ch.8

「やかましぃわっ!!」


 問答無用。

 私は思いきりグーでヒロムの頭を殴った。


 パチパチと瞬きを繰り返し、ヒロムは呆然とした様子で私を見ていた。


 しかしまぁ、なんと汚い格好だろう。

 頬っぺたには細かい砂がくっついてるし、鼻水は垂れてるし、Tシャツとジーパンは泥まみれ。昭和の子供か、お前は。


「……ユーキチ」


 おまけに息が酒臭い。

 私は吐き気がして顔をそむけた。


「クサっ! ったく…この酔っ払いが…っ」


 大声で怒鳴りかけて、隣からドンドンと壁を叩く音。「うるせぇぞ、三〇七号室!」ということだろう。ムカつくことこの上ない。それでも私は小市民なので、声をひそめて怒鳴った。


「何時だと思ってんの?! ヒロムとこみたいなマンションじゃないんだよ、ここは。コーポなの、コーポ。築十三年目のコーポ。今年、外壁塗装工事の予定もあるようなコーポ。おわかり?」


 コクン、とヒロムが頷く。

 本当にわかってるんだか、微妙……。


「どうしたの? こんな時間に血相変えて」


 私はフゥと息をついて波立った心を整えると、髪をかきあげながら尋ねた。


「…………」


 しばらくヒロムは固まっていた。あいにくと睡眠を邪魔された私はさほど辛抱強くないので、すぐさま、コツンとデコピンをかます。


「固まってんじゃないの! 人の睡眠妨害しておいて」

「………銅像が」

「は?」

「………あの公園の、王子がさ」

「………」


 とりあえず黙って聞いてみようか。


「俺を、追っかけてきた」

「……………………わかった。とりあえず、もう一回、殴ってみようか?」

「本当だって!」

「だから、声が大きいんだってばっ」


 ―――― ドンドンドン!


 激しく壁を叩く音。

 次いで「うるせぇ、バカヤロウ!」と野太い男の怒鳴り声。

 とうとう隣人の堪忍袋の緒が切れたらしい。

 私はヒロムを睨みつけた。


「この…無駄に腹式呼吸バカ」

「だって、本当なんだよ!」


 もうダメだ。

 このままだと、確実に隣人から苦情が出るだろう。

 私は玄関に転がっていたサンダルを履くと、ヒロムの手を引いて外に出た。


「ユ、ユーキチ! どこ行く気だよっ」

「ヒロムがワケの分からんことを言うからでしょうが」

「だから、本当なんだって!」

「ほー! では、証拠を見に行こうではないですか!!」


 ウダウダ言ってる酔っ払いを引っ張って、私は問題の王子のいる公園に入った。


 当然ながら、まだ夜明け前なので暗い。

 ポツポツとしかない外灯の間隔が怖かった。秋になると大量のどんぐりを落とす木々が鬱蒼として見える。

 公園の隅に並んだいつもサワサワと風に揺れる柳の枝は、夏の日中であれば涼感のあるものだけど、今はいかにもで、絶対に近寄りたくなかった。

 ヒロムが一緒でないと、とてもじゃないけど入れない。


 木々の影を抜け、広々とした公園の中央部に出ると、ぽっかりとそこだけ切り取ったかのように、満月に照らされていた。

 王子はその中心で、澄まし顔で立っている。私はヒロムの手を離し、小走りに王子に近寄った。

 うん、いつも通り美少年。


「ここにいるじゃん」


 私が振り返ると、ヒロムは腑に落ちない顔でまじまじと王子を見つめていた。


「……動いた跡とかない?」

「あるかっ!」


 ベシっと、ヒロムの額を叩く。


「いつまで酔ってんの? っていうか、寝ぼけてんの?」

「……おかしいなぁ」


 じいいっとヒロムは王子の顔を見上げて言った。


「さっき、目が合ったんだよ」

「誰と?」

「こいつ」

「どこで?」

「そこのベンチで寝てて…」


 私は指差されたベンチを見た。どう考えても、角度的にベンチで寝ている酔っ払いと、一メートルはある台座上から地平を見つめる銅像の目が合うことは、永遠にないだろう。


 ふぅぅーっと長いため息をついて、私はもうこれ以上追及するのを諦めた。


「動く王子説はもういい。なんで、こんなとこで寝てるの? 風邪ひくよ」


 ヒロムはピクっと眉を動かすと、俯いた。


「どうせ、俺が風邪ひいて寝込んで肺炎になって早死したって、ユーキチはどうってことないんだろ」


 ボソボソとつぶやく声は、ひどく卑屈だった。

 私はゲンナリしてヒロムを見た。


 イヤになってしまう。

 真夜中に人の家に押しかけて、大声で喚いて、隣近所に迷惑かけて、訳の分からないこと言って外に連れ出されて(いや、連れ出したのは私だけど)、挙句 ――― 愚痴?


 ブチっと何かがキレた。



 ―――― モウコンナ男、ジョウダンジャナイ。



 思いきり、平手でヒロムの頬を打った。

 派手な音が、シンとした公園に響く。やっぱりここに来て正解だった。

 すぅ、と息を吸い込んで、阿呆に怒鳴りつける。


「いい加減にしろ、バカ! 大っ嫌いだヒロムなんて!! そんなに一人がいいなら、一生一人でいればいい!!」



 ―――― あれ?



 気がつくと、涙まで出ていた。

 おかしいの。別に悲しいとか、嬉しいとか、何もないはずなのに。

 やっぱりこれも妊婦特有のマタニティブルーってやつ?


 ヒロムが目を見開いて、私を見つめていた。


 きっと驚いているんだろう。こんなふうに怒ってる私なんて、ヒロムは見たことがないのだ。見せたこともない。きっと私もヒロムと変わらないぐらい、みっともない顔をしている。ただでさえ、寝起きで化粧もしてないのだ。


 私は恥ずかしくて、ヒロムに背を向けた。


「ユー……吉実」


 去ろうとした私を、ヒロムが本名で呼んだ。

 初めてだ。その名前でヒロムに呼ばれるのは。


 でも、私は振り向くことができない。


「何…?」


 掠れた声で、後ろを向いたまま問い返す。


「吉実、俺のこと好き?」

「………」

「俺、自信がないんだ。ずっと…吉実があんまり俺に、その、どうでもよさそうな感じがして」

「…………」



 ――――― どうでも、イイ?



 誰が?

 私が?

 どうして?

 だって、ヒロムは干渉されるのがキライだって。

 一人になりたいって。

 束縛されたくないって。


 だから、ずっと……ずっと―――― 。


「ガマンしてたんじゃないかぁっ!! この……!」


 心の中でつぶやいてたと思っていたのに、いつのまにか叫んでた。


 ぶわっと涙があふれてくる。

 あぁ、これで明日…というか今日は瞼が腫れまくりだ。


 顔を両手で覆って、ワンワン泣いていると、懐かしい温かい手が私を包み込んだ。


「ごめん。ごめんな、甘えてたな、俺。本当に…ごめんな、吉実」


 ヨシヨシと頭を撫でられる。

 くそぉ、バカ! 余計に泣けてくるじゃないかぁ。

 もう泣くのをやめようにもやめられなくなった子どもみたいに、私はヒックヒックとしゃくり上げて泣いた。


「俺は吉実が好きだよ」


 信じられないくらいやさしい声で言われて、ぼうっと惚けてしまいそうになる。


「嘘だ…」


と、私は泣きながら言った。


「本当だって」

「一人になりたいって…放っておいてほしいって…私がいくら寂しくたって、ヒロムは一人で閉じこもって『旅』に行っちゃうんだ…」


 目の前でバタンとドアを閉じられたみたいな疎外感。

 これ以上つきまとったら嫌われるかもしれない…。そう思ったら、もうそのドアをノックすることだってできない。


「ごめん。それは……謝る」

 

 ヒロムは素直に謝ってくるけど、それでも私は信じられない。


「妊娠したってわかったときだって、ちっとも嬉しくなさそうで」

「そりゃ…だって、びっくりするだろ?」

「仕方ないから結婚しようなんて…」

「違う。あれは、その…言葉のアヤだ」

「私が飛び出しても、追いかけてもこなかったクセに」

「………後悔してます。すいません」


 だんだんと心が柔らかくほどけていく。ちょっとずつ、わがままな自分の本心が現れる。


「私はずっと、ずっと、ずっと、好きだけど。好きになりすぎたら、きっと嫌われると思って、だからずっと…」


 それ以上は言葉にならない。

 涙は止まってきたけど、今度はしゃっくりが止まらない。


 ヒロムは黙って私を抱いていた。ゆらゆらと揺りかごみたいに揺れて。まるで赤ん坊をなだめるお母さんみたいに。


 私がだんだん落ち着いてくると、ヒロムはのんびりした口調で言った。


「俺はねぇ、なんか自分でも思ってたよりも、ずっと吉実のことが好きになってるみたいだよ」

「………なに、それ」

「確かに一人になりたいときはあるんだけど。でも中国に行くことになって、その時にずーっと吉実に会えないんだなぁ……って思ったら、なんか妙にムズムズした」

「……は?」

「いつでも会えるから、いつでも待っててくれてるからって思ってたんだけど。でも、考えてみたら『いつでも』なんて俺だけが思ってるだけで、もしかしたら離れているうちに、本当に俺から離れてくんじゃないかって。そう思ったら、なんか急に怖くなった」


 ヒロムの背中越しに、雲が幾重にも広がって、赤のグラデーションをつくっていた。

 もう、朝だ。いつのまにか月の光は消えている。


 一瞬シンとした公園に、早朝の涼しい風が吹いた。擦れあう葉音が、波のように私達にかぶさってくる。


 綺麗。

 とっても綺麗。

 なんて綺麗な世界なんだろう……。


 ヒロムの言葉を聞きながら、私は自分が今いる光景に陶然となった。


「俺、ぜんぜんしっかりしてないし、すぐ落ち込んでウツみたいになっちまうし、どうしようもないヤツだと思うんだけど、……だから、吉実が一緒にいてくれないとダメっぽい」

「………それは、どういうこと?」


 ヒロムの胸に埋めていた顔を上げる。ヒゲの伸びた、汚いおっさんが情けない顔で私を見ていた。


「…言わすなよ」

「言わすよ。一生に一度あるかないかなんだから」

「だから、そういうことだよ」

「だから、どういうことさ?」

「………」


 ゆっくりと唇が落ちてくる。

 ズルイな。こういう時にキスして逃げるのは。


 朝焼けの、二人きりの公園。仲直りのキス。そして、誓いのキス。私には不似合いなぐらいのロマンティックな情景だ。


 ―――― と思っていたら。


「…うごっ」


 思わず呻いて、キス中断。


「……うご?」


 ヒロムが奇妙な顔で私を見てくる。

 私はお腹を押さえた。


「う、動く……つーか、蹴ってるのか、これは…」


 最近、妙に活発になった吾が子。せめて産まれるまでは、ちょっとぐらい甘い生活をさせてほしいと思ったりしてたんだけどなぁ…。


「えぇっ!」


 ヒロムがまるで気味の悪いものでも見るかのように叫ぶ。


「なんだぁっ、その顔は!」

「う、動くのか? その、中で?」

「動くわ! 命があるんだからね。当たり前でしょ!」

「そ、そう…か。知らなかった」

「知らなかったの? 無知だねー」


 ヒロムは一瞬ムッとしつつも、興味津々といった感じに私の膨れたお腹をまじまじ眺めた。


「触ってみても………いい?」

「どうぞ」


 おそるおそるといった感じに撫でるヒロム。


 また、子どもが蹴った。


「うわっ!」


 びっくりしてヒロムは尻餅をつく。

 私はカラカラ笑った。


 夜明けの鴉が鳴いて、木々の間を飛んでゆく。


「帰ろ」


 私はヒロムに手を伸ばした。

 

 朝焼けはいつのまにか霧散し、水色の空に羊雲がいくつも浮かんでいた。

 王子は朝陽の中で、祝福しているかのように微笑んでいた。



『やれやれ困ったもんだ。素直じゃないんだから…二人とも』




<FIN>

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しあわせの王子~ほどよい恋愛のススメ~ 水奈川葵 @AoiMinakawa729

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