【こむら川投稿分】離れの君
おばあちゃんちの離れには美しい人が住んでいる。旅館にあるような薄い着物を着て、たまに庭に出ては花や草木を愛でている。
おばあちゃんの家にはいつも夏の間だけ預けられたいた。初めて俺が彼を認識したのは、七歳の時だった。
髪は肩より少し長いくらいで、滅多に外に出ないせいか肌は白い。背の高さと肩幅から男だと判断できたが、あまりに整いすぎた顔は中性的だった。澄んだ目は夜の海のように凪いでいて、感情が見えない。
彼はしゃがんで朝顔に挨拶をしていたところだった。白い指が紅色の花をなぞり、迷子になって宙に浮いていた蔓を支柱にかけてやる。
「おばあちゃん、あの人は誰?」
夕飯の準備をしていた祖母に聞くと、手を止めて苦々しい顔で言いにくそうに説明してくれた。
神と人との間に産まれた子なのだという。もう何十年も幽閉されている。幽閉とは言っても敷地内は自由に出歩けるのだが、滅多に出てくることはない。
触れ合ってはいけない。
相槌を打ってはいけない。
泣き顔を見せてはいけない。
その三つさえ守っていれば、お互いに干渉せず何も起こることは無い。
「それをしたらどうなるの?」
「さぁね」と素っ気なく返されて、
「触らぬ神に祟りなし」
と、これ以上話題にするなとでも言うように会話は打ち切られてしまった。この家は祖母と彼の二人で住んでいるはずなのだが、どうやら関わりはほとんど無いらしい。
彼は離れからはほとんど出てこないから、夏の間に一度も見ないこともあった。初めて見たときから十年が経っても姿形は変わらずずっと若いままだった。自分の年齢はだんだんと近付いていくのに、見た目のあまりの変わら無さに心の距離は遠ざかっていく。
高校生になると祖母の家にはお盆の間だけ帰るようになった。
戸を開け放して、畳に寝転がり、通り過ぎる風を感じる。祖母は買い物に行っていた。足腰があまり良くはないから時間がかかるし、ついでに井戸端会議もするだろうから、しばらくは帰らないだろう。
不意にバンと何やら屋根に当たる音がした。慌てて上半身を起こすと、遅れて「すいませーん」と玄関から声がかかった。返事をしつつ俺は玄関へと向かう。玄関には近所の小学生二人が立っていた。
「すいません、ボールが入ってしまって」
道路向こうは広い空き地になっていて、よく野球をしていた。そこからボールを飛ばしてしまったのだろう。
「ホームランじゃん。ちょっと待ってて」
音が鳴った場所を考えつつ屋根を見ると雨樋にボールが引っ掛かっていた。物置から脚立を出して上る。それでも届かないので天板の上に乗り、探るとボールが手に触れて、背伸びをしてボールを掴む。取れた、と思った瞬間、ぐらりと足元が揺らいだ。やばい、と思い咄嗟に頭を守るように丸まって、背中から地面に落ちる━━
「いった……くない」
━━と思ったら、何かに抱きとめられた。
「天板の上に乗ったらいけないって知らなかった?」
「知らなかった」
反射的に答えてからしまったと思った。自分と地面との間に下敷きになっていたのは、離れに住む彼だった。
『触れ合ってはいけない』
『相槌を打ってはいけない』
一度にツーアウト。この十年ちゃんと守ってきたのに、なんで今さら……と思ったものの、特に破ったからといって何かが起こるわけではないらしい。あれ?
間近で目が合って、首を傾げる。すると小さく息を吐いて、安堵したような表情を見せた。
「ボール返さなくていいの?」
「返して来ます」
落ちた瞬間に手からすり抜けたボールを拾い、玄関へ行って返すと、深々と礼をして空き地へと走り去っていった。
戻ってくると、脚立は片付けられていて彼はもういなかった。離れはここから十メートルは離れている。あの距離をどうやって一瞬で詰めたんだろうか?
離れの引き戸は閉まっていた。ノックをするとガラリと戸は開いて意外にもすぐに出てくれる。見上げると、真顔で見下ろされる。この人は、俺よりも頭一つ分背が高い。
「どうした?」
「お礼を言ってなかったので……」
「律儀だね」
「ありがとうございました」
「怪我が無かったなら良かった」
はにかんだその顔は、どこかぎこちない。普段あまり笑わない人の作る表情だったけれど、目を和らげて優しい顔で笑っている。本心からこちらのことを思って笑っているのが分かって、つられて俺も頬が緩んだ。
「けどあんまり来ちゃダメだよ」
そう忠告して、俺との間に線を引く。
「またね」
夕飯後にチャイムが鳴って玄関に行くと、昼の小学生の一人とそのお母さんがいた。居心地悪そうに、少年は半歩後ろに下がって隠れるように立っている。
「お昼はすいませんでした」
そう謝って「良かったら」と帰りがけに渡されたのは白い箱だった。
玄関で箱を開けてみると、タルト地のチーズケーキが二ピース入っていた。
二つあるならば、一つはあげるべきだと思った。だから離れへ行ってノックをしてみる。出てこない。
引き戸を試しに引くと鍵はかかっていなかった。そっと開けると中は暗く、光源は窓からの月明かりだけだった。一歩入ると向かい風に吹かれ、髪が巻き上げられて思わず目を閉じた。同時に背後の戸がピシャリと閉まる。
「ここに来てはいけないと昼にも言ったのに。特に夜はダメだ」
目を開けても視界には黒い靄がかかっている。目を擦ってみたが、この靄は自分の目ではなくこの人が纏っているらしい。
「すまない。夜はあまり形が保てないんだ」
人、狼、金魚、猫、ヤモリ……黒い靄が揺らぐ度に姿が変わっていく。
「困ったな、人に固定できない。人は夜行性ではないから、他の姿が優先されて戻れなくなってしまう。ねぇ、右腕はこれで合っている? どうにも左腕は狐から戻ってくれない。利き手は左なのに」
ぎこちない右手を伸ばし、俺は頭を撫でられる。
「怖くない?」
「怖くは無い、けど」
多分、この姿だから努めて優しい声を出している感じがした。だから怖さは感じなかったが、本当に人ではなく神との
「猫派? 犬派?」
「犬」
「狼は好き?」
口の大きな狼になる。大型犬の頭よりも更に大きくて、食べられる前の赤ずきんの気分だ。
「これはこれで、少し怖いかな」
「ならばいっそ生き物をやめてしまおうか」
パッと頭が狼から朝顔になる。怖さは消えたが、これはこれで異様ではある。
「自由に姿が変えられるの?」
「そう、別の生き物に自由になれる」
そこでふと思い至る。昼にどうやって俺は助けられたのか。
「昼は足だけ狼にして飛んだんだ。で、こんな夜更けにどうしたの?」
その場に座り、箱を開けて中身を見せる。
「チーズケーキのお裾分け。昼の小学生のお母さんが持ってきたんだ 」
「……律儀だねぇ」
「律儀ですよね」
「君のことだよ」
「え?」
「それならもう少し頑張るか……」
そう言うと手で顔を隠した。狼になり、人になり、朝顔になり、黒い靄を纏いながら全てが混ざっていく。
「……できた! これなら食べられるね。犬歯は残ってしまったが、食べる分には支障ない」
最終的には人の顔に狼の耳、頬には朝顔が咲いているという辛うじて人と呼べる姿になった。
「あー手が……手はもう無理だな。申し訳ないが、食べさせてくれないか?」
そう頼まれたから、フォークでチーズケーキの鋭角の部分を切り取って食べさせた。ついでに自分の口にも入れて食べる。美味い。
「拍子抜けだな。禁止されていることを破ったら何か起こると思っていたのに」
「ここに来ること以外に何か禁止されてるのかい?」
知らないのか……? 三つのことを禁止されていると伝えると、感心したように「なるほど」と呟いた。
「上手いこと出来ているね。禁止事項は言ってしまえば『仲良くしてはいけない』ということだよ。君は守った方がいいと思う」
「今更のような……」
「もう一口ちょうだい?」
甘えるように言うから、もう一欠片口に入れてやる。元の性格はどうやら人懐こいらしい。
「なぁ、名前は?」
「あゆすだよ」
「あゆす? 不思議な響きの名前だね」
「君は?」
「
「周祢か、覚えておこう」
その後は他愛ない雑談をして、食べ終わったあと俺は離れを出て母屋に戻ったのだった。
お盆の最終日で、明日には家に帰ろうという日のこと。明け方から降りだした雨は止むことを知らず、『百年に一度の大雨』とテレビで伝えていた。いつ土砂崩れが起きてもおかしくないためうちにも避難勧告が出ていた。
避難所に行くか聞くために祖母の部屋へと向かうと、部屋からあゆすが出てきた。珍しい。
「どうしたの?」
俺の姿を認めると、目を細め淡く笑って何も言わずに玄関の方へと去っていく。その姿に胸騒ぎを覚えながら、俺は祖母の部屋の障子を開ける。祖母は顔を伏せていた。
「ばあちゃん、あゆすはどこに……?」
「お前、禁止を破ったね……あいつは山に行ったんだよ。山の力が弱っているときに人柱になる」
「え、どういうこと?」
人柱、ということは命を犠牲にするということか?
「って、ばあちゃん泣いてる……?」
祖母の肩が震えていた。ポタリポタリと、降る雨よりも大粒の涙が畳に止めどなく落ちていく。その涙を祖母は拭おうとしない。
「泣いてないさ。泣き顔を見せるわけがないだろう」
強がるようにそう言って、俺は察した。この家に二人で住んでいて、全く話さないなんてことは有り得ない。俺でさえも助けられたのだ。足腰のあまり良くない祖母のことを、あの人が助けていない訳がない。祖母は自分がこうして悲しくなることが分かっていたから、俺には禁止事項を出したのか。
三つの禁止は、双方の意思がなければ成り立たない。
相槌を打って心を交わしてはいけない。
互いに手を伸ばし、その手を取ってはいけない。
泣き顔を見せられるほど、弱いところをさらけ出せるほどに、相手を信頼してはいけない。いなくなったときに泣いてしまうほど、親密な関係になってはいけない。
要約すればそんなところ。
しかしあの美しい人に声を掛けられて、触れられて、悲しいほどの優しさを見せられて、何も返さないなんて出来るわけが無かったのだ。
「仕方無いんだよ」
「仕方無いって、そんな……!」
「周祢!」
俺は廊下を走り出していて、背後から祖母の声がかかったけど、もう止まれない。傘も差さずに外へ出る。強降りの雨は変わらず降っていて、自分の肌を強く打った。
家の裏は山になっていて、細い道を通れば上へと登れる。
ご神木は崖の側に立っていた。あゆすはご神木に並ぶように立っていて、崖を向いていた。
「あゆす!」
背中に呼び掛けると驚いたように振り向いた。今にも飛び下りてしまいそうなその人の腕を、しっかりと掴む。
「あー、来ちゃったか。こんなことなら君と話さなかったのにな。長らく何も起きなかったのに、そういうときに限って来るんだから」
後悔するように言う。全身がしっとりと濡れていて、前髪から落ちた雫が頬を伝って流れていく。
「おばあさまから聞いた? 自分は山の力が弱っているときの、謂わば予備バッテリーみたいなものだ。こういうときの為にいる存在なんだよ。君を守るためにも行かせてくれ」
「守られるほど弱くない! あんたは俺を助けてくれただろ。今度は俺に助けさせてくれよ」
俺に何かが出来るわけではないけれど、少なくとも行かしてはいけないことだけは分かる。他に方法は何か無いのか?
「雨なんて、そのうち止むだろ?」
「災害が起こったら、たくさんの人が死んでしまうよ。自分一人の犠牲でそれが回避できるなら行く」
「知らない人のために、犠牲になるなよ」
「知らない人じゃないよ」
あゆすは少し屈んで、俺と目を合わせた。色の薄い透明な目が、真っ直ぐに俺を見据えている。
「君もいるし、おばあさまもいるし、小学生二人もそのお母さんもいる。知っている人たちのために行くんだ」
「それでも、行くなよ」
真剣に諭そうとするその人に、俺は子どもみたいに駄々を捏ねることしか出来なかった。
「あんまり泣かないでよ」
あゆすは左手で俺の涙を拭った。これで全部禁止を破ってしまった。
つんざくような光と雷鳴の後、ばきりとどこかの木が折れる音がした。突風が吹いて、思わず目を瞑ると額にガンと折れた木がぶつかってよろめいた。ヤバい━━と思ったときには身体はもうバランスを崩していた。
「周祢! 離すな!」
言われるがまま離しかけた手に力を入れ直す。あゆすが崖を跳躍して、抱きとめる。そのまま二人で崖の下へと落下していった。落ちていく感覚に意識が飛びそうになる。
「ちゃんと持ってな」
耳元でそう言われて、なんとか意識を保たせる。あゆすの腕がしっかりと俺の体を掴んでいた。荒れ狂う川が目前に迫っていた。
「周祢だけはどうにか助ける。少し我慢して」
あゆすは俺を庇い、体が川に叩きつけられる。衝撃をあゆすが全部受けたから、俺は痛みを感じないまま冷たい川に一度深く沈み川面へと上がる。
あゆすの腕を掴んだままだったけれど、その体はキラキラと輝いていた。光を見ながら、自分の無力さを思い知る。
━━何も出来なかった。
悔しい気持ちを抱えながら力が抜けていき、俺は意識を手放した。
目が覚めると、一瞬どこにいるのか分からなくて混乱した。次に異様なだるさが体を襲う。窓からは光が差していて、白いカーテンが風になびいている。おそらく病院で、俺はベッドに寝かされているらしい。
窓際のベッドには人がいて、背中を向けていた。その後ろ姿には見覚えがあった。
「あゆす……?」
呼び掛けると寝返りを打って、こちらを向いた。どこか嬉しそうな顔をしていた。
「やっと起きたか。どうも二人揃って川下に流れ着いていたらしい」
あゆすが生きている。窓から差す太陽の光の下にいる。
「自分一人が犠牲になるところを、自分の神の部分が半分と君の人の部分が半分でどうにかなったらしい。おかげで土砂崩れも川の決壊も起きずに済んだようだよ」
「助かったなら良かった」
「うん、本当に助かった。礼は何度言っても足りないくらいだ」
自分がしたことは無駄ではなかったらしい。ちゃんと確認したくて手を伸ばすと、気付いたあゆすも手を取った。人間の左手だった。
「それにしてもだるいし重い……しばらくは起き上がれなさそうだな。完全に人になってしまった。まぁけど悪くないね、他の生き物になれないのは残念だけど、人間の重さというのはそれ以上に愛しい。見た目は大体君と同じだから、同級生ということにしようじゃないか。従兄弟設定でいこう」
「馴染むのが早すぎる」
「それだけ嬉しいんだよ」
あゆすが指を絡めるように手を掴む。
「これからが楽しみだね」
どこか人間らしくなった美しい人が、人懐こく笑っていた。
離れの君 2121 @kanata2121
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