離れの君

2121

離れの君

 おばあちゃんちの離れには美しい人が住んでいる。旅館にあるような薄い着物を着ていて、たまに庭に出ては花や草木を愛でている。肩には雀が留まっていて、その人を中心にして蝶もふよふよ舞っている。

 おばあちゃんの家にはいつも夏の間だけ預けられたいた。両親が共働きで忙しく面倒を見きれないから、という至極よくある理由のせいだ。

 初めて僕が彼を認識し、初めて彼が僕を目に入れたのは、僕が七歳の時だった。

「こんにちは」

 ひどく耳に残る深い声で、彼は僕に挨拶をした。

 髪は肩より少し長いくらいで、離れから滅多に外に出ないせいか肌は白い。背の高さと肩幅から男だと判断できたが、華奢であったしあまりに整いすぎた顔は中性的だった。澄んだ目は夜の海のように凪いでいて、感情が見えない。あの白い頬に表情が乗るのが想像できないくらいには、あまり感情を動かさない人なのだろうというのが一目で分かった。

 彼はしゃがんで朝顔に挨拶をしていたところだった。白い指が紅色の花をなぞり、迷子になって宙に浮いていた蔓を支柱にかけてやる。長い髪が風に揺れて、朝顔の花も揺れて彼に挨拶をしていた。目の端に僕が入ったから、朝顔のついでに僕にも挨拶をしたのだろう。

 離れには近付かないようにとは言われていたけれど、人がいるという話は聞いていなかった。戸惑いのまま挨拶を返すことは叶わずに、軽い会釈をして足早に廊下を過ぎていく。自分の背にくすりと笑う声が追ってくる。幼い子が人見知りをして親の後ろに隠れたときに掛けるような、未熟さに微笑むような笑みだった。

「おばあちゃん、あの人は誰?」

 夕飯の準備をしていた祖母に聞くと、手を止めて苦々しい顔で言いにくそうに説明してくれた。

 神と人との間に産まれた子なのだという。曰くもう何十年も幽閉されている。幽閉、とは言っても鍵を掛けている訳ではなく敷地内ならある程度移動できるのだそうだ。しかし、ほとんど離れから出てこない。

 触れ合ってはいけない。

 相槌を打ってはいけない。

 泣き顔を見せてはいけない。

 その三つさえ守っていれば、お互いに干渉せず何も起こることは無い。

「それをしたらどうなるの?」

 「さぁね」と素っ気なく返されて、

「触らぬ神に祟りなし」

 と、これ以上話題にするなとでも言うように会話は打ち切られてしまった。この家は祖母と離れの人の二人で住んでいるはずなのだが、どうやら関わりはほとんど無いようだ。

 彼は離れからはほとんど出てこないから、夏の間に一度も見ないこともあったし存在感もあまり無い。たまに見る姿は人にしか見えなかったけれど、確かに初めて見たときから十年が経っても姿形は変わらずずっと高校生くらいのままだった。自分の年齢はだんだんと近付いていくのに、見た目のあまりの変わら無さに心の距離は遠ざかっていく。人ではないことをむざむざと思い知らされてしまう。

 高校生になっても祖母の家に来ることは変わらなかったが、部活や付き合いがあるのでお盆の間だけ帰るようになった。

 戸を開け放して、畳に寝転がり、通り過ぎる風を感じる。スマートフォンで友人とLINEをしていたけれど、向こうも家族と出掛けるそうで連絡は途絶えてしまった。宿題は無いわけではないが、あまりやる気にはならない。祖母は買い物に行っていた。足腰があまり良くはないから時間がかかるし、買い物ついでに井戸端会議もするだろうから、しばらくは帰らないだろう。

 風鈴が揺れて耳に涼やかな音を鳴らす。お盆に入ってから、ヒグラシが鳴き始めた。縁側に置いていた蚊取り線香の匂いが部屋の中にまで漂ってくる。これぞ日本の夏だなと思う。暇を持て余しているところも含めて、日本の夏だ。

 アイスでも食べようかなと考えていると、バンと何やら屋根に当たる音がした。慌てて上半身を起こし見回すと、庭の向こうの離れの前に珍しく彼が出ていて、庭先で涼んでいるようだった。向こうも音に気付いたようで辺りを見回している。遅れて「すいませーん」と玄関から声がかかった。「はーい」と返事をしつつ俺は玄関へと向かう。玄関には近所の小学生二人が立っていた。

「すいません、野球のボールが入ってしまって……」

 道路向こうはそこそこ広い空き地になっていて、よく野球をしていた。そこからボールを飛ばしてしまったのだろう。

「ホームランじゃん。ばあちゃんも今いないから黙っててやるよ。ちょっと待ってて」

 音が鳴った場所を考えつつ、庭に出て屋根を見ると雨樋にボールが引っ掛かっていた。

 物置から脚立を出して、安全バーを掛けたことを確認しつつ上る。俺はあまり背が高くないからそれでも届かないので天板の上に乗り、手で探るとボールが手に触れて、背伸びをしてしっかりとボールを掴む。取れた、と思った瞬間、ぐらりと足元が揺らいだ。やばい、と思い咄嗟に頭を守るように丸まって、背中から地面に落ちる━━

「いった……くない」

 ━━と思ったら、何かに抱きとめられた。

「天板の上に乗ったらいけないって知らなかった?」

「知らなかった……」

 反射的に答えてからしまったと思った。自分と地面との間に下敷きになっていたのは、離れに住む彼だった。

『触れ合ってはいけない』

『相槌を打ってはいけない』

 一度にツーアウト。この十年ちゃんと守ってきたのに、なんで今さら……と思ったものの、特に破ったからといって何かが起こるわけではないらしい。あれ?

 間近で目が合って、首を傾げる。すると小さく息を吐いて、安堵したような表情を見せた。こんな表情もするのかと、どこか不思議な気持ちになる。

「ボール返さなくていいの?」

「あ、返して来ます」

 落ちた瞬間に手からすり抜けたボールを拾い、玄関へ行って小学生二人に返すと、深々と礼をして空き地の方へと走り去っていった。

 戻ってくると、脚立は片付けられていて離れの彼はもういなかった。彼がいるであろう離れを見ると、ここから十メートルは距離があった。あの距離をどうやって一瞬で詰めたんだろうか?

 離れに来たものの引き戸は閉まっていた。ノックをするとガラリと戸は開いて意外にもすぐに出てくれる。見上げると、真顔で見下ろされる。この人は、俺よりも頭一つ分背が高い。

「はーい、どうした?」

「お礼を言ってなかったので……」

「律儀だね」

「ありがとうございました」

「怪我が無かったなら良かった」

 はにかんだその顔は、どこかぎこちない。普段あまり笑わないから表情筋が上手く動いていない人の作る表情だったけれど、目を和らげて優しい顔で笑っている。本心からこちらのことを思って笑っているのが分かって、つられて俺も頬が緩んだ。遠目にはいつも無表情で、どこかつまらなさそうで、あまり感情を動かさないように見えたのに、こんな顔をされるのはなんだか落ち着かない。

「けどあんまり来ちゃダメだよ」

 そう忠告して、俺との間に線を引く。

「またね」



 夕飯後にチャイムが鳴って玄関口に行くと、昼の小学生の一人とそのお母さんがいた。居心地悪そうに、少年は半歩後ろに下がって隠れるように立っている。

「お昼はすいませんでした」

「全然大丈夫ですよ。何か壊れたわけでも無いんで」

 「これ、良かったら」と帰りがけに渡されたのは白い箱だった。

「律儀だ」

 玄関で箱を覗いてみると、タルト地のチーズケーキが二ピース入っていた。プラスチックのフォークまでちゃんと付属されている。

 背に箱を隠しつつ、祖母のいる居間を通る。

「誰だった?」

「回覧板。重要そうなことは書いてなかったら次に回しといたよ」

 そんな適当な嘘を吐いて、俺は祖母の前を通り過ぎる。

 二つあるならば、一つはあげるべきだと思った。だから離れへ行って再びノックをした。出てこない。昼にあんなことを言っていたから、遠ざけようとしているのだろうか? これ以上禁止を破らないためというなら仕方ないが、せめてこのチーズケーキだけは渡したい。

 引き戸を試しに引くと鍵はかかっていなかった。そっと開けると中は暗く、光源は窓からの月明かりだけだった。板間で壁際に布団が敷かれているだけの物の無い部屋だ。

 一歩入ると向かい風に吹かれ、髪が巻き上げられて思わず目を閉じた。同時に背後の戸がピシャリと閉まる。

「ここに来てはいけないと昼にも言ったのに。おばあさまにも禁止されているんだろう? 特に夜はダメだ」

 目を開けても視界には黒い靄がかかっている。正面に人がいるはずなのによく見えない。目を擦ってみたが、この靄は自分の目ではなくこの人が纏っているらしい。

「すまない。夜はあまり形が保てないんだ」

 人、狼、狐、金魚、カナヘビ、人、猫、ヤモリ……黒い靄が揺らぐ度に姿が変わっていく。

「困ったな、人に固定できない。人は夜行性ではないから、他の姿が優先されて戻れなくなってしまう。ねぇ、右腕はこれで合っている? どうにも左腕は狐から戻ってくれない。利き手は左なのに」

 ぎこちなく右手を伸ばし、俺は頭を撫でられる。

「怖くない?」

「怖くは無い、けど」

 多分、この姿だから努めて優しい声を出している感じがした。だから怖さは感じなかったが、本当に人ではなく神とのあいなのかと思い知らされる。

「虫や爬虫類よりは哺乳類の方がいいよね。猫派? 犬派?」

「……犬」

「じゃあこうしよう。狼は好き?」

 口の大きな狼になる。大型犬の頭よりも更に大きくて、食べられる前の赤ずきんの気分だ。白い牙が鋭利に尖っている。

「少し怖いな」

「ならばいっそ生き物をやめてしまおうか」

 パッと頭が狼から朝顔になった。怖さは消えたが、これはこれで異様ではある。

「外にある朝顔の色だね。自由に姿が変えられるの?」

 紅色から薄紫のグラデーションの朝顔が楽しげに揺れて、くすりと笑っているようだった。意外にも顔は見えなくても表情はよく分かる。

「神とのハーフ特権だよ。別の生き物に自由になれる」

 そこでふと思い至る。昼にどうやって俺は助けられたのか。

「あ、あの距離をどうやって詰めたのかと思ったら」

「足だけ狼にして飛んだんだ。夜は困ってるけど、普段は便利に使ってるよ。で、こんな夜更けにどうしたの?」

 その場に座り、箱を開けて中身を見せる。

「チーズケーキのお裾分け。昼に野球ボール入れた子のお母さんが持ってきたんだ 」

「……律儀だねぇ」

「律儀ですよね」

「君のことだよ」

「え?」

「それならもう少し頑張るか……」

 そう言うと右手で顔を隠した。狼になり、人になり、朝顔になり、黒い靄を纏いながら全てが混ざっていく。

「……できた! これなら食べられるね。犬歯は残ってしまったが、食べる分には支障ない」

 最終的には人の顔に狼の耳、頬には朝顔が咲いているという辛うじて人と呼べる姿になった。

「あー手が……手はもう無理だな。申し訳ないが、食べさせてくれないか?」

 狐の左手と利き手ではない右手を握って開いてを繰り返し、困ったように眉を下げてこちらを向いた。仕方ないのでプラスチックのフォークを開けてチーズケーキの鋭角の部分を切り取り、雛鳥の如く開けている口に入れてやる。

「美味しいね。レモンが効いてる」

「ほんとだ、美味い。タルト生地も香ばしくていいね」

 ついでに自分の口にも入れる。どうやら手作りのようだった。もう一口食べさせようと、目を凝らしながらチーズケーキをフォークに乗せる。

「ここって電気は無いの?」

「無いよ。必要ないし普段は日が暮れたら寝てしまうからね」

「目は、狼?」

 瞳の色が昼とは違って、ガラス玉のような目の奥は金属のような鈍色をしていて瞳孔が開いていた。月明かりをよく反射しそうな瞳だ。

「そう、夜はこの方がよく見える。君には少し暗いかな?」

「大丈夫。月も出ているし、慣れてきたから」

 口を開けるのに合わせて、ケーキを入れてやる。人間の口になってもその口は大きくて、すぐに頬張ったケーキが無くなっていく。美味しさを噛み締めているようで、ずっと口角は上がったままだった。

「拍子抜けだな。禁止されていることを破ったら何か起こると思っていたのに」

「ここに来ること以外に何か禁止されてるのかい?」

 あれ? 知らないのか……?

 三つのことを禁止されていると伝えると、感心したように「なるほど」と呟いた。

「それは上手いこと出来ているね。禁止事項は言ってしまえば『仲良くしてはいけない』ということだよ。君は守った方がいいと思う」

「今更じゃない……?」

 破っても何も起きないことを知ってしまったし。

「禁止されている理由はあるからね。その意図を無下にすべきではないから」

「理由ってなに?」

「……君は知らなくていいんじゃないかな。もう一口ちょうだい?」

 甘えるように言うから、フォークで取って口に入れてやる。はぐらかされたとは思ったが、聞いても理由を教えてくれる気は無さそうだった。

 仲良くするなと言われても、この人懐こさを知れば、破って良かったとさえ思ってしまう。こんな人をずっと一人にしていたのかと少し罪悪感も湧いていて、これまで関わらなかった十年の時間を勿体無いとも思った。

「じゃあ、名前は?」

「……禁止事項には、名前を聞いてはいけないというのも入れておいた方が良かったんじゃないかな」

 ため息混じりに、苦々しい口調で呟いた。

「聞かない方がいい……?」

「あゆす、だよ」

 しかしすんなりと教えてくれる。あまり馴染みの無い音の、この人に合った名前を。

「あゆす? 不思議な響きの名前だね」

「日本語では無いらしいからな。君は?」

周祢あまね

「周祢か、覚えておこう」

 その後は他愛ない雑談をして、食べ終わったあと俺は離れを出て母屋に戻ったのだった。



 それからはあゆすと顔を合わせると、祖母の目を盗んで会うようになった。祖母が買い物に出るとどちらともなく目配せをして、離れへ行き他愛ない雑談をした。いつも帰り際には「あまり来てはいけないよ」と口ばかりの忠告を繰り返す。「はーい、またね」と返せば、どこか言いにくそうに「またね」と目を細めて小さく溢す。その顔が好きだった。

 禁止されていることを毎日のように破り続けていても、何も起こることはない。泣き顔はまだ見せていないが、全て破れば何か起きるかといえばおそらく何も起きないように思う。

 夜に口笛を吹けば蛇が出るとか、夜に爪を切ると親の死に目に会えないとか、そんな類いの迷信なんだろうとそのときは思っていた。しかしあらゆる迷信には迷信足り得る理由がある。その理由がどんなものかなど、あゆすと親しくなって浮かれていた俺は考えもしなかったのだ。

 お盆の最終日で、明日には家に帰ろうという日のこと。明け方から降りだした雨は止むことを知らず、『百年に一度の大雨』とテレビで伝えていた。いつ土砂崩れが起きてもおかしくない状況で川も増水している。この家も少し歩けば川があるため、避難勧告の範囲内だった。ギリギリに避難所に行っても、足の悪い祖母には大変だろうから早めに行った方がいいと思い祖母の元へ向かうと、祖母の部屋からあゆすが出てきた。珍しい。

「どうしたの?」

 あゆすは俺の姿を認めると、目を細め淡く笑って何も言わずに玄関の方へと去っていく。残されたのは俺と儚げな微笑みだけ。雨の音ばかりが耳に付いて、あゆすの存在までもが雨に紛れてしまうようだった。胸騒ぎを覚えながら、俺は祖母の部屋の障子を開ける。薄暗い部屋の片隅で、祖母は顔を伏せていた。

「ばあちゃん、あゆすはどこに……?」

 祖母は顔も上げず、こちらも向かない。ただ俺の言葉に呆れるようにため息を吐いた。

「お前、禁止を破ったね。まぁそのうち破るだろうとは思ってたけどね……あいつは山に行ったんだよ。存在意義を果たすのさ。━━山の力が弱っているときに人柱になる」

「え、……どういうこと?」

 日常では聞き慣れない言葉のせいで、理解がすぐには追い付かない。人柱、ということは命を犠牲にしてもう帰ってこないということか? 今のご時世に、そんなことが有り得るのか?

 問い質そうと祖母の肩に手を置いて振り向かせようとしたら、その肩が震えていた。

「って、あれ? ばあちゃん泣いてる……?」

 畳にはポタリポタリと、降る雨よりも大粒の涙が止めどなく落ちていく。その涙を祖母は拭おうとしない。

「泣いてないさ。泣き顔を見せるわけがないだろう」

 強がるようにそう言って、俺は全てを察した。この家に二人で住んでいて、何も話さないなんてことは有り得ない。俺でさえも助けられたのだ。足腰の良くない祖母のことを、あゆすが助けていない訳がない。祖母は自分がこうして悲しくなることが分かっていたから、俺には禁止事項を出したのか。俺に同じ思いをさせないために。

 三つの禁止は、双方の意思がなければ成り立たない。つまりは互いに愛を持って接してはいけないという意味だったのだ。

 相槌を打って心をわしてはいけない。

 互いに手を伸ばし、その手を取ってはいけない。

 泣き顔を見せられるほど、弱いところをさらけ出せるほどに、相手を信頼してはいけない。いなくなったときに泣いてしまうほど、親密な関係になってはいけない。要約すればそんなところ。

 しかしあの美しい人に声を掛けられて、触れられて、助けられて、悲しいほどの優しさを見せられて、何も思わないなんて出来るわけが無かったのだ。

「こういうときの為にいる人だからね。仕方無いんだ」

「仕方無いって、そんな……!」

「周祢!!」

 俺は廊下を走り出していた。背後から祖母の声がかかったけど、もう止まれない。

 玄関から傘も差さずに外へ出る。大粒の雨は変わらず斜めに降っていて、自分の肌を強く打った。まだ昼だというのに空は黒く厚い雲で埋まっていて、遠くから雷鳴も聞こえている。

 家の裏は山になっていて、道とも言いづらい細い通路を通れば上へ登ることができた。山登りに適さない運動靴は木の葉の堆積した道では何歩かに一度滑ったが、足を踏ん張り俺は後を追う。

 泥濘ぬかるみには辛うじてあゆすの足跡が残っていた。木と木の間を抜けつつ、雨で今にも消えそうなそれを見落とさないようにしながら辿っていった。

 雨足は尚も強まっている。濡れたシャツが纏わりついて気持ち悪い。風も大分強くなっていて、目を開けるのもやっとで濡れている服の裾で顔を拭う。

 この道はご神木のある場所に繋がっていて、崖の側で川を見下ろすようにして立っていた。何百年も前にひどい土砂災害があったときに、倒れずにここにあり続けた木なのだと以前祖母が言っていた。だからこんな人の来ない場所にあるのにご神木として祀られている。樹齢は千年を越えているらしい。

 ご神木が見えてきて、その隣の白い影が風に揺らぐ。蜃気楼のようなその色はあゆすで、薄い着物を風に靡かせていた。爪先は崖の先の中空を踏んでいて、少しでもバランスを崩せば落ちてしまう場所にいる。強い風が吹く前に、一歩を踏み出す前に、呼び止めなければ。

「あゆす!」

 背中に呼び掛けると驚いたように振り向いた。その目には今からすることへの恐怖心や迷いが一切見えなくて、いつもと変わらない平然とした顔だったのが恐ろしかった。どうしてこんなに当然のように覚悟を持っている? 今にも飛び下りてしまいそうなその人の腕を掴みこちらへ引いて、一歩こちらの地面を踏ませる。

「あーあ、来ちゃったか。帰りな?」

「帰るときはあゆすも一緒だ」

「困ったな。こんなことになるなら周祢と話さなかったのに。まだ次まで時間があるだろうから少しくらいいいかと思ってたら、そういうときに限って来るんだから」

 穏やかに、後悔の色を滲ませながら言う。全身がしっとりと濡れていて、前髪から落ちた雫が頬を伝って流れていく。

「《あゆす》の意味は知っている?」

 横に首を振る。前に日本語ではないと言っていたけれど。

「『あゆす』とは『生命』という意味だ。自分は自らの命と引き換えに、多くの命を救うためにいる。山の力が弱っているときの、謂わば予備バッテリーみたいなものだよ。何の役にも立たない自分が役に立てるのは今しかないんだ。君を守るためにも行かせてくれ」

 あゆすは俺に言い聞かせるように滔々と告げた。この世に産まれ名前を授けられた時点で、この運命を決定付けられていたというのか? 自分の意思ではなく、他者によって決められた運命を辿るためにここにいるというのか? ━━そんな悲しい人生があってたまるか。俺はそんなものには抗いたいし、あゆすにも抗ってくれと思う。けれどあゆすの声は覚悟を決めている声で、胸がざわついた。こんなにも強い覚悟をしたこの人を、俺は止められるのだろうか。

「あんたに守られるほど弱くない」

 細い腕をしっかりと掴み直す。ただ離してはいけないことだけは分かった。この腕を離せば、すぐにでもここから飛び降りようとするだろう。そんなことはさせない。

「役に立たないなんて言うなよ。あんたは脚立から落ちる俺を助けてくれただろ? 今度は俺に助けさせてくれよ」

 俺に何かが出来るわけではないけれど。何かあゆすを行かせない方法は無いのか? 考えるけれど何も浮かばない。なんとか時間稼ぎをして、頭を動かし絞り出すしか。

「雨なんて、そのうち止むだろ?」

「止むかもしれないけど、止んだときに誰もいなくて何もないのは悲しいだろう? この土地は約百年ごとにひどい災害が起きる土地なんだ。その周期で山の力が一時的に落ちるみたいでね。一度災害が起これば、たくさんの人が死んでしまう。自分一人の犠牲でそれが回避できるなら行くよ」

「知らない人のために、犠牲になるなよ……」

「知らない人じゃないよ」

 あゆすは少し屈んで、俺と目を合わせた。今日は人の目だ。色の薄い透明な瞳が、真っ直ぐに俺を見据えている。

「君もいるし、おばあさまもいるし、小学生二人もチーズケーキを作ってくれたお母さんもいる。知っている人たちのために行くんだ」

「それでも……行くなよ」

 真剣に諭そうとするその人に、俺は子どもみたいに駄々を捏ねることしか出来なかった。俺は無力だ。何も出来ない。

「『あゆす』という名前が『生命』という意味なら、あゆす自身の生命も蔑ろにすべきではないだろ……?」

「自分は人ではないからね。元から半分しかないんだ」

「あんたは確かに、ここに、いるのに?」

 こうしてあゆすの腕を掴んでいるのに。温もりも感じられるのに。人の部分が半分だからって、自らの命を軽んじていい訳ではないだろう?

「……あんまり泣かないでよ」

 あゆすは左手で俺の頬を拭った。打ち付ける雨に紛れてバレないだろうと思っていたのに、そう簡単にはいかないらしい。これで全部禁止を破ってしまった。いずれいなくなるものと心を交わせば、いなくなったときに辛くなる。

 ならば離れと母屋でそれぞれ過ごし、接することなく、話すこともなく、心を交わさなければ良かったのかといえば、そうではないと全力で否定したい。俺は禁止事項を破ってあゆすと話し、こうして距離が近付けたことを悪かったことだと思わないし後悔もしない。こんなことになるなら出会わなければ良かったなんてことも思わない。

 ここに俺はいて、こうして腕を掴むことはできたのだから。

 けれどどうすれば助けられる?

 方法の浮かばないまま、自分の意志とは無関係に涙ばかりが零れていく。あまりに不甲斐ない。なんて無力だ。

 そのときつんざくような光と雷鳴がして、思わず肩が跳ねた。どこに落ちたのだろう? 近くに落ちたことは分かったが、どこかは分からず辺りを見回していると、突風が吹く。あまりの風に思わず目を瞑ると、頭の横からガンと何かがぶつかってよろめいた。ヤバい━━と思ったときには身体はもう崖の方へとバランスを崩していた。

「周祢!」

 目を開けたときにはもう落ち始めていて、あゆすまでも巻き込むわけにはいかないと手を離す。俺の頭にぶつかった木の枝と焦っているあゆすの顔と暗い雨雲を見ながら、俺が犠牲になったならあゆすは助かるのかなと甘いことを考えていた。

 なのに、あゆすは俺の気など知らないで崖を跳躍し、俺を抱き留める。しっかりと背に手を回し、その手の力があまりに強かったから俺も同じように背を掴んだ。するとあゆすは、こんな状況なのに安堵したように小さくため息を溢した。

「……絶対に離すなよ」

 俺の背に回していた手の感触が変わる。見れば手は鉤爪に変わっていた。見上げた顔も人の顔をしていない。

「……龍?」

「周祢だけは助けるから」

 あゆすは龍神と人との間の子だったのか。そのまま二人で崖の下へと落下していった。

 荒れ狂う川が近付いている。泥の色で濁った川はごうごうと激しい音を立て岩壁を削りながら流れていく。

音が間近に近付いて思わず目を瞑る。あゆすは俺を庇い、龍の体が川に叩きつけられる。衝撃をあゆすが全部受けたから、俺は痛みを感じないまま一度深く沈み川面へと浮き上がる。

 水は冷たく纏わり付くように重かった。あゆすを掴んだまま川を流れていくけれど、その体はキラキラと輝き龍の体が消えていく。掴んでいた手の感触も、背に回した腕の強さもだんだん弱くなっていった。その光を見ながら、自分の無力さを思い知る。

 ━━何も出来なかった。

 悔しい気持ちを抱えながら力が抜けていき、俺は意識を手放した。



 目が覚めると白い天井がまず目に入り、ここが自分の見知った家ではないことを知る。寝かされている糊の効いた固めの白いシーツは馴染まずよそよそしさがあったが、特有の清潔感もあった。

 どうやらここは病院の病室らしい。自分がなぜここにいるかの記憶を辿る。大雨が降り、あゆすを追って山に登り、崖から落ちるまでの記憶ははっきりと覚えていて喪失感に胸が詰まった。

「あゆす……」

「はーい?」

 悔しさのまま消え入るように呟いたその名前に、平然と答える人がいる。しかもその聞き慣れた声はすぐ側から聞こえて耳を疑った。

 横を向けば、ベッドに座っているあゆすがこちらを向いていた。

「あゆす!?」

 その存在を目に入れて、思わず身体を起こすと頭痛でぐらりと頭が傾いだ。頭には包帯が巻かれていた。俯いて頭を抑え、頭痛が引くのを待つ。

「やっと起きたか。雷で折れた木の枝が当たったせいで脳震盪を起こしていたみたいだから、まだあまり急に動くようなことはしない方がいい」

 改めてゆっくりと声の方を向くと、窓からは光が差していて、白いカーテンが風になびいている。そのすぐ下のベッドには、紛れもなくあゆすがいる。頬には絆創膏が貼ってあり他にもあちこち擦り傷があってどこかだるそうな感じはあるが、いつもと変わらないあゆすだ。

「あゆすが、いる」

「どうも二人揃って川下に流れ着いていたらしい。おばあさまと周祢のお父さんはさっきまでいたけどもう帰ってしまったよ」

 あゆすが生きている。窓から差す太陽の光の下にいる。明るさに目を細めながら、嬉しそうに笑っている。

「清々しい程の快晴だね! 自分一人が犠牲になるところを、自分の神の部分が半分と君の人の部分が半分でどうにかなったらしい。血縁だったこともあってどうにかなったんだろうね。巻き込んでしまってすまなかった。おかげで土砂崩れも川の決壊も起きずに済んだようだよ」

「助かったなら良かった」

「うん、本当に助かった。礼は何度言っても足りないくらいだ」

 自分がしたことは無駄ではなかったらしい。ちゃんと確認したくて手を伸ばすと、気付いたあゆすも手を取った。人間の左手だった。

「それにしてもだるいし重い……しばらくはまともに起き上がれなさそうだな。完全に人になってしまった。まぁけど悪くないね、やっとまともに年が取れる。他の生き物になれないのは残念だけど、人間の重さというのはそれ以上に愛しいね」

「……何歳なの?」

「二〇〇歳近かったと思うけど、まぁこの際どうでもいいだろう! 見た目は大体君と同じだから、同級生ということにしようじゃないか。従兄弟設定でいこう」

「馴染むのが早すぎる」

「それだけ嬉しいんだよ」

 あゆすが指を絡めるように手を掴む。狐でもそれ以外でもない五本の指が、俺の指と絡まった。

「これからが楽しみだね」

 どこか人間らしくなった美しい人が、人懐こく笑っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る