第8話

ひと月の病院暮らしから戻った一郎の身体は、あらゆる部位の肉がそぎ落とされていた。歩くに、力が入らない。太ももは割りばしのようになり、腰は曲がって上半身を支えるだけの筋力が背中から落ちていた。

麗美は仕事を辞め一郎の介護についた。

「謝ることなんかないわ」

子供が増えたようだった。風呂場で身体を洗うたび、一郎は謝罪をつぶやく。3か月の休職の診断書は会社に提出してあったが、正直いって、そんな期間では無理だろうと互いに感じていた。

とはいえ、一郎の不安を他所に麗美はこれが会社を辞めるきっかけになり、父の会社を引き継ぐ良いタイミングだと思った。


子供たちは当初は怖いものでもみるように、ドアの隙間から様子を窺っていたが、日を待たずに、学校から帰るなり、

「お父さん、今日ねぇ、学校でねぇ」

と飛び込んできた。

二人ともかわいい一郎の子だった。離してはおけない一番の宝だった。

「ゆっくんがねぇ、給食のパンを朱莉に投げてねぇ…」

親と違って朱莉は友達が多いし、おしゃべりが好きだ。

麗美にそっくりな雄介の目はいつまでも甘えてきそうな、丸い輝いた形だった。幼稚園の先生には物覚えが良いと褒められる。

なのに父親は…

昼下がり、弱い身体で一人になるとため息をつく。




「警察に通報したよ、なんだろうね、今時、家におカネなんか置かないのに。運よく、出かけて、襲われなかった」

昼過ぎに実家を訪ねると、慌てた様子で母親が出てきた。

「それがね…さっきから調べているんだけど、なにも盗られてないんだよ」

荒らされた部屋を片付ける途中だった母親は振り返った。

「そういえば、あんたから預かった風呂敷がないねぇ、たしかここの奥にしまっておいたのに」

透明ボックスの二段目を背伸びしながら漁る母親の後ろから、麗美も覗き込んだ。

「いいの、あんなもの」

「立派な風呂敷だったから…やっぱりない。警察に届けなくちゃ」

「本当にいいのよ、捨てるつもりだったから」

「おや、そうかい。あんたがそれならいいけど。それにしてもあんなもの盗んでどうなんだろうね」

消えてなくなればいい。どこの誰かしらないが、不幸のもとをとりさってくれた。二度とあんなものみたくない。

「一郎さんは、だいぶ良くなったろう?」

「そうね、もう、身の回りのことはできるようになったわ」

「そろそろうちに食事にきたっていいんだよ」

「聞いてみるね」

「それにしても、毒、なんて」

かの、従兄弟は数回、警察署で事情聴取をうけたようだったが、逮捕されることはなく、日常生活に戻ったと聞く。

無論、こちらに訪ねてくることはない。母親の情報提供でとばっちりを受けたと思って、なおのこと毛嫌いされたかもしれない。

「夕食、もっていくかい?煮つけを作ってもらったよ」

父親が亡くなって後はお手伝いさんを減らし、夕食の準備は毎金曜日のみとなっていた。

「ありがとう、助かるわ」

一郎の様子が心配な一方で、母親も麗美と同じく、もうすぐ会社を引き継いでくれると期待し、禍転じて、ではないが、会話の端々に知りもしない不動産業界のトピックを持ってくる。

「お父さんの右腕がいるから、経理の人に今はお願いしているし、優しく指南してくれるよ。ここのところ、取引が活発になってきたといっていた。私じゃ、よくわかんないからねぇ。面倒だけど、事務所に顔をだすようにしているよ」

「私からうまくいっておくから、二人でその話を詰めると、一郎さん、気を悪くするわ」

「そりゃあ、お前に任すけどね。あまり時間もないから、うちみたいな女の寄せ集めは、お客さんに変に付け込まれても困るからね」

子供用の弁当箱に鯛の煮つけを移し、銀色の保存バックに入れた。

「おにぎり、作っていこうかしら」

「ごはん、炊いたばかりで冷凍にしようと思っていた所。調度いいから作ってお行き」

「ありがとう」



「いつも悪いね」

一郎は箸で魚を突っつきながら、味噌汁のお椀を引き寄せた。

旨いな、贅沢だな。

数十年来実家に通っているお手伝いさんは料理の好みがわかっている。

義理の母は、年寄のくせして案外、塩気の多い味付けが好きなのだ。すなわち、一郎の好みもそれだ。

働き盛りの家庭には調度良い。ただ子供たちは、「じいじの家」で作った魚料理は大嫌いだ。ハンバーグや焼き鳥や、どうしてもジャンク系を好む。

「休職の延長、今度、受診した時に書いてもらおうか」

「そうだね…」

料理の味が余計に染みた。

「お母さんは、一人で心もとなくないかい?」

「そうでもないの、明るくなった感じがする。しみったれた老人会なんて、関わりたくないって。あちこち出かけているわよ。この前、料理教室にいったとかで、作ったケーキを食べてた」

女は強いね。

まったくそうよ。

二人でクスクス笑った。

「お義父さんの会社は?」

「忠臣みたいな人が助けてくれるから、今の所大丈夫」

一郎の気遣いに飛びついて、跡を引き継ぐ話ができたらよかったが、そこは作り笑顔でありがとうというだけにした。


{78歳、もと大学教授、…さんの遺体と判明しました。毒物関連の事件で、事情聴取をうけており、関連を調べています…}

ブルーシートで覆われた歩行路に人だかりができていた。

画面の隅に、一郎にしか気づけないような、しかし忘れようのないモノが映っていた。

アレは会社にあるはずだった。

また人をあやめた。


付きまとうように日記は帰ってきた。

警察はおそらく、自殺と断定して、大した調べもなく、速やかに届けてくれたのである。

「盗難届けを出しておいたから、助かったね。警察も親切だよ」

余計なことをしてくれた母の顔は、いかにも世話好きで柔和な年寄のそれだった。

「なんだって、自殺なんか」

「自殺って、決まったの?」

「いやわからないよ、そうじゃないのかい」

無垢の人間に疑いをかけた事で、自殺、そうマスコミに報じられる可能性がある中で、警察もさっさと処理したかったのかもしれない。

「大事な物だろう。きれいな風呂敷。高級な反物の布地だよ」


麗美は帰るなり、日記を入手した経緯を一郎に話した。

黙っていたことで麗美を責める必要はない。

それよりも二人の心は協調している。

日記をこの世から消してしまおう。

夕暮れになると、遠くのサイレンや隣人が車を出庫させる音がうっすら聞こえるのに、今日は奇妙なくらい、音が鳴らなかった。

「私たち、間違ってないかしら」

「なにを」

「日記が指していること」

「わかってるじゃないか、あれのせいで…」

「いえ、わかってないのかもしれない。私たち、日記がなくなることばかり考えて…違うのよ。しっかり向き合って、戦うわけじゃないけど。だって悪い方向に向かってる、消えてしまえって、そう思うから悪い方向に向かっているのかもしれない」

「こんなものと、どうやって向き合うんだよ」

一郎は風呂敷を軽く叩いた。

「じゃあ、また覗いてみるかい。毒々しい文字から想像するのかい?」

「わからない、わからないけど、進むしかないと思うの」

一郎は痛みのひけない腰をおもむろに挙げた。麗美も身体を突き合わせるように立った。

震える中で、風呂敷に手がいった。



見慣れた赤い色で、そう書かれていた。


「さと、里か…」

いつもの拍子抜け、だが、安心してはいけない。そうやって常に笑われているのだ。

しかし、何度見返しても、当たり前のように、その文字は漢字の里、だった。

「…生まれ故郷、出生地…一郎さん、お義母様から引き継いだものでしょう。ひょっとしてお義母様の故郷のことじゃない。きっとそうよ。生まれはどこなの?」

「お袋の生まれは、東北の、、たしか、××だよ」


空港から繁華街に位置するホテルまで、リムジンバスで20分。

渋滞が当たり前の都会と違って信号はめっぽう少ない。

雲の隙間から射す日差しが、スモークフィルムを通って手の甲に掛かる。慣れない寒さを覚悟していたが、空港に降り立った時の風は案外生暖かく、空も明るかったため、妙に安堵した。

{次は〇〇で停車します、お降りの方は停車ボタンを…}

フロントガラスにかぶさるほどの、大きな番号掲示板が点滅した。麗美の右向かいに座っていた、いかにも海外から帰りたてといわんばかりの、おそろいの派手な帽子をつけた老夫婦が、「ほら、着いた、立って、立って」とのっそり、前方へ向かった。

麗美は彼らを見送ると、傍らのトートバックと皮のリュックを取り上げた。

一郎の母親…

呼び寄せて同居、もしくは近くに住む話はあったが、結局、義母自身が希望せず、結婚以来、年に1度、夏休みをかねて子供たちと田舎を訪ねるくらいの付き合いだった。関係も性格も、義母はあっさりしていたから、もちろん嫁、姑問題など、おこりようもなかった。

もともと中学の理科の教師をしていたと聞いている。兄弟は早くに亡くなり、夫、すなわち一郎の父親とも60代で死に別れ、土間の広い、典型的な田舎屋敷で暮らしていた。

義母は一人息子の一郎に田舎暮らしを強要しなかった。先祖代々の云々はいいから、夫婦で好きなように、好きな人生を歩むように、結納式の場でも麗美の両親の意図を組んだうえで、そう、挨拶した。


さて、今、この田舎御殿を管理しているのは一郎の従兄弟にあたる、Kという男である。

義母の葬式で会って以来、ほとんど面識はなかったが、麗美が訪問の連絡をすると、快く案内を引き受けてくれた。

役所に勤務しているというその50代の男は約束の時間、ぴったりに麗美を迎えた。

「このたびは遠くからよく、いらっしゃいました」

かすかに一郎と顔の輪郭がかぶっている。

が、申し訳ないけど、うちの旦那様の方が洗練されている。都会のストレスとは無縁の、毎夜の晩酌で鍛錬されたような小太りの男だった。

「お葬式以来ですね、さ、どうぞ」

召し合わせ錠を、がたがたいわせて、扉をあけると、音のない冷たい居間が目に入った。


「水道、ガス、止まってるから、コレ」

とKはペットボトルのお茶と紙コップを差し出した。

「おばさんは几帳面だったから、後の人に迷惑にならないように極力モノは減らして、捨てたり売ったりしたんですね。もちろん、管理費は頂いていますよ。いつでも一郎さんが帰ってこれるように、時々、業者、いれて掃除させてます」

部屋の中はガランとして、余分なものがない。花の咲かないソメイヨシノがそびえる広い庭も、枯れ葉は見当たらない。気をつかって前日に掃除したに違いない。

「日記ですか、ん?これをおばさんが大事にとっておいたんですか。はて、聞いたことないなぁ。いえね、あらかじめ、うちの母親にもきいたんですけど知らないって」

Kは風呂敷を空けて、興味がないふうでパラパラと日記をめくった。

義母の妹にあたるKの母親は未だ元気で車の運転もしているとのこと。仕事は止めたが姉と違って社交性が高く、あれこれ会合に出ては人の世話ばかりしているらしい。

「お母さまに会えますか」

「もちろん、大丈夫ですよ、呼び出しましょう、すぐきますから」

母親がくるまで雑談で間をとりもつKは案外饒舌で、お世辞とわかりつつ、一郎がいかに優秀で期待の息子だったかを語った。

「だけど不思議と関係はあっさりしたもんで。叔父さんは叔母さんに意見することもなく、好きにさせていました。同じ学校で知り合った、ま、ありきたりの職場結婚でしたよ。病気が見つかった時は手遅れで、しかし間近まで元気で飄々として面白い人でしたよ」

両家の初めての顔合わせにも来ず、実は義父といってもほんの数回しか会ったことがないし、亡くなった時も義母から、わざわざ葬式には来なくていいといわれ、まったくもって関係は薄かった。一郎からも義父の話はほとんどでたことがない。

「こんにちは」

70代後半のはずだったが、声の黄色い明るい挨拶が戸の向こうからした。

「麗美さん、お久しぶり。そうそう、あれね、息子から聞いとるよ」

が、ふっくらした笑顔の後ろで、「あんたはもういいから」と手を払う仕草がはっきり見えた。

怪訝そうな表情でKは、腹をもたげ、ズボンの裾を払った。

「じゃ、麗美さん、またいつでもおいでください」

叔母は息子が立ち去るのを、しつこく確かめると、

「姉さんはわかっていたのかねぇ。不思議なもので」

「何が…不思議なんですか」

「あなたがこうやって訪ねてくること。それに、ことづけ、まで書いて。麗美さん、頼まれたから話すんであって、どうか落ち着いて聴いてくださいよ」


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