ch.7

 ヒロムは昔から『普通』ということに、ひどく違和感があった。


 勉強して、学校に行って、会社に行って、結婚して……そういった一般的な道のりが、自分にはそぐわないと思っていた。親の世間体のために高校に行ったけども、髪を銀色に染めたら教師から呼び出されて、面倒なのでその日のうちに自主退学した。

 そのことで親と大喧嘩してしまい、結局家から飛び出した。とりあえず寮のある精密機器の部品組み立ての工場で働き、そこで知り合った人が大学で演劇をやっていたとかで、一緒にやらないか? と誘われた。

 暇つぶしのつもりで始めたことなのに、気がついたらすっかりハマっていた。


 それまで無彩色だった景色が、少しずつ彩りを帯びていった。

 貧乏で、役者だけでは生活できないような状態だったけども、明日すら見えない状況が、自分には合っていた。

 いつまでも定職に就かず、ブラブラと浮草稼業を続けていると、


「このままでいいと思ってるの?!」


と、五年来つき合っていた彼女に言われた。


 二十も半ばを過ぎて、いつまで夢を見ている気だ? ―――― と。

 いいかげん現実を見て、ちゃんとしてくれ ―――― と。


 ヒロムは別に夢を見ているわけではなかった。

 現実的に今の生活が心地よかった。

 けれど普通に学校を卒業し、普通に会社勤めをする一般人には、それが我慢できないらしい。

 結婚を考えて! と、最後通牒をつきつけられ、ヒロムはその彼女とは別れた。

 彼女は泣いていた。けれど後悔はなかった。

 彼女とは結局、生きる場所が違うのだろう。


 もしあの時、同じことをユーキチに言われたら…?


 少し考えて、ヒロムはため息をついた。

 そんなこと、ユーキチが言うはずもない。



 ―――― 子供のために結婚するつもりなんてないっ!!



 キッパリと言われた。言われてしまった。


 アウトローな生き方を目指したわけでもなく、かと言って真面目に、平凡な道を進むこともできなかった。金魚鉢の中の金魚のように、ただフワフワ浮いて、優柔不断に生きてきただけ。


 ユーキチはそれがわかっていたから、ヒロムに何も望まなかったんだろう。


 何かを買って欲しいとねだることも、一緒にどこに行こうとせがむこともない。ヒロムが引き篭っても、無理に励ますこともない。

 一緒にいれるときに、一緒にいて、そして楽しければそれでいい。

 期待されることが極端に鬱陶しいヒロムには、それはありがたいことだったのに、今はただ寂しかった。



 ―――― 会いたいなぁ………会いたい。



 久しぶりに飲み過ぎた。アルコールが意識を浸食している。まともな思考が働かない。


 マッシに送られて、自分の家の前まで来たのは覚えていた。けれども家に帰らずに、フラフラ歩いて、気がつくとこんなところに来ている。


 ユーキチのアパートの近くにある公園。

 もう、とっぷり真夜中。


 なぜか柳の木が並んで植えられているこの公園。いつものヒロムなら、気味が悪くて、一人で真夜中に訪れるなんてことは絶対にしないのだが、酒の力は偉大だった。


「石は御影石、ヘマタイト、瑪瑙、翡翠、黒曜石。月が光る下には、ツヤツヤと輝く……」


 初めて役をもらった時の台詞に適当な節をつけて歌いながら、中央のベンチまで歩いていくと、ドシンと腰を下ろす。

 石のベンチは少し冷たくて、体の火照ったヒロムには心地よかった。


 目の前には小さな男の子の像が立っていた。

 いつだったか、ユーキチが教えてくれた。



 ―――― 王子って呼んでるんだ。綺麗な顔してるでしょ?



 どう見てもただのガキの像にしか見えないのだが、ユーキチは王子だと言い張った。

 そういえば、あんなにサバサバしているように見えて、ユーキチの書棚にはけっこうな量の少女漫画があった。いわゆる王子様的男の子と、ウブでちょっとドジな『普通』の女の子の青臭い恋愛話。


 女の子はいつも王子様が好きなのだろうか。

 ユーキチでも?


 でも、自分は絶対に王子様にはなれない。なんだったら、ユーキチの方がよっぽど王子様みたいに颯爽としていてカッコいい。

 

 満月の光りに照らされて、王子様が夜の闇に浮かんで見える。


「なにが王子だよ。バーカ、ばーぁか、ばぁぁぁーかっ!! そんなんいるかっ!」


 不意にヒロムは大声で喚いた。


「なにがダメだっていうんだぁっ! 俺のどこに問題があるんだよっ!! まだまだ、まだまだ、まぁーだまだメジャーにならないうちはダメだってかっ!?」


 バタバタと足を振る。

 たまたまつま先にあたった石が、王子の台座に飛んでいって、コツンと跳ね返ってきた。


「イヤだーっ、ユーキチが他の男のモンになるなんてイヤだぁーっ!!」


 涙がボロボロこぼれだす。酒が抜けてきたのか、ちょっとばかり肌寒くて、鼻水までズルズル出てくる。


「俺の子供だぞーっ! バカヤローっ! ユーキチっつあんのバカー、アホー、オタンコナスビーっ」


 ひとしきり叫んで、ハアァ…と長い溜息をつく。

 途端に体が重くなって、ゆっくりと横に倒れていった。頬に石が冷たい…。


 ぼんやりと王子を見つめていると、なぜか目が合った。


「………」


 ジロリ、と向けられた瞳。


「支離滅裂」


 幼い声が、冷たく言った。


「おまけに、オタンコナスに『ビ』をつけるかな」

「…………」


 パチパチパチパチ。

 ヒロムの瞼が高速で瞬いた。


「こんなところでウダウダ言ってる暇があるなら、木っ端微塵になるまで当たって砕けてみろよ。バーカ」


 満月に照らされて小生意気な口をきく、澄まし顔の王子。


 ヒロムは少し酔いの醒めかけてきた頭で、自分が今見ているものが何なのか考えた。


 真夜中の公園の、クソガキの銅像………の、ハズだ。

 銅像って、動いたっけ?


 ―――― いや、それはない。ナイ。ありえナイ。


 サァァァーっと、一気に全身の血の気が引いた。


「…………」


 恐怖のあまりに声も出ない。

 ガバっと起き上がると、ヒロムは必死に走った。


 膝がガクガク震えて、何度もコケる。

 それでもとにかく走った。

 後ろから銅像が追っかけてくる気がして、というより絶対そうだと思い込んで、とにかく走った。いや、逃げた。ひたすら逃げた。

 アルコールはすっかり蒸発している。


「……ユ、ユ、ユーキチっ! ユーキチっ!!」


 転びそうになりながら、どうにかユーキチの部屋の前までたどり着くと、ドンドンと扉を叩いた。


 チラリと廊下を見た。

 白い蛍光灯がまたたく。

 角から今にも銅像が出てきそうな雰囲気に、ヒロムの恐怖は頂点に達した。


「ユーキチぃぃっ!! 早く、開けてくれぇぇーッ!!」


 悲鳴を上げたと同時に、ドアが開き、中から伸びてきた手に襟口を持たれてグイと引っ張り込まれた。


「やかましぃわっ!!」

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