づき、彼は雑巾を捜す手を止めた。

 つい今し方、彼は空の缶を背後の空間に放り捨てた。運転する者のマナーとしては恥ずべき行為だが、今は気にしないことにする。

 自分は肩越しに、あくまで軽い力で空き缶を投げ捨てたのだ。横向きに停車しているのだから、背後にはアスファルトの路面が眼の届かない場所までずっと続いている。後ろに軽く放り投げた空き缶は、大賀飛駆がESPカードの図柄を言い当てるのと同等の確率で、アスファルト上に落下するはずだ。

 では、空き缶を捨てたとき、背後から何も音が返ってこなかったのは何故か。路上に落ちれば、乾いた金属音が彼の耳にも確実に届いただろうに。

 それだけではない。唸りを上げるエンジン音に混じって、後方から聞こえてくるこの断続的な音は何なのか。障害物に狙まれ、行き場を失くした風が不規則に奏でているような、高い口笛にも似たこの音色は。

 彼は体を少し後ろへずらし、音の正体を知ろうと背後を振り返った。

 空き缶を手にした黒い服の人物が、四、五メートル先

の路上に、こっちを向いて立っていた。追い風に煽られ、黒服のあちこちから口笛の音が吹き荒れている。

 身長は自分と同程度だが、顔は全く判らない。帽子にサングラス、黒のマスクという重装備で、黒服の人物はその容貌を覆い隠していた。

 思い起こすまでもない。先程車のヘッドライトが間近に捉え、危うく轢き殺すところだった例の黒服が、今頃のこのこと出てきたのだ。

 この黒服は何者なのか。何故、あるいはどうやって走行中の車両の前に忽然と姿を現したのか。今の今までどこに隠れていたのか。尋ねるべき事柄は幾つもあったが、それらの問いを彼は一言も発することができなかった。

 黒服の人物の、空き缶を持っていないほうの手が、背後に持っていたのは。

 金属バットだ。

 何のために、そんな物騒な道具を携え、自分のすぐ後方に立っていたのか。

 黒塗りの金属バットを見つめながら、彼は前に担当していたクイズ番組で知った、ポーランド政府にまつわる逸話を思い返していた。

 銃刀法改正で野球バットが凶器に分類されたため、ポーランドでは公共の場でバットを裸のまま持ち歩くと処罰の対象となる。所有者は五年ごとに医学的精神的チェックが強制される。バットの所有が許されるのは二十一歳以上の者のみという年齢制限あり。バットの無許可所有、許可証の不携帯に関しては厳罰が科せられ、最高で十年もの懲役刑になる等々。

 バットで他人を痛めつける発想自体は珍しくもないが、政府が所有をここまで厳しく取り締まるのは前例がない。使い方次第で、身の回りにある品々は大抵が人を傷つける武器になるものだが、中でも野球のバットは、海外の政府が認めるほどの危険な凶器にもなるのだ。

 金属バットを握った手に睨みを利かせたまま、彼はグローブボックスの底に眠っていたスタンガンの冷たい柄を掴んだ。万一に備えて数日前に購入して以来、同棲相手に試すわけにもいかず、まだ一度も使ったことがなかった。

 こんなに早く、これを使う羽目になるとは。共通テストの最終試験は、また違う案でも考えるか。

 黒服の人物がここにいる目的は、はっきりしていた。他者の異能力を借りるまでもなく、彼は忌わしき連続殺人犯をこの眼に収めているのだ。目的はただ一つ。五人目の被害者をここに現出することだろう。

 黒服が一歩踏み込む。下を向いたバットの先端がゆらりと動いた。

 スイッチに指をかけ、最高の間合いにまで相手が近づくのを待つ。野球用バットとスタンガンでは、リーチそのものが違う。遠すぎても、近すぎてもいけない。一瞬のタイミングが明暗を分かつ。

 今だ。

「喰らえ!」

 黒服の脚が二歩目を路面に刻んだ瞬間、彼は全身を翻し相手の懐に飛び込んだ。同時にスタンガンの電源を入れようと、伸ばした腕に力を込めた。

 黒服はどこまでも冷静だった。端から知っていたかのように、迫り来るスタンガンを手にしたバットであっさり薙ぎ払った。彼は声にならぬ悲鳴を上げ、叩かれた腕を押さえて膝を突いた。

 弾き飛ばされたスタンガンが、ガラガラと耳障りな音を立てて転がった。

 打ち据えられた右腕が痛い。前腕骨を糸巻きの軸にでもされたような軋み。

 無防備に頽れた彼を、バットの柄を肩に担いだ黒服がサングラス越しに見下ろしている。雌雄は決した。痛みのせいか恐怖の故か、全身の汗が止まらない。幕切れは、こんなに呆気ないものなのか。

 ポーランド政府の判断は、案外正しかったのかもしれないな。

 金属バットの振り下ろされる予感に全身をおののかせながら、〈ガダラ・マダラ〉プロデューサー兼チーフディレクター渕崎柾騎は貴重な最期の瞬間を、そんな他愛ない感想に費やした。

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