人を殺しても捕まらない方法

黒澤伊織

人を殺しても捕まらない方法

 人を殺したって捕まらないよ——。


 冗談扱いされそうな一言も、深冬の口から出たそれには、無視もできない真実味があったらしい、龍吾は隠しきれない好奇心で目を光らせ、それでも精一杯ぶっきらぼうに、どういうこと、と聞き返す。だから、そういうことだよと、深冬ははぐらかすように、まず答え、それから裸の胸も隠さずに、枕元の煙草を取って、火を付けた。この季節には珍しく、外は雨がザアザア降っていて、湿気に吐き出す煙が濃さを増す。


「うち、色々あったって言ったじゃん。だから家出して、騙されて、誰にも頼れないから風呂落ちしたって」


「ああ」


 いつになく大人しく、龍吾が頷く。


 一回り年下の龍吾とは、夜の街で出会い、付き合いだして、もう三年。いや、出会ったというよりは、捨てられ、自暴自棄になっていた子犬を、深冬が拾ったという構図だったが、そんな風に思っているということが当の子犬に知れたなら、殴る蹴るの暴力が始まるだろう、噛みつくことしかできない子犬を、深冬はそれでも愛している。だから、この三年、夜で稼いだ金を貢ぎ、欲しいというものを与え、浮気すらも見て見ぬふりをしてきたのだ。龍吾こそ、深冬のたった一人の人で、生涯決して離れはしないと誓った相手だから——もし、龍吾にそのつもりがないにしても。


「で?」


 黙り込んだ深冬に、焦れたように龍吾が促すと、普段とは逆、深冬が二人の間の実権を握っているようで、それが楽しくて彼女は笑う。しかし、それも束の間、龍吾の機嫌を損ねないうちに、話の穂を継ぐ。


「あのね、絶対秘密だよ」


「ああ」


「うちの母親、人殺したのに、捕まってないんだ」


 思った通り、龍吾の眉がピクリと動く。深冬はさらに嬉しくなって、


「ドラマみたいに、トリックとか、アリバイとか、そういうのを使ったわけじゃないよ? それなのに、全然平気だったんだ」


「なんで? 運ってこと?」


「ううん、違う……」


 思いの先で、記憶のページがぱらぱらとめくれていく。深冬の脳裏に、あの光景が——明るく激しい雨の中、倒れていた女の姿が浮かび上がる。


 そう、今日の日と同じような、あの日は台風が来ていたらしい。それもおかしな台風で、空は晴れたり、そうだと思えば雷雨が来たり、青空のまま雨が降ったり、めまぐるしく表情を変えていた。だから、その変化に紛れ込み、誰も何も気づかなかった。女が叫び、刺され、倒れ、捨てられる、そんなことが起きていたとしても。


「その女の人はさ、父親の浮気相手だったの。でもうまくやってたんだろうね、母親は知ってたけど、他の人は誰も知らなかったみたい。それがあの日、どういうわけか家に来て——」


 別れてください、女はそんなことを言いに来たのだ。父親がいない間に、母親に直談判にやってきた。しかし、話し合いは決裂し、母親は包丁で女を刺した。深冬はそれを、二階の自室の窓から見ていた。家の隣の空き地に咲いた、二つの傘。その一方がゆらりと揺れて、地面に倒れ、もう一方の手には——母親のそれには、鈍く光る包丁があったのを。


「馬鹿かよ」


 すると、龍吾は自分のことのように苛立ち、ちっと大きく舌打ちをした。


「そんなことしたらすぐ見つかるだろ。バラバラにしてちょっとずつ捨てるとか、山に埋めるとか、それくらいしようと思わねえのかよ」


「その日の夜に、警察が死体を発見した。会社帰りの人が見つけて、通報したみたい。そこからは大騒ぎになった」


 当たり前だろ、というように、龍吾が肩をすくめる。しかし、話に興味を失っていない証拠に、まだ深冬の言葉を待っている。お預けを食らった子犬のように、どこか切ない衝動を抱えながら。


 深冬の背筋はぞくぞくとした。なぜなら、龍吾はどうしても知りたいのだ。人を殺しても、捕まらない方法を。この愛すべき男にとって、ここでの暮らしは底の底、恥の掃き溜め。だから、いずれ普通の暮らしに戻るときには、どうしても殺しておきたい人間がいるのだ。夜に拾われた過去を消し、その暴力性をひた隠し、汚点のない人生を歩むため。


 煙草の灰をトン、と落とし、深冬は堪えきれない笑みを堪え、続ける。


「そんな騒ぎになったから、当然、警察が来て、母親にも事情聴取ってやつ、この時間は何をしてましたか? みたいなことを聞いてたよ。あの女の写真を見せて、この人知ってますか、とかもね。私ももちろん、聞かれたよ。何せ、死体があったのがうちの隣なんだから——それも、ちょうど私の部屋から見える場所」


「で、お前は母親がやったって言ったのか?」


 焦れたように、龍吾が尋ねる。


 興味が無い風を装うことも忘れてしまったのだろう、そんなところが可愛いのだと、深冬は表情には出さずに笑う。


「ううん、私、警察には何も言わなかった」


 言わないでいることは得意だから、だから龍吾のことも誰にも言ってない——と、こちらは小さく胸の中で、深冬は同時につぶやいた。


「何で」


「だって——」


 龍吾のことが好きだからだよ、一緒にいるって誓ったからだよ——これは未来への答えだけれど、深冬はやはり無言でつぶやく。龍吾の知ることのない答えだから、先に言っておかなければと思ったのだ。


「だって?」


 しかし、思いを知る由もない、龍吾は急かす。


「なんで母親がやったってこと、警察に言わなかったんだよ」


「だって……すぐにバレると思ったから」


 深冬は、大きく煙を吐き出した。


「私が言わなくたって、母親はすぐに捕まるだろうって、そう思った。ドラマだったら、トリックとかいろいろあるけど、これは単純すぎる話でしょ。夫の浮気相手を、妻が殺したって、それだけ。そんなこと、分からない方がおかしいと思わない? だから、私は言わなかった。母親との仲も良かったしね。もちろん、あれを見た後、普通に接するなんて無理だったけど。人を殺すだなんて、そんな人だと思ってなかったから。でも、言った通り、いつまで経っても母親は捕まらなかった。それどころか、二週間くらい経った後、別の人が、犯人として逮捕された」


「どういうことだよ」


 混乱したように、龍吾が言う。可愛らしく、目をまん丸にして、驚いている。


「どういうこともない、そういうこと」


 その愛らしい表情を眺めながら、深冬は続けた。


「当時、近所に不審者がいるって、警察に通報が何度かあって、それがそいつだったらしい。四十代の、引きこもり男。で、その殺人もそいつのせいにされた」


「そんな簡単に?」


「って思うでしょう、私だって信じられない」


 けれど、事件の犯人は逮捕され、真犯人である母親は日常に存在し続けた。あの光景を見た深冬にとって、それは日常でありながら、非日常のようだった。まるで母親だけが別の世界からやってきた人間で、だからこの世界のルールは、決してその存在を捕らえられないとでもいうように、日常は、非日常的な歪みを蓄えながら、続いていった。


 ある日、その歪みを受け止められなくなったのは、当の母親ではなく、深冬のほうだった。深冬は次第に家に帰らなくなり、初めは友達の家を転々と、そのうちに公園に住み着き、やがて夜の街で出会った男の元へと転がり込んだ。


「父親は?」


 深冬の事情などどうでもいいというように、龍吾が尋ねる。


「私と同じ。帰らなくなった」


「そうじゃなくて。母親が殺したって、知ってたのか?」


「知ってたんじゃない?」


「でも言わなかった」


「うん」


「何だよ、それ……」


 嘘を、龍吾は嫌いなのだと、そう言う。もちろん、本人は平気で嘘をつくけれど、深冬がつくのは許せないし、絶対に許さない。おまけにあれだけ深冬を殴っておいて、暴力を振るうのは最低だと、そんなことも口にする。ちぐはぐな言動は、龍吾の得意技なのだ。得意でいながら、そこに罪悪感を抱いている——。


「じゃあ意味ねえよ」


 投げやりに、龍吾は言い捨てた。


「人殺しがバレなかったのは、やっぱ運ってことだろ。それに、お前や父親が嘘ついたから。だから警察も騙された、それだけの話だろ」


 やはり、捕まらずに殺人を犯す方法は無いのだ——龍吾の目が暗さを帯びる。


「違うよ」


 慌てて、深冬は煙草の火を消した。龍吾の細い肩に寄り添う。


「確かに、私たちは何も言わなかったけど——嘘をついたかもしれないけど、だから捕まらなかったわけじゃない。肝心なのは、父親と、その女の関係を知る人がいなかったこと、それに他の容疑者がいたってこと。いかにも人を殺しそうな、不審者が」


「だから、それも運だろ。関係を知られてなかったのも、不審者がいたのも」


「違うって」


 もう一度、深冬は言った。


「不倫だから隠したんだよ。必然だよ。不審者だって、作り出そうと思えば作り出せる」


「どうやって?」


「母親が——例えば、不審者がいるって通報をしたのが、母親だったら? 浮気相手と会う前に、最初から殺すつもりで、疑われるような誰かを知らせておいた」


「母親も嘘つきかよ」


 龍吾は吐き捨て、深冬を睨む。


「でも、その男がしてないって言えば終わりだろ。それなのになんで犯人にされんだよ」


「ねえ龍吾、現実はドラマじゃないんだよ」


 ここぞとばかりに力を込め、深冬は言った。


「殺人事件があって、証拠がなくて、でも犯人像にぴったりの人がいたら、警察は逮捕したいでしょ?」


「でも、できるわけないだろ」


「できるよ」


「証拠がない」


「なら、その男の部屋から凶器が発見されたとしたら?」


「発見されたのか?」


 頷く代わりに、深冬は笑った。


 あの日を境に、家の包丁が一本無くなっているのを深冬は知っていた。捨てたのか、それとも隠しているのか。しかし、数日後、それはあの男の部屋から見つかった。罪を被せるため、母親があの男の部屋に仕込んだのか? 近所に住んでいたとはいえ、さすがにそんなことはできないだろう。ならば、なぜ? 答えは一つだ。


「警察が証拠を偽装したってことか?」


 龍吾が呆然としたようにつぶやく。あのとき、深冬が辿り着いたのと同じ答えに。信じられない、そう思っても、それが一番納得できる答えなのだ。警察だって人間だ。殺人事件を解決したい、犯人を捕まえたい、そんな警察の思惑と、母親の用意した、罠とも言えない罠がぴたりと嵌まった。現実はよくも悪くもドラマじゃない。そこに疑問を感じ、真犯人を導く主人公など、存在しないのだ。


 もっとも、かつては深冬もドラマのような現実を信じていた。しかし、母親の見せたものは、その真逆を行くものだった。現実は厳しい——人はよくそう言うけれど、実は現実こそが甘いのだ。ドラマのように緻密に用意された筋もなければ、決まり切った行動をする人間もおらず、偶然が偶然を呼び、罪は隠される意図もなく隠蔽され、あるいは隠蔽されてもいないのに、誰もその事実に気づかない。そして、たまにハズレを引く人間がいる。訳も分からず罪を着せられ、刑罰を受ける人間が。


 だから、龍吾が犯そうとする罪も、決してバレることはないのだと、深冬はそう信じていた。警察は、あの静かな住宅街で起きた殺人さえ解決できない。ならば、このひねくれた夜の街で起きる殺人など、解決しようという気も起きなければ、犯人になり得る人間も多すぎて、龍吾の罪は見つからないのだ。


 だから、これは最後の一押しだった。深冬はザアザアと降る雨に目を向け、いかにも感慨深く告げた。


「まあ、一番はあの雨だったよ。あの大雨で証拠が流れて、捜査が難航したんだって、テレビなんかでもそう言ってた。そう、今日みたいな雨、ザアザアの大雨」


 そのとき、雷鳴が轟いて、龍吾がはっとしたように窓を見た。この季節には滅多にない大雨、今日という日を逃してしまえば、またいつ降るか分からない、長い長い雨の一日。


「……深冬」


 ややあって、龍吾が口を開いた。


「俺、煙草切れたから、買いに行かないと」


「行ってこようか?」


 何気なさを装い、深冬が聞くと、ごくり、龍吾が生唾を飲み込む。


「……いや、俺も行く」


「分かった」


 いつもなら深冬を使い走りにし、一緒に行くなんてことは有り得ない。しかし、何も気づかぬ風に、深冬は服を着て、靴を履く。龍吾はどこか落ち着かぬ様子で、部屋の鍵をいじっている。大丈夫だよ、龍吾に声をかけたくなるのを我慢して、深冬は携帯電話から、ある番号へ発信しておく。先日、ようやく手に入れた、昔の男の携帯番号。深冬を騙し、風呂に沈めた張本人。借金取りに追われながら、各地を転々とし、逃亡犯のような生活を送る男を、果たして警察は見つけることができるだろうか?


「雨、すごい」


 玄関を開けると、冷たい雨が頬を打つ。無防備な背中を晒し、深冬は路地の抜け道を歩く。後ろから龍吾の気配がする。玄関脇のキッチンに、置いてあった新品のナイフを握りしめ、歯の根も合わず、震える臆病な子犬の気配が。


 いいんだよ、その気配を感じながら、深冬はゆっくりと歩いていく。


 彼女が助けた子犬には、どうやら帰れる場所があるらしい。こんな夜の街でなく、明るい昼の光溢れる場所が。しかし、そこへはただで戻れない。年上の女に頼り、暴力に頼り、金に頼った恥の日々を、消してしまわなければ帰れない。影から光へ、それほど大きな転換には、それと同じくらい大きな代償が必要だ。


 その代償が、この場合は恐らく、深冬だった。どれほど暴力を振るっても、金を奪っても、龍吾から離れない深冬の命で、それは支払われるべきなのだ。そうすれば、龍吾は深冬のいない、かつ、きれいな身の上で光へ戻れる。何せ恥の過去は、いつでも彼女と共にあったのだから。


 その瞬間がいつだろうと思いもせずに、深冬は龍吾の先を歩く。人を殺してまで取り戻したい人生があるのなら、躊躇わずに取り戻せばいい。罪悪感など覚えずに、自分を一番に愛せばいいのだ。なぜなら、龍吾にはずっとそれができなかった。自分のことが愛せないから、彼は嘘や暴力を必要としたのだ。けれど、そんなものは必要ないと、深冬はいま、最後に教えてやるのだ。


 路地を出るまでの短い距離を、殊更、深冬はゆっくり歩く。子犬が育ち、自立していく、その姿を見ることはできないのだと、ほんの少し寂しい気持ちで、けれど、三年、育て上げたのだという、母親のように誇らしげな表情で。


 その歩みが、ぴたりと止まる。龍吾が深冬の背中に触れる。さよなら、その一言さえも秘めたまま、深冬は雨のアスファルトへと身体を横たえたのだった。

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