永遠の噓をついてくれ

ラーさん

永遠の噓をついてくれ

 破れた夢に不意打ちで再会したときの感情は、どう言葉にしたらいいのだろうか。


「え、先輩?」

「なんだお前、久しぶりじゃないか」


 偶然の再会だった。そのとき色々と行き詰っていたあたしは、自棄酒を飲み倒してでもやろうかと、学生時代によく世話になった大学近くの繁華街にある地下の安酒横町へ足を運んでいた。そこでハシゴ酒に飲み歩いていたら、まさか当時所属していたサークルの――しかも片想いしていた先輩に遭遇するなんて、想定外にもほどがある偶然だった。


「なんかせっかくだし、一緒に飲むか?」

「ふぇっ! は、はいっ――!」


 そんなことを弱っているときに憧れだった先輩に言われてしまったら、ゴキブリよりもホイホイと捕まってしまうのが三十路乙女の純情。連れられたのはサークル飲みの二次会、三次会によく利用していた、地下街に降りる階段下の極小デッドスペースを無理矢理に店舗化した、カウンターにイスが六つしかないせま苦しい居酒屋だった。


「懐かしいですね……」

「そうか? まあ、お前はこうバッと羽ばたいていったから、こんな古巣に戻ってくることなんてなかったよな」


 昔と変わらず壁一面にメニューが貼られた店には、やはり昔の通りに店主の趣味のフォークソングがラジカセから流れていた。先輩も昔と変わらずとりあえず焼酎を頼んだので、あたしも昔を思い出してとりあえずコークハイを注文する。


「お、コークハイ。なんだっけ、コークハイ最強理論とかあったよな?」

「天下のコーラにアルコールが入れば無敵ってヤツですよ」

「それな。アタマ悪くて最高のヤツ」


 乾杯にジョッキをコツンと当ててグイッと喉に流す。甘さと苦さの入り混じったコークハイはあの頃の味そのままで、酔いの回っていたあたしの涙腺はそれだけでうるっと緩んだ。


「え、泣くの早くね? 前から泣き上戸だったけど、そんなレベル上げてどうすんだ、お前……」

「つらいんですよぉ~!」


 ダンッとグラスをカウンターに置いて、あたしは先輩をキッと睨んだ。そうだ、つらいのだ。その責任はこの先輩にある。責任は取ってもらわねば。あたしは先輩に肩をぶつけて、自分より少し背の高いその顔を上目遣いに見上げた。


「先輩が、先輩が、あたしなんかの書いたものを褒めてなんてしてくれたから、あたしは、あたしは、こんなに苦しんでいるんですよぉ~?」


 文芸サークルの同人誌に書いた小説をベタ褒めしたのが先輩だった。嬉しくなったあたしは、また先輩に褒められたくて、たくさんたくさん小説を書いた。どうしてそんなに嬉しかったって、あたしは――、


「――先輩の小説が大好きだったから、先輩にもっと、もっと近づきたくて、それで書いて、書いて、書いて――」


 気がつけば作家としてデビューを果たしていた。


「だから先輩が悪いんです」


 先輩が勧めるからあたしは小説を公募に出した。だから動機も理由も目的も、あたしの小説はすべて先輩のものだった。


「なのに先輩は書かなくなって――」


 寄りかかるあたしの身体を押し返すでもなく先輩は、涙でぐずぐずのあたしの顔を優しく見ながら、焼酎を一口飲んで息を吐いた。酒混じりの先輩の吐息の匂いは、けれど少しも酔ってなんていなかった。


「そんなの、そんなの認めませんよ――だって、だって、あたしの書くものは、まだまだ先輩に届いてなんかしてなくて――」


 先輩は短編小説の名手だった。長編小説はいつ書き終わるのかと思う月に数百字のペースでちまちまと、それも途中で消して書き直すのを繰り返すものだから、死ぬまでに完成すればめっけものなんて当時からみんなに言われていた。あたしが先輩より先にデビューできたのは、公募に出せる長さの小説を書くことができたからだと心の底から思っている。


「先輩の砥ぎ削いだ、高潔で、凛と澄んで――冬の夜明けの繁華街に漂う、騒がしさと熱狂を引いたまま、静かに冷えて空虚を抱えて立ち竦んだ空気を文字にして、岩にでも刻んだように力強く書かれたあの文章が、美しくて、好きで、憧れて、あたしはそれを書きたくて、書きたくて、書きたくて――」


 これは愛の告白だ。一方通行で、返事なんて期待してなくて、ただ恋焦がれるこの想いが伝わればいい――そんなファンレターみたいな告白で、だから独りよがりな告白で、だから――、


「――だから、あたしはもう書けないんです」


 気がつけば先輩の腕に縋っていた。あたしは書けなくなっていた。あたしの小説はすべて先輩に捧げたものだから。その先輩がいなかったら、あたしに書く理由なんてなにも残りやしないんだから。


「――まだ書いているよ」


 そんなあたしの告白をなだめすかすように、優しくて酷いことを先輩が言う。


「嘘つき」


 なじる。だって、だって、先輩は――、


「お、拓郎だ」


 そんなあたしの非難を聞き流すような拍子抜けする軽い声で、先輩はラジカセから聴こえてくる歌声に反応した。流れる曲は吉田拓郎の『イメージの詩』。先輩はフォークが好きで、だからよくこの店に入り浸っていたのだが、そんな先輩が特に好きだった歌手が吉田拓郎だった。


「はぐらかさないで――」

「拓郎といえば俺の尊敬する人だが、この人がスランプで引退を考えていた時に『遺書のような曲を作って欲しい』って中島みゆきに頼んだことがあるんだ。吉田拓郎のファンからシンガーソングライターになった中島みゆきがそれで彼に贈った曲が――」


 あたしの恨みがましい視線に目を向けず、先輩は舌をほぐすように焼酎に口をつけながら、少し楽しげな様子で滑らかに喋った。


「永遠の嘘をついてくれ」


 先輩はそこであたしの目を、まっすぐに、逸らさずに、澄み切った青空のような曇りのない瞳で見て、そう言ったのだった。


「俺はまだ小説を書いているさ。だからお前も書き続けろよ」

「なにそれ……」


 滲んでいた涙はもうぽろぽろと止めどなくこぼれていく。嘘だ。嘘なのだ。これはあたしが見たい嘘なのだ。嘘と知ってなお見てしまう嘘なのだ。


「嘘をつけばいいんだよ。自分に。まだ夢を見てるってさ――」

「でも、先輩はもう――」


 先輩の姿が涙の中に滲んでいく。ぐずぐずにモザイクみたいに輪郭を失っていって、あたしの腕からも、この世のどこからも姿を消して、いなくなって――、


「だから永遠なのさ。さよならなんて言いたくないなら、かわりに嘘をつけばいい。お前はまだ生きているんだから、俺に嘘をつかせればいい――」


 もうどこにも見えなくなった先輩の声だけが残って――、


「俺もお前のファンだったんだからさ――」


 こんな見え透いた嘘に慰められるなんて、あたしの純情ってヤツはどうしようもなく乙女なんだなと思い知らされた。



   *****



  ――永遠の嘘をついてくれ


 そんな歌声が耳に聴こえて、あたしはバッと起き上がった。


「起きたかいお客さん。今日はもうおしまいだよ?」


 ぼうっとする頭を左右に動かしていると、狭い店内に客は私しかいなくて、店主が閉店の準備をしていた。

 そんな店内に、静かで少し枯れた声なのに力強く歌われる曲が流れている。


「……この曲」

「ああ、いい曲だよな。昔見た夢のまま永遠に嘘であって欲しいとか、さよならのかわりに噓をつけとか、年を取るほどに胸に来るものがあるよ――」


 そう話す店主にあたしは「そうね」と返しながら、だからあんな夢を見たのだろうかと思った。

 どんな嘘も明かされなければ真実だ。夢なんて嘘の世界であの人は、だから嘘をつけと言い残していってしまった。


  ――永遠の噓をついてくれ


 スマホが鳴った。出るとあたしの担当編集の切羽詰まった叫び声が聞こえた。


『どちらにいるんですか! 何度かけても出ないから! 家まで行って探したんですよ!?』


 それから散々に説教される。謝りながら会計を済ませて店を出て、シャッターのほとんど下りた地下街の路地を歩く頃には、編集も言いたいことを言って少し落ち着いたのか、声のトーンを落とした。

 そしてあたしを気遣う言葉を口にする。


『その……ご友人が亡くなったショックはわかりますけれど、先生はまだ生きているんですからね?』

「うん……大丈夫、だと思う」


 そう答えながら、あたしは何が大丈夫なのかと思っていた。


「そうだよね。ずっと落ち込んでるなんて、そんなの先輩だって望んでなんかいないもんね――」


 嘘だ。そんなの誰も知りもしない。都合のいい嘘だ。言葉を重ねれば重ねるほどに嘘が積みあがる。慰めの言葉が求める安心を相手に与えるためだけの嘘。こう答えれば明日へ進めるだろうと知って自分の傷口に塗る嘘。嘘だ。全部嘘だ。嘘――、


「――だから書く。書き続ける」


 だけど、だからこそ、全部あたしには必要な嘘だった。永遠に必要な嘘だった。


「さよならのかわりに――」


 電話を切ってそう呟いたあたしは、一段一段、踏みしめるように地下街の階段を上がっていく。あたしは振り返らなかった。そして二度とここには戻ってこないと誓った。

 地下街の出口に見える街の灯り。そのむこうの夜空に星がひとつだけ光っている。


「永遠の嘘を――」


 それが永遠の光だと、あたしはあたしに嘘をついた。

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