第7話

平和な時間は案外、長く続いた。

義父の死から2か月、一人暮らしって、気楽だな。日記も忘れた。煩わしいことは考えないようにして、平々凡々に暮らし、夜のビールで一人晩酌するのを密かな楽しみとする。

若い頃は案外、野心もあったが、いまじゃしがないサラリーマンで妻に見限られ、腹も膨れたただのオヤジだ。

趣味の映画も最近は見ていなかった。学生の頃はこまめに感想を書いて、ブログにのせ、そこそこの読者を獲得し、アフェリエイトの誘いもあった。

そういやぁ、あのブログどうなったかな、もう10年以上更新していない。

寝室にあったパソコンを取り出して、「お気に入り」の中の、「一郎の映画小屋」をクリックした。

最後のお題が、「邦画の行く末」なんて、随分、大所高所で、プロの評論家じゃあるまいし、と苦笑する。

{言葉の壁というよりも、予算や国策の問題である…お隣の韓国をみよ…}

へぇ、案外、時事問題を絡めて、まともなこといってる。

{映画産業の最盛期をみれば、戦後日本の復活過程と連動しているのは明らか…}

ふむ、ふむ、随分、偉そう…

子供たちがうまれる前、まだ新婚気分で、会社での出世を夢みて、ある意味、ありきたりな御高説。

それから、それから


{後ろ}


絞める、鶏のように一郎の身体は浮いた。

「や、止め…」

あの字だ、またあの赤い字が。

闇の手が一郎の首を絞めた。腐乱し血管が青く浮きだった白い手だった。

気道が締まり、微かに遠吠えがした。その苦悶は無視され、誰もいない居間には音ひとつしなかった。

一郎はクタリと壊れ、床に沈んだ。



「あんた、いい加減、帰ったらどうなの」

すっかり実家の住人となっていた麗美は、たしなめられるように肩を叩かれた。実家に戻って以来、怠け放題で母親の用意した食事をつつく癖が身に着いた。しかも家事はすべてお手伝いさん任せ。

昨日から一郎から、連絡がない。1日でも途切れるとすぐにもやもやして、やっぱり女かと猜疑心が湧く。

事情はすでに母親に話していた。

「一郎さんが、ウソだっていってるんだから、いちいちね、そんなこと気にするもんじゃないよ。うちはほら、女系でしょ、妹たちは頼りにならないし、お父さんだってあなたや一郎さんに期待していたんだから」

「これだから伝統日本思考は困るわ。そんな言い方されちゃ、私が悪いみたいじゃない。お父さんに2号さんなんていなかったでしょ」

「ああみえて、外では付き合いもあるし、それなりに遊んでたよ。でもねぇ、いちいち詮索してどうなるのよ、仕事ができる人はそういうものなの」

「あんな写真を送られてきたわたしの気持ちにもなってよ」

母親はあきらめたようにまったく、まったくと口をすぼめた。

「四九日も終わったし、いい加減…私だって窮屈」

これが孫育て疲れか、と、腰をなでる老人向けのコマーシャルが頭に浮かんだ。しかし、しれっと帰るのも一郎にひれ伏すみたいで納得がいかない。

子供たちは静かに寝ている。

明日の日中、一郎がいない間になにか、証拠がみつからないか、まったくバカげているとわかっていながら、何もないことを確認しないと決心がつかず……我が家を訪ねることにした。


「はい、家内でございます」

「すいません、私、課の者なのですが…課長が2日連続で出勤してらっしゃらないものですから…」

「ええ?そうなんですか」

調度、我が家の門扉の取っ手に手をかけた所だった。

「こういったことは一度もないですし、人事部長の方から…はい、そういうわけで」

「確認してみます、わかり次第、連絡させていただきます」

気弱な声が数秒後に途切れた後、麗美は小走りに玄関へ向かった。


居間を右手に食卓に向かういつもの廊下から伝う空気がすこし懐かしかった。

しかし人の気配は流れこない。それどころか異臭が漂っていた。


ソレ、を見た瞬間、麗美は立ちすくんだ。

「一郎さん!」

微かな呼吸が麗美の頬に当たったが、身体全体がすっかりくたびれて、いくら身体を振っても反応がなかった。

ようやく呼びかけに応じた一郎の声はあまりに弱々しく聞き取れなかった。

一郎の下半身が汚物で濡れていた。


病院で医者の説明を受けたが、まるで耳に入らなかった。

命に別状はないが、栄養状態が悪く…

夕方になり、ようやく落ち着いた頃、母親から連絡があった。

「どうしたの、どこにいるの」

頭の整理ができておらず、たどたどしく反応するしかなかった。

「子供たちの心配はいらないよ、傍に付いてておやり」



「日記、ニッキ…」

閉じた瞼を震わせて一郎はそうつぶやいていた。

日記がどうしたの。

点滴が繋がれて、意識のはっきりしない一郎を揺さぶるわけにもいかない。

しかし想像はできた。

またあの日記が一郎を、いや、私たち家族を攻撃してきたのだ。

ここまで私たちを苦しめてきた、あの忌まわしい日記。

処分しなければ、それも今すぐ。


「…会社にお尋ねしてもよろしいでしょうか、主人に頼まれ事がありまして」

「奥様が直接こられるということですか。それは…上に聞いてみないと、はい…」

「早めにご連絡くださると有り難いです」


「どうだった、一郎さん」

「お医者様がいうには数日で意識は戻るだろうって」

「よかったねぇ。一体何があったの。こうなったら下手なプライドなんか捨てて、早く帰っておやり」


パパと喧嘩したの?パパ怪我したの?

特に朱莉は敏感だ。夕食の場で幾度となく聞かれたが、適当な返事でごまかした。

雄介は天真爛漫におばあちゃんに甘えるまま、好きなハンバーグばかり作ってもらっている。

「ちょっと、転んだだけなの。大丈夫よ。すぐ退院できるってお医者様がいってたわ」

「帰らなくていいの」

「朱莉ちゃん、ばあばの所にはいつでも来れるからね、そろそろお家が恋しいでしょう」

麗美に目配せしながら、孫の頭をなでた。


ビルの玄関口に一郎の部下とおぼしき、背の高い男が立っていた。

半袖の開襟シャツに青のネクタイが目印だった。

「お世話になっています」

声をかけると、男はかしこまって深く頭を下げた。

エレベーターに向かう途中、男は神妙な顔で

「課長の様態はいかがですか」

と上から顔を寄せるようにいった。

「だいぶ痩せてしまって、でも大丈夫だと担当の先生がおっしゃってました」

「それはよかった。こちらへどうぞ」

自社ビル所有のプライム上場企業とはいえ、築数十年の建物にはあちこちほころびがみてとれた。

コンクリートの壁は雨水の染みた茶の線がひっそり割れるように入っていた。エレベーターも去年泊まった一つ星ホテルより揺れがあって、ちょっとおぼつかない。

「近々新しい所に引っ越すといわれているんですがねぇ」

社員もわかっているようで、麗美の一瞬みせた不安げな顔にすぐに反応していた。

6階フロアの奥、商材部と書かれたドアを表に中を抜け、麗美は一郎の机に案内された。

「課長は何をお探しでしょうか」

「はい、亡くなった母親の私物で、実家に返すつもりで、その、風呂敷に包んだ紙の束が、恐らく引き出しにあるかと…」

適当なウソをあらかじめ、何度もなぞっていた。

家の様子とは違って、机は綺麗に整頓されていた。

「会社の機密もありますので、私が探します」

鍵を用意していたが、意に反して鍵はかかっておらず、風呂敷が、わたしはここよ、といわんばかりに、3段目の引き出しから紫色をのぞかせていた。

「奥様、これでしょうか」

「それです!」

麗美はさっと立ち上がり風呂敷をつかもうとした。

「お待ちください、社の書類がまざっていると困りますので、この包み、開けてもよろしいでしょうか」

焦る麗美を塞ぐように、男は風呂敷の前にはばかった。

気持ちをこらえて、麗美はようやくもとのパイプ椅子に座った。

「えーと…確かに紙の束ですね、日記?」

男はぞんざいに、パラパラと中を適当にめくった。

「何もないですね、ん?アレ?」

めくったページが最後に近づいた時だった。

男の顔がいぶかしげな表情に変わった。

「みせてください!」

「ア!」

麗美は男の手から引き剝がすように、日記を両手で引き寄せた。



薄紫のその文字は思いのほか、いままでの毒々しさからはかけ離れていた。小学校の課題で朝顔の押し花を作った、あのイメージに似ている。艶やかな優しい香り…

「奥様、どうぞお持ち帰りください」

つかの間、我を忘れたように空想していた所、男は麗美に日記を押し付けた。

「課長によろしくお伝えください」

麗美が目覚めたように目を瞬かせると、まるでわかっていない男は反射的に笑顔を作った。

麗美は頭を下げ、踵を返した。


火にかけて燃やしてやろう。

もう決めていた。

誰に咎めを受けようか。

この日記こそが始まりなのだ。

電車での帰途、紙袋の中に入ったその忌々しい風呂敷を憎むように、脇の下へ挟み直した。


帰宅後、一郎を看るために急いで支度する。

もはや亡き母の遺言など、心残りもないはず…日記を跡形もなく処分するために了解を得るつもりだった。

自身が生きるか死ぬかの瀬戸際まで立たされたのだから。

解ってくれるはずだ。


すでに一般病室へ移っており、生まれたての赤ん坊のような赤い顔をして、胸から足の先まで袋に入ったようにシーツで覆われていた。寝息がする。頬が瘦せこけてはいたが、血色はよくなりかつての穏やかな顔に戻りつつあった。

「…具合は」

検温で訪れた若い看護師に聞いた。

「…ア、ハイ、ええ、回復されて…」

狭くて快適とはいえなかったが、病院で10室しかない個室部屋に入れてもらった。マスクに覆われてはっきりと確認はできなかったが、確かこの看護師に会うのは二度目だ。

電子音がなった。

アルミのワゴンに乗せたノートパソコンに素早く打ち込むと

「…お熱、正常です」

と返した。なぜか声が震えている。

もう少し聞こうとしたが、取りつく島もなく彼女は足早に踵を返そうとした。

麗美の追いかけるような目線を背中に感じたのか、

「先生、もうすぐお見えになりますから」

と振り返ったが、すぐに部屋から出ていった。

「一郎さん…」

軋むパイプ椅子に腰かけ、シーツに隠れていた手を握った。力なく、開いているだけで、握り返さない。


ノックがした。

「こんにちは」

「…先生」

小柄な男の医師だった。内科部長と聞いている。

「容態は…」

「回復にむかっていますよ、昨日の睡眠薬がすこし効きすぎましたかね、午前中はゆっくりですがお話ができてました」

「そうですか、よかった」

「ところで…」

二コリとしていたのに、急に目がそれた。

「先ほど、警察がきましてね…いや、何分、捜査中だから他言しないようにいわれたのですが…」

突然、ロシア民族調の音楽が鳴った。

「あ、失礼」と男はポケットから院内ピッチを取り出した。

「…いらしてるよ。そうだね、聞いてみる、奥さん、警察が受付で待ってるようなんですが」

内科部長は、さも残念そうに口をへの字に曲げた。

「1階の相談室で待ってるそうなんでクラークに案内させます」


部屋には二人の男女が待っていた。

いかにもこわもての、いかつい男達を想像していたが、二人とも柔和で麗美をみるなり、小学生のように起立して挨拶した。

「奥様、お忙しい所、恐縮です。私たちはT署の者です、さっそくなんですが…」

名刺を受け取った麗美が向かい合わせで座ると、堰を切ったように

「実は体内から毒物が発見されましてね」

といった。

映画か小説の世界でしか聞いたことのない、「ドク」という言葉に麗美は反応できなかった。

「つまりそれがご主人の…」

「ドク?毒ってなんですか」

女の方が麗美の浮いた声音を受けて口を開いた。

「一般の人では取り扱いができないような毒物が体内に確認されたということなんです」

「知りません、なにも」

普段は事務員が入院費の説明業務にでも使うのか、陽もあたらない湿気臭い部屋で、ずっといると病院臭がこもって吐き気がする。

「最近、お父様がご逝去されましたよね、遺産の問題などは?界隈では有名な方ですので」

麗美の今にもわめきそうな姿をよそに、男の方は単刀直入だった。

「そんなものありません」

考える前に即答した。

「実はつい先ほどご実家にお邪魔して、お母さまの方にはお話しを窺いましてね、確かに遺産のトラブルは思い当たらないとおっしゃってました。ただ従兄弟の方で植物に詳しい先生がおられて…つまりその方が今回の件に絡んでいないかと」

「母がそういったんですか」

「いやはっきりおっしゃったわけではないのですが、現在の会社を相続する際に色々問題があって、先代にさかのぼる確執があったと」

そんな話きいたこともない。

母が知っていたとしても…なぜそれが一郎の毒殺につながるのか。

祖父の記憶は皆無だ。両親が結婚してすぐ亡くなったと聞いている。祖父が三男で、かの従兄弟の父親は長男だった。

従兄弟同士の疎遠の経緯も知らない。麗美が知る限りその従兄弟から恨み節をいわれたことはないし、父親が悪口をいう姿も見たことはない。

「ジギタリスといって、心臓の治療に使う薬が体内から検出されたんです。大量投与で心臓が止まるので、昔からよく殺人に使われています。原料となる花は割と簡単に栽培可能でしてね…」

花…

聞きたくない言葉だった。


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