杭と水の精

真花

杭と水の精

 ――そしたら、手を握って。

 君の声が風に溶けてゆく。嵐は木々の葉を全て逆立たせ、渦を巻き、僕達の間に割って入るから、二人がそれだけ遠くに、僕はもっと近付きたいのに、遠くなる。空もここも薄暗く、遮られた太陽の顔も思い出せない。ごうごうとした音と共に直に風が当たれば、僕も君もよろける、また強く足を踏み締める。涙と同じ温度の雨が降っている。僕も君もびしょ濡れで立っている。湖が僕達の側に横たわっている。

 水面みなもに視線を寄せた君を認めて、僕は駆け寄ろうとした。だけど、風に体を捉えられて動けない。

「本気なのか?」嵐に抗って声を投げる。

 君は俯いてから顔を上げて、散る直前の花のように微笑む。そこには白く美しく、有無を言わせない迫力があった。本気だよ、君が応える。風の干渉を受けても、君の声は明瞭に僕に届く。でもその音には涙が混じっていた。雨と同じ温度の涙を僕は一雫、口に含む。溶け出したそれはゆっくりと僕の細部まで浸透する、僅かに苦い、君の言葉は嘘じゃない。君はまた顔を伏せて、湖に、闇のような湖に体を向ける。そして顔を上げ、一歩を踏み出す。風がまた強く吹き付けた。僕達は同時によろめいて、僕は同じ場所に留まり、君は傾きながらも足を前に進める。僕が動けないのは風のせいではない。君の意志に呑まれたからだ。君はじわりじわりと湖岸線に近付いてゆく。僕の足は杭で打たれたみたいに動かない。いや、僕そのものが一本の杭になっている。君が陸地に最期に遺す杭が僕なのだ。だから僕は動いてはいけない。豪風の中に屹立する杭にならなくてはならない。

 君は歩を進めて、もうあと一歩で湖面を割る、振り向く。ありがとう。君の声が、微かな声なのに届いて、僕は呼吸を止める。吐き出す息にどんな言葉を乗せたらいいのかが分からない。もう一度風が吹き抜けていく。君が湖に向き直り、左足で水面を砕く。次に右足、スカートの裾が水に触れる。君は水に進んで、もう腰が浸かっている。まるで君は湖から出て来た精のようだ。それともこれから水の精になるのだろうか。

 君が遠ざかったからなのか、君のこれからを感じたからなのか、強制されていた、杭であることが弱くなって、胸の中に僕が見付かる。その僕がこのまま来るであろう未来を拒絶する。首を振って、それは困っていることとか悲しいこととかを含んでいるけど、君とこのまま永遠に別れることを受け入れたくないから、振っている。君の意志に従うことだけが正解である筈はない。

「嫌だ」

 自分の声が君のそれと同じようにはっきりと僕の耳に届き、それを合図に、風を切るようにして一歩目を踏み出す。

 君はもう胸まで水の中。

 僕は湖に踏み込み、ザバザバと音を立てながら君の側に近付いてゆく。君は振り向かない。水の粘着く感触を掻き分けて、君の横に立つ。君は僕を見ない。まるで湖の魔物に取り憑かれたかのように没頭している。顔を覗く、青く白く、瞳は既にこの世界を映していない。僕は君がやりたいことを壊すために来た。水の中を探して、君の手を握る。君はピクリと体を動かすけど、それ以上の反応はしない。抵抗もしない。ひときわ強い風に、水が毛羽立つ。その風が去るのを待ってから、君の手を陸に向かって引っ張る。君はもぬけの殻のように大人しく、僕に付いて来る。振り返って見る君の目は光がなくて、まるで君そっくりの人形を運んでいるみたいだ。

 ゆっくりな動きなのに全霊の力を要求される。僕は息を荒げ、鼓動を駆けさせながら、君の手を引く。

 君は怒るかも知れない。がっかりするかも知れない。でも僕は見届けられない。杭ではいられない。手から伝わる重さを確かめて、また前に進む。

 いずれ僕達は陸に上がって、空っぽの君を目の前に、僕は呼吸を整える。君は静かに立っている。ずぶ濡れの体に雨が降り注ぐ。命を湖の中に置いて来てしまったのか、暗い瞳は僕のことを捉えようともしない。

 僕は再び君の手を握る。両方の手を。だらんと力の入らないその手を。君は応答しない。僕は手をぎゅっと握る。君に染み込んだ湖を絞り出すように。繋いだ手からぽたぽたと滴が落ちる。

「ユキ」

 君がピクリと動く。僕は名前をまた呼ぶ。さっきよりも大きく反応した。だから繰り返し君の名前を呼ぶ。

 垂れていた手に力が戻る。そこから「力」が腕を駆け上がり瞳に至ったみたいに、君の焦点が僕に合い、眼に光が灯る。左右を見てからまた僕を見る。一方的に握っていた手が握り返される。君が淡く解けそうに笑う。

「いくじなし」

「君の墓標にはなれなかった」

 君は僕の手を強く握る。その笑みの中に小さな光る粒がある。

「どうして?」

「僕と生きよう、もっと」

「……もっと」

 君は手を離して、数歩後ろに退がる。それは湖に入る前の二人の距離と同じだった。体中を濡らして、君の視線は確かに僕の瞳を捉えたままだった。淡かった笑みに君の意志が宿る。風がやむ、君は右手を僕の方に差し出す。

 僕は口を引き結んでその手を見詰め、一度君の目を見てから半歩前に出て、その手を取った。


(了)

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