ch.5

「普通、女って……妊娠したら結婚するってモンじゃないの?」


 ヒロムはカウンターで少し酔っ払っていた。

 隣には後輩の大塚。それにユーキチを紹介してくれた駒沢成美があきれ顔でカクテルを飲んでいる。彼女はユーキチとヒロムが出会うきっかけになった舞台の演出家だ。


「素直じゃないっスねー」


 大塚が微妙な笑みを浮かべて返した。


「普通、妊娠したら結婚して、ってなるでしょー」

「そうだろ?」

「オイ、バカ二人」


 成美が、じっとりした目で睨んできた。


「なんスか? 怖いッスよ、お駒さん」

「妊娠して『責任とってよ!』 なーんてこと、ユーキチっつぁんが言うとでも思ってたの?」

「………」


 ヒロムは黙り込んだ。

 わかっている。ユーキチはそんな人間じゃない。



*****



 まだ知り合って間もない頃、居酒屋で皆で飲んでいて、いつのまにか二人で話し込んでいた。酔っ払うと、ちょっと哲学家になってしまうヒロムは、神妙な顔をしてユーキチに尋ねたのだ。


「多数決って、正しいと思う?」


 こんな質問をされたら、たいがいの場合、はぁ? となる。今までにこの質問をして、まともに答えた女なんていなかった。


「えー? 意味わかんなーい」とか、

「なに言ってんの?」とか、

「正しいとかそんなの、皆で決めたんだから仕方ないでしょ」とか。


 答えられない自分よりも、質問したヒロムのほうをバカにした。いかにも面倒くさい男だと言わんばかりに。

 けれどもユーキチははっきり言い切った。


「いや、正しいとは思わない」


 ユーキチも多少は酔っていたらしい。「なんで?」とヒロムが尋ねると、滔々としゃべりだした。


「大衆が間違う、っていう例もあるからね。ファシズムなんて、そうじゃない? 多数決は一つの方法でしかないよ。この世界だって、例えばお客さんにアンケートとって、どんな芝居が見たいですか? と訊いてみる。で、多数決の結果選ばれた芝居をしてみる。それはそれでいい舞台になるかもしれない。

 でも、たった一人の人間の描いた世界が、多数決で決まった舞台よりも、より深みのある、より皆に受け入れられる、いい作品になる可能性だってあると思うんだ。色々な意見を取り入れれば、それだけ物語が散漫になることだってありうるし。

 多数決は単なる基準。正しいかどうかは、また別の話」

「―――……」


 圧倒された。

 一気に酔いも醒めた。

 ここまでしっかりした答えが返ってくるとは思わなかったのだ。


 ヒロムにしても、そんな質問をしておきながら、実際に確立された答えを持っていたわけではなかった。ぼんやりとその輪郭を感じつつ、しっかりと言葉で説明できないもどかしさを感じていた。


 けれどユーキチはビシッと答えてくれた。

 それまでモヤモヤと溜め込んでいたものが、一気に晴れた気分だった。



 ―――― 綺麗だな…。



 ヒロムは思った。

 自分の思っていたことが通じたことへの爽快感とは別に、揺らぐことなく「No」と言い切ったユーキチの凛とした精神こころが単純で、綺麗だと思った。


 もっとも次の日になってその話を本人にすると、真っ赤になって、


「やだなー! 私、酔っ払ってたねぇ。インテリ女ぶっこいちゃってごめんねー」


と、恥ずかしいのか、思い切り背中をバンバン叩かれたが…。


 気がついたら稽古の度に、臙脂色のゴムで髪を無造作にひっつめたユーキチを探すようになった。いつも颯爽と歩いているユーキチを目で追った。


 舞台を降りたらさほど演技の上手くないヒロムの挙動は周りには丸バレで、劇団員からも他のスタッフからもからかわれた。

 気を利かせて何人かがそれとなく雰囲気を作ってくれたりもしたのだが、肝心要のユーキチときたら、バカがつくぐらいの天然っぷりで、まったくヒロムなぞ眼中にないようだった。


 それでもヒロムはユーキチと話すだけで楽しかった。

 でも公演初日が迫ってきて、ヒロムは気がついた。


 ―――― この劇が終わったら、ユーキチに会えない……。


 その後の行動は何かがヒロムにとり憑いたかのようだった。

 ユーキチの家に向かい、いないとわかると成美に居場所を尋ね、ユーキチのいる場所へと向かい……ちょっとばかし強引な告白。


 前の彼女と別れて三年。

 もう恋人なんて面倒だし御免だと思っていたのだが、ユーキチの存在は不思議とヒロムの負担にはならなかった。


 話せば話すほど、その知識の豊富なこと、それをまた嫌味でなくさらりと言ってのけて、たまに冗談にすら紛れ込ませてしまうところに、カッコ良さを感じた。

 料理を作ったら美味しいし、油モノはみかんの皮でいったん落とすと、スポンジも汚れにくいよ、なんて家庭の主婦みたいな所帯じみたことを言ったりもした。


 サバサバしていて豪快で。たまに男言葉なんて使って、鉄火肌の姉御気取りのくせに、動物ものの感動ストーリーを見たらボロボロ泣いた。


「たまに、ユーキチって可愛いよねぇ」


 ヒロムが言うと、真っ赤になって怒ったように言った。


「たまに、って何だ! たまにって!!」


 ヒロムが女と過ごすときにいつも感じていた鬱陶しさは、ユーキチといる限り皆無だった。たまに突発的にやってくるウツ症状も、「心の旅だ」と笑っていてくれる。


 今までの彼女の場合「どーして私に相談してくれないの!」「どうして私を放っておくの?」と、キレられて、それが面倒になって、ジ・エンドがほとんどだった。


 何かを押し付けてくることもない。

 これみよがしに泣くようなこともない。

 いつも笑って、いつも明快で、いつもやさしいユーキチ。

 でも………



*****



「ユーキチっつぁんはねー、もう着々とシングルマザー計画を進めてるよ」


 成美は三杯目に頼んだアレキサンダーを飲みつつ言った。


「しっかりしてるよ、あの人。ウチのベビーベッドだの、カートだの、ぜーんぶ『借りるね~』って持ってっちゃった。まぁ、ウチも粗大ゴミだったからいいんだけどさ」


 ベビーベッドに、カート。

 ヒロムの知らない間に、ユーキチの部屋は変わってしまったのだろう。数ヵ月後に生まれてくる命のために。


「しかし、子供にとっちゃ母子家庭なんて可哀相じゃないっスかねぇ。やっぱ子供は両親揃ってた方が……」


 訳知り顔に言う大塚の頭に、成美は思いきり拳骨を落とす。


「知ったようなこと言うなっ!! 母子家庭の子供を差別すんのか、アンタはっ」

「そ、そういうわけじゃ……」


 成美の剣幕にたじたじになりながら、大塚がヒロムの方に避難してくる。


「最悪、親がいなくたってガキは育つ! 反対に親が子供を殺しちまうことだってあるんだよ。何が幸せかなんて、テメェの勝手なものさしで測んじゃないよっ! 若造がっ」

「………す、すいません」


 大塚は小さくなって謝ると、首をすくめて、ちびちびとビールを飲んだ。


 成美はふぅ、と溜息をついて、四杯目にジン・トニックを頼んだ。ちょっと熱くなった感情の冷却化が済むと、ヒロムに畳み掛けるように問うてきた。


「で、どーすんの? このままユーキチっつぁんに子育て任す? 父親として名乗らないで、物陰からそっと見ておく? 言っとくけど、ユーキチっつぁんに子供がいたって、結婚したいって野郎なんざ、今後いくらでも現れるからね。私もそのつもりで紹介してくし」

「そんな……だから、俺は結婚したいって」

嫌々イヤイヤね」

「違うっ! 本当に……」


 本当に――― その先の言葉が出てこない。



 ――――― 産むことと、結婚は別。



 言い切ったユーキチの、頼もしいくらい迷いのない表情。


 自分にユーキチと同じような覚悟があるのだろうか?

 一人の人間を産み、育てる覚悟。ちょっと嫌なことがあれば、すぐに人から逃げて、引き篭ってしまうような自分に。


「………大事なところで口を噤んじゃったねぇ」


 成美はフンと鼻を鳴らすと、ジン・トニックを一気にあおった。


「ま、ちゃんと覚悟ができたら、また当たって砕けてきたら?」


 ダン、とグラスを叩きつけるようにカウンターに置くと、成美はさっさと出て行った。

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