スターチスを憎む女になんかなりたくなかった。

夏希纏

スターチスを憎む女になんかなりたくなかった。

 花屋に一年中スターチスが売られていることを憎むなんて、あいつと別れるまでは予想だにしていなかった。


 友人の誕生会に向かう道すがら、花でも買おうかと花屋に入ってしまったのが間違いだった。他に色々花はあるのに、真っ先にピンク色のスターチスが目に入ってしまう自分の目に苛立つ。スターチスだけではない、ここには記憶を蘇らせるものが多すぎる。


 別れて二年が経つと言うのに、いまだにたった一本の花に記憶を蘇らせてしまう我が脳も情けない。


 目を背けてもちらちらと存在を主張するスターチスを意識の外に置くよう努めながら、友情を意味するミモザを購入する。


「──ああっ」


 不意に声を出した私を、ミモザを包装してくれている店員さんが怪訝な目で見る。しかしプロだ、すぐさまラッピング作業を再開した。冷静になれない私は、手持ち無沙汰に店内を見回す。


 花言葉を調べるというのも、元彼の影響だったことを思い出したのだ。


 またスターチスが視界に入り、慌てて目を閉じる。暗闇のなか、早くラッピング作業が終わってくれることを祈った。


   ◆


 私は中学三年生のときから高校1年のときまで、付き合っている人がいた。斉賀さいかじんという、よくも悪くも普通な見た目をしている人だった。


 最初から好き合っていたわけではなく、漠然と『誰かと付き合ってみたい』と思っていたところに、たまたま陣が告白してくれたから付き合っただけ。そういった経緯があったから、最初のあたりは私が関係をリードしていたように思う。


 生物が得意科目で、いつか植物の研究をしたいと言っていたこともあり、陣はよく道端の花の名前や花言葉を教えてくれた。


 最初は『博識だなぁ』『オタクかも』なんて思っていたけれど、植物について嬉々として語り、時々花を用いたオシャレな雑貨をプレゼントしてくれる姿にきゅんとするようになってしまった。


 特に付き合って一ヶ月記念に渡されたピンク色のスターチスは忘れられない。


 陣は私の家につき、誕生日おめでとう、と言うや否や興奮気味にスターチスの小さな花束を手渡し、まくし立てる。


「もともとスターチスには『変わらぬ心』っていう意味があるんだけど、特にピンクのスターチスは『永久不変』の意味を持っててね。俺がつぼみちゃんを想う心は変わらないよって伝えたくて……。あ、ドライフラワーにしても綺麗だよ」


 そう言った表情は、とても晴れやかで──かわいい、と思ってしまった。


 いつしか、陣の話に追いつくために植物図鑑を読み耽るようになった。今までありきたりな恋愛小説しか読んでいなかったのに、本棚には植物コーナーができて。誰がどう見ても私が陣を追うようになった時期に、私たちは中学校を卒業した。


 陣は自然科学科のある高校へ、私はあいにくそこの普通科への合格が叶わなかったから、第二志望の近くの高校へ進学した。


 学校が別になることへ不安がなかったと言えば嘘になる。


 陣はここ一年間で、劇的に身長が伸びた。それでも中学では運動のセンスがあまりないことで目立たなかったが、高校生ともなれば女子もいい加減に運動神経などどうでもいいことに気がつく。高偏差値の、理系学科となれば特に。


 私は身長は気にしない派の人間だったが、身長が高いだけで3割増でイケメンな雰囲気が出るというのは理解できた。


 しかし、陣ならば私を差し置いて他の人と遊ぶなんてことないだろう。


 根拠のない自信と、陣が私を追っていたころの記憶がささやく。不安は拭いきれなかったので毎週末には少しだけでも会い、毎晩会えない日はメッセージや電話をしていた。


 重い女だと思われたくない私が紡ぎ出すのは、陣の好きな植物の話題ばかり。陣の趣味に染められたことを理解しないまま、私は陣の通っている高校の最寄駅で、知らない女に抱きつく彼の姿を目撃してしまった。


 見覚えのない、私よりも綺麗でスタイルのいい女の手を握る陣は、私に告白してきた人間とはまったく異なる存在のように思えた。


 長身で頭脳明晰、顔だって悪くない。私と陣は、釣り合っていなかったんだ。


 今だって、私の『陣の高校の最寄駅にいるよ』というメッセージなんて見ていない。呆然としたまま陣の後ろ姿を見送り、彼の一本あとの電車に乗り込む。


 Uターンする車窓には、田園風景しか映らない。そんなありきたりな風景なのに、私の頭は陣が教えてくれた米の知識でいっぱいになってしまった。


 なんで私は米に詳しい女子高生になってしまったのか。これからの未来、食い意地張ってると思われたらどうしてくれるの?


 既読のつかないままの、陣のトークルームをそっと閉じる。うなだれながら、私はどうやって陣から退しりぞこうか考えていた。


 結局その一週間後に『他に好きな人ができた』なんて嘘を言って、私たちはあっけなく別れた。


 陣から送られてきたのは、わかった、の一言だけだった。


 失恋した私を、ドライフラワーになったあの日のスターチスが眺めていた。

 今もまだ、ドライフラワーになったピンクのスターチスは捨てられていない。



「つぼみだよー、美樹みき!」


 二年前の失恋の記憶になど浸っている場合ではない。今日は小学生のときからの友人、美樹の誕生日なのだ。


 インターホンに向かってテンション高めな挨拶をすると、すぐに美樹は出てきてくれ、


「今年も来てくれてありがとう」


 と満面の笑みを浮かべる。美樹もかわいらしい笑顔をするのに、なぜか陣の笑顔ほど私の心を満たしてやくれなかった。

 ちょっと高めのコスメと、さっき買ったミモザを差し出す。


「嬉しい、本当にありがとうー! 大事に使うねっ」


 美樹はたぶんプレゼントをもらう才能があるのだろう、見ているこちらが笑んでしまうような喜びようだ。声からも嬉しさがビシビシと伝わる。


「ささ、上がって上がって! 名門大学生になる人にぞんざいな扱いはできないからねぇ」

「まだ入学してないし、そこまで持ち上げなくてもいいよ」


 扉を開ける美樹に、私は軽く手を横に振った。名門大学といっても、自宅から近い国立大学だ。全国的に名門なのかは、ちょっとわからない。


「でもまさか、つぼみが理系に進学するなんて思わなかったよ。大丈夫かなって心配だったけど、あっさり受かっちゃったし。本当におめでとう」

「ありがとう。……でも私も、理系に進学するとは思わなかったかな」

「えー、自分で決めてるのに?」


 美樹はくすくすと面白そうに声を上げる。冗談だと思っているようだが、まったくもって冗談ではなかった。


 私も最初は文系の、何なら数字なんて関係ない文学部あたりに行こうとしていた。しかし学びたい内容は、私の興味を惹く分野は、圧倒的に植物系だった。


 私を理系にさせたのも、美樹の言う『名門大学生』にさせたのも、すべては陣のせいだ。あいつがいなければ私は文系で満足して、おそらく美樹と同じ女子大に通っていただろう。


「もう、私の進路の話はいいじゃん。とにかく美樹、誕生日おめでとう!」


 私が無理矢理お祝いに持っていくと、美樹も「おー!」と乗ってくれた。パクパクとお菓子を食べる様子に、ちょっとだけ安心した。


 もし美樹が、まだ私が二年前に別れた元彼を引きずっているとわかれば、どのような反応をするのだろうと心配を抱えつつも。


   ◆


 大学の入学式に行く前、私は断腸の思いでピンクのスターチスのドライフラワーを捨てた。雑多なゴミ袋のなかでも、最後までスターチスは美しかった。


 心にぽっかり穴の空いたまま、真新しいスーツを着て登校し、受験ぶりに門をくぐる。早くも楽しそうに雑談する集団を眺めながら入学式の会場へ向かおうとすると──ふと、ひとりの男性に目が留まった。


 ひときわ身長の高く、群衆に呑まれない孤高の存在感。顔は普通なのに、どこか吸い寄せられるような雰囲気を持つあの人は。


「陣だ」


 思わず、声が出る。

 陣もこの大学に来ていたんだ。なら私と同じ学部の可能性が高い。だって私は陣に影響されて、こんな場所まで来てしまったのだから!


 元カノが急に話しかけたら迷惑かもしれない。私にもそう思うくらいの常識はあったが、足は止まってくれなかった。


「陣っ!」


 これからの輝かしい未来を妄想しながら、人混みをくぐって陣に話しかけようとしたときだった。


「陣、遅れてごめん! 人混みの中でぐちゃぐちゃになっちゃって。しかもキャンパス広いしさぁ」


 茶髪の美少女が、陣の隣に立った。瞬間、遠い記憶が呼び起こされる。

 ──あの駅で会った、陣の彼女だ。

 陣は先に声をかけた私になんて目もくれず、彼女と話し始める。


「こっちこそ、手をつないでおくべきだったな。ここから会場まではそうしようぜ、ユキが他の男に盗られないか心配だしな」

「もう、わたしは陣しか見てないのにっ」


 いちゃつきながら、陣は彼女と手をつないで入学式会場へ歩いてゆく。──私は二度、失恋したみたいだ。


 私はその光景をぼうっと眺めながら、スターチスをもらったあの日のことをなぞっていた。


 つぅっと、頬に涙が流れる。楽しそうに騒ぐ集団の声さえも、遠のいてゆく。

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