ch.6
その翌々日。
ヒロムがある劇場のスタジオに足を運ぶと、衣装室から大きな袋を両手に持って、えっちらおっちら歩くユーキチを見かけた。
ヒロムは考えるより早く、行動していた。
「ユーキチっ!!」
階段を駆け下りて、ガシッとユーキチの肩を掴む。
「な、何?」
びっくりしたように、ユーキチは目を丸くした。
「こっちが訊きたいよ! 何やってんだよっ」
「……仕事ですが?」
「なんで休んでないんだ?!」
「ハァ? 何言ってんの。金稼がなきゃ、生活できんでしょーが」
「だから、それは、結婚すればいいって」
「まだ言うか、この男は!」
ダンっ、とヒロムの足を踏みつける音が、その場に響きわたった。
「だぁぁっ! ……ま、待て」
ヒロムは踏まれた足をひきずりながら追いかけようとしたが、早足のユーキチはあっという間に角を曲がると、姿を消した。
また、同じような展開だ。
ヒロムはデ・ジャ・ヴを感じつつ、足をブンブン振って痛みを払った。顰め面で歩き出そうとすると、後ろからのんびり声をかけられた。
「怒ってたなぁ」
振り返ると、坊主頭の男が笑っていた。
「タカさん…」
ヒロムの先輩、
「なんで…ここに?」
「んー? ここの部長と知り合いなんで、ちょっと話しに」
出演依頼でもあったのだろうか? そういえば来年にこの
しかし田鹿は仕事のことはさて置き、好奇心もあらわにヒロムに訊いてくる。
「どうしたァ? ユーキチっちゃんを怒らせるなんて」
田鹿もまたユーキチの親友であるところの駒沢成美女史率いる劇団『ルール・フール』に何度か客演したことがあり、ユーキチとも面識があった。当然ながら劇団員とも仲が良く、仲間内しか知らないユーキチとヒロムが付き合っていることも知っているらしい。
ニヤニヤ笑って、微妙なところをつついてくる。
「とうとう愛想つかされたか?」
「……ワケ、わからんです」
ヒロムがしょげた口調で言うと、田鹿はおや? という顔になった。
「この後ヒマか? 一緒にメシでもどうだ?」
「あ、マッシと一緒に飲みに行こうって言ってて…」
「松芝? じゃあ一緒に来いよ。話、聞かせろ。いつものとこな。待ってっから」
田鹿は有無を言わさず決めると、足早に去ってしまった。いつもながらせっかちな人だ。
ようやく痛みの消えた足で、ヒロムは歩き出した。
お世辞にも人付き合いがいいとは言えないヒロムにとって、田鹿は貴重な、年齢を超えた友達だった。同業者では唯一相談ができる相手でもある。
もっとも当人によれば、
「俺は相談なんか乗らないよー。悩んでる若いモンを見るのが面白いだけー」
と、堂々とクズな発言をするのだが。
小一時間ほどして、役者仲間のマッシと一緒に、田鹿の元妻がやっている小料理屋に足を運んだ。田鹿と飲むときはいつもここだ。
「で? なんだ? マリッジブルーか? あ、まだ結婚してなかったか…」
かけつけ一杯目を注ぎながら、いきなり田鹿が聞いてくる。隣で聞いていたマッシが「え?」と目を剥いた。
「なに?! お前、結婚すんの?」
「……そうできればいいんだけどね」
ヒロムはビールを一口含むと、はぁぁ、と溜息をついた。
「辛気臭い溜息だわね。どうしたの?」
女将が元気づけるように言って、お通しをカウンターに置いた。
一口食べて、ユーキチが前につくってくれた
ヒロムは酢味噌和えというのが好きじゃなかった。というか、食わず嫌いだった。ユーキチがおいしいよ、というので試しに食べたのだ。すると意外にも非常に美味で、それからは毎回のように酢味噌和えを作ってもらっていた。
もともと偏食な方だったのだが、そのほとんどが食わず嫌いで、ユーキチのお陰でかなり改善された。
「…………」
思い出したら、尚の事、沈んでしまった。
項垂れたヒロムを、田鹿とマッシ、女将が目を丸くして見ていた。
「重症?」
女将がそっと田鹿に耳打ちする。
「……みたい、だな」
「珍しいこともあるもんだ。撮っとこ」
頓着しないマッシがカシャリとヒロムを写メで激写した。
「おいおい! 初めから沈没するなよ。で、どうしたんだ? 今日、なんか怒られてたな? ケンカ中か?」
バンバンとやや強く、田鹿がヒロムの肩を叩く。ヒロムはゆっくりと顔を上げると、ビールを飲み干した。
「妊娠、してたみたいなんです」
「……みたい?」
「俺が、中国行く前に」
「あぁー。そうか。そうだったな。そうだよ、お前。土産は?」
「ないですよ。あんなクソ田舎に。なんか妙なお面とか、置物ぐらいで」
「そんな外国の田舎に行くことなんざそうそうないんだから、何でもいいから買ってこりゃいいのに。――― で? 中国行く前に仕込んで、戻ってきたらできてました? と」
「……まぁ、そうなんですけど。
「
マッシが横から面白がって言った。
「ユーキチがそんなことするかっ!」
ヒロムが怒鳴ると、マッシはキョトンとなってつぶやいた。
「ヒロムくん、チョー
「松芝…」
田鹿は目線でマッシを抑えると、ヒロムの肩を今度はやさしく叩く。
「イチからじっくり話して聞かせてくれ。な?」
「………デキてるってのが分かったのは、ついこの前です。その、中国から戻ってきて、久々に会ったら…あの、腹が、出てて」
「ほう。じゃ、もう五、六ヶ月ってとこか?」
「…よく、わかんないですけど。たぶん。でも、本当は俺が中国に行く前にわかってたみたいで。言わなかったんです。俺が気にして仕事にならないだろうって」
いじいじと言うヒロムを見て、男二人は軽くため息をついた。
「……賢明な判断だな」
「そうだな。お前、泡食って、撮影どころじゃなくなるだろ? そんな顔しといて、ガラスのハートだもんな」
田鹿もマッシも即座に肯定する。
ヒロムはますます自分が情けなくなってきた。
男とはこうあるべきだ ―――― なんて、時代錯誤かもしれないが、それでもちょっと情けなすぎる。
「それで、久々に会って、彼女が孕んでて、お前どうしたんだ?」
田鹿が続きを促す。
「びっくりしました」
「そりゃそうだろうな。それで?」
「結婚しよう、って言いました」
「………ほほぅ。すると?」
「なんで、結婚しなきゃいけないんだ…って。結婚しなくっても子供は産めるんだ…って……」
田鹿もマッシも黙り込んだ。
女将だけが「まぁ!」と楽しげに声をあげ、カラカラ笑った。
「大したもんねぇ! 見上げた女っぷりだわ」
「黙れよ、お前……」
田鹿は女将をたしなめるように言い、ビールを飲み干した。
「なんつーか、さすがのユーキっちゃんというべきか…」
「デキちゃった結婚を覆すな、その発言」
男二人はなんともいえない表情で、まぐろのカマ焼きをつついた。
女将は田鹿の前にある空になったビール瓶をひっこめると、焼酎を持ってきて薩摩切子のグラスと一緒に置いた。
―――― どうしてこの人たち、離婚しちゃったんだろう?
手馴れた女将の動作と、それを自然と受け入れている田鹿の表情に、ヒロムはぼんやりと思った。
これほどにも通じている間柄ですら、いつか別れてしまうのだろうか? だとすれば、ヒロムとユーキチなどは、あっさりと終止符を打ちそうだった。
いつも笑って、いつも明快で、いつもやさしいユーキチ。
でも………ヒロムはユーキチが、どことなく自分に本気でないことがわかっていた。
たまたまユーキチがフリーだったからヒロムとつき合う気になっただけで、もし他にユーキチが好きな男ができたら、あっさり別れてしまうんだろうな、と思っていた。
自分が勝手なのは十分にわかっている。今までさんざん言われてきた。
歴代の彼女にも、両親にも、教師にも、友達にも。
だからユーキチが自分以外の男を選ぶなら、それはもう仕方ない。
現に結婚を断るというのは、そもそも結婚相手としてはヒロムは対象外だったということなんだろう。恋人としてつき合うにはいいが、夫候補ではない、と。
ときどきウツになって引き篭ってしまうような男。
ときどき子供みたいにワガママを言う男。
―――― 確かに、結婚相手にはなれんよな。
ヒロムはビールを飲み干すと、女将に焼酎のロックを注文した。
「兆候とか、なかったのか? その、中国に行く前に」
どんどん暗い表情になっていくヒロムに、田鹿がわざとらしく明るい調子で尋ねてくる。一応、目の前の奥さんとの間に娘が一人いるので、そうしたことも経験しているようだ。
「やたら眠たがったりとか。すっぱいもん欲しがったりとか」
「俺、中国行きの前、またちょっと籠もってて……」
「またかよ、お前。っとに、いいかげん、世の中に妥協しろよー」
マッシはあきれたように言って、鶏皮をバリバリと汚く食べ散らかす。
「『心の旅』だの、自分探しの旅だの…いつまでも中坊じゃあるまいに」
ストレスが嵩じると引き篭ってしまう…このヒロムの症状を、一部の仲間内では『おこもり』と呼んでいたらしい。しかしユーキチが「心の旅に出てる」と言うようになってからは、それを聞いた奴らが面白がって『心の旅』というのが浸透してきていたりする。
「でも、中国行く前に会ったんだろ?」
田鹿が空になったヒロムのグラスに、マイボトルの焼酎を注いだ。
「え、まぁ。会いました。ちょうどユーキチも仕事休みで、空いてる日に」
「その時に気がつかなかったのか?」
「なにも。別にすっぱいものなんて食べてないですよ」
「反対に食べてたものを食べなくなったりするわよ。お酒とか、コーヒーとか。あと、薬なんかも」
女将が助け舟を出してくれる。
思い返して、ヒロムは「あ」と声を上げた。
「コーヒー…飲まなかった」
「あるじゃねぇか」
マッシがそれみたことか、とばかりに言ってくる。
ヒロムはムッとなって言い返した。
「そんなのでわかるかよ。それにあの日はすぐに帰ったんだ……ケンカして」
「ケンカ?」
「う………」
思い出して目が泳ぐと、田鹿はニヤニヤと詰めてくる。
「なーに、やったんだ? んん? 言え言え!」
「ちっ、違う。なにもやってないです。ヤラしてもらえなかったんだから」
「ほほぅ。ヤラしてもらえなかった。ヤラしてもらえなかった、と? つまり、ヒロムくんはヤル気だったワケだな! ほほぉ~ん!!」
田鹿はいかにも好色な顔つきでヒロムをからかった。
「別に悪いことじゃないでしょうが! その時は知らなかったんだから!」
ヒロムが怒ったように言うと、マッシは呆れて肩をすくめた。
「逆ギレしてやがる。あのなぁ、付き合ってても同意なくヤったらイカンのだぞぉ」
「だから、ヤッてない! キ○○マ蹴られて、そのまま逃げられたんだっ」
ヒロム以外の三人は一斉に大笑いした。
いつのまにか立っていたことに気付き、ヒロムは椅子に座ると、ヤケになって焼酎を胃袋に流し込んだ。空になったグラスを持て余し、田鹿のボトルを奪って、手酌でなみなみと注ぐ。
「相賀くん、アナタ、女はやっぱり妊娠したら、したくなくなる人もいるのよ。男の人もそういう人いるし。ね?」
意味ありげな視線を田鹿に向けて、女将が言った。
田鹿は軽く肩を竦めていなすと、グビリと焼酎を一口含む。
「ま、結論として、鈍感なヒロムが気付くのは無理だな。今の話からすると」
あっさりと田鹿が匙を投げてしまうと、ヒロムは眉を寄せて睨みつけた。
「なんスか、さっきから。相談に乗ってくれるもんだと思ってたのに」
「俺は初めっから野次馬根性で聞いただけ。相談に乗るなんて一っ言も言ってないよ~」
「頼りにならない。無駄だった」
「お! そんなこと言うか? じゃあ、言ってやろう。妊娠させておいて、結婚も迫られないなんて、ちょーっとばかし情けなーい状態じゃな~い? 必要とされてないってことじゃな~い?」
田鹿の気持ち悪いオネェ言葉がぐっさり背に刺さる。
「………なんだよ、みんなして。俺ばっか悪いみたいに」
ぐちぐちとヒロムがつぶやくと、隣で炙りイカを割いていたマッシが言った。
「俺らが束になってお前が悪いって言ったって、肝心要の人は絶対にお前の味方なんだもんな。嫌になるよ」
「……誰が味方するってんだよ、こんなカッコ悪い男」
「ユーキチっつぁんだよ」
マッシは真面目な顔で言うと、ポカンと口を開いたヒロムの口にイカを突っ込んだ。
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